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浄仏土と往生-4(まとめて追加)

所感いくつか(追加)


・シャカムニでも両度でも、他の祖師方でも、バタバタと人が斃れ、救えないことが多いわけです。
 自身もまた、明日をも知れぬ境涯である。いろいろ目標を立てたり、卑近な目論見もあるけれども、兵隊や悪党や奴隷状態、畜生とも同じで、明日をも知れない。

 身を投げ出す、身を棄てる、自身を滅ぼし尽す、というけれども、それは厭離穢土ということが鮮明であることも意味するわけでしょう。機の深信にも関係しましょう。

 留まるも死、進むも死、退くも死。ということで、死王に打ち克てる者はいない、とシャカムニは仰られた。機攻め臭いもんがありますけれども、そうしたことが実感されていきますと、いよいよ生存と身を厭われた傾向が強いのがお釈迦様。愈々後代に託さんとする傾向が強まったのが、羅什とか両度。

 これも、モメントとしては誰でもそうなんですし、めざすべきものは願心に依って拓かれる明るい世界なんですから、健全であって、厭世観・厭身感とはズレがあるんですけど、寿命が延びた現代でも時にそうした感覚を持つことは、何ら不思議では無いわけです。

 ただ、明日をも知れぬってことになりますとまた、卑近なる愚痴ばっかり出るわな。信奉するものがある奴は好い、とか、護るべきものを持つ奴は好い、とか・・・。

 そして、「力尽さずして斃れることを辞さないが、力尽さずして斃れることを拒否する。」「連帯を求めて孤立を恐れず」(散逸して手許にありませんが、三一新書『東大全共闘』所収落書きだったと思う。『ティーチ・イン 騒乱の青春』もよかったですね。)こうした姿勢の根源、礎となって来る民主思想、民衆が民衆自身の為に起ち上がっていく、そうしたカテゴリー自体も欠けている。

 まあこれは、官許の出家しか許されないパラダイムの中では、そして常に朝家と幕府の意向を注視し、それによって左右されていく半ば隷属状態では、到底無理だった、と。


・『正信偈』に

「已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣」

とあるけれども、曇りの扱いはどうなのかな、と。パッと晴れてるのと、闇と、二つあるわけです。それを適当なところで、薄曇りにしていく、みたいな・・・ちょっとだけ、引っ掛かりを憶えますよね。奥深くもあるけれども。
 已によく無明の闇を破れりと雖も、と、既に選択の浄仏土のパッと晴れた世界に出遇いながら、貪愛瞋憎之雲霧が常に真実信心の天を覆っている、と。開けたから、光があって、慢性的に覆っている自身の姿が分ったわけでしょう。

 だから、曇っているけれども、願心が曇っていないんだから、光を活かさんといかんはず、なんじゃないか、と。間に合わんながらもシャカムニもアショカも龍樹も勝曼夫人など在俗大衆部も、微力を尽くされたじゃないか、と。

 NHKドキュメンタリーの経済ものを観てますと、アダム・スミスが利己主義と他者を放っておけない慈愛と、二つある、と仰る。二種深信じゃないけど、機の深信と法の深信に近いことがクッキリしている。人間にはそうした傾向がある、と仰られたそうですが、他の文化でも、皆、お分かりなんでしょう。

 我々が如何に素晴らしい世界を紹介いたしましても、足許のところが、ですね、自然の前進・向上・競争もあれば、自己保存もあれば、菩薩?とんでもない、と尻込みする。そういう事実の世界がありましょう。
 この身の事実認識から、どうするのか、と。面倒だけれども、群生を荷負して重く担う、と。


・ですから、親鸞さんと願心が違うような気がすると言われるけれども、違っとらんように思うわけです、むしろ願心だけが。
 願心が違うということは、信心が違うんだ、ということになるんですけど、あんまりそういう気がしない。これはこれで不思議ですね。

 ただ、両度と吉水のサンガは追い詰められていたから、余裕もない。念仏禁令も続いているし、破戒の謗りも続いていたし、源空さまはお年ですし、実際流罪赦免もほどなくお亡くなりになる。民衆による改革なども、毛も思い浮かべることが出来ない時代でもありましょうし、自分たちも非力で間に合わないから、総力で教判に精力を注がれた。

 また、現世いのりも、狭い、自分たちの御利益ばかりに走らずは生きていくことも困難な世相も続いたんでしょうから、そうした類に他ならないものばかりだったかも知れません。

 そうした事情からも同時に、世間改革の断念にも繋がっていかれたのではないか、と。これ、苦悩の有情を棄てずして、ということなんで、出来ないからと言って棄てちゃいかん最重要事なんですけど、どうも、棄てないまでも重視できないまま、赦免後も異義・邪執への審問と教誡に力を注がないといけない状況が続いたんだろうと思うんです。

 三経の教相自体にもやや薄めであるか、若しくは自明の前提化がされていてかなり省略されてて分り難い面があるかも知れません。『無量寿経』の三悪趣批判も五悪批判段も法蔵菩薩の三誓偈も現世いのりですし、特に『観無量寿経』の三悪趣批判の扱いはそうなんですけど・・・。
 とにかく、出来なくても、課題として賜っているんです。憶念して受持すべし、と。


・これも、とにかく怪しい。法然聖人ご入滅に遺徳讃嘆は分りますが、奇瑞称計すべからず?これも、代々の対権力、対他教団、対門「内」姿勢など、ずうっと続く、有象無象、在ること無いこと総動員する闘争の姿勢ではないでしょうか。


・そもそも往生も成道も死後か存命中か、この世か、かの世か、分り難い。だから有漏だとか無漏だとか有余だとか無余だとか言わねばならなくなるわけでした。これも怪しい。
 覚如さんで生まれ変わり概念の導入が見られたのは喜ばしく、浄土と弥陀と三経讃嘆部分とは言え『正信偈』で「不断煩悩得涅槃」と仰りながらも、また、娑婆即浄土的なことも仰りながら、それまで強く提起され難かったカテゴリーだったのかも知れない。
 つくづくそう思います。


・いろんな史料・資料類を駆使して先生方が問題点をとうに明かしてくれているはずなのに・・・先生方がどうなんだろうと思ったりもしますが、しかし、例えば色んな専門からの所謂、学際が必要ですが、これも、ゆーても無理やろな、と。

 そもそも誰がどういうセンスで音頭を取ってどういう方向に事業を進めるのか。好いセンスならいいが・・・。
 それに、研究者が言うことを聞いてくれるのか・・・。
 賢者は、包み隠さず教え合え、学び合え、讃嘆し合え、喜び合え、信頼し合え、改善し合え、与え合え、照らし合えて輝き合える、一言でいうと互いに慈しみ合える友であるけれども、さあ、如何やらん、と。愚者だ妄者だとは申しませんが・・・。

 チーフやボスの声と権威が幅を利かせるし、研究者は自由研究に埋没したがるし、アメとムチの権力と、定期的に〇〇しなくてはならぬ的法制で、強圧的に研究を強要し続けるしかないんですけど、いやいや事業に当たられてもダメでしょうし。
 とにかく、より包括的で全面的な成果が欲しい。諸賢個人個人では無理なんです、絶対に。何とかして欲しいわけです。

 それ以前に出版事業自体、まだ続いているわけでしょう。
 史料集成とか体系とか大部の典籍がいまだに出版されている。関係研究者を除けば、ヒマな趣味人が、それもたま~に目通しする程度の類に分類されていくわけです。あると便利なので数年に一回、また、課題に関係するときは集中して目通しすることがあるけれども、開かれない。
相当数を送られてきた箱に入れたまま、前住も亡くなった、俺もそうなるだろう、と。
研究者が当たってまとめてくれるしか無いに決まってるんでしょう?

