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無戒からー18

 このHPで展開される内容を検討いただくよう、色んな場で推奨して来たわけですが、どうも、内容が煩瑣で、専門的と言うよりも不親切な点が散見されております。

 気にはしているのですけれども、好い表現が出来ないのかも知れませんし、何度かまとめようと試みるんですけど、うまく出来ないまま今日に至っています。

 まあ、課題の提起、発題ということで好いのかも知れませんし、問題設定自体も吟味し直していただければ・・・とは思っております。

 また、達した、と言ったり、仏教真宗が分った、と言ったり、これ以上無い、と言ったりしている割には、次々と展開が繰り出されるのは、これ如何に?とも思われているかもしれません。

 しかし、湧出して参るというところに、回心からの展開、到達ということもあるかも知れませんし、狭い身には、世間に生きるうえでの課題により深く接近し続けることや、世間から次々と課題を賜るということだって、欠かせないのでしょう。

 仮に往生ではないといたしましても、既に心を誓願の仏地に樹る身であり、この心、既にほとけの世界たる浄土に居するわけですから、回心というところに菩提を賜り、仏道を賜り、法の深信を賜り、機の深信もいよいよ鮮明になって参りましょう。

 更にはシャカムニ・ゴータマ・ブッダの時代とは違いますし、ジャカムニご自身がご自身の到達点を適切に言い当てておられたかどうかというと、そうじゃ無かったようにしか思われませんから、より適切な転回、再構成ということも、あるかも知れんわけでしょう。

 そんなことで、はなはだ頼りなくて恐縮ですけど、湧出して参った質を、更にメモしておきたいと存じます。

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 除災招福の求めには自然性の欲求と自己尊重ということが背景にあるわけでしょう。

 欲求の充足は大切ですが、そもそも、どういう欲求なのか。そしてそれが自身や他者にもたらすものは何だったのか、更に、自身は何なのか?欲求や我が思いを主とする人なのか、別のことを主とする人なのか。

 何を主としているのか、自身の主人は誰なのか。価値の世界=誰とでも友でも在れる世界=仏性自然を主とするのか、欲求や雑なる思いを主とするのか、何らかのイズムなのか、他者を主とするのか。

 願心が尊いけれども、身は適わず、現実の世界は適わないまま、いつしか斃れて参りますから、小成でもすれば好い方で、満足すべきではありましょう。しかし、世間道に於いて真の成就は何か?

 インターナショナルな諸個人のカニのハサミ、カチッ、色は匂へど散りぬるを、という卑近なる願心もあるわけでして、まあこれなんかも自然中の自然の一つ、睡眠欲・排泄欲ほか動物的欲望要素の中の一つであるけれども、適わないし、叶っても、先々、さあ、どんなもんやら・・・。

 そうした願心ももちろん大事でしょうけれども、限りなき灼熱の慈しみなる、世界と私が知見された実相の価値なる、願心自体が大事なんです。

 もちろん、それ以外のことは、実現への努力もしますし、変革し続けますけれども、間に合わぬまま流転していくであろう。
 けれども、願心に於いて初めから勝利者として成就されていく。ただ本願のみぞ、まことにておはします。

 どうしてもこれも観念的ですし、浄と言う純粋にほとけの願わしい部分だけを抽出・選択された浄仏土という理想主義ですけれども、しかも、身も心も依然として底下凡愚の罪びとにして、曠劫来流転にして、出離の縁あること無いままであるけれども、そういうことでしょう。

 この願心が価値であり大事であるから、願心に依って生きるのであって、当然、世間道、弛まざる自己改革と社会改革が大事になって来る。

 自分だけでいいのなら、自己の姿勢も社会の姿勢も、そも、問われて来ない。シャカムニの起座も世間への還相廻向も、それに学ぶことも、無いままだったはずでしょう。

 まあ、人類的公理、願心や理想というものは、これは高邁にして高遠過ぎますと、事務日程に上らなくなるわけです。個人の関心事として捨て去られ、再び顧みられなくなりかねない。
 しかし、せめて棚上げにして頂いて、時々棚からおろして、ほこりを拭って自身を省みることが大事だと思います。

 理想や願心が高いほど、深いほど、徹底して人間を注目して見抜いていればいるほど、身と世を照らす役割が大きくなるのでしょう。
 諸個人や共同体の機の深信と言うのはそういうことです。

 荒れ野の数十年とか、ナチやスターリン時代への反省や克服とか、負の歴史への痛みの表明とか。
 いよいよ自身が解き明かされ、同時に、理想や願心ということが、私の課題として、立ち現れ直してくるし、更には、かかる自身と世界が共に尊い存在として立ち現れ直してくる。

 ともあれ、福を除き災を招く「除福招災」になっている暮らしを改革すべきでもある。三悪道、十悪五逆から解放されるべきである。
 一生懸命頑張ってる。けれども、敵づくりばかり頑張ってるんじゃないの、みたいな?

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 仏自ら称え易い名号となって、ほとけの世界の響きが持つ素晴らしさなり願心を届けにやって来られている。
 大慈大悲なる願心、それ自体自然にして智見であるけれども、その願心に頷き、いただく。

 ところがこの願心了解が疑わしい。古代以来、接近と理解が十全では無く、近代教学も届かない。

 この心、既に浄土に居す、弥勒等同、証道いまさかん、と。
 既に往生人に近いわけでしょう。
 しかし、往けないことになっている。身は適わぬ罪悪深重にして底下の凡愚であって、浄土には悪が無く、通力が備わる。
 この状態を脱するモメントが浄土の教相宇宙の中に欠けている。

 一言で申しますと、そう感じますから、展開とか再構成を試みているわけでございます。

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 サンガや寺、寺族は如来菩薩道であるから社会的で共同性で共なる世界で全人民の世界であり、共同体であるけれども、共同体と申しますのも、考えてみますと、変化し続ける。

 家族とか行政単位とか国家とか党とか我が身とか、色々あるけれども、いずれも当て所なく寄る辺なき世界である。

 娑婆のものは全部失われて滅んでゆくに過ぎないばかりか、加えて、自我から出発した見解では、人類の公理として選択されるような素晴らしい質を持たないことが大半なんです。むしろ選択すべきではない世界を選びがちである。

 もちろん寺もサンガも宗教も変化は避け難いけれども、ただ一つ、人類の公理、真実の共同体に帰属すべきであって、これは公理的に当分の間、揺らがない世界なんでしょう。
 失われても大事なんでしょう?

 ただ、大事に出来るのか、しているのか?一大事、価値を理解できれば、大事に出来ないことも鮮明乍ら、何とか大事にしたい、ということになる。

 ですから、人類的公理とも呼べる、尊び合え認め合える世界への信頼、限りなき灼熱の慈しみを、ひとたび手にしたなら、その即の時から、娑婆世間が世間道として立ち現れ直してくる。主体が自分では無く大慈大悲になったとき、自分の狭い料簡から解放される。

 そういうカナメの部分が人類的公理を学ぶことであり、再び世界を見直して真実と結びつけようとすることである。
 人間として宗とすべき事柄である。

 アメリカで白人至上主義が問題になりましたが、言論や思想や集会や結社、信条と宗教は自由、何でも自由ですが、ただ一つ、限りなき灼熱の慈しみなる人類的公理に逸れてはならない。
 風刺も、スピーチや運動も、差別し、排外し、侮蔑的で、人権条項に抵触するような質は認められません。
 それは、尊び合えず、認め合えない、三悪道の典型なんです。

「限界」の見直しと幸ある世界との結合

 「生も死も限界ではないですね?自然に過ぎません。」

 お通夜でしたか、還骨・灰葬のときでしたか、ご挨拶と亡くなられた方へのお礼の気持ちを込めながらお話しいたして居りました際、ポロンと口から言葉が出ました。
 限界状況を言い続けて参ったわけですけど、逆の言葉を喋ったことになっちゃう。

 シャカムニの事績たる四(死)門出遊といい、老・病・死などが限界状況といわれ、限界と言われているけれども、一方では主体の価値ということに着目した諸個人の尊重に繋がる思想的生成がみられましょう。

 けれども他方、自我から出発する認識に基礎を置く個人的な狭さが、自然性を限界として感じて往き、絶対観的な固定我から出発してゆく先窄まりの閉鎖認識を招いてきたのでしょう。

 多少観念的ではあるけれども、視点の転換により、これらの自然性を限界と受け止める意識に拘泥されること無く、諸個人と言わず、生きとし生けるいのちの尊重と認め合いという価値の世界から、無量寿が開かれましょう。

 真宗大学(大谷大学)初代学長清沢先生は、「生のみが我らに非ず。死もまた我らなり」と仰り、蓮如様は「朝には紅顔あって、夕べには白骨となれる身なり」と仰いました。

 このお言葉を、死を限界状況として見据えていく、という視点ではなく、何時でも何処でも誰にでも訪れる自然のこと、として受け止め、避けるでなく立ち向かうでなく、死は自然であって限界ではない、限りなきいのちの世界を賜った、という価値に生きる私こそ、出会うべき私では、ありませんか?

 死と死後はほとけに任せておけば宜しい。むしろ出遇うべきは、限界と拘泥を招いてきた絶対的な固定我、アートマンからの解脱なのでしょう。

 自然も限界にしてしまう私が居る。
 眉間に縦じわが寄っている。

「仏法を本当に聞くようになると眉間の縦じわが横じわになる。」
 (2016年度教区法語ポスターの曽我量深さんのお言葉)

 私から始まる個の世界、絶対観・固定我の世界は、何でも限界だらけになり、すくいが無くなるに決まってるんです。先窄まりで昏い。
 アートやスポーツ、仕事、人間関係、何でも自然にして大事ながら、私から出発するとき、闇と光の世界です。光もある。けれども、日月光は昏く、ひとときである。
対して本願自然は輝いている。澄み切って、喜びに満ち、智慧に輝き、不断に自然に、障碍がなく、比類なく、限りなく、と。

赦し

 本願自然は輝いており、差別がない。
 赦しということとか、たすかりということに少しふれましたが、

 罪悪深重
 底下凡愚つみびと
 石・瓦・礫の如くなる我ら
 黎庶、庶類
 屠沽の下類

 これらは一面、三悪道にして顧みられざる存在である我ら、の自覚かも知れません。
 究極は誰でもそのまま受け止めるほかないけれども、何が人間を粗末にさせ、人間の何を粗末にしていくのか?

 懺悔、回心。私は殺した、恥じることも無く、悲しみも憶えず、懺悔も無い。この世の悪事と残虐を尽くした、と。
 二度と大切な人々と自身の人生の人間性を失い、失わせた苦しみと悲しみを繰り返しません、と。

 しかし、蛮勇を誇り、脱するモメントを失わせるもの、それもまた自然性なんだろう。だとすると、かかる自然性に拝跪するのではなく、他力自然の願心を主として世界に身を置くに過ぎない。

 しかし、時には思想や観念やドグマが、法脈が蛮勇性や闘争性や利己主義・利用主義などを倍加していく。大体人類にとって、勇ましいことが善であり、武力や侵略が善だったんです。退転するな、退転するな、と、よくよく心してかからなくてはならんのでしょう。

 究極は、宗教も不問にそのまま受け、受けられるほかない。往生礼讃ではないが、無始の過去より過ちを繰り返す身から、願心の中に生まれて、解かれる。自障障他、自害害他を戒めながらも、脱し難い我が身の悪きをも振り捨てて、この道を往け、と。

 避け難い非和解的・非妥協的矛盾や裁きとはいえ、また、やむを得ない法的制限の一元性とはいえ、箸の上げ下ろしから障子の桟の汚れまで、重箱の隅を爪楊枝の先でほじくり返すように、何一つ許してはならぬ。
 しかしながら同時に、緩和されるべきですし、赦さぬままに受けていかんならんし、赦されんままに受けて貰わんならん。寛大ということ、父母ということに学んで。

 言うことなんか誰も聞かん。だからといって、権力者は強制力で臨むのではなく、合意と最低限の強制力と刑罰の緩和に心がけるべきだと思います。誤りや不十分が付き物ですので尚更に。ディアレクティクも、矛盾双方が活かし合う道を孕んで理解され得るのでしょう。

 仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり(道元)。我が身の悪しきをも顧みず(蓮如)。

 そんな都合の好い教えが何処にある?
 今現にまします。

 ちなみに、地獄の閻魔さんや獄卒は拷問と殺害を加える役務であるが、不問に付されている。これも、おかしいんです。大罪人として捉え返されるべきでしょうね。

裁き

 法脈・能脈・血脈等に関係しまして、裁きということがある。

 所謂、法的強制力とか、査問、マルサ、人民裁判などです。

 マルクスによれば、全ては論駁されるから、結局は全部が有罪、粛清、死刑や流刑などとなるわけでしょう。書記長にして大元帥でもあったが、査問委員会の陰の委員長みたいな役割を持ったスターリンの事績から多くが学ばれる必要がありましょう。
 その内に考えてみますが、「政治性」ということのほかに、「政治判断」と言う危うい世界も、俎上に載せられる必要があると思います。

 能脈や血脈ではなく、正しい法脈でないといけないわけですが、これが意外と難しい。

 そう、法脈こそ、さらなる犯罪的な裁きをもたらし、加えて、魔女狩りなどの冤罪までもたらし続けて来たのでは、ありませんか?

たすかり

 先日あるお宅にお参りに伺いましたら、生まれてすぐ亡くなった場合、たすかるのか?という面倒なことを尋ねられまして、即答いたしかねるわけでございます、問う側も問われる側も、たすかって欲しい願いがありますから。大事なポイントです。

 これは無縁、無記ですから、たすかるたすからんが無い。たすからんことに気付くいとまもない。生きる人に往生の授記がある。
 亡くなられた方、これから生まれられる方について、シャカムニも多少触れられたかも知れないけれども、インドー地中海地域の当時の習俗宗教に沿ったものに過ぎない。
 しかし仏性はあり、開発され得る。それが受け難き人身です。生きている間に、ということでしょう。

 まあこれ、たすかるということは、存命中における主体の頷きでして、大慈大悲が私の主体と成っていることである。如来菩薩道であり、共なる世界である。

 今生きんとする私が、解き放たれて、和らかに軽々と輝いて幸ある世界に生まれる。
 あなかしこ、あなかしこ、といただくことの出来る価値ある世界。ニルバーナ、往生安楽国の世界です。

 生きんとするところに開かれてくる無量寿の世界ですから、たれのひとも後生の一大事をこころにかけて、仏法のことは急げ、急げ、と仰るわけです。

 私は確かに生きているけれども、何を生きているのか、その結果、どうあるのか。生存には自我や欲や思いも大事だけれども、思いに生きていて、果たして本当に生きている、と言えるのか。
 今、生を賜っている者が、いずれの生においてかこの身を度するのか。今生に於いて度するのほか無いのでしょう。

 長年生きて居られる優秀な方でも、いや、優秀であるほど、たすからんことに気付かない深い闇にありますと、自分への問いも疑問も出難いわけで、往生の授記を受け難いのでしょう。いや、いろいろ問われるのでしょうけれども、自我から出発いたしますと、自己とは何ぞや、という問いも、異なった位相での問いと疑問になっちゃうように思います。

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 久しぶりに一心寺さんの手伝いに伺い、哲ちゃんと飲んだんスけど、相変わらずの酒豪ぶりで(このまま付き合ってると死ぬ)思いまして、早々に引き上げました。

 お引き上げの時期となりました。まだまだ暑い日が続いておりますが、皆さま、お元気にてお過ごしください。
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無戒からー17.2.1

 先の水害にお見舞い申し上げ、被災者の方々にお見舞い申し上げます。

 なお、梅雨らしい天候が続いており、法務に雑務に畑などでバタバタとした毎日が終わって参ります。

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 さて、またアジャセの父王は古代の封建領主として、領民を所有物のように考えていく。三悪道を地で行く、限り無くたすからなくなっていく姿なんです。
 これは「これ栴陀羅なり。」の部分と同様、大変差別的な姿勢でもあるのでしょう。

 何より、大パリニッバーナ経冒頭のアジャセの侵略相談ではないが、多くの勢力が釈迦の制止、抑止を聞かなかったため、長く争奪と戦乱が続いた。

 さて、観経に於かれましては、回心、懺悔ということがある。やはり三悪趣の地獄・餓鬼・畜生が言われ、48願も明記されてあるから、かなり新しい経であるとされています。

 五悪段、五悪趣ということも取り上げられており、特に宗祖に於かれてはお正信偈で五悪趣を取り上げられたから、意義深く思われるわけです。

 それと、人柄や資質は世間道でも重要であるし、評価ポイントであるけれども、たすからん者になった韋提希やアングリマーラといえども、以前『往生礼讃』などでみてまいりました「三品の懺悔するひと」も、その人柄や資質はほとんど無視され、たすけることだけがシャカムニのテーマになっていることは極めて重要なポイントである。

 すなわち、たすかったあとは人柄も生まれ変わるということが期されているといえよう。
 たすかると、慈悲ある人として、さあ、人柄も変わるであろう、少なくとも機の深信を持ち、緩和された人柄となろう。
 ただ、はじめから人柄や資質でたすかるというのは、これはどうしても限界があるであろう。万行諸善や自力作善の気配も感ぜられるわけでしょう。

 智の饗宴、智慧は教主のカーマ、資質であろうけれども、やはり祖師方が見つけられた「私」なるものは、それぞれなれども、慈悲自然であったわけです。菩提慈悲という自然。
 
 これは偏依善導という法然、善導、親鸞の各師に特長的で、お正信偈でも特長的なんです。応報大悲弘誓恩・・・矜哀定散与逆悪・・・大悲無倦常照我・・・憐愍善悪凡夫人・・・拯済無辺極濁悪、と。

 そういたしますと、一切衆生悉有仏性というときの仏性は、これは慈悲自然であろう、と。親子にも温かな時と関係がある。

 ただ、それを智慧で以て教示し、普く伝えるところ、グローバルな世界大の菩薩道=世間道というところに、如来ブッダが位置付けられましょう。

無戒からー17.2

 ちなみに、『現代の聖典』として『観経序文の問題点』を取り上げるようになった経緯は公式には全然違っていたわけでしょうし、現在行われております推進員(同朋の会推進員)養成講座においても、あまり観経にこだわらずに研修が進められているケースもあるかもしれません。

 ただ、いずれにいたしましても、現代でもなお解決されていない多くの事柄を内包しているようにみえます。

 以前取り上げました大パリニッバーナ経でみましたように、アジャセにとってシャカムニは軍師や占術師みたいに、侵略の相談をするわけで、およそブッダに対して相談する質とは考えにくい感を持つわけです。

 この占術と軍略の相談は、阿弥陀経と羅什を巡る部分でもふれましたが、科学に通じているほか人間観や社会観に通じていると、自ずと相談者にされていく構造があるようです。

 スッタニパータ、アングリマーラ尊者を巡るお話しなど、初期経典類の中にも見られる呪術、占い師、仙人、生贄等々、大変カルト的なこと、吉凶禍福に惑う我々の姿があると言えましょう。

 そういたしますと、アジャセ王の両親と占い師、子どもに生まれ変わってもらうべく殺された仙人の恨みなど、果てしない閉塞の世界、流転三界が続けられていくこの王舎城の物語(東本願寺刊『現代の聖典』p78参照)をもう一遍しっかり見直しておくことは、現代に於いてもなお、意義深いと思われます。

 また、シャカムニの運動について、個人の資質や能力をあまり重視しないと言いましたが、「人は生まれによってバラモンとなるのではなく、行いによってバラモンともなり、そうでないものともなる。」と仰っているから、個人の人格や資質や能力を重視する点もみられることは、やや偏向していた、と訂正した方が好いでしょう。

 ことに人柄は重視されたと思われるので、能脈の重視も所々みられることは、万民の済度という観点からいたしますと、ある程度問題視されなくてはなりません。
 まあ・・・世間では大事なことですけどね、ものすごく。また個人的にも私ら、あんまりえげつないパーソナリティーとは、ようお付き合いせんわけですから、大事は大事で、評価しなくてはいけないけれども、差別や排除はもちろんいけませんし、宿業という経歴も重く受け止めていくことが、少なくとも要請されていく。ほとけの世界、お浄土って、そういうはたらきを私にもたらすんでしょう?

無戒からー17

 和田自治会の米山祭というのがありまして、うしろの山に登って懇親会を行うんですけど、ゆっくり目で30分ほど登らんといかん。

 しかしお陰様でいつになくクリアな景色が見れました。ところどころ立ち木で視界が遮られますが、直峰城址・菱ヶ岳はもちろん、黒姫・戸隠・妙高・火打・焼山がクッキリ見え、浜筋に目を移しますと、山々の間に日本海が浮かびます。

 境内では畑に対する竹の侵略が著しく、ええいっ、いっそのこと竹林にしてまえええっ、って感じで、負けたい誘惑にかられるんスけど、何とか竹またじも終わり。

 畑では、昨晩秋に播種した菜っ葉、ちびたトウナをちょっとだけ収穫したり、立派なのを少しいただけ、たすかりましたが、4月中旬にプランターに植えたサラダホウレン草卵とじやサラダ小松菜お浸し、少しだけ収穫出来て食べました。いずれも柔らかめで軽い味わいが美味い。
 
 4月末頃~畑に播種した小松菜は無農薬の内に早くも収穫しましたが、ほんの十日ばかりの間に穴だらけで青虫だらけになっちゃいましたので、残りの菜っ葉に除虫スプレー吹き付けましたが、これだけ増えてると効果薄でしょうね。小松菜と青梗菜はこの辺ではこの時期、好いみたいです。

 しかし、畑のほうれん草はさっぱりです。レタスと同じく適温範囲が狭いみたいですね。サンチュとかサニーレタスはまだマシなんですけど・・・。

 春からの作物に関しましては寒さと炎暑と降雨が次々と襲い、順調というには余りにも変化が多いように感じる年ですし、そして人々の様子も自身の心の動きも激流のままですし、世界も戦場のようなままですが・・・にも関わらず、ニルバーナのように吹き消された穏やかな時間が進む6月だな、と感じています。

 どうも、今年の6月はニルバーナである。予て予感されたような、静かな時間。ニルバーナ、涅槃の城や解脱も、如来や還相と同様、従来イメージされていたものとは違っていたこと、活気あり明るく友である世界が愈々明らかになって来たと思いますが、たまには安らいでいる時間も大事なんでしょう。

 6月と言えばウイッシュですか、情愛に溢れた「6月の子守歌」って歌がありましたけど。好い歌ですね。この上なく。

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 さて、関係性、認め合える世界で大事な点は、話を聞いてもらえること。認めてもらうこと、人間関係の確保を意味します。

 けれどもここにもカルトの落とし穴があり、閉塞もカルトだが、禁制や束縛や閉塞や情報制限やそれに連なる関係性の制限もカルトに繋がるんです。

 話を聞いてもらえても、解決につながる保障はありません。
 結局、大変であっても、自ら前に出ること、開発されてゆくこと、他者の為になる活動に身を投じていくこと、みずから話しかけることが一番です。

 まあこれは、我々の自然な弱さや、純朴で自然な罪悪感や、素直な心に訴えかけて、罪悪心と問題に封じ込め、情報制限していくことで、いよいよ狭い世界に縛られる。

 自身の本来の願い、限りなき灼熱の慈しみ、尊び合え、認め合え、友である世界、他者をみそなわすこと自己の如くする仏性みたいなもんをスポイルされ続けていく、何らかの権力に支配される構造と言えましょう。
 焚書(ふんしょ)みたいなこともカルトに該当すると言えます。
 
 ですからカルトは必ず個をスポイルし、全体の為に犠牲となることを要請したリ、逆に個の利益の為に他を犠牲にする行為に繋がっていく。
 浄土門でもそうですけれども、宗教的仮面を被っている場合、内部循環、輪廻するだけで、脱却の機縁が失われていることが少なくありません。

 こうだ、と言われますと、それが事実の一面を言い当てている場合、束縛のカーマとして有効になってしまう。

 例えば、女性というものは五障三従(ごしょうさんしょう)だ、と言われると、女性がそうだ、と思うようになる。
 今でこそ、おかしいと言える健全さが女性に備わるようになってきたが、普通の人、まともな人は皆そう思わせられて来たんでしょう。

 普通の自己認識を考えてみますと、どういうものかと申しますと、自分は不十分である、弱いところがある、欠点がある、まだまだである、不安定である、向上したい、と。全部ではありません、自信もお持ちでしょうけれども、まともであればあるほど、そう思っておられる面もお持ちのはずです。
 ですから、男にも共通する事柄であるにも関わらず、まともであるほど、多くの女性がそう思わされ、変成男子を願う人さえあることになる。

 そして、一段低いところに置かれることで文化も異なっていくし、男に期待される役割まで強要されてしまう、みたいな。まあ、そこで見えて来る事柄も独特の文化と言えましょうが、幾分奴隷根性も含むこともあるでしょうから、いのちの水平、フラットだけを抽出すべきと思っています。

 このことは男文化も変えて、一段上であるから、封建時代の社会的身分や現代の地位で言えば、実際はかなり下だけれども、鎮めとして機能していったりするんでしょうね。

 実際には、こうでもあるし、例外もあるし、疑問の余地もあるし、更なる思想的な深化がある。けれども、容易には既成となった観念の呪縛から脱しない。
 自ら偏狭世界の輪廻転生を受容している状態。これが真宗でも起こって来たんです。

 ですからまた当然、自明で固定的で絶対的な世界を強要する。既に自由に自分のアタマでものを考えることが奪われている。自明化と固定化と絶対化は、カルトなんです。束縛と制限をもたらす。地動説が生まれ難いわけです。

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 故鶴見さんの講義テーマ「私は殺した」。これは確か企画室に居たときに開かれたんですけど、宗務所内対象だったんでしたっけ?忘れちゃいましたけど、私の感覚からするとどうしても、教相判釈が自明化されたところで色々事業が進んでいることに疑問が湧いて来るんですけど、湧いてきてもですね、誰か専門家がやるんだろう、と。
 今でさえ、半分くらいそう思ってるんですけど、この自主ゼミでも問題点をいくつかまとめましたし、少なからぬ先生方に於かれても漸くおまとめ頂いていることと存じます。道と往生の現実が先にあって、それをどうまとめるのか、お釈迦さん以来続けられて来た教判の作業が滞りがちかも知れません。

 重いテーマなので、(こっ、殺してまえっ!)みたいなヤワ・カル・明るいもんが、軽々に取り扱うと叱られそうですけど、私たちを明かす、大事なテーマだったのではないか、そう思われて参ることでございます。
 赦されずには済まない、赦さずにはおかない、そうした思いを深くしながらも、解答は出しません。いくつか思われることをしたためておきますけど、皆さんに問いかけ続けておきたいと思います。

 罪と罰、非武装・非暴力、反戦・不戦・反軍、教誨と保護の課題としても重要なテーマと申せましょう。

 そして同時に、箸の上げ下ろしもいけない徹底した裁きの世界、罪悪深重の底下の凡愚という末通りたる裁きの願心が同時に、限りなき灼熱の慈しみに満ちた好き世界として、善悪の二つ総じて以って存知せず、善悪の字知り顔はおおそらごとのかたち、さるべき業縁の催さば如何なる振る舞いをもすべし(するだろう)と、もとのいのちへと帰せしめて止まないんでしょう。

 宗義を例に取りましても、法脈を血脈と呼ぶことになっているけれども、誤魔化し無く言えば、やはり、血脈と法脈のほかに、能脈ということまであるわけです。
 世間では能脈がかなり重視されるし、生活の物質的基盤、生産力にしましても、考え方や精神的支えにしましても、どうしても能力を重視せざるを得ないと思われます。

 これが曲者(くせもん)で、仏教的には、ブッダは個人の資質や能力をあまり重視しておられないんでしょう?
 むしろ無知の知、内面性を重視される。
 けれども、能力によっても、まあこれは前に言いましたけど、初期経典でも、学びによっても修行によっても三昧によっても、容易にニルバーナには達していかない、と。

 能脈の内で、能わった「人柄」についてはふれられないし、推奨される質を孕むけれども、私としては人柄差別も拒否したいですね。さまざまのいわれあって、環境と宿業あって、その人その人の人柄が出現したんです。
 更に申しますと、思想・宗教も、さまざまのいわれあって、環境と宿業あって、その人その人に付着したものである。
 能力も資質も人柄も、重要なことは言うまでもありませんが、そんな偉いコとちゃーう場合、どないしまんの?って。

 この、ニルバーナ、涅槃の城というカテゴリーも、還相と同じく、現代人に普通思われてきたようなものとは、実はかなり違っていたように感じるんです。

 それはともかく、血脈よりも法脈であるけれども、実は能脈が主要になっていて、様々の差別と結び付けられることが多い。
 実際は諸分野における能力差はあるし、特にそれを以って差別する必要は無いわけですが、差別意識と結びつきやすい。

 こうした傾向は血脈にもあるんですけど、血脈の場合、無能でも無力でも構わんというところに好い面があるんでしょうけど、ところがやはり同じく、血脈を誇り、排他しようとする差別と結びつきやすいので、どうしようもないものがある。

 法脈は差別を排するんです。正しい思想と言うなら、必ず矛盾があり、異なれるが生まれ続き、それが良好な関係の内に、更に、スパイラル状にかどうかはともかく、ステップアップした質へと変化し続けることが、社会や人間の在り方としても好もしいのでしょう。

 善悪の二つ、総じて以って存知せず。
 やはりこの無差別、如来は無相を以って相とする世界の、限りないニルバーナ、限りない灼熱の慈しみということが思われてなりません。

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 ご免なさいね、ひねくれたスネもの感覚でみちゃいますと、『観経』というのは、宮中や御法主対策としての、そして擬似カストたる大坊工作としての、同時に門徒の日暮しや意識に訴えかける、有用性があったのではないか。『現代の聖典』として観経が選択されていったのにはそういう面が無かったか、と思います。
 現代人のセンスで申しますと、半ばカルト的に御家(おいえ)大事に縛り付ける要素もあったかもしれませんね。

 観経序分の主題は仙人を殺した、そして更に子を殺そうとした、その子阿闍世がそのことを知り、親を幽閉した。そして親がどうにもならなくなって、たすけを求める。そうした王舎城の悲劇にあるのでしょう。

 私は殺した、と。

 親が親になれん、子が子になれん、そういう世界なんです。実際に殺さなくても、事実上殺しているのと同じである。疑いもなく尊び合えず、認め合えない三悪趣の世界の一つ。

 けれども仏道には、親も子も無いと思うんです。他者をみそなわすこと自己の如くす、なんでしょう?性別も色の違いも国籍も所属も無く、無差別である。
 有縁は大事だけれども、しかし何故家族なのか?家族と言うパラダイムでものを言う時代じゃ無いはずでしょう、無差別なんだから。

 ただ一点、性という自然がある。そして子ども大事という、これまた自然の情愛がある。家族の礎は性、これはどうもならんのでしょう。シャカムニが無視し、欲望として切り捨てたポイントで、まともに取り組みますと人類が絶滅してしまうわけです。

 まあ、お家騒動はこれに限らず、教団も、僧・俗とも、神々以上に争うわけで、阿闍世といわず提婆といわず、近親者が血道をあげて覇権を競うわけで、それ自体が課題として受け止められるべきなんでしょうけれども・・・。

 また、栴陀羅(チャンダーラ)という、身分差別と差別意識の活用がある。

 そして、これが一番大事なんですけど、赦しと言うことが奈辺に於いて成立して来るのか、そうしたことが描かれていくんです。

 何宿何罪と、自身の罪業もかなぐり捨てて、韋提希が五体投地される。
 それに対してシャカムニは道を示され、官女500と共に韋提希に往生を授記(預言)される。ええいっ、地獄に落ちやがれ、悪党どもめ、ではないんですね。

 この罪悪深重の底下の凡愚に対して、ことに慈愛を以って着目されたのが導師なんでしょう。往生の正機、ということがあるんです。
 ですから私の往くべき道のモチーフとして、「現代の聖典」に、なお、相応しい資料であると思います。
 偏に、往生の道を問い、聞き開かんが為に、各々十余箇国の境を超えて、身命を顧みず、ですね、身を運ばれる。

 世間でも、原発を推進、誘致して、私は殺した、と。いろんな企業もまた、政権も又、事業の為に、私は殺した、と。枚挙にいとまが無い。
 カーマの重さ、悪業の罪悪の深重に驚くわけでしょう?かかる方々には、裁きもありましょうけれども、責めよりも、赦しが必要ではないか、そうも思われて参ります。

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 教団というのも、一つの体制であり会社ではないが法人であるけれども、私はおとなしくて物静かではあるが、いろいろ勉強したいけれども雑務で時間が取れないと思っていましたし、事務も、間(ま)は悪いし、手順も怪しいから、姿勢に於いて既に間違っていたのかもしれません。

 事業所や現場で目が死んでたり、空気が澱んでるのは宜しくない。
 けれども、世界中至る処で、たまにありますよね。暗澹たる空気や諦念が支配してたり、殺伐としてたり、ピーンと空気が張り詰めてたり、殺気立ってたり。そういう雰囲気よりは、個人の置かれた状態はマシかもしれません。
 社会経験は乏しい方ですけど、それでもいろんな場で、いろんな空気がありました。

 同時に教団は運動体でもある以上、保守業務や管理業務もやらんならんけれども、やる気が出るかどうかというと、疑問かも知れません。といって、社会運動にもコミットすることがあるとはいえ、そればっかりやるのもおかしいように感じますし、やはり個人生活でも社会生活でも、法に照らしながら取り組み続けることが望ましいんでしょう?教団内紛争でそれどころじゃ無かったけれども。

 教団内に教相展開とか社会的接点が動いていかないことには、停滞から低迷へ、低迷から閉塞へ、となっていくに決まってるんです。
 ポストとか賃金とか懇志等の増大ばかりではない、やはりちゃんとした教相展開の時間と世間的なコンタクトが持てないことには、在家教団とも言えない。そも、説法獅子吼し実践する世間道を重んじるのが仏教ですから、仏教的ではないんでしょう。

 存在意義が希薄化していく。現代では宗教には求心力が失われている以上、出ていく方が重要でしょうし、異なれる、との関係性の確保こそが活性化をもたらすけれども、内部で終始していくわけですから、不毛。

 しかも、以前はあまりそうは思っていなかったわけですけど、じっくり取り組んでみますと、教相も怪しく、ホールだらけだらけだったことが判明したわけで、むしろ仏教や人間生活の妨げになっている面さえ感じられる。
 時代に応じて発展もありましょうから、果たして可能なのかどうか、より包括的で鳥瞰的な見地から再構成することが願われている、と思うわけです。

 まあ、あまり煩いことは言わないことにしました。我が身と考え方と姿勢を主な原因として考え、取り組むことが大事。
 より一層、明るくオープンに前に進むことにいたしましたが、教団人は相互にそのように約束すべきだと思われて参りました。宗政機構ではあまりお目にかかったことが無い姿勢ですけど・・・。住職も宗会議員も宗務職員も健康的と申しますか、健全だから、現状には批判的だったり、アカン、となる。

 何か門徒さんの為、人民の為と言うか、人の為になっているのかどうか、また門徒さんの暮らしは経済的にどうか、また門徒と言っても人によって温度差があるでしょうし、選択は各々のおんはからいです。

 ですから、いずれも壁になって居り、誠にお勧めし辛いんですけど、やはり門徒さん各人の為になるとすれば、寄っていただいて好き教えに遇って貰わんことにはいかんのです。

 門徒の門徒による門徒の為の教団や寺や僧侶であれば好いと思いますし、また、同朋会や同朋会の推進員さんに願われておりますのも、説法と運営と組織を担っていただくことだろうと思います。法話をやっていただき、法礼も受けていただく。寺も設けていただき、意欲のある方には住職もやっていただく。

 住職・寺族というのは留守職に過ぎないので、留守居をさせていただきながら、それぞれの持てる範囲で好き世界をお伝えする。それも十分には出来ずに居ると思います。
 よく住職・寺族が頑張らんとアカンと言われますが、それはそれで当然ですけど、頑張ったってアカンので、門徒の為にならんとアカンし、門徒団が運営しないといけない。
 しかし、ウチらは小規模寺院ですから、住職・寺族もメシ食うことが難しいうえ、寺から出ても、おら、行くとこ無い、ってことで、門徒運営の余地が無いということになりがちで、ますます望ましくなく、恐縮です。

 聞法は寺族も門徒もありません。

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 平和と言わず繁栄と言わず、友好こそが全ての礎、ということで、全ての人権条項を遵守する国際交流と国際的友好の為の「アムネスティ・インターナショナル」の先生をお招きして公開講座が開かれます。詳細はサイドコラムを参照願います。

 日頃はむしろ逆で、全ての人権条項の遵守ならぬ、差別やパワーポリシーなどによる国際紛争の火種を、私たちの心と暮らしがもたらしているわけで、出席できない方もインターネットで検索して知っていただければと存じます。

 戸次さんが法蔵館から『意訳無量寿経』を出されました。大経みたいな面倒なもんに取り組まはって・・・って感じですけど、取り急ぎ、お知らせだけいたします。
 「淳一のスペース」でやや年配者向け過去ログみたいなもんを取り上げたおかげで遅れてまして、すいません。

無戒からー16

 スフィンクスの質問ではありませんが、子どもの頃は手足でハイハイし、長じて二足歩行になって、年を取ったり足を痛めて杖を突いたり、自己の身体の激変の中で、何の根拠もない幻想や妄想だけを頼りに、当て所なく寄る辺ない生涯を耐える・・・。

 そんな、怖いくらい心もとない人生ですけど、頭頂の肉髻(にっけい)については確か『宗教を現代に問う』(毎日新聞社)シリーズで東大宗教クラブの方が宗教体験の実験結果としてふれて居られたと思いますけど、宗教漬けで頭頂は盛り上がるし、年取りますと皆そうなるのかどうか分りませんけど、喋っちょになって唇も薄くなりましたし、気のせいか、鼻の下も長くなったみたいです。
 サナギが蝶になるように、変態・・・みたいな?

 先日も、あるお寺の報恩講の法話に呼ばれまして、どーでもえー話なら喋りますけど、遠慮なく何時でも断ってください、と言ってたんスけど、とうとう喋らされるハメになりました。
 二時間も喋らんといかんのです。それも祖徳讃嘆的に。そんなに喋ることあるの?っつ感じやったんスけど、時間不足で十分説明できずに時間切れになり、更には、終了後の懇親会でも、これは世俗的な話を喋りっ放しで、恐縮でした。

 ただ、私見では、「世俗の君子幸臨し 勅して浄土のゆゑをとふ 十方仏国浄土なり なにによりてか西にある 鸞師こたへてのたまはく わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」(親鸞聖人『高僧和讃』曇鸞讃)とございますとおり、このみ教えに因らばこそ、末法滅法時代にも、念力が備わる。

 念力は願心の力、はたらきであり、願力ということですが、やはり、どこどこまでも汎ゆる人々の為に、尊び合え、認め合える、人間関係成就の世界に往かねば、ということなんでしょう。アミタによるかかる世界の建立と、その世界を廻向される願心がカギになりそうです。

 何故浄土門に居るのか、こう天子に問われますと、曇鸞菩薩は、末代の凡夫にも念力が及ぶ、ということをお示しなんでしょう。
 ハッキリしてるんです。聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛ん、と。
 末法滅法さえも遠く隔たったような現代でも、「特留此経 止終百歳」と漢訳者のどなたかが経中に表白されたとおり、効能がある。薬効があるんです。

 もちろん鸞師は洞察力がおありですから、「本師曇鸞和尚は 菩提流支のをしへにて 仙経ながくやきすてて 浄土にふかく帰せしめき」と親鸞聖人がうたわれましたように、一目で真実の道を見抜かれ、衆生に代わって進まれたのでしょうけれども、底下凡愚の罪びとにこそ、はかりしれない功徳を成就せしめる。

 ただし、実は別に浄土門に限ったことではありません。
 菩提に添うなら、必ず認め合え尊び合える世界が示されるはずですし、事実、大概の経典にはそうした記載があるんでしょう。・・・要するに、全ての教団人がこうした姿勢と行いを軽視している、軽視し続けて来た、ということなんでしょう。

 なお、最近の教学は唯物論以上に劣化してますから、岩仏辞典みましても、肉髻について、頭頂の珠髪(法螺貝みたいに結い上げた髪)を肉が盛り上がったように見間違ったのであろう、などと間違った説明を平気でやるようになりましたけど。

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 大分以前に鶴見俊輔さんが招かれて宗務所で講演を主催していました。お話を聞かせて頂きました。

 テーマは「私は殺した」。

 (このテーマは乱暴だな・・・)と感じたんですけど、ウィキで鶴見さんの略歴を拝見いたしますと、激流そのもののインテリ・ライフみたいで、今一つ疎かったんスけど『思想の科学』とか「べ平連」とかに与しておられ、晩年には日共支持に廻られたみたいです。部落解放理論における差別的スタンスが日共さんの問題点だったわけで気になるポイントだったんスけど、今はどうなんでしょうか・・・。
 
 ともあれ、好いテーマですので、もう使わしてもらってますけど、更に考察を進めたい。

 やや潔癖症になるかも知れませんが、非武装だろうと平和的だろうと非暴力だろうと、私は殺した、と。
 非暴力だが、言葉の差別的暴力や差別的視線、いや、そればかりではなく、様々の制度や事業推進で、人間も人間性も殺した。血肉の身体だけでない、魂みたいなもんも殺したに違いない。兵戈無用と反対はしたけれども、軍や警察など暴力機構を無くせなかった以上、間接的にも殺した。そんな意図は無かったけれども、ミスや車の事故で、殺した。それが近代以降なんでしょう。
 どうしようもない私。

 ましてや、軍事と武装とか、戦闘ともなりますと、尚更、どうしようもない。
 なお(まだ)武装が止むを得ないとしても、兵戈は用いること無いに越したことは無い。

 戦争はもちろん古代からあるけれども、近代以降に於いては、人間性自体が歪んでいくのが普通で自然だという状態が、繰り返し作られた、と思います。意図的であろうとなかろうと。

 鶴見さんのお話自体は捕虜なのか囚人なのか、アメリカでの拘束ライフしか覚えてませんが、反戦・非戦・不戦という根底に立ち切ったスタンスを評価し尊重したいと思っています。いろいろ批判があっても、そこだけは澄み切っていてクリアです。

 非武装・非暴力、罪と罰、赦し。
 さるべき業縁のもよおさば如何なる振る舞いをもすべし。

 次回以降に続けます。
 全部受ける、ということは、全部赦されないし赦さない我々ですけれども、同時に、全部受けていく我々でもある、と。
 三条教区で前にお聞きした法話で、足払いを食わせる間違った喩えを仰る方がありましたが、足払いを食わせられるけれども、食わせる方が悪いんですね。この点は空手の先生が突かれ、私に以心伝心されたんスけど、お話しされていた講師は柔道部出身らしいんです。
 ともあれ、私もこの課題に取り組みますが、皆さんにも、このせみなりおからの宿題として問いかけます。

 (いや、私はこの世界に留まろう)とダルマーカラが仰ったわけですが、還相の根幹をなすかもしれませんね。

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 外の畑や境内片付けに出てますと時間を忘れ、うっかり大遅刻することがあります。

 9日の夕方から会議があるけれども、畝上げどころか十分耕耘出来ない、しかし何とかせんと、明日は雨だ、明日ありと思う心の仇桜だ、ってことでやってまして、友人が(今4時15分だけど)と心の中に伝えてくれたんで何とか諦めたんですけど、せんならんことだらけ。

 季節は好い季節なんでしょうけど、今年はこの辺では気温はやや低め、雨も多めで、外仕事や趣味の畑や花々は万事遅れがちとなってしまいました。

 お引上げでも同朋会でも、いろいろ講師をお招きするのを楽しみにしてるんですけど、教判は私のでエス・イスト・グートながら、異見も大事ですし、むしろ、お一人お一人の独自の体験も大事。
 ただ・・・若いもんも大事ですけど、年寄りも大事。早おせな、死なれてまう、みたいな?若い頃の学びのお話しとか、聞かせて頂ければと思います。


再び願心について(続々)

 鉢の桜と境内の桜は25日開花しまして、5月1日満開。

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 若い時分は、宵っ張りの朝寝坊+春眠暁を覚えず、ですから鉛のように体が重くて止め処も無く寝過ごしたんスけど、スッキリしないながらも目覚めが早い。

 快食・快眠・快便でお元気にお過ごしでしょうか。また、個と年代で温度差がありますけど、食欲・排泄欲・睡眠欲・性欲・活動欲等々は妥当な線をキープしておられますか?