 しかし考えてみると、封建時代も維新以後も政治と思想闘争、迫害と統制と弾圧が続いてきた。いまだに闘争が続いている。迫害と弾圧と統制。人民の為の文化破壊。いまだにそういう国と地域がある。

 簡単ではない、ものすごく難しいんです。


・願心というものはさまざまの現われをするので、発心や回心は仏意・願心に相応した状態ですが、身体全体、毛先まで湧踊歓喜して輝くので、光顔巍々として、諸根悦予する。
 まあ、内奥から自身を衝き動かすのとはちょっと違います。身の全体が悦ぶ。個人の悦びで無いんです。願心や尊し、というのは、共にたすからん、共にたすけん、という願心だからです。

 いずれにしましても、身に現れまして、身が喜び、踊る。


・前回は信心について大分突っ込んでみました。蓮如様の御文で聖人一流もそうですが、信心為本をみてみます。

(2)  当流、親鸞聖人の一義は、あながちに出家発心のかたちを本とせず、捨家棄欲のすがたを標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものなり。さればこの信をえたる位を、『経』(大経・下)には「即得往生住不退転」と説き、釈(論註・上意)には「一念発起入正定之聚」ともいへり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。  『和讃』(高僧和讃・九六)にいはく、「弥陀の報土をねがふひと 外儀のすがたはことなりと 本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」といへり。 P--1086 「外儀のすがた」といふは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり。つぎに「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」といふは、かたちはいかやうなりといふとも、また罪は十悪・五逆、謗法・闡提のともがらなれども、回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめて も憶念の心つねにしてわすれざるを、本願たのむ決定心をえたる信心の行人とはいふなり。さてこのうへには、たとひ行住坐臥に称名すとも、弥陀如来の御恩を報じまうす念仏なりとおもふべきなり。これを真実信心をえたる決定往生の行者とは申すなり。あなかしこ、あなかしこ。   あつき日にながるるあせはなみだかな かきおくふでのあとぞをかしき    [文明三年七月十八日]

 歎異抄でも御文でも、随所に信心為本を述べられるけれども、蓮如様に於かれてはまた、信心の溝を浚う(さらう)、ということが問われてまして、さまざま、雑、不浄、混入してきたチリ埃を浚う。九十五種を離れる、身は異にして雑のままですが、ただ願心と信心のみぞまことにておはします、わけでしょう。
 願心と信心のみがまこと。チリ埃の身も心も、私の全部がまことならず、みたいな。かかる願心と呼応する信心に於いて、浄なる仏国土が開かれる、と。
 普通の人の底流としてある願心、誰にも現れる自然の願心、それこそが人類に真の友なる願心ですが、それを智慧を以って見抜き、好き方向へとまとめ上げて提示された営為の一つが仏道です。
かかる人類の真の友なる願心に然(そ)のとおり、と随順し(すなおにスムーズに従い)、称(適)い、称(讃)えるので、淳・一・不二・相承之信。称名は名に託された法界に出遇うと同時に音で称(とな)え、讃えることを意味するのでしょう。


・真仏土における還相廻向の扱いはどうなんでしょう?還相こそ真仏土だと思われますが、如何?
 ダルマの世界の思考回路、法身と法体、法界へのアプローチの在り方の一つとして、大乗経典の儀を踏襲され、如来は・・・である、とイコールを述べられますから、イコールは、・・・と成って、・・・と為して、というよりも、・・・と現れる、という解釈で好いのでしょうか。
まあとにかく、仏眼には、偏在して来られていることが分るわけです。
 信心の人に開かれた世界相ともみえましょう。

 注意せられるべきはただ、変化(へんげ)は応化身として現れるのだろうと思うんです。ただ機械的に変身したり、いろんな現われとなるのではない。苦悩の有情を捨てずして、であり、導師に添いますなら、至る処で凡夫の為に、一人として棄てずに、なんでしょう。


・シャカムニは戒や律について厳し過ぎるなら緩めても好い、とパリニッバーナ経で言われましたが、戒も律も修行も、大変は大変なんですけれども、それが宗教忌避の原因かと考えますと、違うような気がいたします。

 何故なら、観察、まあ人間的な表現に翻訳いたしますと、拝察申し上げましたところ、大変な荒行を日夜励んで居られることが分るんです。
 お仕事でも、趣味でも遊びでも、スポーツ、社会運動、芸事、何でも、物凄い努力をされ、走られ、泳がれる。
 とてもクリア出来んような課題を突き付けられ続けまして、様々抵抗することもありながら、ハイ、やります、と。口に出しては言えんけれども、内心(おっさん〈おばはん〉、簡単に言うけどやな、そんなもん、ワシに出来るわけないやろ、人見てもの言えや)と。失敗続きで叱られますと、すいませんでした、二度といたしません、と言いながら(かんべんせえや、ワシら頑張ったんや、元々アカンのやあああああ)、と。
 もちろん、いつか出来ることもあるんです。まあ、ほとんどダメだけれども、いつしか、(あれ、今日は泳げてる)とか、(何時の間にか走れるようにされていた)とか、人によっては気が付いたら勝っていた、ということだってあるでしょう。
 腐った話しましたけど、何事も実は相当、身を律して努めて居られるんでしょう?

 おそらく少なからぬ方々は、中には身も心も弱い方もあるかも知れませんが、ほんのちょっとだけですが、身を棄てて骨を埋めて荒行を進めようともしましたし、様々を自身に課したこともありましたし、今でもそうなんです。生活と雑務に追われて投げ出すことが多くなりましょうが、何とかせんならん、とは思ってはるんです。

 ですから、人間は自律と修行が好きだ、というテーゼが導かれましょう。
 いや、むしろ、戒と律と行がある方が、好まれます。その結果が厳然としていますと、さらに好い。
 今では大分自律も行いも聴聞も重視していることが理解されていますが、それで真宗も忌避されることがあったかも知れません。百万遍念仏したリ籠ったり歩いたりした方が気が休まる、このままでたすかるとは、我ながら、とても思えん、みたいな・・・。
 好もしからざる営みさえ、大変な努力が要るし、ご縁だけというわけには参りません。

 仕事だって、暇だとはたらきたくなるけれども、さんざんやって参りますと、いやもう十分やりました、長い間お世話になり有り難うございました、と、疲れ果てました、と、こうなることもありましょう。
 遊びに行っても旅に出ても、家が一番好い、とか。
 ダラダラする時間、内観、静かな時間も要るんです。恋愛・結婚・子育ても要る。
 けれども、ずっとそれで好いかというと、どうも違う。やっぱり、何かしたい、と。

 時間が持てますと、とにかくはたらきたい、とか、経営でも労働でも、束縛の世界で一緒にやりたい気持ちが強いし、籠っては、やはり関心事に没頭して暇がない、とか。
 当て所なくさ迷うのはなかなか大変だ、と。
 特に家族を持っていたり子育てするにはゲインも大事ですから、しんどくて嫌なこともあるけど、働きたいわけです。ところがそれが無くても、何かやりたいに決まってます。

 では、何が大変なのか、何が忌避されるのか?赴きたくないんでしょう。意味と喜びの無い世界へは。

 職場も社会もそうなっているかも知れないけれども、宗教も、往きたくない世界になっている。
何度も繰り返しふれてみるが、ふれて更に、何かおかしい、どこかおかしいような気持ちさえ湧いて来る。
 智慧も慈悲も願心も素晴らしいし、行いも立派だ。けれども、シャカムニや各宗祖師方にふれても、現実の教団にふれても、寺や坊さんにふれても、あれでは如何やらん、と。そうなってるんです。