 自分の為、自分のことを大事にするべきでしょうけど、それだけでは他者にとっては、まだ、要らない人間のままである。

 ただ・・・単純にこうしたテーゼを立ててみたけれども、もう少しこのことは幅広い視座の中に置いて考察すべきでしょう。
 古典的な過剰適応的な主従関係、原初的で本能的な主従関係ということもテーゼになっているからです。
 人間の個的力の弱さや生産力の低さや自然界の危機や非常事態、後代には他のグループとの争奪戦など、そうした事態の打開には、結束した集まりや指導・被指導が欠かせないかも知れません。
 高度に資本主義が「発達」して「民主化」され、全員がインテリで、ビリー・ザ・キッドみたいな流れ星になった現代人にはなかなか見えにくくなってますけど、太古以来長くそうだったんじゃないでしょうか。

 同時に、民主性といのちの平等性の中で生産性が低くなったり危機対応が出来ないのかと言いますと、そうではありませんね?これからの社会を拓くうえで、重要ポイントです。

 それはさておき、釈尊の事績は人類的解放だから四門出遊も好い感化をもたらすかもしれないが、四門出遊自体、なお、自分の求めるものの追及や自分の解放、っていうテーマがある。自分の為では、ダメなんスネ~、永代。

 起座の還相からしか、なあんもはじまらん。そういったテーマも可能でしょう。

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 四門には他者ということがあり、老・病・死・沙門といった異なれるということがあり、真実相が、求道や成道以前にも関わらず、なおそれとして自身を十全には(と申しましても永代一定程度しか迫れないかもしれませんが)現していない形で、示されている。

 また何よりも、四門の中心に置かれた私という生存形式があるわけでしょう。同時に私の内面の動きが生じる。

 更には、四門を構成するに至った、棄てられることとなった国ですとか、捐てられることとなった王ということがみえるわけです。共同体が設けた壁でもありまして、入と出に於いて、初めて意義をみる存在とも言えましょう。
 表に現れている形式的な事柄を記号みたいに要素的に並べてみただけでも山ほどありました。

 成道以後の見直し、再見ということがあるけれども、それを割り引いても、自然の姿が示されてあるんでしょう。

 しかし同時に、四門出遊は私の出来事という点では、一つの内奥の世界も示すのでしょう。沙門という形で「出」の一門が示されているけれども、なお、私の世界でもある。下手をすれば閉塞しかねない世界でもあるかも知れませんけど。

 生存の老病死はいずれも大過です。
 あるいは親を失い、あるいは子を失い、あるいは友を失い、あるいは仕事を失い、年を取って不自由になり、自身も死んでゆき、しかもその間ずっと生存の様々の苦悩や空しさや悲しさや怖れから自由ではありません。
 そういった水火の大過の中にあっても、しかし、顧みずに振り捨てて、深い情愛をたたえながら、認め合え尊び合えるこの道を往け、そういうことがほとけの世界への往生道として、願心から勧められているのでしょう。
 それ以外にたすからんように感じます。ふつとたすからん。御命日も、信心が開かれて御明日になっていくんです。

 四門の中の沙門ということがあり、沙門に個の救済を見出されたけれども、そうしたことの底に、世間での個の救われ難さみたいなもんがあるでしょうし、内に原因を見出しますならば、どうしても内面に留まりがちになる方が、むしろ自然でもあります。

 にも関わらず、四門という形で、私のモメントが照らされて来ている、向こうから、仏の方より、門が開かれてきている。そうした事象としていただいて参ったわけでしょう。

 ですから、初めから孕まれているのが我々だと思います。自己の世界としての四門ということが、初めから孕まれている。
 同時に、共同性にもあれば、覚りにも近く在る、我々はそういった在り方なんでしょう。これも実は初めから孕まれているんです。

 そして、四門を彷徨う頃には気づき難いけれども、共同性にも近く在る。
 行きっ放しではなくて、還り難い世間に還る、世間道として如来菩薩道を歩む、ということが重要なんです。
 ただ、それはまだ、原因を自己の内に見出し、何かと内面化し易い四門出遊の時点では、表現されて来ないんです。

 さん然と輝ける智慧で縁起の理法が明かされ、それだけでも我々は大変解放される。
 そして更に縁起の共同性、大慈大悲に気づき、起座された還相に於いて、大いなる誕生を見るんでしょう。梵天勧請という形で、縁起世界の全体が促してくるでしょうし、他者の存在から、呼びかけから起座がある、ともみえます。

 ですから起座は、一旦共同体を棄てたんですけれども、改めて人々と共なる仏国土、人間の為になる世界としての浄仏土なる共同体を建立しようとする還相廻向なんでしょう。自己の回復というか、誕生というか、そう申しても宜しいかと思います。

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 先日お参りしておりまして、(心にゆとりが無い)と思われたようですが、せかせかしてくる。元々せっかちなところもあるんで、雪解けで畑と言わず境内の片付けと言わず、やんなくちゃ、って感じで、こせこせ、せかせか、こせこせ、せかせかがひどくなる。

 異香のなかで静かな時間に出遇おうにも、住職も娑婆丸出しで、バタバタしてるし、喋っても書いても、世間話か、政治批判や、理屈っぽい話になり、たまには静かに自身に向き合う時間も大事ですから、これもこれで考えもんだと思いますが、やはり他者をみそなわすこと自己の如くす、までいかんことには、僧俗共、たすからんのが本当だと思います。

 「平和」時の娑婆も戦場みたいなもんですから、静かな時間は甘えた時間とも言えるのかも知れないんですね。「抽象論」と同じで。しかし、自然なる求めだと思います。
 生産力が低い時代には内部で争いつつも、一元的で目的志向の強い結束した集まりが必要だし、非常時や危機に臨めば、やはりそうした形で事態に対応するほかありませんから、如何なる○○主義、イズムであっても、個がスポイルされていくかもしれない。

 ですから、三悪趣批判から見えて参りますのは、万民の為の一人として、一人の為の万民として、尊重し合い、認め合う個の誕生が仏教ですから、全体主義では無いけれども、共同体の中、社会の中で問題を見据え、解決してゆこうと取り組む運動にも、なるんでしょう。

 伝統的な内面批判としての三悪趣理解もありますし、それも大事ですけど、北伝仏教は根暗に感じます。また、問題状況への鎮めというような意味合いもありますから、やはりインド西域における古典仏典当時のサハ―・ワールドの在り方としての三悪趣理解、実際の社会批判、人間と人間関係の在り方批判としてあったのではないかと思います。改めて身に引き据えておくべきだ、と思います。

 自分のすくい言うのんは、自分とは一体何や?自己とは何ぞや、という清沢さんの問いかけがありますが、これは自身を滅ぼし尽した、止滅されアウフヘーベンされた自分であって、自分であるけれども、もはや即自的にも対自的にも自分を克服した自分、みたいな自分が生まれている。

 また、特に思われますのは、教判が不十分かもしれませんが、既に全部我々に先立って開祖と祖師方によって先験的に示されてあるんです。
 追体験も追想も、聞法内容がしっかりしてれば、かなり我々の求道に有益になると思うんです。ところが、教判が分り難いと、全部やり直さんならん。生存が保障されてればいいですけど、どうなるか分らんのに、時間が要る。

 いろいろやりました。菜食の時機もやったし、端座の時機もやったし、聞法・修学以外にもさんざんやりました。戒定慧三学、まあ、不徹底でしょうし、法執でしょうけど。
 そんなことしなくていいんです。既に教相と事蹟がある。効率化と合理化と時間短縮がある。即の時に頓悟いただけるんです。名号のいわれの本願のいわれを念仏して訪ねることで、まとめ上げられたダルマの方より、憶念の人にされていく。

 教判次第なんです。違うところへ生まれられても困る。生まれた人も生まれられた人も、自障障他する、認め合えない三悪道に近いと、困るんです。
 ですから、名号でも経題でも三学でも宗旨にこだわりませんけれども、教義にしましても念仏にしましても名号でも御絵像でも、御縁になってそれが真実功徳相開発に繋がらんとなりますと、やはり、真宗で言えば特留此経止住百歳の意義が失われてしまうんでしょう。末法滅法時代でも必ず現実するから、特留此経止住百歳と書かれた方があったわけでしょう。

 本願の念仏は、予想もしなかったすごい力なんです。一番、自然で不可思議の念力がある。身は雑に始まり雑に終えるけれども、心は苦悩に始まって終に諸苦毒中の懊悩に終えるけれども、少なくとも素晴らしい世界を賜って意義と喜びを以って生死していけるようになるんです。

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 真宗は女性。また、男女共同参画時代であり、両性で形づくる教団とも言われて参りました。
 男性と女性の脳の差は同性間のそれよりも少ないという意見もありますし、殊に年若い頃は少ないらしいですね。ウルフ・バックでも稀にメスのリーダーを見ますし、また、同性ばかりの集まりでは自然と男性役とか女性役が出来て来ることもあるとか。

 しかし仏教は歴史的に性差別してきた宗教であるばかりか、性交渉について、これは自然性であるにも関わらず、出家者には許可されなかった。一つは、性同一性と女性への差別にかかる問題であり、一つは生存自体の否定に繋がる問題で、いずれも大問題だと思っています。

 本来、現在でも戒を捨てられない真宗教団以外の「出家」教団では、性関係自体が問題外になっているんです。

 仏典ではたとえば以前紹介した『仏教が好き』(朝日新聞社)p127~に於いて「律蔵」が紹介されていていて、一般的な性交が禁じられるほか、だからといって近親者・死体・獣・女像との交わりが認められるわけではなく、それらに対する釈尊の判例が提示されている。

 シャカムニの目的は快楽の拒否ということになっているし、確かに過度の欲望は好もしくなく、その社会に於ける女の地位にも依るが、性や恋愛における争いも好ましいはずがない。

 何よりも、性別を問わず、人は皆独立者であって自分の人生の主人公であり、奴隷でも所有物でも無い。
 禁酒法よりもひどいかも知れませんから、禁止されるとどうなるかと申しますと、隠れてするようになるんですね。かつら被ったりとか。もっとも、近年では大量破戒平気にしか見えないこともあるかも知れません。

 性は自然性であり、過度の禁欲もまた、問題とされて然るべきと思います。余りにも非人間的・反自然的なため、性が抑圧され過ぎており、生存に対する挑戦としか思えないわけですが、断定と一元化はいたしません。

 昔ふれました別の思想ですと、レーニンは、他人の飲んだヌラヌラしたコップで飲み物を飲む気になれるだろうか、と言う形でモラルにふれたけれども、衛生面からはそうだと思うが、差別社会の現状からすると、その感覚の質は女性差別に繋がるだけのようにも感じられます。より包括的でより根底的な異性関係ということ、性における異なれる質との相互作用の好き方向は、殊に人間に於いては、更に求められるテーマだと思っています。

 『女と自由と愛』(岩新)を昔読みましたが、松田道雄さんといえばこの本を思い出します。ですから、筑摩からトロッキーの翻訳を出しておられたことをすっかり失念いたしておりました。昔は谷大のサークルメンバーにも推薦しましたが、今ではカー教授の著作などと同様、歴史的著作としてリストアップしておきたいと思います。レヴィン、レーヴィットといった方々の著作も思い出しますが、女性の解放、被差別民や障がい者など困窮者にかかる思想展開は少な目でした。
 持たざる者、という点では、プロレタリア概念のほかに、老・病・弱(女性・障がい者・囚人など被抑圧層・被支配層・被差別層など)という、如何にも弱そうな三結合があるんです。


再び願心について(続)

 カタコも終わりに近づいてます。

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 鉢のサクランボと梅はほとんど散り、苗木のモモ(白鳳)は満開みたいです。

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 場所によってバラツキがありますが、そこら中で水仙も咲きました。

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 高田公園は葉桜も終えかけですが、この辺の桜は和田橋からみますと、

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ちょっと前に撮ったフォトですが、大分咲き終えました。

 でも、ウチのはまだ、これかららしいんです。

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 蕾はこんな感じです。

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 周りの雪も溶けまして、朝晩寒いながら春めいて参りました。身体は重いままです。

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 さて、願心に迫る。難しいです。

 生死の境 異香砌り、静かなひととき、静かに自分と空間を見つめる時。我々は宗教に世間を離れた時間を求める。また、苦境の打開を内に持ちながら、沈思黙考の時間を求め、時に自身にと言わず誰ともなく問いかけたい。更に応えてもらうことも時に求める。

 四門出遊ということがある。我々が宗教に感じるものは、半ば、胡散臭いとか、社会性に於いて消極的に過ぎるという印象が巷間広く流布されてあり、そのことへの忌避を持ちながらも、世間性にも安住出来ない、という健全さに置かれているわけです。

 ビリーが仰るように現代人の少なからぬ部分は、プライベートには個人の関心事に没頭し、まあこれ、埋没っていう表現もあるわけですが、職場や公的にはそれなりにやはりバリバリと没頭するわけですが、古来の共同体や国権と癒着した宗教支配体制とも違って、真の求めが愈々問われる時代でもあるわけでしょう。自分を大事にし、探し、求める姿は、様々に表出するけれども、いずれも自身を尊ぼうとするはたらきなんでしょう。

 ここには「出」ということがある。そして母体たるカピラヴァストゥという娑婆暮らしがありますから、出ということが四門でなくて、国を出る、地位を出るという出家の形で、我々の所在無さが、初めから示されるわけです。
 居場所が無かった、と。

 そういたしますと、これに対して最初から、認め合える世界たることが提示され、応えられていく。無三悪趣っていうのんは、単なる三悪趣(三悪道、三塗)で無くて、この世の娑婆の在り方を脱するんだということでしょう。娑婆という形で我々に立ちはだかる世間性を脱する。

 自分も認めていないし、認めてもらっているような気もしない、一言で申しますと所在無く寄る辺なく頼りなく当て所なく居場所が分らない私に、最初から所在無き私に応えられているんです。
これが宗教の特徴なんで、祖師方のまとめたダルマに初めから応えられている。求める自身ということと、求める在り方ということに、即得往生、即の時に頓悟して気づくんです。

 それですから、古来、こうした謂いが為される。弥陀如来ご苦労あって、と。如来が私に代わって永劫の修行を行われ、得られたところを回向されたんだ、あなかしこ、あなかしこ、値打ちの無い私なんぞの為に、もったいないことだ、有り難いことだ、と。
 その修行は苦行ではない。憶念の自覚と憶念の世界観が、やはり学びと遍歴の行という経験も欠かせないかも知れませんが、あるとき質が飛躍して、同時に視点が転じられて、開花されていく。

 しかし、かかるこの限界ある葬送される身と世界から、無量寿の生へ、で還される。
 還れるんでしょう、還り難い娑婆世間へ、ホンモノに出遇って初めて。
 ずっと頑張って来た。仕事の為にも家族の為にも地域やクラブ、果てはボランティアや人類の為にまで頑張ったかも知れん。しかし、本当に立ってこれたのか、本当にそこに「居た」のか?
 初めて立てるんです。

 一言で申しますと、皆自身の往く先については真剣なんです。
 願心というものは皆、朧(おぼろ)げ乍らも肌で保っているけれども、自分の空しさとか、自分のストレスとか、自分の都合という狭い世界から出発するほかないのかも知れません。

 四門出遊にいたしましても、静かな時間の求めにいたしましても、安心の求めにいたしましても、共同体の集まりのような社会生活の要件だったり、楽しみを求める要素だったりにいたしましても、みな、自分から出発して終に自分に終わっていく完結した世界を脱しませんから、自己と常識的な意識にはじまり、それに終えるけれども、同時に、漸く、初めて、自身を打破する、そうしたモメントの中の一つとして宗教もまた機能するんです。

 ただし、仏教というものは自己自身の内に原因を見るから、自己を問い、研鑽しようともし、脱してもいく。
 概して宗教というものは世界と自身を見直して、真実世界に結びつけようとする、結縁しようとするし、祖師方の見出された真実世界もまた、結縁してもらいたくてたまらない。命日というも、素晴らしい世界、明日というめいにちであって、明日を拓こうとする願心でもありましょう。我今現に素晴らしい世界を発見せり、今当に生まれんと欲す、と。

 ところがこうした性質故に、ともすれば、内奥にのみ視点が注がれてゆき、ときに社会、広大なる異なれる者同士の世界への視座が希薄にもなりがちなんです。本末転倒だと言えましょう。

 多くの思想や宗教があるけれども、自ら選び、頷くほか無いので、他力と言いましても、自らが頷くことしか、自らがたすかっていく道は無いんです。
 ところで認め合う世界、尊び合う世界はしかも往き易く、選ばれて然るべき世界なんですが、かかる世界を選んで建立すること抜きに、生きていけるかどうかというと、認め合えず、尊び合えないと、自障障他の世界、害い合う世界が残るように思いますが・・・。

 また、現代的視点からいたしますとシャカムニにも、どうかなあと思われる部分がありますし、歴代各宗祖師方もそれぞれ新興の解釈をされましたけど、やはり、どうかなあと思わざるを得ないけれども、願心は展開するんです。

 仏意・願心の一願が24願に、24が48(49)に、と、祖師方の歴史的求道の中で、鮮明になっていくのでしょう。

 同時に雑行なんでしょう。
 全部、雑であった。願心に背く願まで現れた。
 求め自体も願心も、雑なる私ということがありますから、まことに以って油断ならんです。激流を好まず清流を求める、四門出遊にも、静かな時間にも、温もりの空間にも、自分大事の不純な雑、ということがあるんです。

 また、せっかく慶ばしい空間、温かい時間に出向きましてもですね、一歩外に出た瞬間から、公共交通の乗り物のステップに、いや、公共交通に足が向かう瞬間から、公共性のカケラも無い雑にして不純な私に戻る、ってことでは、内面に留まるのと同じで、意味薄。
 あれ、ステップに乗るまでは(早くしろよ)で、乗った瞬間から(押すなよ)に変わるそうです。怖いくらい自己チューで、自分でも驚いて居られるかも知れません。空いている時間だと好いのかも知れませんけど、異なれる他者を慶べん、みたいな?一体どうやって転じて往かれるのか、永代転じられないままなんでしょう。不思議ですけど、たまに回転が起こる。回ということが起こるんですから、不思議です。

 またこれが、いくらでも戻れるんですね、水が高い所から低いところへ流れるみたいに、娑婆丸出しの料簡の狭い日常に戻っちゃう。止め処もなく自我の世界に閉塞出来ちゃう。自分では分らんがです。これが普通で常識人だと思っていらっしゃる。
 そうじゃなくて、還るんです。真の自身に帰ろうとすることでもあるけれども。

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 限りない淋しさと悲しみに置かれた人生でもあるわけでしょう。看取り看取られるほか無き生涯、みたいな。
 所在とてなく寄る辺なく当て所なく悲しく空しく辛く苦しく、懊悩し続けるほかなき人生かもしれません。

 元気な内は、ですね、幻想、見せかけの仮象に過ぎませんけど、いろいろ体に問題も出て来たけれども、たまに大けがもするけど、何とか元気の間は、自分をだまし騙ししながら、ウロウロとやっていますけれども、終に斃れ、あるいは病に夭折し、あるいは障がいを背負い、あるいは差別と迫害の中に終え、何処へ生まれるのか。ごまかしようが無いんでしょう。

 死は避けがたいが自然でもあり、受け止めますしかありませんが、大過なくどころでない、また、凡夫であり、認めあったり、尊び合えないし、それこそどうしようもない、ふつとたすからん人生。

 素晴らしい世界を賜ったことで、初めて受け止めることが出来るのかも知れません。
 どれだけ生きても長すぎるということが無い人生。懊悩しながらも、素晴らしい世界を内に賜って、外にも拡げて、意義(価値)と喜びのある日々が訪れますように。

再び願心について

 境内の梅は咲き初めまして、雪囲いしてある桃はつぼみが膨らんで参りました。桜はまだ花芽の状態です。積雪は少な目ですけど朝晩を中心に冷え込む日が、なお、多めですよね~。25日の様子は・・・

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梅の木

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桃の木

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桜の木

 意外にも畑はまだ雪が残っておりまして、手入れなどは4月上旬からになります。

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 仏教の基本的なカテゴリーやターム、サンスクリットやパーリ文についても、日本語の他、東南アジアや中国、欧米語で多くの事辞典があります。今日では諸国の仏教史やいろんな宗派についても解説書が出版されて久しいので、関心を持たれる方はそれらをご覧になることをお勧めいたします。

 それとは別に、これまでの語やディスクールへの定義や公理的な見解に疑問があるので、独自の翻訳と定義を探したりすることがあります。

 もちろん、いろんな僧侶もまた当然、布教の為にも自分自身が納得する為にも、様々な言い換えや比喩や表現で迫っていこうとするわけです。しかし、例えば仏教上、如何なる世界が如来と菩薩によって願われたのか、このこと一つに遡及しようとする学びに於いて、その願心自体が愈々研鑽されるかもしれませんし、見出され研鑽された願心から見直すと、人間にとって、過去未来現在のこのディスクールはどうか、この儀軌はどうか、この行為はどうか、この社会的役割はどうか、という疑念が出て参りましょう。

 かくしていくつかの問題提起が為されて参りましたし、私の独自の問題点批判もあったかもしれませんが、須らく願心成就を試みたものにほかなりません。

 改めまして願心を取り上げて考察を加えつつ定義に迫りますので、上述の事情を踏まえてご笑覧願います。

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 何となくドグマティックな感も憶えますけど、人間生活にとっての願心=本願の言われの必然性・不可避性・必要不可欠性に迫ります。

 賜りたる願心によって、我々は自由である。自由でかろがろと柔軟で明るく活気に満ちて前に進みうる身を得たのである。

 こうした願心は、ではどこから生まれたのか?
 起源は何か?義なきを義とする自然のはたらきであるけれども、モメントは何処にあったのか?神なり願心なり仏性ということは人間が造ったものではないとすると、自然のはたらき、自然に備われることというほかないが、人間が見つけたことは間違いない。

 偉大過ぎるんですけど、シャカムニの成道の原因は何か、という問いとしてもあるでしょう。これまた軽々に取り扱いかねる質の課題になりますが、様々の文化パラダイムで表出してきた願心について、どういうものか、その正体に迫ろう、と。

 存在がもたらしたいのちとその願心が展開して、様々な形をとって現れて来ました。
 しかし例えば、生きるということの表現と、それを自覚する人間の受け止めと、更に、それを価値として尊び合う世界を見いだし実現しようとする宗教という表現との間には、質の飛躍がありましょう。

 宗教表現も千差万別ながら、ですから、とても初めからいのちに宗教的な願心なり求めが孕まれていた、とは思えないのが実情でしょう。
 しかし、単細胞生物の初めから萌芽が備わって来たという仮説から、歴史の中の意識を探りたい。
 この課題探求の困難さは、全く予想外の人間の意識に突き当たって戸惑う可能性が高く、極めて大であるということにも生じましょう。

 世界観察・世界認識としての縁起の発見についてはシャカムニに帰する智慧の領域だといたしましても、慈悲心、共同性としての願心の成立要因は、やはり一つは既存の宗教的展開・思想的展開に見出されるように思います。
 それ故また、一つには、それが特別のように思われながらも、一般に巷間に広く最初から自然に備わっていることがみえて参ります。
 そして、一つには、それだけではなくて、まだそれとして明瞭には自身を現していなかった願心に気づいて共なる世界、慈悲として様々に表現されたような学びの質があった。
 さらに、一つには、それらも実際に遍歴という様々な人たちとの出会い、交流と対話対論の中で、愈々、開花され、確信や表現を得ていった、と思います。

 実際の成道以前の出会いと学び、成道後の世間道での遍歴ということが、元々備われる願心を開発したり、さらには開花発展させていった。

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 それと願心については、最初から備わっているばかりではなく、最初からはたらいていないと、経験を否定するわけでは無いが、努力や学びや修行によって得られるものではない。
 初期経典の謂いに倣いますなら、経験によっても、修行によっても、三昧によっても、学びによっても、思惟によっても、必ず出遇いを得る保障は無いわけでしょう。

 むしろ、経験が生かされる為には、モメントを成立させるような内因とも呼べるような萌芽態が初めから孕まれていて、且つはたらきはじめている必要があるのではないでしょうか?

 全く要素的に芽が無いところには何ものも生じ難いわけで、もちろん、様々の別の種類のものが集まって、一定の条件があるとき、それまで存在したことの無かった萌芽が生じるわけですから、無から有が生じているのも生命の誕生の特徴ではありますが、やはり諸条件・諸物質という原因、萌芽があったのでしょう。

 苦労しないと人の気持ちが分らん、とも言われるけど、同時に愛情を注がれ温かさに包まれていないと温かみが分らん、とも言えるんでしょう。最初から知っていないと宿善になってはたらくことがない、はたらきだすモメント自体を受けない、モメントがモメントにならない、ということがある。

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 願心より生ずる本願、智慧もそうですが、無始より自然に備われる慈しみと悲れみは、最初から備わっていないと、認識したり理解することは出来ないはずです。
 これはまた、本来とても馴染めないとされているライオンの雄とかトラ、アナグマなど単体行動が中心の動物にも多分、微かな萌し程度は、みられるのかもしれません。そして単細胞時代には、一体どういう質で孕まれていたというのか?
 生きる、ということ自体に、素晴らしい世界に生きる願心の淵源を想定して来たわけですけど、この仮説はどう展開したら好いか?