 くどいようですが一言で申し上げますと、如何なる世界を願うのか、何処へ往きたいのか、このこと一つに尽きるんでしょう。
 願心なんです。如来の願心が好い。念仏が好い。
 そこに自分の供養がある、生まれて来た意義と喜びがある、受苦なる生存ではあるけれども、ようやく身も心も安堵された、何程のことも適わぬ身なれど、と、こういうことであります。


・とにかく聖道門への決然たる姿勢がハッキリしておられる。そして、正像末滅の四時を問わず、浄土真宗が濁悪の群萠を慈しんで法界に引入せしめると仰っている。成道の証道である、という御理解です。

・・・【69】 まことに知んぬ、聖道の諸教は、在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。

浄土真宗は、在世・正法、像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

【70】 ここをもつて経家によりて師釈を披きたるに、「説人の差別を弁ぜば、おほよそ諸経の起説、五種に過ぎず。一つには仏説、二つには聖弟P--414子説、三つには天仙説、四つには鬼神説、五つには変化説なり」(玄義分 三〇五)と。しかれば、四種の所説は信用に足らず。この三経はすなはち大聖(釈尊)の自説なり。 【71】 『大論』(大智度論)に四依を釈していはく、・・・略・・・ ・・・【72】 しかれば、末代の道俗、よく四依を知りて法を修すべきなりと。【73】 しかるに正真の教意によつて古徳の伝説を披く。聖道・浄土の真仮を顕開して、邪偽異執の外教を教誡す。如来涅槃の時代を勘決して正像末法の旨際を開示す。 【74】 ここをもつて玄中寺の綽和尚(道綽)のいはく・・・略・・・


・源空様、法然聖人と時代を重ねて居られたので、奇瑞称計すべからず、際限なく奇瑞があった、と仰ったのも、周囲には疑問視する運動があったに決まっています。
 しかし、取り敢えず証文は揃えたから、未来に資するうえで、より効果的だったわけでしょう。
 晦渋な部分も含みますから、晦渋で何が言いたいのか分らんおかげで、研究も盛んになった面もありましょう。

 親鸞様は法然様を勢至菩薩とも言っておられますから、むしろ、未来の有情を利せんとて、大勢至菩薩に・・・という御和讃は源空様のことと思われます。まあこの未来も、『選択集』御製作を以って、でもありましょうし、既に親鸞様にとっての現在が含まれましょう。


・弥勒=仏、信心の人は如来や弥勒と同じ、というお考えでしたが、弥勒が必ずしも未来として理解されていなかった、シャカムニにとっての未来とすれば、これはシャカムニ没後、ということでいいとも考えられます。

 ちなみに、往生なり済度なりを巡る一つの特徴は、我々の意識の、これは実態としてですが、成仏の未来への丸投げ。親鸞様は違うかもしれませんが、通仏教常識的には弥勒なんか典型です。まあ、何をかいわんや、でしょう。
 今一つは、親鸞様による神通力への丸投げ。これは如何なもんでしょうかね。通力自在自体が利他にして相念の、たすかった方の姿ですから、参考にはなるんでしょうけど・・・。
 今一つは、これは親鸞様と私らと深い違いがあるように感じますけれども、ご本尊阿弥陀さん・祖師方(・親鸞様)と本願への丸投げ。

 ですからどうしても往生なり済度に於いて、不断煩悩得涅槃とされつつも、現世・現身が疑われ続け、死後往生に近い面を持ち易いわけでしょう。

 済度における、ご本尊阿弥陀さん・祖師方・親鸞様と本願への丸投げは、それで好いわけでしょう。念仏は仏の願心を念じて、賜ることです。
 ただ一点、特にこの部分に関して、信心の溝を浚う必要があるのではないか、と言いたいわけです。色々あるんでしょうけど問題の所在を私に思いますのは、
 一つは菩薩の願心。どこへ行っちゃったのか?
 一つは如何なる世界を願うのか。テキストを注視する限り、とんでもない差別土になっているけれども、そこが往きたいところたり得るのか?

 願心と信心の受け止めで、最重要ポイント。

 アミダさんとして伝わる仏意・願心は好い、が、菩薩の願心に関係していくわけでしょう?そのまま、自分の願心にならんといかんのじゃ、ありませんか?何程のことも為し得ず、といたしましても。鎧、ということがある。『無量寿経』漢訳者は疑問視されているけれども、康僧鎧という名が出ています。48願文中に於ける鎧と鎧の本願がある。

「(第22願) たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。」

 この願文にはまた奇(く)しくも「一生補処に至る」と、弥勒等同になることが示されており、如来の本願に相応して来ないと、たすかったことになんか、ならんでしょう?何にも出来んけど、少なくとも願心だけは。

 今回、信心にもちょっとふれて来ましたが、どうもこの点が不鮮明。
 実際には親鸞様も証文集めと流罪記録、関東の門弟方への書状等で疑謗・誹謗・攻撃に対峙していかれたけれども、書面、論調からは薄く感じられる。
 まあ、親鸞様にはご自分のことですから、控え目になるのは当たり前ですが、不鮮明に、少なくとも聴聞してきた側からいたしますと、感じられましょう。

 ついでに回心、発心に及びますが、何に回心したのか。何に出遇ったのか。御本書や御和讃の七面倒くさい晦渋な質にふれたのか。
 違うでしょう?我々門徒は皆、知ってるんです。あんなすさまじいもん、常人の読めるもんじゃありません。むしろ法界の探求も、還相や教化、日ごろの常識に潜む陥穽を明かす参考にはなるかも知れませんが・・・。
 親鸞がアカンと仰るのは如何なものかと思いますが、ただ、とてもあのままでは常人の凡夫には通じないでしょうね。通じ難いから、アカン、ということなんです。

 では、何にふれたのか。如何に、ふれたのか。どういただいたのか。
 願心一つに出遇った、ハイ、分りました、これで好いんです。自分の願心でも無い、自分だけの為の願心でも無い、阿弥陀さんだけが呼んで居られるんでも無い、出遇われた無数の方々、生者のみならず死者方々のサンガが共に呼び掛けて居られる。
 偏に、人民の為、人類の為なんです。
 その願心を賜る。それが自身の供養になるんです。

 ですから、自分が承けたなら、自分の中心で主としてはたらくなら、及ばずながら、お手伝いさせてもらうんでしょう?
 そうなるに決まってるんです。自然の摂理の内の重要な一つ(慈愛、情愛、人情、友好)にも、無矛盾に合致しましょう。

 まあ自然でさえも、浚って、磨いて、伝えられないと分かり難いし、今一つ、何がお手伝いになるのか、という難行が待ち受けてくるわけですけれども、この部分に関しては、還相廻向の課題である。
 至るところで人民の為に、と。何が人民の為、人民の供養になるのか、何が本願のお手伝いになるのか、ということです。
 教団も寺も僧も、その為だけにある。ご自身の供養の場が、ご聴聞の場なんでしょう。生活を訪ねる。ご聴聞から開く。

 「そんなこと、書いてない」って?
 だからこそ、聞き開き、説き開かんとアカンのでしょう?再構成せにゃアカンのでしょう?聴聞とは、訪ねることです。
 あのままで好いんなら、お説教なんぞ要らんのです。漢字による漢字の説明ばかりじゃ、分かるはずがない。

 しかしとにかく、親鸞様にとっての弥勒は、釈迦没後のほとけであって、親鸞様の時代には、既に未来の仏ではないような印象があります。
 信心の人が如来や弥勒と等同である説にしましても、無著・世親が既に出遇っていた、ほかにも、既に弥勒がはたらいていた、という実感をお持ちだったかも知れません。
 御和讃では次の通り述べられています。

(26) 五十六億七千万  弥勒菩薩はとしをへん  まことの信心うるひとは  このたびさとりをひらくべし P--605 (27) 念仏往生の願により  等正覚にいたるひと  すなはち弥勒におなじくて  大般涅槃をさとるべし (28) 真実信心うるゆゑに  すなはち定聚にいりぬれば  補処の弥勒におなじくて  無上覚をさとるなり

 御消息をみましたが、御本書でも次の通り述べられています。

【99】 王日休がいはく(龍舒浄土文)、「われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生、この仏名を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す〉と。

不退転は梵語にはこれを阿惟越致といふ。『法華経』にはいはく、〈弥勒菩薩の所得の報地なり〉と。 一念往生、便ち弥勒に同じ。仏語虚しからず、この『経』(大経)はまことに往生の径術、脱苦の神方なり。みな信受すべし」と。{以上}

【100】 『大経』(下)にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この世界より六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一々の菩薩は、すでに曾無数の諸仏を供養せりき、次いで弥勒のごとし〉」と。

【101】 またのたまはく(如来会・下)、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この仏土のなかに七十二億の菩薩あり。かれは無量億那由他百千の仏の所にして、もP--264ろもろの善根を種ゑて不退転を成ぜるなり。まさにかの国に生ずべし〉」と。{抄出} 【102】 律宗の用欽師のいはく、「至れること、『華厳』の極唱、『法華』の妙談にしかんや。かつはいまだ普授あることを見ず。衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記を得ることは、まことにいふところの不可思議功徳の利なり」と。{以上}

 【103】 まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。 念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。 ゆゑに便同といふなり。 しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。

 結構突っ込んだ仏教の教相史学習にもなりましょうから、親鸞様の信心との関係でマイトレーヤ・ボーディサットヴァ(タターガタ)に関して、あるいは師事され、あるいは書に当たられ、ご自身の供養、信心を明かす営みとして論をまとめていかれるのも好いかな、と思います。


・クマーラジーヴァ、鳩摩羅什の問題点も知られていたかもしれませんが、羅什偏依は時代の中の仏教常識だったかも知れないと申しました。特に龍樹、それを承ける世親浄土論、阿弥陀経その他がありますから、浄土門は強い影響を受けたに決まってます。
 まあ、現代の先生方も親鸞様における羅什訳の扱いについては昔から関心を持って居られたようで、たまに疑問点などを口にされていたことを記憶しますが、関心が薄かったので内容は憶えてません。

 事実は分りませんが、羅什はまた、余りに有能で子孫を残させたい為もあり、何人もの女官を与えられ、拉致・強制連行されて以来、束縛の中で訳経を続けることになった、とされています。

 けれども、親鸞様にとって女を抱くということの意味は、鳩摩羅什とは大分異なっていたのかも知れません。
 六角堂参篭の末法然門下に入られたとされますが、その六角堂での救世観音からの夢告がございまして、テキスト『宗祖親鸞聖人』p21にあります。

「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」(修行者が過去の因縁によって女を抱くなら、私が玉女の身となり犯され、生涯にわたり仏法で人生をたもち、命が終わるときは導いて仏国土に生まれさせよう。」)

「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」

 実際、恵信尼公と夫婦になられ、ほかに玉日姫でしたか、関係が取り沙汰されています。
 これには、流罪となった法難で、法名と僧籍を奪われて俗名を名のらされ、非僧非俗の犯罪人とされた経緯もあるのかも知れませんが、夫婦になられた時期については現時点では定かでは無いようです。

 山(叡山)に赴かれる際にも、流罪の際にも、当時は、誰かが付き添う方が普通、高位者には大名行列での入山や流罪が普通でした。

 越後流罪の際には特に、吉水の念仏サンガ崩壊を恐れたサポーターといわず、文章博士など少なからぬ随行者なり同伴者が居られたという伝承もありましょう。ですから、そうした際の関係者なのか、下山以後なのか、流罪以後なのか、ただし何時であれ、妻帯ということですから、公式には在俗者ということになったはずです。

 関係者付随ということは赦免にも関係して居りましょうし、赦免以後にも関わります。関東でのもてなしや有力者の招待があったことからも照らされましょう。私らのように単独孤立を想定いたしますなら、とんでもない間違いです。既存の有力者や教団が関係者として一貫して存在していた、ということに、なるでしょうね。真宗教団として、なお、自らを十全には開花させては居なかった状態の人間関係や集まりであった、としても。
 そしてそれらの集まりが野合の如く集合することもあり、集合離散を繰り返しながら、形成されたんでしょう。ですから、シャカムニのサンガ同様、集まりと集まりの結合や離散なんでしょう。どれだけが信を獲られたのかは、分かりませんけど。

また、

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし(「すべきである」ではなく、「するであろう」の意です)」(『歎異抄』13章)

というすえ通りたる二種深信がありますが、煩悩の身の在り方と同時に、それが往生や済度の障碍にならないことを言われたものです。(ただし、誤解を招いたことが晩年の聖人の課題となった。それで、念仏者の姿勢を糺す御消息があるわけでしょう。現世への姿勢を示すものとしても興味深く、既に引きましたが、後に重ねて御消息を引いておきます。)

 しかしいずれにいたしましても結果、晩年は特に、羅什と遠からず近からずの境涯を迎えられるようになったことは、想像に難くありません。いや、当時の教界の常識からしても、至極当然のことだったと申せましょう。
 無戒名字比丘はいくらか居られたかも知れないが、教界には公的に認められていかないまま、だったのでしょう。

 その後漸く、半ば在家仏教として、浄土真宗により僧俗の区別なくお覚りが開かれるようになったわけです。少なくとも理論上は。
 肉食妻帯は成道の妨げにならないということです。


・現世への姿勢を重ねて『御消息』から引きます。

(2)  かたがたよりの御こころざしのものども、数のままにたしかにたまはり候ふ。明教房ののぼられて候ふこと、ありがたきことに候ふ。かたがたの御こころざし、申しつくしがたく候ふ。明法御房の往生のこと、おどろきまうすP--738べきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。鹿島・行方・奥郡、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ。またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。めでたさ申しつくすべくも候はず。おのおのみな往生は一定とおぼしめすべし。

さりながらも、往生をねがはせたまふひとびとの御中にも、御こころえぬことも候ひき、いまもさこそ候ふらめとおぼえ候ふ。京にもこころえずして、やうやうにまどひあうて候ふめり。くにぐににもおほくきこえ候ふ。法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゆしき学生などとおもひあひたるひとびとも、この世には、みなやうやうに法文をいひかへて、身もまどひ、ひとをもまどはして、わづらひあうて候ふめり。

 聖教のをしへをもみずしらぬ、おのおののやうにおはしますひとびとは、往生にさはりなしとばかりいふをききて、あしざまに御こころえあること、おほく候ひき。いまもさこそ候ふらめとおぼえ候ふ。浄土の教もしらぬ信見房などが申すことによりて、ひがざまにいよいよなりあはせたまひ候ふらんをきき候ふこそ、あさましく候へ。P—739

 まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。

 しかるに、なほ酔ひもさめやらぬに、かさねて酔ひをすすめ、毒も消えやらぬに、なほ毒をすすめられ候ふらんこそ、あさましく候へ。煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきに、なほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、後世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとP--740ひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ。

 はじめて仏のちかひをききはじむるひとびとの、わが身のわろく、こころのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこそ、煩悩具足したる身なれば、わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたまふぞとは申し候へ。かくききてのち、仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには、まことにこの身をもいとひ、流転せんことをもかなしみて、ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは、もとこそ、こころのままにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ、世をいとふしるしにても候はめ。また往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこるとこそみえて候へば、さりともまことのこころおこらせたまひなんには、いかがむかしの御こころのままにては候ふべき。