 そこまで遡及しなくとも神の愛や慈悲のカテゴリーは歴史上いつ頃から現れ、自覚され出し、その質はどういうものだったか。これは専門家が発掘いただく課題ですが、願心と教相上重要課題なんです。

 例えばブッダの倫理性や慈しみの開発に関して、古くからのヴェーダに窺える神々等の諸性質の中で、友好性、赦免、寛大、人倫性などが慈悲の内容として想定されて好いだろうが、限りなき灼熱の慈しみとなると、どうだろう。
 こうした謂いはあまり好まないが、この慈しみの質はもしかすると、女性性と男性性の融合かもしれませんし、戦場に感じられる世界大の限りない淋しさと悲しみもまた、女性性と男性性の融合かもしれない。

 慈悲については内なる共感と連帯と共同性を示すものと受け止めているが、これは古代宗教の神々の世界でも様々に見られるとは言え、祭祀宗教上は律法者、命令者みたいな性質もあるだろうから、さあ、仏教上の慈悲も、対他的な温かさも、定義は容易では無いかもしれない。それ以前の神、神々の中に見出すことが出来るかどうか、詳しく調べないと何とも言え無いが、間違いなくあったに決まっている、と思うわけです。

 ブッダの響きの変遷自体も、仏教上顧みられたことがあるのかどうか、大変気になるわけです。ヴェーダ等のどの文献や伝承に、何回、どういう語用で出現しているのか、皆目分らんのが残念です。発掘の時代自体もまだまだのような感を深める昨今になってはいますが、どうせ研究されるんなら、重要ポイントについてご紹介いただけると嬉しいです。

 表面に現れ易い支配的な傾向として、戦闘の勝利とか、支配の倫理とか正義などが神々の特徴であるが、慈悲はそれとは趣が異なるので、改めて仏教上の慈悲の淵源や、諸思潮の中の定義を求めるのは、意外と厄介である。

 これには古代人の意識、死後を含めた生活観へのアプローチの困難さもつきまとうし、それ以前に、古代オリエント世界、地中海沿岸からインド、コーカサスより北方、中国系(モンゴル系)住民に亘る、これまでの古代世界の把握が疑われるので、注意深い再研究の上、把握し直さないと進めないような気がする、という事情もある。

 古代の民族や文化分布が、宗教や神々やその習俗習慣だけを取り上げても、改めて把握され直さなくては進めない。それぞれ孤立している狭い地域としての取り扱いは通用せず、世界大に分散していた諸地域の関係性を捨象できるとは、現代ではもはや考え難いわけです。

 もう一つ、古代世界の人々の意識自体も、容易に想像できないものがあると思いますから、現代人の既成の意識や常識から想像すべきでもないかもしれません。
 古代と申しましても、文字で記録の残る時代になってからはまだしも、それ以前もあるわけですけど。

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 同時に神秘主義的な祭祀宗教の中から生まれますと、どうしてもシャーマン、神官、僧侶がカスト化し、国権化していく。共同体と、宗とすべきみ教えの相互浸透が始まり、独自の展開を遂げ始めるわけで、決して宗教的理想にとって好もしき方向へばかりは行かなくなる、はずでしょう。事実、限りなき灼熱の慈しみが鮮明でない発心と運動から、歴史上多くの裁きが行われ、多大の犠牲者が生じて来た。

 そしてさらに、みて参りましたとおり、雑こそ、異なれるこそ、複数こそ、他の存在こそ、全ての前提であり、私の姿でもあるんでしょう。

 ですから、ブッダとか仏道と申しましてもそれは、私の生死の、私の存在の中心ということよりも、礼拝や祈願の対象としてのブッダ、ということになりがちのはずです。国家宗教ですと、更にそうした面がでかくなる。
 すると当然、個の自覚としての宗教ではなくなり、人任せの宗教ともなりかねませんし、金儲け道具、政治利用にもなり易いでしょう。

 これは明かされてきた今の願心、往生という往きて生きる、生まれるという積極的な願心とは、全然異っていくわけでしょう。
 たしかに生きている世界はサハ―と押さえられた状態とは言え、また、改善には、なお、限界があるとはいえ、我々が陥りがちな厭世観や諦念、死後への期待とは真逆の世界なんです。生きる世界。絶望に絶望するという友人の謂いが想起されます。

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 この慈悲、我々の内なる共同性の淵源について、どこまで遡及出来得るのか、定かではありませんが、以前、古代メソポタミアに関してネアンデルタール人の間でも埋葬ということがあったらしいことを紹介しておきましたが、埋葬なり葬送儀礼ということが関係しているかもしれません。
 更には、近年南アで発見された洞窟の新種の人類の遺骨も埋葬だったのかも知れないという説があるそうですが、これはまだ何とも言えない状態らしい。けれども、何らかの共同体生活であるらしいことが知らされましょう。

 内なる共同性ということは、他者をみそなわすこと自己の如くす、でもありますし、これは質の飛躍があるのかもしれませんし、世界人民大同団結というところにもあるわけですが、これも明瞭な共感、慈しみと連帯は質が飛躍しているかもしれません。。

 世界人民がどこで大同団結しているのか?
 尊び合い与え合い認め合える世界、友好的で平和をもたらすアムネスティや救援団体や人間防衛と解放の運動ということでしょう。政治経済上も、民主的で差別なく、個に応じてですが生活出来る為の運動ということになるでしょう。細かい目標を挙げれば沢山ありますが、二つ三つ取り上げれば。

 ですからこれは、日本でも米国でも無いけれども、たとえば私たちのソビエト、私たちのコミューンと言って参りました共同体は、「ソ」「連」でも中共党でも無い。昔は文革チルドレンだったけれども、鮮明なんです。メリットも理想も鮮明だと思います。

 ところが、現実してきた半封建的・半資本主義的・半社会主義的な、そして権力主義的な強権政治と暴力史の、世界と運動ばっかりだったんです。ということで、東西問わず、皆さんの内のほとんど全部が、仕方が無い、と仰って来られたんでしょう。多数者のメリットも理想も、まあ、その内容や質も問い返して検討し直さんならんでしょうけど、現状打開の後、ってことだった。
 
 実際には好い思想と制度、生産力が創造されて参りましたから、これ以上現状に阿る必要は無く、平和的で友好的な内に、新世界創造の事業は進めることが可能だったんですが、間違った思想や状態の延長を選んだんでしょう。

 これについては「淳一のスペース」でこのところ取り上げましたけれども、現状はどうしようもなくしてしまい、手の付けようがないまま、幻想だけが流布されているような感すら否めません。

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 私は知らないことを長く知らずに居ました。
 シャカムニとソクラテスは「無知の知」を言われましたが、既知への拘泥から、知らない世界があることを長い間知らずに来たんです。
 そして前メモっておきましたがゲーテは、まだ知らない事柄の方が、未知の方が、既知の事柄よりも重要だ、と。
 こうして、それこそが我々をして学ばせ、探求させるところの、未知の事柄の重要性をも知り得ました。
 そういたしますと、既に知っているということが相対化されまして、謙虚であらざるを得なくなりましょう。
 40・50の洟垂れ小僧から青年期に入ったけれども、まだまだ知らずに居るに違いない。まだ40歳にも満たない方は、今から洟垂れ小僧かいっ、って感じでウンザリされるかもしれませんが・・・。

無戒からー15

 自然災害と言わず戦乱と言わず、病に怪我に事故に犯罪被害と、さまざま苦難が襲います。
 いのちは重くてとても担えないですし、事実はどうしようもありません。
 長命な人だ、と言ってみても実は、どなたも人生は短すぎるのでしょう。

 私から始まりながら、様々に表現されてきた願心に出遇って私を超えて生きる世界に赴くのか、宿善欠けて終に私を脱することなく、何もかも失い、潰え去っていく世界に赴くのか。いずれにしても身は潰え去るこの世界に留まるけれども。
 たったそれだけのことなんですけれども、これが難しい。

 先日、追い越しで対向車線に出ていました。向うから列をなして車の一団が来るのを見て、何とか走行車線に戻れましたが、死ぬ思いでした。まあ、対向車線に出て追い越すことも可能の道路でしたが、それはあくまでも対向車が無い場合ですし、自分は追い越し用の車線だと100%思い込んでいますから、対向車の一団が目に入ってパニクりました。
 寺の同朋会に来られる方は前向きで内面性や学びへの積極性も備わっておられるのでしょうか、皆さん元気で長生きされるんですけど、事故だけは如何ともし難く、時々注意されるようにお話しするんですけど、久々の大ボケで、反省を述べておきます。

 で、言い遺す言葉が浮かびましたので、記しておきます。
 人類社会に関して、早い段階で簡単には改善出来ないけれども、何とかしなくてはいけない課題を提起しましたので、課題を深め、温めながら、取り組みを続けていただきたい。(課題は私の独創や発見ではなく、少なからぬ方と共通だと思っています)
 もう一つは、こちらの課題も根が深く且つ古くからあって改善自体が危ぶまれるけれども、人類社会の罪と赦しの件について、厳密に罪を定位しながらも、罰は緩和し、寛大な無罪放免の枠の拡大をお進めいただきたい。
 以上二点が即座に思われたのでメモっておきます。
 人間と諸々の生きとし生けるいのちの為になる教学と教判については、これまで述べた通りでいい、ということです。

 先日また、珍しくある水泳のメダリストから、よく分からないということで話しかけがあったんですけど、これはまた他の職務や事業に熱心に邁進して居られ方々に共通の問いかけだろうと思うんです。

 そこでまたどなたかが仰るには、(赴くのは、)私が、じゃないんだ、と。生きる世界に赴く、ってゆうのんは、私が、やない、ということです。

 まさにそうした謂いに近い、と思いますが、賜りたる世界は又、それまでと変化し、それまでをある種脱した私、質が変わった私、それまで知らなかった世界を知り認識が拡がった私、自身を滅ぼし尽して生まれ変わった私が赴く世界である。

 狭くちっぽけな私の身心はいずれも滅びゆき、いのちと存在の大海に帰するけれども、存命中に本当に生き、尊び尊ばれる世界に生まれようとする如来の願心、本願に出遇うことが無ければ、存命中の個人としての自身も、尊んでいる他者と共なる世界も、尊ばれるべき他者や他者との関係も、全て空しく終える、ということです。

 もしかしますと別の事柄に関して(よく分からない)ということだったのかも知れませんし、仏教上のことや人生上のこととしましても、適切にお応えできず恐縮です。

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閑話休題。

 以前言ったと思いますが、谷大に入って授業に出ますと教室の机に「なごり雪」の歌詞が落書きされているのを発見しました。
 情感に訴えかけ、呼び掛けてくる詩ですね。
 こんな詩を書ける人が居るのか、って感じで、パッと開けてくるようなフレッシュな印象を憶えました。見た時はそれが歌詞だとは知りませんでした。
 先ごろイルカさんのコンサート番組があり、ちょっとだけ年寄林を拝見したわけですが、そういえば以前、体質を見透かすようなことを仰っていたな、ということを思い出しました。

 歌詞の中の「東京」の響きは明るいものでは無いかもしれませんが、なお、夢と希望の残る時代だったんでしょう。
 大後輩は谷川雁の「東京へ行くな」の詩をアピールしたりしてましたが、昔は魅力があり夢や希望も持てた、何とか見せかけの仮象に惑えたんスけど、現在の東京も多少、そういうなごりがあるかもしれませんが、すっかり色褪せ、魅力を失ってから久しいですしね~。

 この際、ライフスタイルを見直し、地方都市への諸分野の移動が、これからの日本活性化のカギの一つかもしれません。
 せっかくの築地にいたしましても、ゴタゴタしてる都内からハマ筋へでも引っ越された方が好かったんじゃないか、みたいな・・・。

 以前赴任しておりました能代では毎週TVやラジオで「これからの秋田をどうするか」を取り上げておられましたが、たま~に聞くんですけど、活性化の為にどうすればいいのか、核心にだけ、近づかないみたいな。
 元々人口が少なくて仕事も少なく、経営や就労が成り立っていかない、となりますと、方法は一つしかない。

 一つしかないけれども、植民の為の、供給、社会主義的な政策(保障や福利の投下・供給を含みつつ、積み木崩しみたいな循環型の公共事業や箱ものづくり)や国家からの助成金増額、企業なり産業や国家事業の機関と人員の誘致も、とても難しい現状でしょう。

 生活確立自体は生産物を与えることで自分を含めて全体に行き渡り、困窮層の救済にもなっていく、与え合う体制が望ましいんですけど、「税制」改革的傾向のある政策徹底により、ある程度共同体全体としては暮らしていけるようにはなる。

 しかし、市場経済と同時進行で進めないと、これはこれでやはり停滞したり衰退したリ汚職や固定化が蔓延するわけで、圧倒的多数の民衆に支持選択されていくことによる生産の独占の問題と、一見すると対比を為すようだが、実は招く結果は似ているか、同じになるわけです。停滞と汚職、民衆への犠牲の転嫁、みたいな。

 その地域に元々備わる魅力、プラス面も勿論まだまだ開発されていないかもしれませんが、地方の親方日の丸体質と、一極集中するいくつかの大都市の既成の利便性依存体質自体が、産業上の衰退ポイントに転じている側面もあるわけでしょう。これはそれを補うだけのものが供給されている間は、事態は鮮明にならないけれども、同時進行していくのであって、好ましくないことだけは確かです。

 京都はと申しますと、学生当時、すいません、蜷川「腐政」と言ってましたけど、府政には一部反対もありましたが、京都はおもしろいところでもあり、個性的でアナーキーな時期を過ごすことも不可能ではありません。
 もっとも、時代が変わりましたから、ギスギスした雰囲気が強まったでしょうかね?

 ともあれ、その後しばらく離れておりました谷大の授業に戻ることに決めたわけですが、何度か出ている内に(?おかしいなあ)と思うようになったんですけど、ある先生の授業では出席点呼で私と友人(ノンポリ)だけいつも呼び捨てである。比較的マジメに受けていた授業でしたので、大分先生の反応も変わっていったようにも感じますけど、先生とは一度も喋ってませんから分りません。

 また、ゼミの先生も常識人でしょうから、まさか他のゼミも出てるとは思いも寄らなかったんでしょう。しかし、忘れましたけど、もしかすると大分後で(君、○○先生のゼミも出とるんか)と言われたのかもしれません。(ええ)と答えたはずですけど、たとえ言われたとしましても、先生の反応は(ふーん)で終わりだったような・・・。
 考えてみますと、確かに、別に受講してもおかしくはありません。マジメに実習イッポンで頑張らんといかん系の学部や学科だと、ダ・ヴィンチ以外の方にはとても無理だと思います。先生もとっくの昔に忘れて居られることでしょう。

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 さて、死刑制度について、日本では貴族に血と亡骸は忌まれ、争いも忌まれていたんでしょうけど、坊主も貴族出身の官製の出家が多かったでしょう。
 当然、従者や財産と一緒に出家した者も少なく無かったんでしょうし、教団内にも官位みたいに位階があったり部屋があったりして、寄進を受けて配分も相応だったかもしれません。
 すると、葬祭も忌まれ、下級の神官や坊主と被差別民で葬送や埋葬が行われていたケースや時代があったのかもしれません。
 民衆自体も例外なく全員賤民視されていたわけですが、仏教などの影響で300年ほど死刑だけは執行されなかったことがあるそうです。

 真宗以外は全部ダメなんです。特別の人しか対象にされない。それ以前もそれ以後も、他宗のいくつかの流れと共にアミタの念仏は民間に広まるわけですが、祭祀宗教化して、大衆性、私の宗教ということが仏教上遅かったことは否めません。

 その真宗も貴族との結びつけを強めていき、取り込まれて差別的で排除的に変貌してきたわけですが、やはり初めから、自ら主体的に道を求めるのでなくてはいけない。人や時流などへの畜生道は破たんするんです。強いられた畜生道の方がまだ可発かも知れません。
 真宗と言わず、憲法理念はともかく巷間では、凶悪犯の死刑とか厳罰についても当然視してきたわけで、漸く60年代も終わる頃から人間観の改革や刑罰の緩和や赦しへの兆しが、微かに見えて来たに過ぎないんです。

 発心と一緒で、三悪道の自身の在り方も初めから排されていないと、求道に成らん。道を求める以前に、初めから発心があり、それが開発され、磨かれていく。
 こうした発心は様々の文化的パラダイムと思想にふれても起こりますが、私は、例えばマルクス主義などでは発心の開発は十分では無いように感じます。それどころか、人間の尊重とかやや社会性に比重があることさえ、明記されずに忘れられることがあるように感じますけど・・・。

 発心と言いましても、邪だったり九十五種だったり自障障他する質だったり認め合えない質を内包したりしますから、たとえ芽が開発されて育まれていくにしましても、最初からより正しい、より純粋性を抽出された発心の方が望ましい。
 そういう道場に入門すべきですし、そういう道場から自己探求と研鑽を始めるべきです。

 寺に参ってもお内仏に参っても、特別の人しか対応できないのではなく、庶民万民の為の世界を開きますから、無数のほとけが、仏菩薩往生人がまします場として参りませんことには、万民友なる世界に参りませんことには、人間に法が現れた像のせっかくの意味が失われる。法身は人間に現れますし、空無我無自性なる無執着も人間に現れるんです。人間に現れ、とらわれを脱して人間的な人生がパッと開け始める。

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 自信を語りましたが、世間に属する分野の自信に関しまして、頑張って押しのけていくことは大事ですけど、それが全てじゃないですね。フラットが大事。

 なお、押しのけられた場合ですけど、これまた山のように起こるわけです。どうにもすくわれん奴だな、俺は、みたいな?
 ただし、たすからんナー、と申しましても、たすからんことに胸を張って思うわけです。慌てる必要も、落胆し過ぎる必要も無いと思います。

 ただ、この自信に関して思いますのは、以前述べましたが、世間や周囲に認めてもらうことは大事ですけど、自分を認める方が、もっと大事だと思うんです。
 その世界で自分を認めて、自分と闘って打ち克ち続けるかどうかは、これが一つのポイントになるのではないか。これに関してはさすがの私も自信が無くて、ナマイキ言えませんけど、一事に於いて自身を認め得るなら、内的動機で続けるほかありませんから、勝敗も自信も考えなくても好い、ともみえます。
 いずれにいたしましても、転進するのも、そのまま継続して一事を頑張るのも、その人が選ぶしかありません。

 それと、これも以前ふれましたが、逆に言いますと、目的成就しましても、次々と課題や問題が突きつけられましょうし、こんなはずじゃ無かった、と成るに決まっているし、より好い方向をめざしたり、悪化する状況打開の為に、止む無く転進しなくてはいけなくなることさえ、あるに決まってるんです。
 過剰な期待も楽観も悲嘆も、避けるべきで、そう心配しなくても大丈夫、と思います。まあただ、こんな個人的なこととか、この件で悩んでること自体どうなのかとか、一人悶々とこれは悩んで決めざるを得ませんから、第三者からは何とも言えません。

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 以心伝心ではまた、大分前には頭を開きたがるお医者様もおられましたが、これはつまんないように思うんですけど如何?

 また昨年、ウチは自作の無農薬もしくは少農薬の菜っ葉を味噌汁にもよく用いますが、その所為でしょうか、都心近辺ではお弁当や食堂でも野菜が無い、少ない、とNHK筋から以心伝心いただきましたが、間が悪いと言いますか、悪天候で野菜暴騰の時機で、何とかしたいとは思ったんですけど、さあ、どうなりましたか・・・。
 これについては、野菜が農薬等で一番ビョーキになってから久しく、反省もあって農薬や化学肥料を控えた品も出回ってますけど、やはり健康野菜が潤沢な食卓が願われます。大事なポイントになりますよね。

 値段が高い?ええ、牙をむいて仰います通り、私も消費者でもありますし、農家も消費者でもある方が少なく無いから困ったんですけど、どうしようもありませんでした。消費者と生産者の間に入る、みたいな面倒は、なるべく避けるようにしたいんですけど。

 しかし、別件でしょうかね、裏切られた、という非難は身に覚えがないんですけど・・・ひょっとすると無意識の内にご要望を無視してました?

 最近では、朝方にローラが忠言を述べに現れたり、その後のは、ヘリと戦車の部隊がごごごごごおおおお~っ、と来られたりで、一体何事やああああ~っ、と。世の中ひどいですからね~。

 また、つい先日、NHK朝ドラ出場メンツから、信用ならない、という声もいただきました。よく、言われるんですううう。えっ、そうですか?この素晴らしい人類の宝が?と答えておきたいと思います。

 内外の政界・芸能界・スポーツ界をはじめ相変わらず様々な方々が現れられますけど、原則的な姿勢を崩すわけにも参りませんから、何とも応対しかねることもあります。

 まあ、世界の首脳とかメダリスト、大スターなどクラストップの方々は、言ってみれば、常人には達し難きを達成された、忙し過ぎてこの上なく偉い人たち、なんです。

 別に構わんのですけど、現実にはやはり多数の庶民の為のみ教えですし、実際、寺も日々は庶民的な方々とのお付き合いになっているわけですし、愈々、多数の庶民的な方々によってこの仏教運動を進める寺と私に寄っていただければと思っています。

無戒からー14

 桜の開花は蕾の状態でかなり予想できるみたいですが、高田公園の開花開始は4月7日~8日らしく、満開は11日~12日ころですかね。

 標高の高いゲレンデは、なお、べスコンに近い日が少なくありませんが、この辺りの平場も積雪は60cmそこそこ。

 今年の雪解けは3月末ごろから4月上旬でしょうか。先ずは若見平が溶けて、その後寺の周囲が溶けましょう。

 ただ、早ければ初冬から夏までの間、色んな花粉や埃やPM2・5などが舞いますから、アレルギー体質には気になる季節が続きます。

 それでも、この辺の春は乾季ですから潅水が大変ながら、早くも花や作物の育成が楽しみになりますね。

 サイドコラムに行事案内を追加しました。

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 宗教という場合、現実の教団や教義としてのそれが思い浮かぶのが普通です。
 実際に存在する「宗教」なるものに対しても、理念・目的・教義と、信徒個人・僧侶個人や教団など主体の実態と、両面からアプローチしますと、いろいろと「雑」がありまして、有象無象いっぱい混入しているわけでございます。

 それとは別に、見直すこと(リリジョン)・人間性の根源より生じ、人間の為になる宗とすべき教えと姿勢、ということが重要です。
 ここでは、例えば差別教・殺人教・やや利己的に過ぎる質を含み、他者を認めない世界の危惧があるアタルヴァ等の質は、廃されたわけです。三悪趣も排された。

 本来ですと、両者が同じ方が良いわけで、リリジョンを「結びつける」という意味で考えても、そうあるべきなんでしょう。その宗教の教相内に、あるべき世界と自身の姿や、現実の諸問題への批判的な視点や改善指針が含まれていることが大切です。
 けれども、時代の限界等々により、十分に、より包括的に教示されているかどうか、という視点からも、現代に於ける現代の成果に依る精査と改革が必要でしょう。

 主にはディアレクティクによる見直しにより、矛盾・変化と運動という実相が定位されるようになってから久しいわけですが、絶対化と固定化もまた誡められながら、色んな運動もまた、いつしか停滞し低落してきたのが実情のように感じます。

 絶対化や一元化や呪縛は排しなくてはなりませんが、宗教においても修道・修行における専と雑、聖と俗、純土と泥土、一と他、一と多など、いくつかの対立概念が矛盾の運動として深められたように思います。

 人間の為になる宗を教・姿勢として生きる人は何処から生まれるのか?専の中からか、雑の中からか?聖の中からか、俗の中からか?秩序の中からか、混沌とした課題だらけの中からか?於泥華は、どこから誕生するのか?