 この御中のひとびとも、少々はあしきさまなることのきこえ候ふめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候ふこそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。なP--741れむつぶべからず。『浄土論』(論註・上意)と申すふみには、「かやうのひとは仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり」と候ふめり。また至誠心のなかには、「かやうに悪をこのまんにはつつしんでとほざかれ、ちかづくべからず」(散善義・意)とこそ説かれて候へ。善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ説きおかれて候へ。

 悪をこのむひとにもちかづきなんどすることは、浄土にまゐりてのち、衆生利益にかへりてこそ、さやうの罪人にもしたがひちかづくことは候へ。それも、わがはからひにはあらず。弥陀のちかひによりて御たすけにてこそ、おもふさまのふるまひも候はんずれ。当時は、この身どものやうにては、いかが候ふべかるらんとおぼえ候ふ。よくよく案ぜさせたまふべく候ふ。

 往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。

この文をもつて鹿島・行方・南の荘、いづかたもこれにこころざしおはしまさんひとには、おなじ御こころによみきかせたまふべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。 P--742    建長四年二月二十四日

(3)  この明教房ののぼられて候ふこと、まことにありがたきこととおぼえ候ふ。明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。ひとびとの御こころざしも、ありがたくおぼえ候ふ。かたがたこのひとびとののぼり、不思議のことに候ふ。この文をたれたれにもおなじこころによみきかせたまふべく候ふ。この文は奥郡におはします同朋の御中に、みなおなじく御覧候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。

 としごろ念仏して往生ねがふしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもひかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ、世をいとふしるしにても候はめとこそおぼえ候へ。よくよく御こころえ候ふべし。

(37)  なによりも、聖教のをしへをもしらず、また浄土宗のまことのそこをもしらずして、不可思議の放逸無慚のものどものなかに、悪はおもふさまにふるまふべしと仰せられ候ふなるこそ、かへすがへすあるべくも候はず。北の郡にありし善証房といひしものに、つひにあひむつるることなくてやみにしをばみざりけるにや。凡夫なればとて、なにごともおもふさまならば、ぬすみをもし、人をもころしなんどすべきかは。

もとぬすみごころあらん人も、極楽をねがひ、念仏を申すほどのことになりなば、もとひがうたるこころをもおもひなほしてこそあるべきに、そのしるしもなからんひとびとに、悪くるしからずとP--801いふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ。煩悩にくるはされて、おもはざるほかにすまじきことをもふるまひ、いふまじきことをもいひ、おもふまじきことをもおもふにてこそあれ。さはらぬことなればとて、ひとのためにもはらぐろく、すまじきことをもし、いふまじきことをもいはば、煩悩にくるはされたる儀にはあらで、わざとすまじきことをもせば、かへすがへすあるまじきことなり。

 鹿島・行方のひとびとのあしからんことをばいひとどめ、その辺の人々の、ことにひがみたることをば制したまはばこそ、この辺より出できたるしるしにては候はめ。ふるまひは、なにともこころにまかせよといひつると候ふらん、あさましきことに候ふ。この世のわろきをもすて、あさましきことをもせざらんこそ、世をいとひ、念仏申すことにては候へ。としごろ念仏するひとなんどの、ひとのためにあしきことをし、またいひもせば、世をいとふしるしもなし。  されば善導の御をしへには、「悪をこのむ人をば、つつしんでとほざかれ」(散善義・意)とこそ、至誠心のなかにはをしへおかせおはしまして候へ。いつか、わがこころのわろきにまかせてふるまへとは候ふ。おほかた経釈をもしらず、如来の御ことをもしらぬ身に、ゆめゆめその沙汰あるべくも候はず。P--802 あなかしこ、あなかしこ。    十一月二十四日          親鸞

前に引いた部分も繰り返し、引いておきます。

「#225※弊派聖典ではp568 (25)  六月一日の御文、くはしくみ候ひぬ。さては鎌倉にての御訴へのやうは、おろおろうけたまはりて候ふ。この御文にたがはずうけたまはりて候ひしに、別のことはよも候はじとおもひ候ひしに、御くだりうれしく候ふ。  おほかたは、この訴へのやうは、御身ひとりのことにはあらず候ふ。すべて浄土の念仏者のことなり。このやうは、故聖人(法然)の御時、この身どものやうやうに申され候ひしことなり。こともあたらしき訴へにても候はず。性信坊ひとりの沙汰あるべきことにはあらず。念仏申さんひとは、みなおなじこころに御沙汰あるべきことなり。御身をわらひまうすべきことにはあらず候ふ べし。念仏者のものにこころえぬは、性信坊のとがに申しなされんは、きはまれるひがごとに候ふべし。念仏申さんひとは、性信坊のかたうどにこそなりあはせたまふべけれ。母・姉・妹なんどやうやうに申さるることは、ふるごとにて候ふ。

さればとて、念仏をとどめられ候ひしが、世に曲事のおこり候ひP--784しかば、それにつけても念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころにいれて、申しあはせたまふべしとぞおぼえ候ふ。

 御文のやう、おほかたの陳状、よく御はからひども候ひけり。うれしく候ふ。 詮じ候ふところは、御身にかぎらず、

念仏申さんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため、国民のために、念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたう候ふべし。往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の 往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。 わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。よ くよく御案候ふべし。このほかは、別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。

 なほなほ疾く御くだりの候ふこそ、うれしう候へ。よくよく御こころにいれ て、往生一定とおもひさだめられ候ひなば、仏の御恩をおぼしめさんには、 異事は候ふべからず。御念仏をこころにいれて申させたまふべしとおぼえ候 ふ。あなかしこ、あなかしこ。    七月九日             親鸞 P--785   性信御坊」


・留意点は今一つ、教相や理念理想と実態への対応(実生活)が相互浸透、相互作用していくということです。
 その運動の中で、ほとけの世界に照らされて現実が革められていく、逆に照らすべき質も問われ、より好い質に選ばれてゆきましょう。
 永遠普遍は存在しない。固定したものではない、ずっと選択本願されていくものだ、ともいえるわけです。事実、記述や願文の質には明瞭な差別問題がありました。


・女性だらけの宿坊から訳経所に通うことになった羅什の境涯は宦官の方々とは逆で、興福寺奏状と法会に通った女官との密通疑惑とで弾圧を受けた吉水の教団とも、親鸞さんとも逆と言えましょう。
 ただ、彼の拉致・連行には、仏図澄の弟子道安の嘱望、招聘への強い願い出もあり、羅什はずっと勅命で召し抱えられたわけです。
 そして訳経上からも浄土門に影響は大。これは当時の西域と中国での浄土教の影響、既に醸成されていた浄土門の影響もあるかも知れません。

 初期女性サンガ以降、時代の中で女性成仏が否定されていった中で、大経35願は女性のままでは往生できないが如き女性差別を引きずった内容で、明確な差別問題である。
 が、観経では韋提希と女官が往生(成仏)を預言されていく。
 また親鸞様は『三経義疏(法華経・維摩経・勝蔓経)』の太子は嘗て勝蔓夫人だった、ともしておられる。

 いずれにいたしましても、吉水の事件の中で、女性の入信があり、また、親鸞様が妻帯したことで、女性の占める位置が変わったことは、否定出来ない。
 明確に仏門の中に位置を占めはじめたのである。
 しかし、女性の位置が変化していく質が孕まれたものの、主従関係、差別を変革していくまでには、終に至らぬまま、現代を迎える運びとなった、と言えましょう。
 恵信尼公との関係では、書簡が遺されています。

 蓮如様に至っては七回に及ぶ妻帯が伝えられており、真宗教団での在家僧は当然のことになっていたことを示す。

 より広くは仏教の、初期女性サンガも、人々を尊重する民主的な考え方も、差別の否定も、基本的には時代の中で失われるか、薄れていった。
 どの時点に起因するかは不明であるが、おそらくインドでも西域でも中国でも、仏教内部で順調に薄れていった、と思われる。

 インドでも中世化の中で仏教も女性の不浄視が進み、女人禁制や変成男子(祈祷により胎内で男に変わる)の考え方が出るようになった、と言われる(『世界の宗教と経典』総解説p120)し、中国では『勝鬘経』(この鬘、字が難し過ぎてよく間違えるんです。ご寛恕願います)訳経さえ遅れたようですし、中日とも、女人禁制だらけである。

 人間を尊重する、という単純なことも、現実におけるその具体的表現も、現代に至るまで、超少数派を除けば、とうとう分らなかった、とも言えよう。上・下・左・右・中間を問わず、差別事件に憤懣を持つ人たちも、大勢の賢者が居たにも関わらず、差別思想には順応して、素直に受容して来たのである。

 危機に臨んでの強力なリーダーシップ必要説があるが、バカだ、と思う。
 そもそも一人ひとりを尊重することを知らずして、宗教や仏教が分るはずがない。帝政さえも存続出来ない。宗教も権威や権力やアヘンとしてだけ機能しがちだった歴史は、むしろ自然の成り行きで、至極当然だろう、と。
 一言でいうと、改革以前に、何故改革しなくてはならないか、どういう方向への改革が好き世界をもたらすのか、ほとんど分からなかったのではなかろうか。
 だからこれも現代以降の課題、なんです。


・親鸞様の救いという中には法界みたいな仏教常識が詳述されていて、分かる、それも弁えておく必要はあるだろう、それを欠くと、死後世界の実在浄土みたいな執着が疑われよう、また、生存はいつ失われるか分からないうえ、大安慰も得られないから、社会福祉や生活支援だけではたすからん、とは思うが、「究極の救い」としてそれだけに集中するのは如何か。

 ちなみに、法身仏たる大日如来が天台叡山でも真言高野山でも、よく本尊である。
 藤原鎌足の子孫の日野家ゆかりの寺が当時は多分天台宗の法界寺とされ、親鸞様もこの辺りの日野の里で誕生されたと言われている。しかしこの寺の本尊は、安産・授乳参りの薬師如来としても知られるらしいが、阿弥陀如来坐像をいただいている。寺でも大日経が学ばれた記録があるので、多分、法身仏の観念は東密台密とも、叡山高野山とも、常識的にあったと思われる。
 親鸞様が阿弥陀さんを法身仏としていただかれる一つのご縁かも知れません。

 法界寺や密教との関係で言えば、要するに親鸞様はもと台密の出自でもあるわけで、また、高野山熊谷寺との関係も実際にあっても何ら不思議ではありませんから、このことも法界の熱心な言及に関係しているかも知れません。

 それでもやはり、法界を得ても尚更、身の事実たる自然の願心、限りなき灼熱の慈しみに起つ社会事業や個人の姿勢が出てくるはずであろう、と。
 また、申しました通り、通力にすくいを丸投げするのも如何か。
 シャカムニに限らず、龍樹、勝蔓夫人の社会貢献を知り、アミタとなっていく法蔵菩薩の貧窮に対する大施主たらん重誓偈もご存じだったはずである。
 無理に自己抑圧を試みられているような感も憶えられましょう。まあ結果、現世対応に忙しい晩年を得られたわけですから、むしろここからこそ、出発があったはずでした。
 しかし封建幕藩体制を経る中で、愈々、存命中の娑婆世間での利他行が忘れられていったんです。


・さて、我々もそれぞれ、それなりに親鸞様・蓮如様の御旧跡巡りの旅を少し体験して参りました。これから愈々、関東から東海の事績をうかがいたく思ってますが、先ずは旅へ。

 で、今では疑問視される事柄を事実認定している嫌いもありますが『古寺巡礼ガイド 親鸞 付・蓮如の旅』(法蔵館)など、御旧跡ガイドを紐解かれながら、観光の旅のプログラムに加えられては如何でしょうか。
 まあ、この本、故細川先生と加賀田先生で編集・監修されておりまして、親しみを持ちながら史実から当時を推量していく学びになっているわけです。

 例えば、日野家に漢学碩学アリ、と以前申しましたが、叔父さんである儒学の碩学、日野範綱・日野宗業には、若き親鸞様が直接手ほどきを受けた、みたいなこともp5にあります。
 そういたしますと、後序で批判されるところの洛都の儒林、って、叔父さんの日野範綱・日野宗業、若しくはその関係者やないかああああああ、ということも推量されましょう?これは(えっ?!)と思うはずでしょう?同時に、この所為もあって、漢字による漢字の説明が諄く(クドく)なったのではないか、とも推察するわけです。

 また、p49康楽寺寺伝で、開基の西仏房は、進士蔵人道広と称する南都の興福寺勧学院の文章博士だったとされ、叡山で親鸞と交わったり、吉水の門にも共に入ったとも伝え、親鸞に従って越後に来て、更に東国、関東へも同行した、とされています。更には覚如さんとの関係も描かれます。
 はじめて読みました際、これにも(えっ!?)と思ったわけです。
 ①弾圧した側の興福寺門下からも?ってことでしょう?②興福寺門下も吉水に惹かれて寺門が脅かされたので、弾圧が激しくなった、ということとか、やはり親鸞様一家だけではなく、③随行された方が幾らか居られた、ということも、同時に分かるわけです。
 更には、④もしかすると南都北嶺の中にも少なからぬ同情者や同調者、支援者が居たのではないか、とも。また、⑤対立競争しながらも、各宗で比較的自由な往来もあったことまで、推量出来ましょう。

 まあ、現代では宗派や教団の壁を超えて、横の連帯を各寺と各僧侶が求めるべきでしょうね、いつも言ってますけど。祖師方はあんなもん、偉いけど、全部アカンのですから。読んで、破らんとアカンのでしょうね、ホンマは。及びませんけど。

 こっちは、凝り固まった常識でものを推理してますから、ダメなんです。ってことで、旅は好い、旅は楽しい、何処までも、と。自分を破っていく。


・摂取不捨というのは、人々を喜ぶ、生き物を喜ぶ、木々の緑も河川の流れも喜ぶ、存在を喜ぶ、お姿。
 人間にとっての真の友であって、人々を喜び、尊び、認めるから、摂取不捨の願心自体がたすかったお姿であり、ブッダの真言だ、ということでしょう。

 谷大のパンフでしたか、人間が好き、とありましたが、摂取不捨の真言、大悲大慈には及ばずとも、慈しむ。慈しむ、というのは、共に居ることを悦ぶお姿。

 蓮如様は仰います。信心獲得の御文で、令諸衆生功徳成就、と。往生の発願を受けて自ら発願、帰命するということは、自分にも他者にも供養になる、互いに友に成ろうとする世界で、功徳なんです。
 互いに功徳のある好い世界に生まれた。そういうことです。


・御本書から「魔郷」の語の部分を引いておきます。

【12】 またいはく(光明寺(善導)の『疏』定善義 四〇五)、「西方寂静無為の楽には、畢竟逍遥して有無を離れたり。大悲、心に熏じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること等しくして殊なることなし。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る。変現の荘厳、意に随ひて出づ。群生見るもの罪みな除こると。また讃じていはく、帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到る処に余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へて後、かの涅槃の城に入らん」と。{以上}(『教行信証』証の巻と、真仏土の巻)