 こうした出発点自体が、願心から生じるわけでして、自然な世界観察としてのダルマや縁起と同じように、自然な世界観察としてのディアレクティクがあり、諸科学があるわけですが、そうした中でも変わりなく、尊ばれるいのちへの希求が、如来の願心に汲み取られてまとめられるような願いが、万民に存する。

 ですから、輝けるダルマが万民に顕われる時、どう具現して展開するのか、一願心が分かれて24願となり48願に展開されるが、どういうことか、初心とどういう関係なのか、ディアレクティクや科学が万民にもたらすものは何か、須らくこれは願心に立ち返り、願心を深め抜くということが、生じてきたわけでしょう。

 その一つの現れが現代的には、差別性の克服であるとか、汎神論的な考え方で表現されたことがあるし、昔からバラバラのようにみえつつ同時に調和的でもあるかも知れない世界観であるとか、そういう表現で残されている。

 ディアレクティク的な全存在の重要な点は、質の変化であり、対立と同時に流転か進展か、変化し続ける。
 これは囚われを脱して自由になってゆく空義同様、現状を変化させて改善を施す方向にも向かわせるし、対立は質の変化を待っているのであって、消滅ではない。有でも無でもない、有も、変化し続けるので、自体が無く、止まらない。

 断定はしませんが、雑なのかどうか、異なれる存在、バラバラが前提になっていると思います。そして矛盾が主要で、無矛盾や統合・統一が副次、運動が主要で、静止は観察されないか、観察されても副次で、分裂が主要で、統一・共同が副次、二以上が主要で一が副次ということですが、いまひとつ、別個バラバラのものが相互浸透・関係性により質が転化して別のものとなることがありましょう。重要なポイントです。
 まあ、主副の転倒もあるでしょうし、主副共に自身を喪失したり薄まることもあるでしょうから、これ自体、固定化すべきでも無いんでしょう。

 殊に、異なれるを慶ぶ、と申しましたが、古代の地中海周辺諸国・インド、イスラーム帝国や中露印、英仏甫西蘭米その他欧米も、独日も、長い侵略の中でインターナショナルにグローバルに、自らを疑問視し否定するような好き願心も愈々鮮明になったはずです。

 固定的で狭い智と九十五種の道を汚す邪から、様々な蔑視や差別視や偏見や隷属化やジェノサイドを繰り返したわけですが、そうした累々たる死体と流血の只中からも、神の願心も研ぎ澄まされたし、ヴ・ナロードも生まれたし、狭い殻を脱し、人民尊重の広い世界が開けた面だって、あったんでしょう?

 もちろん一部の各界のエリートだけだったのかも知れませんが、諸事件や願心と出遇う中で、自身の邪や願いや振る舞いも問い返され、質が変わったんです。

 だから、様々の文化パラダイムで表現される願心は、無始以来自然に備わり、人間に受容されるものでもあるんです。共生も共感も他者や異なれる人々への慈しみも、自然のはたらきである。

 ともあれ、するとですね、純粋にブッダ・ダルマの世界を抽出しようとして生まれた浄土門といわず、色んな宗教における絶対観・固定我・一元性ということは、どうなのか。単一の世界観はどうなのか。単一党の一元化はどうなのか。

 「祖師方」の御影が顕彰されていますが、祖師方それぞれの言い当てられたり実践された真実はある。あるけれども、時と共に、そのままではまずいこと、やばくなることも分って来たわけでございます。

 それぞれの御影もあったわけでございますが、これは「マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリン・毛沢東連立之御影」に深々と頭を垂れてお参りいたしましても、一面の真実は確かにあるけれども、それで終わりでも、それで十分でも無かったわけでしょう。むしろ間違いだらけだった、という観点の方が、将来を創造していくと思っています。

 元来、「諸仏国」、「他方国土」というカテゴリーが「無量寿経」に当たり前のように出て来るわけですけど、インターナショナルでグローバルな古典時代のインド西域文化圏にあって進められてきたであろう浄土建立作業であったはずが、いつしか、凝り固まった世界になっている。

 異なっていても共(友)なる世界、みたいなことを思わずには居れません。諸々のブッダと私たち、みたいな。
 するともちろん、雑だ。味噌くそ一緒は困るが、全部受ける、全部許すということにしたい。

 専と雑、純と雑ということになりますと、専修念仏、ということで、専ばかりが選ばれるけれども、雑が主要で、専は副次でしょうね。
 雑は問題があるし大変ですけれども、しかしやはり異なる存在の只中にしか我々が無いことを考えますと、雑が主要な状態である。善悪は別としてですね。ですから、大変だが雑への取り組みが大事になる。異端とか背教とか雑は、実は何より私自身の姿だと思っています。ふつとたすかること無く、抜き難く逸れている私。

 雑は雑で美味いことがあるが、雑煮もごった煮も味が調和して美味いんでしょう。ハルモニアということがある。様々の文化や思想も人間も、異なれる(もの)が出遇う、異なれるが和するという処に、学びと変化と誕生と創造が、味わいが生まれましょう。和を以って尊しとするものが、大乗仏教思想だったり、専修念仏のはたらきかもしれません。
 しかも、二以上が合して一になる、というわけでは無いですね。元々の単体と質が、別のものへと変わっているんでしょう。音と音、色彩と色彩も同様でしょう。

 出遇いによって、質が変わっていく。
 異なれる存在と出遇わないような、出遇えないような専や純はアカンのです。排他もアカン。選択本願や専修念仏や廃立、決判さえ、潔癖症なまでに、警戒しないと。
 だから、岩文の無量寿経の梵文現代日本語訳で(いや、私はこの世界に留まろう)とダルマーカラは仰るわけですが、本願が選ぶのは、他者だったり、他方国土だったり、逸れたもの、異なれるもの、背けるもの、そういう怪(け)しからんモン全部、なんでしょうね。それら全部が意義を以って現れ直してくる。
 十悪五逆、誹謗正法、雑自体は、自障障他して認め合えない世界を構成するけれども、そうした世界に囚われている人間であっても、人間自体は尊ばれていく。

 で、五逆と誹謗正法と雑と無宿善(善はダルマ)自体にモメントがあるかどうか、って言いますと、無いようにしか思えませんが、あるんでしょう。
 宿善のかけらも無い無宿善といいますか、宿悪ばかりが際立った世界ですが、そこにも幸いを願う自身の姿が、否応なく無始よりこの方自然にあるんです。

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 誡められるところの認め合わない世界、認め合えない世界の際たるものとしての三悪趣について確認しておきます。

 地獄・餓鬼・畜生という三悪趣を自身への戒めとするわけですが、これは自分だけの課題でも無ければ、個人の心の姿勢だけの課題でもない。我々が暮らしている世界全体の課題である。

 個人の心の持ち方も重要なんですけど、その前に、どういう心であれと教示されているのか、状況の正しい認識が必要なんでしょう。

 地獄は苦しめる世界、苦しめられる世界です。認めず、認められない世界であって、我々が他者を排し、他者に排されている世界と言えましょう。言葉も通じない世界と言われますが、全く通じない世界。我々の住んでいる世界でしょう。

 餓鬼はもと、死後一年なり定まらぬ霊としてさ迷う者として考えられ、供養される必要がある存在とも言えましょう。飢えに苦しみ、苦しめる世界で、これまた殺し、殺される世界。
 強欲や渇望への戒めとされるようになりましたが、それはそれとして、むしろ、施餓鬼の方が重要と言えましょう。衣・食・住・交通・交流・医療・情報が得られずに飢餓に苦しむ世界であって、国際的に救援対象です。
 飢餓状態の痩せておなかの張った姿で描かれますから、放置する方がむしろ罪悪と言えましょう。やはり認めず、認められない世界であって、我々が他者を排し、他者に排されていく世界、我々の世界の姿と言えましょう。

 畜生はもと、輪廻観で死後動物に生まれ変わることから、隷属し、隷属される世界で、粗末にされ、時には殺し、殺される世界。また、動物のように互いに殺し合う世界。
 一見認めているようですけど、同じく認めず、認められない世界であって、差別・選別・殺害して尊重しない世界。
 我々が他者を排し、他者に排される世界と言えましょう。我々の世界がそうなっている。

 で、自己の内なる課題、心の持ち方をどうするか。
 地獄については、善を為し、悪を為すな。ここで善とは、もろもろの生きとし生けるいのちは安楽を求めているから、尊び合う世界をめざせ、ということでしょう。制度改革もめざすし、個人の心の持ちようも変革せよ、と。和平工作が大事。ほかにもいろいろあると思いますが、先ず押さえておきたい点です。

 餓鬼道について巷間流布されている考え方は特にマズくて、貪りを離れよ、というものですが、先ほど述べました通り、自然の欲求は、過剰な欲望でも過剰な禁欲でもない。腹が減ったら飯を食いたいのが、自然で普通。
 分かち合い、更に、与え合える世界をめざせ、ということ以外に無いわけです。施与が大事。大施主と成らん、と。制度改革もめざすし、個人の心の持ちようも変革せよ、と。

 畜生道は、自分自身の主人になる在り方、民主化と諸個人全部の尊重、差別・選別・殺害の撤廃、人権の尊重ということです。制度改革もめざすし、個人の心の持ちようも変革せよ、と。

 いずれも、微力ながら闘争課題といえるほど重い課題です。シャカムニは施与はまさに戦争だ、と。自身に打ち克て、ということです。
 死んでからのことは、ほとけさんにお任せするほかありません。
 しかし生きている間は危ういんでしょう?そして願心に生きるが故に、自分が滅びるまでの時間、それぞれの場で取り組みが出て来る。

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 前コラムと前々コラムから巡らされる様々の分野に属する事柄に思われることを続けます。

 宿悪と申しますか無宿善と申しますか、よっぽどモテ過ぎて困る人以外、皆、自身の自然よりは生ずるドロドロした溶岩流に流されていく。
 自らも他をも焼き払いながら拡散していくので、燃え盛る炎を厭うべし、というみ教えですが、自然と言うことですから、否応なく陥り、時には他者を押しこくっていく。自ら傷つき、他と傷つけ合う。

 人間の繁殖に限らず、時には死に至り、多くのばやい他者を押しのけて貫徹する自然法則と矛盾に、しかし人間は適切な道を探ることも出来ますし、智慧によって解き放たれることもあるでしょう。どう対処するか、大変重要な課題なんです。

 自然ですから、否応なく陥る。傷つけ合うけれども、どうするのか?やめられるのか?
 傷つけ合っても、もちろん押しこくって他者を押しのけようとしなくてはなりません。問題はあるけれども、全てが競争でしょう?そうでないと、無理があるんです。仕方が無いんでしょうね。中には古来、アタルヴァどころか、洋の東西を問わず男女関係を巡っては謀略まであったわけですが、さすがにそこまでいくと、短い一生の中で、どうなんでしょうね。

 ただ、他者こそ、またとても大事な人ですし、他の諸事も大事ですし、対象以外も大事でしょう?自身の選びに全く自信を持てないことがハッキリした今、どうしますか、この矛盾を?自然にして避け難いけれども、同時にフラットに尊ばれて然るべきが人間というもの。

 そういう世界を具現していくほか、道は無いんでしょうね。これはこれでまた無理がありますが、課題化して受持して共同体の、社会の方向と最低限の緩やかな規範の在り方を求め続けるべきでしょう。

 また、願い通りになっても、さあ、齟齬がありますから、いつまで続くやら、当て所なく、寄る辺とてあてにはなりません。特定の人間とだけでなく、どなたとも万民と仲睦まじい方がいいに決まっている、という事情もあります。

 選択にいたしましても、特に守備範囲が狭いのが普通ですんで、なかなか選択肢がみえてこない。
 個人の視点ですと生涯は時間ですから、ある事柄や人間関係を選択して継続するのか、転進するのか、これは諸個人の選択の自由となりますし、主体が判断して決定するほかない。
 意見を述べることは出来ても、誰も代わることは出来ません。

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 それと、これは共同体の法制の中の私らですから、共同体との関係がありまして、直ぐにというわけには参りませんが、なるべく諸個人に、お互いに、自由で寛容な在り方に近づけた方が好いでしょう。このテーマは共同体の枠内で考えられる課題でもあり続けて来たわけでしょう。

 人間関係に共同体が介在すること、国家権力、法的強制力が介在することは、自由化と自主性には望ましくないけれども、人間関係以外でも、例えば生態系の今後をどうするのかは、大変問題になっているわけです。

 ペットとか、外来種とか、駆除されたりしている。有用性とか優生とか差別化ということが突きつけられてくる。どっちみち、存在は生命体も全部、変化を免れないんですけど。先日も止む無く外来種と自然交配した猿を処分したらしい。
 人間の友であった動物にも追弔申し上げつつ、課題として受けます。限り無い悲しみと共に。ただ・・・二重人格ですから、時々(殺してまえ)に陥ったら、止めてください。

 自由で自主・自発・自治で自立することをめざし続けるけれども、同時にそれは共同体の課題でもあるんです。それぞれの自発性と自由と民主が大事。繁殖は我々の共同体の今後を考えることでもある。
 あまり過剰な介在は好ましくないし、放置も出来ませんし、寛容であるべきですが、お互いに考えていくことが大事です。

 取り敢えずいま喫緊のテーマとなって参りますのは、夫婦とか家族とか子どもとか血縁のカテゴリーを交えて多くの法制が為されているけれども、まあ、それらはそれらで改正を試みていただくとして、所属を問わず、婚姻や子どもの有無を問わず、老弱男女貴賤を問わず、国籍も肌の色も人種も問わず、どんな状態にある人でも、その人一人を尊ぶ方向で共同体の方向と法制を改革していくことが大事だと思っています。
 世界に先駆けて、素晴らしい国へ、幸せの国へ、そよ風にのって、駆け出して欲しい。諸国家のそうした競争を願っています。

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 無戒から申し上げますと、異性に持戒があるご宗旨ですと、これは問題外なんです。やってはならんわけですから、考えなくていい。やってはいかん。やったら破門なのか、改宗しないといけないんです。

 燃え盛る炎が吹き消された状態でないといかん。まあ、間違ってるんですね、お釈迦様も出家教団も。在家教団、凡夫の教団という自覚以外は、不自然で非人間的にしか思えませんけど・・・。

 しかし、自然の欲求は、過剰な欲望でも過剰な禁欲でもない。避けなくてはならない二つの極端とは違うんです。腹が減ったら飯を食いたいのが、自然で普通。ノーマルでオーソドックスなナチュラル。

 ですからこれはもう、自身の自然の欲求に虜囚として囚われながらもかかる自身に囚われないでいる状態、に近づくほか無いのでしょう。自然性には抗いがたいが、我が思いに拘泥されて苦しみや害毒を遍くそこら中にまき散らすのか、祖師方によって見出されてきた願心によって速やかに楽になるのか?

 ちなみにこの場合願心というのは、昇華でも代償でも代用でも螺旋的な展開でも欺瞞でもなく、万民受容への開眼ということです。何処のどなたであっても、対象を外れるものではない。他者をみそなわすこと自己の如くす、と伝えられます「他者」は、無差別であって、どなたでも、ってことなんですよ。尊重し合う世界。結果、火ダルマになる?そういうのとも違うんで、本当は違う世界を創造するべきでもあるでしょうけど、それは共同体の課題として探求されるべきでしょう。
 凡夫の身は狭小ですから多少狭まるんですけど、少なくとも課題化される志願は、そういう質です。

 このご宗門は、無戒名字・不断煩悩得涅槃・遊煩悩林現神通ということですが、戒・持戒・破戒を問わない好い世界があるけれども、それはそれで受持しつつ、矛盾の好き在り方を求めて参りましょう。

 ともあれ、年を取りますと、また子どもを持ったり受け持ったりしますと、賜りたる如来の願心とあいまって、限りなく多数を大事に思う状態に近づくように思います。どなたに対しても、間に合わんことや欠点が妨げにならなくなって来る。気に入らんもん、間に合わんもんばっかりで、業を煮やす日々が、転じられてくるんでしょう。

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 更にツタンカーメンについて考えておりますと、死への受け止めについて、

 ・陰膳があって、死者が一緒に暮らしている。周囲の人には見えないことが多いであろうけれども。
・また、様々にイメージされた死後世界がある。

という二点が日常であったといたしますと、今日我々が想像するような死への不安や怖れとは違った種類の不安だったように思われて参りました。
 如何なる世界へ赴いて、自分はどうなるのか、誰と会えて、誰と会えなくなるのか、という不安だったかもしれませんので、同じ不安とはいえ、補正しておきます。

 また、今日では、死者やここに居ないはずの人が実の如く現前しているように見える人が居られると(おじいちゃん、誰も居ないのよ!)(何言ってんだ、こんなに来てるじゃないか。分らんのか、おまえたちは!)ってことで、大騒ぎになるんですけど、当時のエジプトでは、そうはならなかったと思われます。

 多分世界中で昔から、時たま大騒ぎになって来たと思いますが、今日では実際に精神科に連れて来られて、症例の研究が進み、脳内物質が原因であることが突き止められたんでしょうけど、昔でも多くの人々は科学的で正気でしたから、居ないと思われたはずですが、証明出来ないので、不安に陥ったと思います。

 まあ、彼の父のアクエンアテンという名乗りが、彼の場合は自ら神が現れたという宣言でもあったわけですから、これは疎んぜられた神官たちは忌み嫌ったでしょうけど、反面、アテン神も神々の一人だったから祭り上げたか、分りません。周囲には他の神々を禁じていたらしく、遠い地域には及ばなかったであろうし、それほど強権的でなかったとしても、反発はあったはずです。

 それまで長い間アメン神中心の世界だったわけで、後には異端視されていったらしいけれども、アクエンアテンの葬祭と埋葬がどうだったか、子のツタンカーメンのアメン神復古がどういうことだったのか、宗教上の変化、社会の変化についてこそ、これからの世界創造にとって、むしろ関心が持たれます。まだ謎のようですけど。

 また、アクエンアテンは自分に似せて像を造れと言っていたらしいので、やはりやや女性的なスタイルだったとされていますが、元々女性の骨盤は重要で、男性は本能的に腰回りに惹かれるとも言われていますから、遺伝上、人類全員骨盤や腰回りは豊満になるのではなかろうか、とも思われます。しかしそれでも、上体が華奢だとか、筋骨の骨格が発達していない、ということですと、やはりそれだけ女性的なのかもしれません。

 いずれにいたしましても、古代への理解自体も今後、より的確に、より包括的で事実に近づくのでしょうけれども、現時点では推測自体も怪しく、今後の科学的研究が待たれます。

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 いろいろ自信を持っている。身も心も汚くても。
 もちろん変化が主要で静止という緩慢な変化もしくは一時性は副次であるし、誕生以後から死後初めてはたらき出す酵素が活動し始めるまでずっと激しい身体の変化にあるわけだし、出遇いと学びで変わっていく私がある。
 それが次第に自ら驚くような、末通りたる自己認識が出来るようになるんですね。私って、こんなに心変わりする人だったんだ、みたいな。

 まあ、自信が持てない、他ならぬ自身を信用できない要素みたいなもんは、何度もボロが発覚して隠し切れなくなった年配者には、鮮明にみえるようになってくるんでしょう。

 それはそれとして、自信の持てる部分、持つべき自信についても探してみました。まあいつもどおり、単純にして稚拙なので恐縮ですけど、展開を試みます。

 一番重要で私の根幹を為すべき自信はおそらく、四無量なる願心に出遇い、それに生き、それに死んで往ける私、ということだと思います。生きていける世界に生まれた、如来の願心を賜った、そういう自信を持て、と。容易には脱し難い自身を脱せしめられて、広い世界に生まれることを賜った。

 自信教人信という言葉がありますが、この語だけを取り上げてストレートに解釈しますと、自ずと自ら教を信じる、そういう教を人は信ずる。そういう信、闇雲な自信ではなく、自ずと備われる信頼、それはもう自身の内からは容易には出て来ないのでしょう。

 あと、やり遂げたことへの自信を持て、とも。目的があれば万難を排し、押しのけてでも頑張れ、と。
 これは一見生きていくことのようだが、実は死んでいく世界でもある娑婆の暮らしに属する事柄なので、いつしか潰え去る可能性も踏まえますと、根幹を為すべきとは思えません。

 けれども、結果、人々への貢献が少しでもあると、大きな喜びをもたらす自信に変化しましょう。短い一生ゆえにかえって、かけがえなき時間です。どの方面に時間と精力を費やすのか、同じ時間には多数をこなすことは出来ません。一つとは申しませんが、いくつかを選択せざるを得ないはずです。

 自身も大事ですがしかし、やはり願心大事ですので、誰もが同様と知られて、誰にもフラットに、自身には謙虚に自制と自戒を忘れずに、他者には情愛深くされますように。

 人間関係などいろんな物事を好く観察し、好く見極めたうえで、こうした姿勢が肝要であろうと思うんです。

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 以心伝心なのか夢か、16日朝方、誉田君やら落合さんが現れまして、東京タワーのてっぺん、というやや古い設定ながら、これは「尖端」ということと「高所」という二点の本能的な忌避があるんスけど、千でも万でも無いけれども百代(はくたい。永遠)とか百歳(はくさい。永遠)みたいにシンボリックな意味ですと、「一番高いところ」を象徴してますから、多分、これは自らバカたることを証明しろ、と言われてるんでしょうか。俺をバカにするな!みたいな?

 何故かてっぺんは1メーター四方くらいのスペースで、(立って)などと仰るんで(え?)と思いながらも死ぬ思いでタワーのてっぺんですっくと立ち上がりますが、風で揺れている。
 どうも、周囲の人が周りを手で囲って、交互に上がって来て、周囲に出て壁と命綱の間につかまって並ぶんですけど、登山じゃあるまいし、東京タワーの周囲に壁も命綱張れるような場所も足場も無いんですけど・・・。まあ、夢だからどうでもいいんスけど。

 そうなんです!
 まだそれとして自身を完全には顕して来ないけれども、万民に願われる願心が自身に展開しつつある若い時分は、まさに文科省推薦の「望まれる人間像」に限りなく近く、何と素晴らしいく偉かったんだ!さすがは俺だ!という思いを深くするんです。

 アホっ、みたいな?