 魔郷というのは、まあ、いわずもがなで、直感して居られる通りの、我々の生み出している世界。魔界もさることながら、娑婆と外道外教がひどい。
 もちろん自然災害なんかも大変だけれども、我々の教誡せられるような行い、姿勢、ものの考え方、観念。まあ、異義邪執です。
 また、娑婆世間。娑婆世間というのも、自然性に於いても好もしからざるものに満ちているが、人間に取り組めるのは、娑婆を娑婆(苦しめ合う堪忍土)にしている自他の在り方を、ほんのちょっとだけ、課題として重担し、チェンジして行こうとすること、それだけです。

 魔郷に停まらず、ということは、娑婆に帰るのではなくて、娑婆に還っては、友となっていく、変えていく生き方。これはこれで大変なので大経には、重担、と。


 で、いずくんぞ、仮なる鬼神(的な様相の世界)に礼せんや、帰去来、いざいなん、宜しく魔郷にとどまるべからず、と。


参考事項1


 多くの典籍が遺されているわけですが、本願寺派様聖典ダウンロードや聖典検索の中に多数アップされております。

 中で『教行信証』は、東西両本願寺から別個に出されている『真宗聖典』所収ですが、本願寺派様の現代語訳(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類〈現代語訳〉』や、『顕浄土真実教行証文類 現代語訳付き 教行信証 親鸞聖人集 下』)もありますし、以前からの岩新版のほか、最近弊派、東本願寺出版部から出版された『解読教行信証』(上)もあります。下巻も出ると思いますが、門外漢には十分では無い嫌いを持ちつつ、註釈なども結構ありますので、参考とされると好いでしょう。

 すいません、『親鸞「教行信証」(現代語訳)―鈴木大拙の英訳にもとづく現代日本語訳―』も2015年に東本願寺から出てたみたいです。知らん間に出されてました。

 親鸞さんや真宗や御本書の解説も、既に昔から逐語的な解説もあるし、講義録もあるので、当たられると宜しいと思います。

 御文・御消息ほか各種の解説書と現代語訳もある。親しむうえで興味深いと思います。

 『親鸞とその妻の手紙』
 『現代の聖典 親鸞書簡集』
 『親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』
 『現代の聖典 蓮如五帖御文』

 これはいろいろテキストや現代語訳や解説や研究書があるけれども、更に辞書とかも必要であろうし、時代背景とかも知っていないと接近出来ないものがあるだろう、とも思うわけです。

 より詳しくは、『真宗聖教(しょうぎょう)全書』のほか、『望月仏教大辞典』『真宗新辞典』『仏典解題辞典』、仏教史のテキストなどが必要になりますが、まあ、そこまでは一般には。
 ただ、先ごろの法蔵館からのパンフではJAPAN KNOWLEDGE PERSONALという事辞典50以上、項目数360万以上のデータベースが利用できるそうで、まあ、年会費が要りますので大変ですが、便利そうです。

 しかしたとえば『仏教経典の世界 総解説』(‘90 自由国民社)など、通俗書は、好い場合があります。
 大分前にふれましたが、「華厳経」の項目では鎌田茂雄師が、聖武天皇が新羅人の講義を聞いて発願された東大寺大仏の、開眼供養会の様子も簡潔に書かれています。
 華厳経を持ってきたのは漢人道璿、講師が新羅の審祥、建立参画がやはり玄昉など新羅系の方々、導師がインド人の菩提僊那と、当時の教界の国際色を教えてくださっています。今よりよっぽど謙虚だし、開放されてますね。
 この経はア・プリオリであるそうで、もちろん原典に当たるのも理解するのも大変なんでしょうけど、研究者がご理解の範囲を分かり易く書かれているので、通俗書は気軽に読め、誰にでも勧めることが出来ます。

 それと、参考事項紹介ではありませんが、弊派では2011年にお迎えした750回御遠忌の一環として現存する『教行信証』原本の再研究も行われましたが、その結果、色々発見されたこともあるかも知れません。残念ながら、私はあまり存じませんので、ご了承願います。

参考事項2

 また、門外漢が常識的に知っておくべき事項がいくつもあるのでしょう。
 例えば、時代背景。
 例えば官許の僧と私度僧 最高学府にして国家権力の叡山。
 貴人・高官などの出家で、堂宇が建てられることだってあっただろうし、中には清僧もあっただろうが、付き人もあったとなると、窺い知れぬ奥の院で何が起こっても分らないとも言えよう。
 例えば日野家の系図と推移。主要ではないけれども、意外な影響もあるかも知れない。

 とにかく、専修称名以外のいろんな念仏、末法感、来世信仰、観音や薬師や地蔵などの信仰がありました。
 また、赦免の事情、赦免以後の関東の教団と支援者についても、あまり知りません。各方面に史料を当たった詳しい考証が要るでしょう。

 流布していた民間信仰や念仏諸流派に加えて、叡山、源信様以後の影響、吉水サンガ以後の影響も加わっていきましたから、宗教情況の見極めは難しいし、詳細に検討すべきでしょう。
 赦免における叡山、源信様、吉水一門関係者の影響もあったと思います。

 既に東密台密問わず、南都北嶺問わず、飢饉と自然災害と疫病に苦しむ民衆の寺社頼みや称名念仏も根付いていたといわれますが、事態の詳細は想像でものを言うことは出来ません。
 東密との関係もあるけれども、どちらかというと親鸞は得度剃髪の出自である山家の伝教大師最澄派です。
 いろんな寺に出向かれたのでしょうけど、どこでどれくらい学ばれたのか。

 南都北嶺の迫害と共に、空海と最澄の手紙やり取りも出版されてましたが、法華一条至上主義の最澄と密教至上主義の空海はついに合わなかったとされていますが、この両山とはどうだったのでしょう?
 まあこれも旅のついでみたいなところで、気に留めてもらえるといいかな。

 親鸞様は山家中心でいらっしゃいますが、台密という言葉通り、天台密教も色濃く学ばれているはずです。お生まれは法界寺という天台寺院ですが、寺伝では早くから大日経も学ばれている。

〇真言宗(元は天台宗) 法界寺(ほうかいじ)

【寺伝抄録】

・・・最澄作の薬師如来ほか、平安後期の阿弥陀信仰の高まりや末法思想の普及にともない、法界寺にも阿弥陀堂が建てられた。

 当時は幾つかお堂があったが、現存するのは阿弥陀堂のみである。平安時代後期の法界寺には、当時の日記等の記録で判明するだけで少なくとも5体の丈六の阿弥陀如来像が存在したことがわかっている。現在、阿弥陀堂に安置される像がそのうちのどれに当たるかは判明していない。・・・
以上


 現在は醍醐派であるが、1400年代に改宗ともいわれ、元は天台宗とされるから、親鸞様時代はやはり天台宗だったと言えよう。ただ、台密系でもあるから、大日経関係も学ばれていたようである。

 このことからも、①密教色も濃く持ちながらも、②当時の末法感や、来世信仰としての阿弥陀信仰の普及ぶりが見て取れよう。
 ここは真宗では日野家ゆかりの著名な寺です。しかし、次の寺はあまり紹介されません。

〇真言宗高野山 熊谷寺(ゆうこくじ)

【寺伝抄録】

・・・当寺は圓光大師(法然上人)・見真大師(親鸞上人)・熊谷蓮生法師(熊谷直実公)の御旧跡、法然上人二十五霊場の番外札所です。

 当寺は桓武天皇(737~806)の皇子、葛原親王(786~853)の御願により、承和4年(837年)に建立せられ、宗祖弘法大師(774~835)の法孫、真隆阿闍梨が初代住職です。