 なお、本能的忌避には他に、雷鳴などの音や地震などへの忌避もあったり、色んな素材の音色の好き嫌いがあったりしますが、大声で突撃すると効果があるのかもしれません。また、声援も、好ましく感じませんが、まあ、所属共同体や家族やお気に入りの選手やチームを応援するのは自然でもあります。
 音色の好悪としては、弦楽、打楽器、吹奏楽器ほか、種類があるようです。好んで聞くことはありませんが、ジミヘンは賑やかですがうるさくないので天才だと思いますし、バッハやモーツアルトも背中が痺れますからやっぱり天才だと思います。

無戒からー13

 今年も2月5日、午後5時から推進員さん中心の同朋会新年会を開催いたしました。今年も経費ねん出が困難の為、比後さんなど講師を依頼出来ませんでしたのが残念ですが、お勤め、住職の話のあと、落合さんの近くから能登牛を取り寄せまして、少ないながらも珍しくすき焼きを楽しんでいただけ、喜んでいます。
 いつも通り、翌朝には寺とも思えん臭いが・・・。

 今年は東部地区教化連絡協議会(高田教区11組12組13組の連組)の共学研修部門で11組が当番で同朋会について研修会が開催される運びとなっておりまして、住職からお伝えをいたしました。

 3月28日の午後から、活動報告と講師の講義を受けていく予定です。会場と詳細は案内状が届き次第、ご案内いたします。

 弊派に於きましては、門徒は全て同朋会員となっておりますので、これを機縁に、所属門徒が多い寺は地区ごとに、少ない寺は地域で数ヶ寺で集まって、会の結成を進められるといいと思います。あるいは既存の聞法会や御講も同朋会にされると好いでしょう。

 ウチも、ちょっと法話もありますけど、飲んでもらって遊んでもらうだけですよ、と言いましたが、それも大事なことなので発表して欲しいということでしたので、吉邨会長から活動報告をいただきます。

 中身空っぽでも、中身は後からのお話しですし、いのち尊ばれるべし、ですし、集う者全員がバラバラなのがむしろ普通だと思います。それぞれのお立場でご自身の生活の糧として、生活を活かしてゆく、そうした事柄が本願の願心から同朋会員に願われていると言えましょう。

 また、東部の社会問題研修部門も11組、これは私が当番で、今回は久しぶりにアムネスティ・インターナショナルから講師をお招きすることになりましたが、難民問題を含めてお話しいただこうということで、こちらも詳細を改めてご案内いたします。期日は6月です。

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 さて、同じことを繰り返すのか、という声があるようですが、前のメモがありますので、また少し繰り返しになるかもしれませんが、前から言ってますように、繰り返しのはずがスパイラル状に深まっていって、いつしか質の飛躍があり、全く別モノに進化している・・・そんなフッサールの講義を見習い、全く素晴らしい世界の実現をめざしたいと思います。

 書き足します。必定、必至、必成は如来の願心であって、凡夫のものではない、ということになると、この願心の理解とか受容とか好ということは、凡夫には成立出来ないことに陥るわけで、成道なり往生なりにおける滅度ということ自体が否定されることとなるわけです。
 ですから、如来の願心は必ず凡夫に於いてこそ成就するわけですし、これは既に本HP上で確認して参りました。

 過去未来現在、って言われますが、未来は永代来ない未来だと思われているけれども、現在に於いて未来である。必ということである。私はそういう感じで受け止めています。

 経では常に未来ということが課題化されておりまして、未来仏の弥勒が対告者として登場していたり、未来の衆生ということが現在している。三種の浄業も過去・未来・現在をとおして受持すべしと説かれる。

 つまり、現在の中に未来が顕われている、既に来たりし世界として取り扱われている、と申して宜しいのではないか。既に現在しているのが、未来、みたいな・・・。

 ちなみに過去も、弥陀成仏のこのかたは既に十劫を経たまえり、そういう過去であり、既に成就している歴史が現在している。

 必成如是刹 必ずこの如きほとけの世界を成らん
 必至無上道 必ずほとけの在り方に至らん
 必至一生補処 必ず弥勒に至らん
 必至滅度 必ず解脱に至らん

 解脱の光輪きわもなし、ほとけの智慧に出遇うなら、有無のとらわれをはなれるから、ほとけの覚りに帰命せよ、こう親鸞様も仰います。

 回心から、身はこれ以上堕ちるところ無くひどく、手の施しようもないことがハッキリいたしまして、身は成る能わず、が愈々知られるが、この自己認識も如実知見であり、仏に見えますが、これも仏世界を知ってこそ生じましょう。

 一番大事なことは何か?何処に安心出来るのか?

 歴史ですと過去・現在・未来ですし、歌ですと現在・過去・未来ですが、経では過去・未来・現在。過去も未来も現在している。

 仏とは何か?法身の光輪際も無き(親鸞様)ダルマでもあるが、ダルマが人間に現れる時は、身は凡夫でも、本願に出遇って囚われから解き放たれた人であり、しかも凡夫の日ごろの観念と願心をそのままストレートに満足するのでは無くて、輝ける如来菩薩道として廻転せられた願心を生きる人なんでしょう。輝く。光明が現れるんです。
 また、一仏であるが、蓮如様によれば万仏を収めた一つである。法統ということでしょうし、諸仏が居られ、仏と仏とが建立される世界でもある。

 たすかる、ということは、自然に友となる人生を賜るわけですから、他者をみそなわすこと自己の如くし、時には自身を後にし、止む無く犠牲にすることもある。もちろん自己犠牲は、自身を尊ぶ日常では、同時に不自然でもありますから、なるべく自身のいのちを犠牲にしなくて好い世の中を創造していくことに精力を傾けてゆかれるはずです。

 本願は仏から衆生に発せられたものですから、社会性と言いますか、共同性・関係性に存するのでもある。「他方国土」ということがあるわけです。ですから、これをいのちとするということ=回心ということは、存在を認める世界に生まれる、ということです。

 日常の城と常識の砦に囚われている凡夫の身のままでは、ふつとたすからんわけだが、本願の力、はたらきにふれることで、仏になる。それが、病気直しや香の煙が南無阿弥陀仏の六字名号になったりするような秘蹟なんかより、もっと不思議だ、と。

 病気もくそも、遠からず死んでいかんならんわけで、もっと急がんならんことがある、というわけです。

 しかもそれは横超に頓悟される性質を持っている。竪超のつとめはそこから還相して始まるんでしょう。そうでないとつとめに成らん。迷妄煩悩に汚染され切っていて、頓悟しないことには修行も始まらんのです。修行にならんわけです。
 往生は還相回向の如来の菩薩道を賜ることですから、なあんもでけんやっても、全然還相の菩薩としての活躍が出来るんです。如来等同で、弥勒に等しい。願心を賜った方、信心の行者は、如来等同。

 正しい世界観も大慈大悲もたすかりだが、自身の思いがひっくり返されていき、転じられていく。同悲し、共苦しながら、色んな場でいろんな事柄を担う。曇鸞如来も、智慧浅くして未だ地位に入らざれば、西に拠る、と応えたと伝わりますが、西に拠りて地位に入り、仏に成る、ということなんでしょう。証果もあるんでしょう。少なくとも、教相ということが選択される。これしか無い、と。また、こうした自覚自体が既にして末通りたる智慧の眼でご自身を観察せられたところから、表白されたのでしょう。

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 少し前コラムの内容に絡んで関連する記事をはじめ、いくつか関心を触発されてウエブ上の記事を参照しました。が、個人でも集まりでも変化を免れないし、一元性にしてもその質は変わってゆく。

 大体昔から、永代、固定観念と常識を脱しない常識人でして、そんなこと、あるはずがない、ということが頭を支配しているわけです。
 もう一つは、分からない、知らない身であると自身を誡めながらも、何時しか忘れていくんですね。
 さらにもう一つ、分からないこと・知らないこと・異なれることは重要で、以前ゲーテの言葉を引きましたが、既に知っていることよりも重要だと仰る。
 更にもう一つ、知らないこと、は恐ろしいことでもあるんです。

 ちょっと話が逸れますが、前言いましたが、むくつけき髭のレーニン一行は革命時に女装してロシア国内に戻るわけですが、以前、ユースで化粧されてカマコンに出されまして、女の芝居はダメやったんですが、しばらくそのまま一人で学内を歩いていますと、女々間の距離が男々間や男女間に比べて物理的に近いこととか、当時はロン毛で、たまに女と間違われて男にすり寄られたりしましたが、ああ、男はこういう目で女を見るんだな、ってことが分ったわけでしたが、絶対に気づけない知らない世界を知ったんです。

 また、スポーツカットで使い古した作業着の風采の上がらん労働者スタイルでプラットホームに立ってますと、学生風でもスーツでもないから、掃除しているおばちゃんも親しげに声をかけてくるわけです。これも私みたいな頭でっかちには永遠に分らんかった世界です。温かなる階級の連帯感、みたいな?
 見知らぬ世界に出遇うことが、何時でも何処でも誰でも可能なんですね~。

 さらに話は逸れますが、授業は絶対出ておいた方が好い、といつも言っています。以心伝心では(自分は授業もロクに出て来おへんかったくせに)などというゼミの先生の言葉が響いてきたりするんですけど、急病やケガで泣く泣く留年した人もありました。若い頃は気づきませんでしたが、いろいろ止む無く休まざるを得ないことがあるんです。
 ただ・・・これも以前言いましたが、先生と喧嘩して就職も決まっていたのに卒業出来なかったケースもあったわけで、これはどうにもならない。

 大学に戻りましてから卒業が危うかったので、何が何でもゼミももう一つ受けなアカン、ってことで「東大一直線」みたいにネジリ鉢巻きでもう一つゼミを受講したんスけど、私の他にはいつも一人か二人しかいらっしゃらない。それが件のゼミだったんです。

 やはり以心伝心で(ゼミ二つ出とったんは君だけや)という先生の声があったわけでしたが、そうした事件があったことを知ったのはサークルの中で(可哀そうに○○クン、先生と喧嘩して云々・・・)という話を聞いて後からです。(えっ〈絶句〉・・・何でもっと早く教えてくれへんかったん、ワシなんか圧倒的に不利やないの・・・風の便りでは教授会でも問題になったらしいし。学校来てへんから知らんけど)みたいな?はまるべき場に、はまるべくしてはまり易い体質なんでしょうね~。
 そもそもゼミは一つだけ受けることになっていたらしいことも、卒業してから聞いたんですが、当時私は、全然知らなかった、わけです。

 まあ当時は怪しげながら回心もありましたから真宗学をやればよかったと思ってましたし、文革チルドレンでもあり、社会主義の理工科系大学に居るわけでも無いからあまり気にしなくても良かったのかも知れませんが、思想的関心はありましたし、心変わりして卒業することにしたんです。

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 すいません、いつも通りくだらん卑近な私事を喋りまして。戻ります。
 とにかく、現代人は特に、科学的常識人ですから、死後もサクラメントもミスティシズムもホラーも、昔はとにかく漠然と怖くて、弱いわけです。
 理由が分らない、理論的な説明が無い、となりますと、これは敬して遠ざける以外にない。ですから、以前から、お岩様もツタンカーメン様も、呪いが怖いんです。

 理智によって全てが解明されていく、まあ、智の性質上、実相へとより包括的に近づき続けるだけ、としましても、科学の説明が施されることで我々は明るくなる。解放されるんです。

 ただし念のため申しますと、科学や智には暗くなり怖くなる意味もあるんですけど、丁度迷妄や固定観念のように、やはり我々を支配し、問いの世界を奪うことがある。
 今一つは、怖いくらい智慧がほとばしり開けていく、意味もあります。
 また、人々を害う兵器ともなる怖さも、科学や知性に対して感じておくべきです。すなわち我々は持てるもの全てを悪用していくことを恐れなくてはなりません。

 知性によってどう解放されたか、と言いますと、むしろツタンカーメンに対して人間的な見方から接近出来始めたんだな、ということが強く印象付けられました。
 あの時代の彼もまた、二つの戦役で勝利を得ながらも、いつも病と死の翳りに向き合い、穏やかで活発な人生を願っている、一つだけの人生を闘って生きた人、そんな人間的な見方が出来るようになったのではないでしょうか。

 WEB知識ですから完璧ではありませんが、ゾロアスター教では近親婚が最高の美徳とされていたようで、古代オリエント全域がそうだったかもしれないことが仄見えて参りました。
 ただ、アレクサンダー直前のペルシャではアフラ・マズダの名は見えてもツァラトゥストラの名が無いので、どこまで浸透していたか不明という意見もあるようです。

 なお、ウィキでは造像は古代の当時の様式に沿ったものだという意見を尊重していますが、番組ではアクエンアテンは自分に似せて像を作るよう命じていたといわれ、骨盤の大きな像は近親遺伝によりホルモンバランスの崩れに伴う女性ホルモンのはたらきが大きいことを示すとされ、遺跡や埴輪も丸っこい像が多い場合もありますから、古代世界では少なく無い場所でこうした傾向があったかも知れませんね。
 性分化自体が女性性をベースとして展開してきた説もあるくらいですから、なり易いのかも知れません。

 シーザーみたいな自己過信、宣託(神託や預言)と強い自負心も特徴的です。周囲の仏弟子には見えなかったわけですが、以前引きましたように、シャカムニは(そこをどきなさい、神々が私に会いたがっている)と仰ったことがあり、午前は人々の間を巡り、午後からは神々の相手をされていたらしいんですが、高徳の人ですから、人々は従ったわけです。
 現代では普通、(おかしい)ということで精神病院でみてもらう。するとそこで、昔は原因を特定出来なかったけれども、脳内物質の為だとか脳の損傷等や病の為であるとか、いろいろ原因が分って来た。ちょっと前までそんなことは知られていませんでしたから、原因が分ったということは、これはこれで物凄いことで、驚きます。

 ちなみに、アレクサンダーもペルシャ王を名のり、ダレイオス三世もアレクサンダーも更に、同時にファラオも名乗っていたことから、やはりエジプト文化に魅せられていて、取り入れざるを得なかったとみます。
 もし支配の必要からではなく、半ば統一された古代オリエント世界でペルシャ王たるファラオを名乗る、ということがあったといたしますと、ペルシャとエジプトの文化水準の高さを物語るんです。

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 諸宗教間の相互浸透と変容という点では、やはり以前、仏教とキリスト教等、宗教間の相互浸透があったことを紹介しましたが、ユダヤ教へのゾロアスター教の影響があり、メシア思想が強まったという研究もあるようです。

 偏見と決めつけと狭量が支配するようなことは宗教とすべきではないと思いますし、むしろ、自己否定と自己相対化、無知の知、それが宗教とされるべきでは無いでしょうか。
 信仰や信心は、打ち固められるよりもむしろ、自らを脱皮していくものでしょう。

 ただし、唯一者があるとすれば、そしてそれが必要不可欠だとすれば、文化的パラダイムの異なるいろんな宗教や気分の形式で顕われ、色んな形式で具体的に表現される、限りなき灼熱の慈しみなる願心というものであるべきだと思いますし、あらゆるいのちはフラットに尊ばれるべし、尊び合うべし、という願心の一条をおいて、他に決めつけられるべきものはあってはならないと思っています。
 そしてこの一条は達成し難いが、課題化して受持されるに足る値打ちがある。

 で、相当世界的交流が進んだ「古代オリエント世界」成立の頃、紀元前500年前後は、シャカムニとインドとペルシャとエジプトとギリシャが早くも活発な交流を持っていたに決まっていること、も仄見えて参りました。アレキサンダーやアリストテレスだけじゃなく、デモクリトスも関係してるように思っています。旧約勢力はペルシャ時代は辺境的・田舎的な状態にされたり、まだ主要ではなかったのかもしれませんが、やはり様々の影響下に発展してきたのでしょう。

 なお、インド僧ボダイセンナが東大寺の大仏開眼供養の導師を勤めたことは以前述べましたが、ペルシャを調べている間に、東大寺の法要からあまり時代の隔たっていない頃に、イスラーム時代のアラブ人が来日していて、ペルシャ人とされ、平城京で官職にあったらしいことも分ったみたいです。中国は隋唐時代ですが、やはり想像以上に中国経由で国際交流が盛んだったんだなという印象を憶えます。

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 仏教や宗教界、延安やピーテル、アムネスティなど救援事業、宇宙の彼方やポップに生まれたばかりではなく、古代テーベにも生まれていたらしく、詩を紹介させていただきましたが、仲睦まじいことは大事。恋人を宜しく、と言い残して死んでいかれた方とか、タイタニックから落ちた妻を追ってグラナードスが波の間に間に飲み込まれていったとか、とても大事なこと。

 それにいたしましても、落ちるべき場に、スポッと、落ちるべくして、落ちるんでしょうね。
 あれほど遠い時代の遠い世界なのに、インターナショナルにグローバルにストレートに、初々しくもあり、不安と絶望にも苛まれ、醒めながらも逃れ難い「私自身」みたいなもんが、すっかり見透かされている。

 恋の予感どころやない、恋の奴隷。昔から、お医者様でも草津の湯でも、恋の病は治せない、と言われまして、古代から変わらず恋愛中毒を繰り返しているところに、エジプトのみならず人類の繁栄もあるのでしょうか。カニのハサミ、カッチャ、みたいな?
 こうした気持ちは、私にとって欠かせない事柄を見出した、という、我が思いを超えた、いのちの性質を示します。そんなに大事か、そんなに好きか、と。邪にして幻想にしてエゴイスティックではあるけれども、我が思い(状況に抗う理性、みたいな?)以前に、既にして尊んでいる私が居るはずです。対象と、対象への自身の気持の両方を、既にして、尊んでいる。

 まあ、ひどい言い方をしますと、既にして罪悪生死の凡夫、曠劫来、流転して没して出離の縁あること無し、という曇鸞さんの末通る自己認識があったわけでしたが、そのまま、その通りにスポッと当てはまっている。

 ただ・・・古代に詩を遺された方々も、年と共に気付かれていったことでしょう。
 (いろいろな自信もあるし、信用出来る物事はあるが、唯一つこの世で全く自信が持てず信用も出来ないのは、自身の異性への思いだ・・・)ということに。
 オンリー・ユーもユー・アー・マイ・サンシャインも複数形、みたいな?ワンも種類全体かもしれませんよね~。大体この、オンリー自体が怪しい単語で、オンとライで一語になっている。

 そして仲睦まじいカップルに出会いましても(二人ともだますのが上手いんだろうなあ、自分自身を)?と申しますのも、惹かれるのは自然で避け難いんですけど、付き合うのは大変なんです。合うはずがありませんしね、どんな方でも・・・すいません、爺くさくて。

 願いが叶っても関係性の質の変化は自然ですし、課題を賜る。叶わない場合も、課題を賜ると思います。他の万事と同様に、多くの選択肢に開眼出来ませんから、自分では容易にはそう思うことが出来ませんが、課題となっているに決まっているんです。

 にもかかわらず、たとえ既に異性とお付き合いされてたり、結婚されたりして、これで恋愛や異性への思いから解放された、思い悩む時間の無駄ともおさらばさ、と思わはっても、あれ、全然関係ないんですね。ゲーテの80歳みたいに、知らず知らずの内に、気が付いたら又落ちている、みたいな?

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 ただし、これも繰り返しになりますが、史実を知りいろいろ評価するけれども、現在に生かし、未来に活かさなくては意味が薄れましょう。

 モチーフの選択やテーマ設定自体が、問題設定と同様、私とか、あなたの、一人ひとり全員に自身の道を開いたり、問い返させる質が望ましいことは、言うまでもありません。このホームページではそういう事象を取り上げているつもりですけど、好い質の問いかけになってますか?

 どちらかといえば、過去は繰り返さないための参考になるだけである、くらいのつもりで、未来の開拓と創造に乗り出さなくてはならない。未来はまさに来たりしものとして、現在に於いて勤しまれなくてはならない。
 まあ・・・歴研では『歴史學研究』とってましたが、私は欠伸しか憶えませんでしたから、勉強はアカン方ですけどね。

 例えば、古代の各地でも、アメリカや「ソ」「連」や日本や中国やユーロ諸国でも、その建国の経緯と理念形成、そして変遷についていろんな視点から学ぶといたしましても、それらは全て現在とは異なっているわけでしょう。

 殊に現代人はインテリであって多くを知り、貧しいながらも多くを持つけれども、いずれも変化変質してゆくばかりではなく、個体は訪れる死王に抗うことは出来ずに、何もかもを失う。
 ですから、さまざま生活方針や事業展開や政策を以って臨みますけれども、その底には、好き世界への願心がなくては、粗末にし合い、自障障他し、認め合わないまま、果ててゆく。

 まあ、いのち自体のフラットは認め合わないといけないけれども、政策や理念、卑近なる生活や入学や就職や経営となりますと、現時点ではなお、これはもうなりふり構わぬ闘争しか無い。ですから、最良の場合でも友好を保ったまま謙譲する程度になるでしょう。

 それでも世界中どなたであろうと、一人ひとり全員が自らを尊ぶわけですから、やはりお互いに尊び合う願心以外に世界のベースを為し得るものは他に無いに決まっているわけです。

 それで、矛盾をどう取り扱えば好いのか、ということがテーマとなり、民主制が生まれ、その開発と展開が望まれてきたわけです。

 ですからまた、公的世界でも過去・未来・現在ということで、過去と未来が現在することが望ましい。
 現在と未来に生かすなら、過去の過ちを繰り返さないことが大事でしょう?変わってゆく未来を汚したり潰したりするのか、明るく楽しくしていくのか、どちらがいい?

 コラム「罪と罰」追記しました。

無戒からー12

 同朋会・子ども会等で遊びながら学べるので、三教七祖・御和讃などでカルタがあるといいと思いました。解説も付けて欲しい。もう一種類、現代語の俳諧・和歌もあるといい。誰かみたいに自分で絵と詞を書いて作ることもあるのかもしれませんが、そんな余裕は無い。

 親鸞様双六をやってみたんですが、親鸞様・などコマ数が少ないので、メンバーが多い場合に備え、ネットで画像を探してプリントし、二つ折り厚紙に張り付けてコマを作りました。お釈迦さんや七祖です。このばち当たりめ、みたいな?しかし、全員天竺雷音寺かどこかにゴールしたメンバーばかりである。まあ、ゴールが還相の如来菩薩道ということなんでしょう。
 史学からしても、親鸞様の足跡を辿る双六に相応しいとなると、覚如さまや覚信尼公や蓮如様や清沢満之絵の方が良かったということが、今回の反省点である。

 ただ、考えてみますと、メンツが多い際には、何セットか揃えておき、一班4人以内でゲームに勤しむべきでした。これも今回の反省点でした。
 ちなみに親鸞様はお釈迦様と龍樹・世親・曇鸞までが絶対で、道綽・善導・源信・源空までの七祖は、それぞれ各立の御自釈を尊重されているが、現代の仕事は、開祖以来の全員について吟味し直させていただくことでしょう。

 親鸞様トランプについては(エースをシャカムニにして七祖・親鸞様・恵信尼公・覚信尼公・蓮師様・覚如さんなどキャラものにすればいいのに)と思ったんですけど、問題はジョーカーでしょうね。提婆・アジャセも五逆・誹謗正法は逆縁興法ですし、本当の私の本当の抜き難い迷妄を教えてくださるので、配しかねますしね・・・。

 まあ、遊び方からしますと、双六やカルタの方が聞法になって好いでしょう。仄聞したわけではありませんが、多分批判でも出たのでしょう、廃止されるかもしれません。
 いずれにいたしましても、博打はいけません。え?もうやった?いけませんねえ。稼いだ分、宗門に寄進されるよう申し添えたいと思います。

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 さて、死ということが排されている日常になっているわけですが、死自体が克服課題として、不死と長寿が科学によって求められている時代でもあります。

 身体の部分の交換や更新、そして記憶の継続が可能になりますと、ボケない限り、また物理的に破壊されない限り、継続した記憶が自我として続き、自己意識が連続していく。

 かなり研究と実験が進められて来たのでしょうけど、さあ、死と死後は事実であるけれども、往生、永遠の生の世界以外に選択肢が無い場合、突然生命が途絶える死自体、やはり度外視されて好いのではないかと思うんです。
 生きようと死のうと、このこと一つに生き、機縁があって死んでゆく、それで好いのではないか。このほとけの世界以外に大事なものなど、この世にもあの世にもかの世にも存在しない、と。

 朝に教えを聞かば、夕べに死すとも可、という表白はこの事実を如実に示しているのでしょう。

 そして、昨日の私の死こそが、今日の私の誕生なんです。変化し続けて取り留めない。

 記憶が続き身体が続いても、永代流転輪廻は際も無い。長く生きれば生きるほど、出遇うべきことがあるのでは無いでしょうか。それは今とて、同じことなんです。
 老化を排して長命であることは大事ですが、もっと大事なことが忘れられないことを念じます。

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 30年ほど前『古代エジプト女王伝』というのを読んだことがありますが、エジプトとかメソポタミアの文化と宗教には詳しくありません。ほかに『古代アレキサンドリア図書館』にふれた程度です。旧約学にとっては関心の深い古代の地域でしょうけれども、私の関心としては、古代の大国、大西洋が隔てているが古代アメリカ大陸との関係、地中海―西域―インド世界、といった大変大雑把なものです。
 さほど多くも無いのかもしれませんが、女性が女王になる文化の方が男性による女性への偏見や差別が緩いかもしれませんから、この点に先ず関心を持ちます。

 発掘と科学発展の成果に依り、今後、ある程度ですが、ますます史実が明らかになるのでしょう。

 先ごろツタンカーメンを取り上げたTV番組がありまして、その中で彼の父アクエンアテンの宗教改革に関して幻想・幻覚が取り上げられており、これは関心を惹起されました。

 ウエブも調べてみますと、ツタンカーメンの父はアクエンアテンで、母はその妹だったらしく、またツタンカーメンの妻は、アクエンアテンの妻の内の一人だったネフェルティティとの間に生まれた娘とされる。ちなみにネフェルティティはアクエンアテンの父の妻の一人でもあったそうです。
 紀元前14世紀、アクエンアテンはアテン(アトン)唯一神を重視し、アメン(アムン)を排したとされるが、ウィキによるとマーセア・エリアーデは実際には王自身も神扱いなので、二神とみていたらしい。
 その後ツタンカーメンの代になって再びアメンが主要な位置に返り咲き、彼の記録は葬り去られたとされる。

 番組によると、古代エジプト王家では近親婚が何代にもわたって頻繁に繰り返されたことが明らかになっていて、側頭葉てんかん、身体の変形と欠損、ホルモンバランスの崩れによる女性化、強い幻覚、短命化が進行したそうです。
 そうしますと、現代でも少なからぬ事例があるんでしょうけど、殊に古代世界全体では、近親婚の傾向が強かったかもしれない。少なくとも王族の中ではそうだったかもしれない。
 
 そういたしますと、幻想に関しては、以前お釈迦様のみていた神々やその世界にふれましたが、老化や痴呆などが関係して脳内物質によって幻覚が起こる事例が科学上証明されているが、それと考え合わせますと、シャーマンやその他の宗教上の神秘体験など多くの事跡との関連があるかもしれません。
 いろんな原因が考えられますから、断定はいたしません。

 ただ、前から言っていますが、ある世界がある、ある人(人々)や存在が居る、という方には、確かにそれらが存在するわけで、他の方々には分らなくても、実体のように在り続けるわけです。
そして現実もまた移ろいゆく幻のような在り方を免れませんし、それなりに幻想的存在を取り扱って考えなくてはなりません。観念・気分のようなものでも時には大変重要な岐路になる、という事情も考慮されなくてはなりませんし。

 ちなみにお釈迦様の場合ですと、取捨選択・判定ということが教えられ、幻想だろうと実体だろうとハッキリと、善き世界と人々に害と苦しみをもたらす悪しき世界を示されたわけです。アタルヴァの禁もそうですし、娑婆世界の問題性の解明もそうです。

 今一つ関心を持ちましたのは、もし、遺伝子が近いほどあまり生殖しない方が望ましい自然の事理があるとすれば、自然に於いてはのっぺりとした一元化・単一化自体が勧められていないことの証左になるのではないでしょうか。

 血統の一元化はいろんな問題や幻想・幻覚を拡大再生産しかねない、という印象さえ、憶えます。

 実際にはいろんな現れ方があるのでしょうから、好い傾向も強く現れ易いのかもしれませんが、青芝の先生の力強い言葉を想起します。青芝は優性保護という差別との闘い、ということです。いのちの尊重に於いてはフラットで、善悪の差別が排されます。

 これは比較的閉ざされた環境など、他の動物を含めて更に点検されなくてはならないかもしれませんが、更に有袋類など絶滅した生物との関係では、脳の大きさとか破局噴火とか巨大隕石のほかにも、やはり生殖や性ホルモンのバランスの崩壊、遺伝子の偏向などがあったのかも知れません。

 閉ざされた近い世界に比べまして、バラバラで一緒、差異を認め、はるか遠く隔たった「異なれる」との出遇いを喜ぶ世界の発見こそ、矛盾こそが深まりと発展を導くかもしれません。このこと自体、初めからキャパが要求されますから、異なれるキャパの育成に繋がるでしょうけど。

 ただ、矛盾の取り扱いはあくまでも双方の質の変化であるから、必ずしも片方の消滅を意味しないし、消滅しても一つのものに次の矛盾が孕まれて来て分裂するから、永代、質の改善が可能である、とも言えましょう。
 私的には単純バカですので、ブルドーザーでガガガガガアアーッと押しこくるみたいに、皆で力任せに前に出ることしか知りませんけど、矛盾の世界をどう受け止めるか、どう対応するのか、調停だけでなく、本質的な友好をどう実現できるのか、民主化カリキュラムや政策が問われており、宗教世界にかかる幻覚の研究と併せて、改めて大きなテーマで、疲れを憶えます。

 余談ながら、ツタンカーメンの妻は七歳ほど年上で、父アクエンアテンの子も産んだらしいとされますが、夫妻は仲睦まじかったとされています。

 それとは多分無関係だと思いますし、訳がこなれていない、状況が分り難いと感じますが、詩を引きます。

Ⅰ 唯一の、いとしく、かけがえのない人
  この世で一番美しい人
  ごらん、輝く新年の星のよう
  美わしい年のはじまりの
  淑やかさきわだち、肌輝く人
  清らにまたたくそのまなざし
  甘美にものいうそのくちびる
  あの人はよけいなことを口にしない
  
  細長のうなじと輝く胸もつ人
  髪にはまじりけのない青玉石のかざり
  その腕は黄金の輝きをしのぎ
  その指は蓮のうてなにもにて
  重たげな腰とほっそりとした胴をもち
  その両脚は美しさを競いあい
  地の上を歩むとき、歩みはあでやかに
  あの人の挨拶は私の心を奪う
  
  あの人はすべての男たちの頭をふり向かせる
  あの人を見る為に
  あの人の挨拶には誰もが心を喜ばす
  自分こそ若者の第一の者と考えて

Ⅱ 恋しい人がその声で私の心を乱します
  そして私を病気にしてしまう

  あの方は母さまの家のすぐそばにいる
  だのに私は行きようを知らぬ
  母さまがよくして下さるかもしれぬ
  そう、母さまに会わなくては
  私の心はあの方を考えたがらぬ
  いとし心が私をつかまえているのに
  ごらん あの方は分別をなくした人
  でも私とて あの方と同じこと

Ⅲ 私の心はあの人の姿に恋いこがれる
  あの人の住まいにいたときに
  私は二輪車に乗ったメヒに会った
  あの人は若者たちに取り囲まれていた
  
  あの人をどうさけたらよいか分らない
  知らん顔して通り過ぎたらよいのか
  河の流れが道のようにみえて
  足の踏み場が私には分らない

  ―テーベ出土―

(現代教養文庫『古代エジプトの物語』から‘77.2.3日誌に抜粋)

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 キミに胸キュン、みたいな?
 幻想ですねえ、これはこれで・・・。永遠の幻想みたいな?
 はて?恋愛でボロボロになることとかポエムに趣味でもあったものか・・・。

 自身、40代・50代の洟垂れ小僧にも満たない、ハタチそこそこっていう乳幼児時代、詩に於いては暴力と恋愛は排するって質には、なお、傾いていなかったみたいな・・・まあこの排という質自体の問題性があるわけですけど。

 幻想的なアートには心惹かれる方ですけど、若い、っていうこと自体にも、幻想が入り易いのでは?
 美しい二人、みたいな、とてつもなく大きい幻想が。
 そしてそれは抗いがたく主体を打ちのめし、完膚なきまでに虜にもし、世界の終焉までをも、招きかねぬかも知れません。

 しょっちゅう胸キュンになって参りますと、いやあ、やっと年を取れてきたか、みたいな?さあ、若い時分には立ちはだかる壁もまた厚く感じられがちでしょうけど、大丈夫です。対象喪失しても、対象は際限なくいくらでも現れますから。ただ・・・対象が多い場合は、絞られた方が無難のような気はしますけどね。

 ともあれ、大変、文化的ですよね。文字に記されたことから、当時の高位者の間の文化に過ぎんのでしょうけど、とても古代とは思えません。
本をメモした部分では、古代エジプトでは食事にも常に陰膳を備え、幻や精霊や死者や神々や怪異と共に暮らすことが日常だった、リリックでもあった、と。

 話が外れますが、この年の1月から4月までは、岩文『絞首台からのレポート』、筑摩世界ノンフィクション全集第30巻松田道雄さん訳でトロッキー『レーニン』と大杉栄『自叙伝』、クルプスカヤ『レーニンの思い出』、前にふれましたが『いやな感じ』、『風に吹かれて』etc.etc・・・目通しして、抜粋したり所感をしたためてます。三木清の短歌も筆写していました。

 ちなみにメモによりますとレーニン=あらゆる障碍を排してキビキビと実務に励むが人間的、毛沢東=秀才・優等生的人物、という視点はこの頃に固まったみたいです。(我々はみんな小レーニンでなくてはならない!)とありますから、恋愛ポエムみたいにレーニン的シルエットを胸に抱きしめるようになってましたね、当時は。
 たしか記憶では米国における政治家の類型化研究の中にも、レーニンはイデオローグにしてオルガナイザーにしてアジテーターである類まれな人物、という評がありました。
 疑り深くテキパキと実務に取り組みながらも、オープンで聡明で活発な人柄だったのでしょう。

 最近、文革の問題点を取り上げる番組もTVでやってまして、随分問題だったことも分りました。当時「文革チルドレン」だった私らは社会主義の仮面を被った走資実権派との闘争を支持し続けたんですけど、体制を問わず、人々を害うほどの悪はありません。
 争いも平和と繁栄の為。武力を交えずに道を切り拓くべきと考えます。矛盾の取り扱いに精力を注ぐことが、現下のテーマでしょう。

 柔らかくかろがろと明るく活気ある朝を迎えるフリーダム、春風であるべきで、遠い夜明けにしてはならないと思います。

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 たすかるということ、還相の如来菩薩道ということは、困窮者が居なくなることですが、困窮の一番深いものは、他者をみそなわすこと自己の如くす、ということが欠けている状態なんです。

 言ってみれば、菩薩としての死。たすかっていない状態なんです。解き放たれていない。
 ひと時は飯食にありついても、死んでゆく世界のまま、ということでもありましょう。仏道は逆に、ひと時の飯食が無限に生きる世界でもあり、限りなき灼熱の慈しみに於いて限りなき繋がりの世界でもあります。

 もちろん、特にAIや赤新月赤十字ばかりではなく、至る処で他者をみそなわすこと自己の如くされ、自らを後にして、人々の為に様々取り組んで居られる方々も少なくありませんし、災害その他多くの現場で可能の支援を有縁に供給しておられる方々も少なくありません。
 実は企業や共同体の多くの事業も、既にそうなっているんです。嫌々であれ、好んでであれ。
しかしもちろん、不十分である。また、時には人々を害うことがある。けどそれは企業だけじゃないでしょ?
 そういう意味では、多くの人も私も先陣を切れずに、むしろ遅れを取っている。後塵を拝するような恥ずかしい姿、そんな爺になっている。厚顔無恥なのがすくい、みたいな?
 無量寿経でも、むしろこの世で善きはたらきを一事為すことが困難で、且つ、尊い、と。ただしこの言葉は、そう成り難い自身へのいたみや戒めをも示している。

 やっと糸魚川のお見舞(繁原さんと市に各10000円)に行ってきました。釜ヶ崎炊き出しには米、朝田教育財団3000円、人権同和センター3000円、同宗連3000円の方も何とか会費をねん出しました。
 小雪のままで、何だか、春も早そうな気がしてきました。

無戒からー11

 宗派・教区の動きはサイドコラムで紹介してますし、それぞれHPがありますのでご覧いただければと思います。

 藤戸さんのご逝去に伴い、高田教区の補欠一人について宗選があったんですけど、投票になりまして、どうしようか、と。どちらも好い方なんですけど、宗政に向いておられるのかどうか・・・向いていない方が宗務にとって、より大事な面もあるんでしょうが。今回は若い方に入れましたけど。

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 自己関心、我執、即自的で批判点が十分省察されないままのわが思い、日ごろのこころ、はかない勝敗、生滅、有無に囚われた娑婆の論理、そうした世界は狭く、絶対的で、固定され、先窄まりを免れないわけでしょう。

 最期には何もかも失ってゆくだけの、空過流転の人生。もちろん、それでも大事なんでしょうけど、それだけでは本当に大事には出来ない。

 蓮如上人「白骨の御文」でも、はかない我々の姿が悲れまれ、知らされ、無量のいのちに帰するべきことがアピールされていくわけですが、現代では、さらに復演いたし、ひっくりかえす必要がありましょう。蓮如様の思いとしましては、ひょっとすると、死もお別れも空しいから永遠のいのちに帰しなさい、ってことかも知れんのですが、死が訪れるのは生滅・有無の囚われの世界なんでしょう。
 我や有無に囚われている「私」なるものは、ほとんどばち当たりであり、且つ、己を省みることが無くなったところの、近代以降の「在りて在る私」から出発して、私の臨終と共に潰え去って、永代戻れない世界でしょう。

 実相としましては、世間通念と逆ですから、存在というは移ろいゆくものに過ぎず、生滅も有無も言い当て難い、わけです。
 移ろいであるから、個体も別の物体とカーマのはたらきから生じ、死ぬまで動きがあるが、個体の死ということも、変化し続ける過程を示してはいても、断定はしないけれども、定まるということは存在しないであろう、と。
 まあこれ、アタマは抵抗するんですけど、身は受けていくほかない。

 かような身自体も悲れまれるべきなのかもしれませんが、仏教は何より先ず自身の内に原因を見つける運動ですから、かかる移ろいゆく存在にも関わらず、我執によって、かけがえの無い短い一生を、認め合えない自障障他する生涯で終えることが、悲れまれずにはいない、ということでしょう。

 けれども、アタマも大事、と言うより、こころも大事。

 如何に身は移ろいゆくと雖も、それでも、仏意・願心から生ずる本願に生きる、ということにおいて、初めて満足、安堵、大安慰がある。

 本願とは、誰でもを大事にし、尊重することから出発した、解き放たれ、たすかり、真の安らぎ、真の帰依処、いのち帰するところを与えたい、という限りなき智慧と灼熱の慈しみなんです。そこにこそ満足がある。

 仏意・願心に、かかる世界と同時に、慈しみの安らぎが既に備わっているんです。我執が滅び去って、身は底下凡愚の罪人のままながら、ともなる私が、あらわとなるんでしょう。

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 ちなみに、蓮如様「後世を知らざるを愚者とす」の「後世」とは菩提の世界、往生人ということですが、いろんなことを知っているけれども、いつも狭いんでしょう。

 踏みつけにされたところから見たり、座り込んだところから見たりすると、世界は違って見える、言ってみれば少し世界が広がるけれども、それでもなお、狭いのでしょう。

 例えば我々人類は、ほとんど全員が差別されてますから、怒りと憎悪を禁じ得ませんが、それだけでは、自身の解放に繋がらない。怒りは自然で、反乱も暴力も自然の場合が少なくないが、むしろ自障障他しかねない。

 相互に認め合え、分かち合い、与え合う世界に生まれないといかんわけですが、テロリズムや経済主義はもちろんのこと、一部の運動に発心・発願して身を投じるだけでも、根本的な打開になっていかない。
 可能であれば、ですが、救援支援に身を投じるのは大事です。しかし同時に、人間解放は共通すると雖も、須らく、個別的で限られた範囲の救援事業になっているわけでしょう。

 仏教でいえば、自他を尊重している自身の内奥に気付き、仏性の運動に生まれるほかない、ってことでしょう。

 ヤワカル明るいことが大事で、結束した運動は主要ではない。

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 必至、必定、必成ということを、蓮如様は「如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏」、と、言われますが、往生が定まる。定まるということは、必にして成である。

 自己を滅ぼし尽す、もう自分なんかどうでもいいんじゃないか、自己を忘るる、それが大事なんですけど、ただ忘れるだけじゃダメなんです。
 固定化されて質がスポイルされてしまう懸念は依然としてあるけれども、蓮如上人「聖人一流の御勧化の趣は信心を以て本とせられ候、その故は諸々の雑行を投げ捨てて一心に弥陀に帰命すれば」ということがあるわけでして、法の深信、ダルマが鮮明であることが大事。そういう法統(真のサンガ)が大事だということが一つある。

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 政治と宗教の交わりは、関係性、まあ、生産関係とか人間関係とかいろいろあるわけですが、他者との関係ということが重要なんでしょう。宗教は、他者をみそなわすこと自己の如くす、ということがあるので、社会的なことに取り組む。

 しかし、政治も宗教もあまりいい印象は持たれていないし、特に政治は「支配と統治」の発想ですから、全部台無しにするので、忌避されている。また、政治宗教と言って政治の道具として宗教をやる教団もある。政党みたいなもんです。

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 話は変わりますが、昨年師走頃でしょうか、坊さんの中でこのHP上の「力」というカテゴリーが話題になっているので、改めて探ります。
 本願力などに表現される「力」とは、はたらくはたらき、機能であり、弥陀如来お骨折りあって、などと表現されるように、より人格化されるときは骨折りとされたり、寄る辺ということになる。
 物理的には動因ということにもなるし、本願をそのように見ることも普通ですが、動因は自身と不可分の本願というところでしか成立しません。自身にはたらいて初めて、本願(如来の法統)が動因と呼べるのでしょう。はたらかないとき、未生であって、まだそれとして現れて来ませんから、無いも同然。

 また、モメントについても話題となりました。
 モメントというのは契機ですが、いつも仲良くある世界に越したことはありませんので、かかる世界を願い、実現せんとする本願との出遇い、チェンジの機会、機縁と考えてよいでしょう。機械的な機縁では無くて、そうした意味を包含する定義で好いと思うんです。
 契機となるような出遇いをもたらすには、先ず法統が知られなくてはなりませんが、知られる法統の質も問われます。

 人生は短く、朝には紅顔あって、夕べには白骨となりますので、短時間で出遇う効率をアップするモーメント(力、はたらきの効率)も大事でしょう。
 ダルマを目の辺りにしながら、出遇い、即の時に1から10まで届くようにさせる、そうしたダルマの構成、モーメントが欲しい。

 仏意・願心を表現した本願念仏のみ教えこそがそうしたモーメントが高い、と思っておられるけれども、何処へ導くのか、何処まで導くのか、時代の限界もあるし、紛れ込んだ有象無象もあるし、十全では無かったのでしょう。

 如来の世界は絶対にして超絶して異質の世界という受け止めが多いでしょうけど、そのまま輝けるばかりではなく、人に現れ、存在に現れる時、輝くんです。

 日常の城・常識の砦・娑婆そのものの、先窄まりで何もかも失うだけの悲れまれるべき往死する世界も、それなりの意義を持ち始めるのは、先ずは即の時の願心の開発、回心往生から。
 死にしなでも死に際でもいいんですが、蓮如様「仏法のことは急げ、急げ、若きときたしなめ」と。

 ちなみに、「朝(あした)に教えを聞かば夕べに死すとも可なり」というお言葉がありましたが、死ぬ前にどうしても知っておかねばならないことがある、それはあなた自身、存在の実相だ、ということでしょう。
 宇宙の果てに行ってみたいし、そこに壁がありますと、指先で破ってみて、とにかく頭を突っ込んで「その先」を見てみたい、的な好奇心もあるんでしょうけど、遠い世界と同じく、自己自身が分らない、と。

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 住職として日赤社費3、000円、海外と国内たすけあい(2000円づつ)、いつもどおり少額で恐縮ですけど納めました。大杉の里や学園には差し入れしてきました。今年はお酒とビール。今のところアムネスティ年会費12、000円は滞納せずに済んでますが、低所得なんで、ちょっとどうかな、ってところです。
 熊本については募金箱に上乗せして宗派と日赤に半々(5、871円づつ)納めました。
 あればあったなりに、無ければ無いなりに、それぞれご尽力いただければ、と存じます。既にご支援いただいている方々には表敬いたします。

 困窮者が居る、ということ自体、実は仏教上あってはならないことなんです。本人に原因があっても取り除くよう、特に無ければ無条件で、支援したいものです。まあ、支援側も能力不足かもしれませんが、末永く、末広でやりましょう。

 同時により根源的な人間の真のたすかりから申しますと、一人が万民の為に、他者をみそなわすこと自己の如くする、になっていただかんことには、やはり人はたすからんわけです。
 互いに全員が分かち合い、与え合わんといかん。

 最終章で「極度的の見事に説き明かされて迷い氷解し、再び疑問を持つ余地が無くなったで章」を説き終わり、三世十方の如来、尊者に帰依礼し奉り、歓喜してそれぞれの持ち場へ還ったわけですが、「現場から愈々問われる私があるので章」が始まったんでしょうかね。

 私の年明けは、と申しますと、てめえが悪いんじゃねえか、などと仰られるので、VS元はと言えばあんたらが悪いんや、とか、お前何考えてんねん、VSいやあれでいいんです、って感じで、教団への怒りやら、いつもどおり今年も新年早々「見苦しい泥仕合」から始まったわけですが、SFとかML毛とかAIとかいろんな解放運動とか様々の学校での学びや日常ふれさせてもらいました色々からの学びを交えつつ、縦横に自由に引文させていただき解釈を進めて参りました。偏に皆様方のお育ての賜物です。

 体制と反体制を問わず、各方面の先生方に厚く御礼申し上げます。
 また、私の乏しいAI活動にもいくつかの政権と、決起する魂に恵まれたる有志の方々に協力いただいたことに、甚深の謝意と敬意を表します。

 また、日本の政府にも人権条項批准や、まあこれ、まだまだということや、反って改悪じゃないかみたいな批判を含めながら、国民の声が更に届かないといけないんですけど、多くの福祉・保障制度への改善策にも尽力いただけ、喜んでいます。

 今後とも世界中の人間生活の為に尽力いただくことを願ってますけど、世界中に暗雲が垂れ込めて参りまして、(この惨状では、どやろお・・・)と思っちゃうんですけど・・・。

 更に、質は不十分かもしれないが、人々の為のあらゆる防衛と解放運動にも多数の方々に参加いただけ、喜んでいますし、表敬いたします。同時に改めて多くの有志の犠牲を無駄にしてはならないと強く感じます。

 それで自身は今年、「汎ゆる領野に於いて人々の為になる質を」ということについて、果たしてこのこと一つに尽力できたかどうか、奉仕し服務できたかどうか、これから更に道を窮めてゆくわけですが、点検したところ、なお、不十分だったということになるんでしょう。
 更に、前へ、と。

年頭のご挨拶

A happy new year!