 寿永3年(1184年)2月7日、摂津(今の神戸市)一の谷における源平の合戦(鵯越の逆落とし)に敗れた平家方の将兵は友軍の軍船に逃れましたが、この時遠浅の海に駒を乗り入れた武将を呼び返した熊谷直実は格闘数合やがて組敷いて首級をあげようと良く見ると、一子小次郎直家と同年輩の美少年、平家の大将参議経盛(1,125~1,185)の末子敦盛(1,169~1,184)でした。
 直実は同じ日の未明、敵の矢に傷ついた直家の「父よ、この矢を抜いてたべ」との願いを耳にするも、敵中の事とて傷の手当てをする暇なく敵陣深く突入した時の親心の切なさを思い起こし、敦盛の首を斬るに忍びず、暫し躊躇ったのですが、心を鬼にして首を掻き斬ったのです。
 かくて直実はほとほと世の無常を感じて発心し、当時日本一の上人と尊崇されていた吉水の法然上人の弟子となり「法力房蓮生」の名を与えられ、専心念仏の行者となったのです。

 建久元年(1,190年)は敦盛卿の7回忌に当たるにつき、追福の法要を営まんと思い立ち、師法然上人の指示により高野山に登り、父祖の菩提寺であった当寺(当時は智識院と言う名だった)に寄寓し、敦盛卿の位牌および石塔を建立し、懇ろに敦盛卿の菩提を祈ったのです。
 以来14年間山に留まり念仏に専心し、建仁元年(1,201年)鎌倉将軍源平両氏の戦死者大追悼会をこの山で営んだ時、法然上人その特請に遭われ、親鸞聖人及び圓證入道関白兼実(1,149~1,207)と共に登山し一夏九旬の間当寺に留錫、そのころ真別処において称名念仏していた24人の社友等と交誼を交えながら衆生済度の大願を祈求されたのです。

 或る時御三方(法然上人・親鸞聖人・熊谷蓮生)庭前の井戸の水鏡にて各々のお姿を写され、自らその像を彫られました。その御尊像を奉安してあるのが、表門の横にある「圓光堂」です。

 また、法然上人は龍華三会の暁に、弘法大師に値遇の良縁を結ばんが為に、末世道俗摂化の方便にもと五輪の石塔を奥の院のほとりに建立し、自ら梵字を書し「源空」の二字を刻んで置かれました。
 上人の滅後、弟子等相寄り御芳骨をその塔下に納め奉ったと伝えられており、「高野山圓光大師廟」とは、この五輪塔の事であります。

 蓮生法師は承元2年(1,208年)9月14日、念仏を唱え睡るが如く往生されました。その後直家は亡父の遺命により登山、当寺の堂宇を改造修築して追孝の法要を営みました。
 この事が時の将軍実朝公の知る所となり、蓮生房の詠まれた「約束の念仏」の歌と、「熊谷寺」と書かれた扁額を寄進されました。
この因縁により「熊谷寺」と改称し今日に及んでいるのであります。

 弘長4年(1,264年)親鸞上人の3回忌に当たり、覚信尼公(親鸞上人の末娘 1,224~1.283)上人の遺命にて御臨終の名号並びに御遺骨、及び御母公玉日(九条兼実の娘、恵信尼)の前の木像を、使者日野家の士下条専右衛門頼一を遣わして当寺に納められ、且つ上人が師の流れを汲んで、かねて手書しおかれた梵字を刻んで石塔を建立されました。・・・
以上


 ここを見る限り、玉日姫は恵信尼公と同一とされていますが、論拠は何でしょう?派内史料に限らず各宗派所蔵史料類も渉猟されてきたと思うんですが、未発見史料もあるんでしょうから、気になります。

 まあ、時代の特徴と人々の課題や教界の課題というものが、ほかにも一杯あるはずです。
 不十分な点、曖昧さ、差別化や反民主性など時代の問題点は、開祖や祖師方以降の人間が取り組んでゆくしかないわけです。

後記

 骨格と根幹にギリギリふれ得ましたので、一区切りつきました。
 一旦、セミナリオを終わります。
 テキストも解説書もありますので、任にも無き私の任務は、おかしいと思われる点をレリーフすることで、あらかた終えたわけです。

 いろんな皆様にお会い出来て喜んでいます。

 いつどうなるか分らんのが人生というものですから、最近は焦燥感ばかりでしたが、さりとて、思い浮かばぬ時間、手を付けあぐねる時間も少なく無いうえ、学びも欠けがちですから、大変残念でしたが、楽しく進めて来れたのは望外の喜びです。

 「このこと一つ」のレリーフばかりでなく、問題やテーマの発見も、一々のそれの探求も、まだまだこれから、です。
 友に遇うより大事は無いながら、あるいは師事され、あるいは独自に、文献と資料に当たられ、愈々このこと一つ、一大事を窮められますようお念じ申し上げて居ります。

 あと、これから取り組むべきことがあるとするとやはり、真仏土とか化身土で取り組まれた課題とか、まあ、法と機の世界を明らかにして、我々自身全員の供養のために、行いも世間の在り方もチェンジを試みるっていうことしかないわけです。
 これも既に諸賢諸先学に於かれては長く取り組んで来られましたし、私も取り組み、記して参りました。まあ、これこそ娑婆絡みだから、間違い易い、と。

 約めて言うと仏教は、人間の自然のはたらきのなかで重要かつ尊いのは「智慧と慈悲」であるから、まあ智慧と言っても世間のとは違うけれども、そこへ往生して、そこから出発して構わないわけだが、その具現、生存中の姿勢については簡単ではない。
 実は化身土の課題とか、応化身の課題とか、社会改革とか、全部そういうことだ、と言えましょう。

 その前に、生存自体の自然の問題点もあることから、ややもすれば、極端な禁欲、はなはだしきは自殺教の如き、初めから死んだ方が早いのではないか、と思われる傾向を生んだわけですが、大変な間違いであり、さまざま問題と限界があっても自身と闘って好き人生と世界を形作ることこそ、願われるべきことだった、と思うわけです。

 浄土教の発生原因も多々あるでしょうけれども、ブッダに遇おうとすることも、厭世観や来世感も、苦悩から解放された人生を手にしたい志向でもあり、まさに願わしく喜べ合える世界をもたらすにも、好適な運動と思うわけです。

 即ちこうした転回はもはや、精選されたブッダの思想の核心となるものであり、開祖の教説自体にもそれ以後にも有象無象こびりついていた、凡そ認め合え、尊び合え、慈しみ合え、喜び合えることが永代得られぬが如き「汚れ」を払拭すること抜きには、得難いものでしょう。
仏説自体が差別性もあり、呪縛もある、言うならば、魔郷の質を露わに発現して来たわけです。

 親鸞めずらしき法をも説かず・・・ということで、私の述べ終えた感のある展開もまた、既に明瞭に若しくは何となく曖昧ながら、門徒も僧侶も門外の人々も感じていたことの一部を、ハッキリ言ったに過ぎないわけであります。ですから、既に深められている教相の現状と現実社会に言葉で追いつこうとしているに過ぎぬ、とも言えましょう。

 そして既に脱却が教相構成面でも、実社会面でも、実践されても参りました。社会貢献と言わず救援事業と言わず、現実は踏み出しているし、宗門開創当初から、教相の如何に関わらず、教団人は問題点を踏み越えて、真の道を開いて来られた面がある。
 殊に現代、愈々民主性を以って、様々の問題と取り組まれていることです。

 現代の化身土や応身の取り組み、と言いましても、しかし既に救援事業に学び支援してますし、陥穽や呪縛を暴くべく、現代社会にも散々ものを言って参りましたので、これも実は余すところがほとんど無いような気もするわけです。

 まあむしろ、数十年ほども遅れ過ぎましたけれども、現代思想の智の饗宴を学ぶ、ということで、何時になるかは分りませんが、田川先生とか栗本・柄谷・浅田などの先生方の本について読書感想文をアップするかも知れません。いや、皆さんも、アップしてください。

しばらく休みます。

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