 謹んで年頭のご挨拶を申し上げます。
 旧年中は仏道にいろいろお世話になり、有り難うございました。本年も一層のご支援をお願い申し上げますとともに、御清祥ご精進を衷心より念じ申し上げます。

 また、先年までにご逝去された方々をご追弔いたしますと共に、事故・病気で苦しまれた方・災害で被災された方々・様々な被害と苦しみに会われた方々に、衷心よりお見舞い申し上げます。

ってことで、人々の為のテーマー友好・安寧・繁栄ーに沿った恒例のスローガンを掲げておきます。

Stop torture!
Stop death penalty!
Protect human rights
Stop violence against women
Control arms
Stop war!
Stop nuclear power

要するに、全ての人権条項の具現化、ということでしょうね。ほかに、諸個人の職業上の事柄も課題となっています。

 なお、早々に賀状を賜り有り難うございます。

合掌


 掲載を休んでいる最中ですが、年末にかけて雑務に追われまして、ごくわずかながら所感のアップが遅れておりますが、近々アップ出来そうです。
 いつから休んでいるか・・・何年か前から(休み中)と言ってますけど、休んでいる間に最終章になり、その後も休んでいることを確認しているはずです。休み中でも喫緊の課題があるということですが、テキストやディスクールへの当りは大幅に減ってまして、望ましくないんですけど、どなたかやって居られるだろう、と。

無戒からー10

 さて、発見、再構成・刷新・創造ということですが、基礎的なカテゴリーを点検し直していく。
 一応注意深くですが、何でも自分から進んで取り組む。ですから、どなたも自ら進んでもらうしかないと思っているんです。
 人に言われもダメでしょうし、機縁が熟さないといかんのでしょうね。

 子供と遊ぶのは楽しいんスけど、子どもでも大人でも、1から10まで伝えたり、会議をやったり、オルグしたり、そんなのは極度的の苦手で、物分りの悪い人に説明や講義を続けられるような偉い子とちゃーうんスね~。

 火宅三界からおもちゃで脱出して貰っても、今度はそのおもちゃが火宅になっていらっしゃる、みたいな・・・。
 どこどこまでも娑婆の延長で、エゴイズムや狭い自己関心の世界から、存在を認めない世界から、自障障他の道から、独生独死独去独来的で絶対観・固定我的の先窄まりから、十分には出離の縁が無い。
 出ても、どこまでも小なんです。
 どこどこまでも脱しないまま、ということです。

 根底的ひっくり返り、回心転換も大変ですけど、確かに転換された人生であってさえ、課題が分らん、みたいなことも少なくない。

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 人類の教師シャカムニ・ゴータマ・ブッダですが、ダルマを体現して輝ける星であるけれども、娑婆ではどうなのか。

 今やどこの場に顔を出していても、世界の枢要にして中心たる大慈大悲の智慧たる本尊が居られないと、疎遠で空虚な場にしか感じられなくなっている私ですが、以前には、そうではなかったわけです。

 実相の覚者たるシャカということは理解できるし、表敬するわけですが、その高邁なる理想も草葉の陰か洞(ほこら)に居られては、人類的救済にならん。
 また、我々の暮らしとは何ら関係しないうえ、理想も高邁すぎる。
そのように疎遠な存在として見ていたわけです。

 ですから下宿先でも、三つ折り本尊は折りたたんで箱に仕舞い、再び開かれるには随分長い時間を経ていく。

 シャカは存在の根幹にして最重要を発見され、そこから生活方針のみ教えを説いたから良いとしても、生産は生活と意識においてどう取り扱えばいい?そういう課題もある。先生業、サービス業はそれはそれで価値があるが、現場はどうなのか。

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 『三誓偈』的の大施主シュリーマーラー夫人ですが、利潤論以前に、富はどこから来たのか、ということが抜本的に見抜かれる必要がありましょう。
そして、価値論以前に、何処へ還元するべきなのか、誰が必要としているのか、という課題の発見が必要でしょう。

 まあ、物品ばかりか貨幣の価値でさえ、使用価値と交換価値のほかにも副次的にはいくつかありそうですが、真の価値はと言えば、一人ひとり全員の生活に生かされる経世済民にしか存しないと思うわけです。
 その為には生産力を増大し、生産関係を好もしく改善し・・・と課題も多いんですけど、先ずは。

 困窮者保護受け入れの施設も生活必需品の施与も重要ですが、より重要なのは現代では、自立してもらえることと適切な職業とゲインを手にしてもらうこと。もし夫人が現代に居られたら、きっと、それにも手を付けると思うんです。

 しかし、富の1%集中時代、産業の活性化は部分的には可能だが、既に最低必需品はかなり整備されており、循環やメンテが主と成り、まだ行き渡らない地域は多いが、購買力を欠く。
 当然、資本投下も滞り、従前の発想からみるときには、長期低迷、長期低落にしか思われなくなるので、ますます資金の投下も企業も滞る構造にあるわけです。

 つまり、循環したとしても、消費されるだけの資金投下が、例え人命救助の為であっても、忌避されがち、とも言えましょう。
 公営か自営か、暴力装置や消防隊、救急隊は辛うじて設けられている場合が世界的に少なくないわけですが、生活困窮の手当てまで回し難い意識と環境に置かれている、と言えましょう。

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 生きている今、ってことは、往死の只中の今、なんです。何もかも失ってゆく先窄(すぼ)まりの往死が人生ですから、薄俗にして、二の次三の次の、不急の事を争う毎日です。

 しかし、回心=信心=菩提心=慈悲願心に出遇い、それが私の主と成ること=往生により、その二の次三の次のことも、否、些細な万象全部も、改めて意義と喜びと価値を以って、立ち現れ直してくる。
 生まれ変わって、改めて生き直すようなもんです。生きる

 日ごろのこころ、常識の砦、娑婆の論理、世間通念の世界は先窄まりで何もかも失う世界、往死の世界、死んでゆく世界なんです。
 これに対してほとけの世界は、いのち生きる世界。往生の世界なんです。仏教は葬儀と死者の世界でもあるけれども、むしろ、生者死者ともに生きる世界。世間の理解と逆なんです。

 本来大事なはずの自身の人生も二の次、三の次にしているのが、往死の人生にしているのが日ごろのこころ、日常の城、常識の砦ということでしょう。その自ら粗末にしてきた人生が、そのままに、自ら尊ばれる人生に転換する。

 実際には寺は往死の場みたいに思われているし、現状はまだまだそうなっていないわけですが、本来、寺、サンガはお浄土みたいなもんで、そこに集う内は思想・信条・政治・経済などこの世の垢を脱して、自身を滅ぼし尽して、我が身を捨てて、我が身を超えてお付き合いをする、素晴らしい願心の中にあるんです。同朋の会である。

 けれども、身は生死生滅のままの流転底下の凡愚罪人のままですから、かかる身に還ったとき、愈々、願心が問われるのでしょう。政治や思想どころじゃない、あらゆる事柄が日々の争いの種火になっている。

 どうしましょう?チェンジの実例は世界中に多数あるんですけど・・・。

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 糸魚川で大火がありました。被災の大きさに驚きました。被災者の皆さんにお見舞い申し上げますが、人的被害が少なかったのは好かったです。
 各種の汚染も少な目でしょうから、復興もスピーディーに進むべきだと言えましょう。

 先ず第一に被災者の今後の生活確保に基軸を置かれ、被災者一人ひとりの意向に留意されるべきだと言えましょう。
 そのうえで、被災地域に対する各種の政策と救援策や支援策が決定され、実行されるよう念じております。
 ・・・ってことで、早速見舞に行こうと思うんスけど、片付けの邪魔になりそうなので、もうちょっとしてから伺います。

無戒からー9

 11月9日にはみぞれが降りました。

 翌日、近くの道路から見ますと、キューピット・バレイのコースに初雪が白く残っています。

 菱ヶ岳が2~3回くらい白くなると山麓のこの辺りも根雪が積もり始めることが多いとか。山麓も一緒にいきなり1メーターってこともあるんでしょうけど・・・。

菱山.jpg

 11月18日には、初霜がありまして、朝には車の水滴が凍っていて、霧の覆った場所では0℃以下が8時過ぎまで続いていました。

 先月の関東地方の降雪時には、霙(みぞれ)くらいあったのかな、ほとんど降りませんでしたが、さあ、野菜の引っこ抜きの関係で、いつから積雪が始まるのかが最大関心事となって参り、いつも通り負け、こらえきれずに全部獲りました。

 建物の羽目板は大分前に済んだんですけど、野菜またじに鉢仕舞いと、冬支度に慌ただしく駆けずり回っております内に、師走になってしまいました。
 皆様大過なく、大過があってもめげることなく、前に出られることを念じ申し上げております。

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 ブログのテーマに上空から地球を写した写真を掲載させてもらったわけですが、世界の鳥瞰的な分析と総合、パースペクティヴである。

 大乗ということから、至るところで人民に寄り添わなくてはいけませんから、パースといいましても、何百億光年という暗黒星雲の彼方からではなく、比較的近いところからのもの、ということです。
 果てばかりが気になりますと、宇宙の果てからの方が光の届いて来ない先が分っておもろいのに・・・と思われるでしょうけど、足元が既にして曠劫来流転で危うい。

 空間も広々として、雲も淡いブルーも奇麗です。地上からの近さも、丁度いい按配で、心地よさが伝わってくるフォトです。

 テーマの深刻さからいたしますと、怪しげな星雲団とかブラックホールのフォトでもいいのかも知れませんが、明るい将来の方に比重を置いた現在が大事だと感じます。そういう意味では、将来設計のパースという願いも込めたいですね。

 上から目線、という非難を浴びたりすることがあったわけですが、文字通り、上からのパースです。
 ただ、気持ちはすぐ近くに寄り添って。大体、東大は大所高所から、上から目線でしか物事に取り組めないので普通の仕事には役に立たん、とされているんですけど、瑞穂さんあたりの東大組から仰られましても・・・。

 昔ですと、たまに、お釈迦様の手で蜘蛛の糸とかが降りて来たリ、出題範囲のプリントを見た瞬間漢字だけしかなく目の前が真っ暗になり(ダメだ)で後輩に講録を借りてもらって猛勉した記憶がある観心略要集みたいに紐が降りて来まして、悪人がスルスルと極楽世界へ引っ張り上げられるのかも知れません。

 しかし、人類全部が極重の悪人であるらしいことが判明した現代、もはや全部たすかる梵網を垂れないと、とても間に合わないのでしょう。ワシ・・・身体弱いねん、ということで、地球を支えるのは諦め、何とか全部たすかる投網みたいなディスクールをめざしたいと思います。

 言ってみれば童話です。創造性が欠けてるうえ、子どもの相手も出来るような偉いコとちゃーうので断念しましたし、弱すぎてタイガーマスクも断念したんスけど、皆の為になり、自らまさに育ってもらえる質。

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 さて、いろんな意味で、少し基礎論的に、基礎を成している事柄に迫り直して、再構成なり刷新が導かれるかもしれません。
 どうあるか、どういうものとして構成されたか、そして今からするのか。

 我々はインターナショナルにグローバルに自然に、世調とか意識調査を待つまでもなく、慈しみに満ちた、広々として明るく、活気に満ち、温かく喜べる素晴らしい世界、一言で言うと、速やかに疾く満足できる世界を求めている。菩提心、信心、仏国土ということへの求めを、最初からご存じである。

 けれども、我々は自然状態ではさまざま人間を害い、自障障他する身心や思いや行いを同時に孕んでいる。慈しみの智慧から、あるがままの観察の結果、火宅三界が好きであるようにも、窺える。
 加えて、未だかつて素晴らしい世界を拝見したことが無い。未曾有見で、知らないとも言えましょう。

 ですから、菩提が、本当に開発されなくてはならない。
 真に開発されぬ内は、なお、雑を併有するわけです。また、かかる自然発生的な悪しき傾向を排し、適切な道を自ら選んでいただかぬ限り、自障障他なる雑を脱しない。

 そういうことで、外部注入論とか他力と呼ばれる「人類的な智慧を代表された人たちによって結集された、人間が真に宗とすべき事柄を探し当てて適切に表現するディスクールや文化的パラダイム」が、重要なんでしょう。本当にそうなっているかどうかは別としても。

 雑を併有するのは凡愚の脱し難い身心であるから、どうしようもないのではないか?と思われるでしょう。いつもそう申しておりますから。
 もちろんそうだが、それ故にこそ、真に人間を害う世界に痛みを憶え、真に人間を尊ぶ事柄を選んでゆくには、雑ということが、妨げとなる、というよりも、退転していて、初めから目指すことを出来なくさせる、諦念させる、という効果を持ってしまうわけでしょう。イエス、ウイ・キャンにならない。
 この退転、諦念が、娑婆なんです。自障障他の一つなんです。
 出遇ってみますと、本当に大事なことは、実現しようとしまいと、生きようと死のうと、大事なんです。

 ともあれ、それで、アミタの法統に於いては、さまざま人間を害う教相ということがあるので、選びて(棄てる、好いはたらきへと転ずる、ということも含意されるかもしれません)浄土を建立する、人々を害う教相を排する、雑を排する、ということが選択されていったと思います。
 丁度シャカムニが「我が弟子はアタルヴァ・ヴェーダを修してはならぬ」と表白されたようなものです。

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 『無量寿経』に「専求浄仏土、必成如是刹」という言葉がありますが、清浄なる仏国土ということが求められ、実現がめざされていく。

 清浄ということは、雑が無い。雑とは汚穢汚濁であり、人間を害う事柄全部なのでしょう。それらを能う限り排して、自障障他の逆の独尊尊他ということを顕現している。

 唯仏一道独清閑というお言葉がありますけれども、至純なる志願、浄らなる志願をたまわる。

 必ず、成らん、と。

 なお、独尊、独立の独ですが、いのちは個として展開しているわけですが、尊ばれるべき独り、孤独の独とは違うと考えています。独生独死独去独来とか、孤独に近いニュアンスですけど、個体の在り方はそれ以外にないけれども、共なる存在である。

 また、必至無上道、必至一生補処、必至滅度ということも言われる。

 ただ、人間を害わぬ願心を求めながら、問題点として、近代以降の素晴らしい法的―制度的成果や民主的人間観の探求が欠け、人間を害う政治文化、経済文化、社会文化をやや不問に付してきた差別的傾向(特に女性、障がい者への)などが、48願文や三蔵には見受けられるわけです。

 宗教界に関わらず各方面の先生方も『無量寿経』や『浄土論』を含め多くのお聖教の、さまざまな差別性にふれられて参りましたし、私も一部ふれましたが、その一環として前回ふれた「生尊貴家」願文も、最良の場合でも勝曼夫人のような在り方―その願心にも以前ふれました通り、いささか差別的に過ぎる質を含むわけですがーしか無い。

 もちろん、人類全部が貴家に生まれますと、「貴賤」差別構造自体が消滅することになるわけですが、それなら最初から貴家というカテゴリーに拘泥されないスタンスが浄仏土のはず、なんです。

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 存命中には限界者として心身ともに自障障他しか実現していかないけれども、この顕現された質を実際に具現しよう、と。こういうことが(還相の)菩薩道なんでしょう。

 ところがここで、その理想主義は不可能であることが見えており、どなたも最初からハッキリご存知ですから、現実的でない、と。

 具現しないことは、廃し、捨象することが何か賢明な世の習いみたいに思い込んでおりますから、直ちにこれは排して、再び互いを害うままの、まあこれも自然ではあるけれども、娑婆世界へと退転してしまう、諦念に埋没する、という構造が、むしろ一般的なんでしょう。

 けれども、いずれは全部失ってゆく生存で虚しいけれども、では、大事ではないかどうか、と自問いたしますと、やっぱり大事。
 この身といのちが大事な自然があるのでしょう?前回改めてふれ直しましたが、自己以外の人たちとの関係性も、かけがえなく大事。

 深いんです。本当に大事なことは実現の可否や如何によって左右されない。左右されることが成立しない、ということです。

 前に 玉光さんが引かれたエルネスト・チェの言葉にふれましたが、あのフレーズもそういうこととして改めて理解されてもいいのではないか、とも思います。
 まあ、めざされた世界が理想の実現になったのかどうか、私ら柔カル明るい春風派としては疑問があるわけですが、それとは別に。

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 目の前から、敵が進んでくるのに、手をこまねいていることは出来ない。いろいろ差別され抑圧され排除され殺害されているときも、手をこまねいていることは出来ない。監獄や警務や法務により、消滅すべし、みたいな・・・。

 殺人教、差別教、排除教というのは、教団や政党内外の対立が強まったり、政治が破たんして軍事が前面化したり、そういうときに前面化するけれども、自分たちが、では、それでいいのか、とか、正当なのか、とか、正義なのか、っていう「抽象論」をやっている暇はないわけでしょう。
 敵をみそなわすこと自己の如くす、なんどいふ無差別も、やっとる暇がない、と。
 こうしたドグマとドクトリン、こうした宗教が、有力なんです。

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 これに対して、大経48願文の最初は無三悪趣(むさんまくしゅ)の願。自障障他し、いのちを害う我々の在り方への否定とその克服への道が、明示されてある。

 六道(りくどう。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)自体が三悪道(地獄・餓鬼・畜生)と同じく、存在を尊べず、認めることが出来ない道なんですけど、特に三悪道は、存在自体の尊さと価値を認めない。
 行いやはたらきについては、要らないとか無い方が好いということが、まま、あるでしょうけど、存在自体、いのち自体が要らないという世界に近い。

 一言で言いますと、三悪道とは、存在自体を認めない道、なんです。
 奇麗でも汚くても、長くても短くても、死んでも生きても、大事。それが人間やいのちの自然ですが、差異を認めないどころか、存在を認めない世界。

 また、仏教が向かうのは、必ず訪れます死へ、ではありませんし、死後へでもありません。
 奇麗でも汚くても、長くても短くても、死んでも生きても、存在が認められ、価値あるものとして尊ばれ、尊ぶ世界。人々を害い合う自身を痛む世界。好悪好醜に碍げられない世界。

 破邪顕正も、邪正を弁えねば、不可。教相も姿勢自体も怪しければ、顕正にならんわけでしょう。
 お聖教を仙経みたいに扱っているようでも、不可。焼き捨てた方が好い。往けないし、成れない、となって参りますとこれは、健康法を実践したりして、すると気も充実して人々ともある程度関係改善があり得ますから、仙経よりも悪い。

 更には、衣食住なり災害対策なり戦争防止なり生活の充実をめざし、いのちを尊ぶのが吉凶禍福の発想でもありますから、下手をしますと、それよりも悪い、ということにもなりかねない。
 まあこの、前から言ってますけど、神も仏も聞けないようなおのれの願いを問い返すモメントを欠くところに、吉凶禍福の課題があるけれども、とにかくお聖教の扱いがひどいということになっているようにお見受けするわけです。

 お聖教にも差別性その他多くの間違いや限界性があるわけですから、それも現代の、私から出発して見直して再構成する必要もあるでしょう。その私自体が課題で問題とは言え、先人や各方面の先生方に学ぶのも、自身を自覚していくのも、私以外に誰も代わってくれない。無有代者なんでしょう。

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 日々の庶務に紛れて万事遅れがちですいません。
 基礎的な事柄を見直したりしつつ、教相自体の再構成なり刷新・創造と深まりを進め、教団改革も進めるにいたしましても、具体的な寺とか教団という場の意義が、どうもスッキリして来ないようでは、意味が無い。

 特に年を取って参りますと、死ぬこととか病気ばかり気になるけれども、寺は死んだときだけの場ではない。
 真の意味で死に水とって引導渡せるのはウチだけだと自負してますけど、本義は火水二河激流の日々にありながら、煩悩を断ぜぬまま、涅槃安堵を賜る場なんです。

 生死の世界、生滅流転を免れることは無いが、脱することは出来る。
 生死移ろいゆく日々が安堵される、安心を賜る、そういう場が寺やサンガという集まり、共同体なんです。
 往死ではない、往生の人生を賜るから、重要であり、中心である。独生独死独去独来ではない、共(友)なる世界。
 独は独でも、独尊の独、独清閑の独に生まれるんでしょう。必成という語の重みを感じます。

動き 子ども食堂へのインタビュー

 日本でも全国的に経済的な困窮家庭の子どもさんが相当居られまして、食事もままならないケースが少なくない。
 この頃「子ども食堂」の運動が広まりまして、これはたまたまちょっとの期間見ていた「ニュース英会話」という番組でも取り上げられていました。

 高田の最賢寺金子さんも始められたとのことで、たまたま法座が開かれ、高岡で「よく一緒に飲んでいたグループ」のお一人、加賀田晴美さんが講師で来られるということで、聴聞がてら光圓寺から金子さんに差し入れとインタビューをさせてもらいました。

 差し入れ品目は自作の、周囲のビラビラした葉っぱの部分はウチの味噌汁の具にしましたが、穴だらけの白菜一個、やはりやや虫食いがあるキャベツ一個、カボチャ一個、ジャガイモ・ニンジン少々、寺に上がったお米少々と、恥ずかしいほど少なめです。次回はこの18日と少し日がありますので、寺で味見して貰って構いません。

 ただ、金子さんによりますと、やはり定期的に差し入れして欲しいそうです。

 詳細は今後さらにインタビューさせてもらおうと思ってますけど、11月は18日に最賢寺でされ、その次は12月22日南三プラザで、午後五時からだそうです。しばらくの間完全予約制とのことでした。

 詳細はウエブ上のブログ「いちょう食堂」をご覧ください。

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 学生の頃からカンパ集めて炊き出しの会に持参したりしてたんスけど、まあ、当時は行政の補完という見方もありましたが、今では、基本はやはり行政ではなく、独りの考え方と姿勢だと思っています。
 行政にも頑張ってもらってますけど、その欠けた部分を万民が出来る範囲で受け持つことが理想でしょう。

 最終目標は、無政府、小さな政府であって、独りが万民の為になっている状態、己が思うところと行いがそのまま万民の為になる状態、という激しいものですけど、まあ、そこまでいかなくても、共同性が人間性の重要な要素ですから、色んな共同体、グループで取り組むことが出来ましょう。

 この件に限りませんが、企業などの目的志向が強い共同体ですと、忙しいのと相まって取り組むのが困難かもしれませんが、地域の自治会でも、色んな教団でも取り組めましょう。寺が嫌なら、自民党でも共産党でも、左派でも右派でも取り組めるわけでしょう。

 「いちょう食堂」は月一ということだそうで、これは震災救援事業で実施された炊き出しなんかでもそうですし、この辺の民泊でもそうですが、栄養価という点でもなるべく完全食をめざし、毎日が望ましいわけですが、実際には難しいので、色んなグループが代わる代わる月一とかで取り組まれると好いはずです。
 関係部署としては、食中毒が心配なので保健所ということになります。

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 さて・・・ここにも関係しているのが、共同体(グループ)論と国家論なんです。

 政治色とか宗教色と思想色を忌避されるけれども、いろんな派が混ざっているのが普通で全体主義は不自然で成立しません。こうした姿勢は一元的で意見や選択の幅を許さない考え方と、表裏一体をなす姿勢といえましょう。やはり、苦労されながらも多様の異見の中から学ばれたり、道を選択されるしか無いでしょう。

 道を選択する学びと姿勢が欠けますと、有力な流れに隷属することになりかねませんし、また、それでも何とかやっていける内はいいんですけど、意に反して、自障障他する世界に往生する結果を導きかねないわけです。

 今日の日本と世界は既に大分そういう世界になっていて、かじ取り自体が危うくて、火中の栗を誰が拾うのか、尻拭いや後始末を出来るのか、放置しておくわけにもいかんけど、どないしてくれまんの、って感じになっているわけです。

 共同体の中にいろんな共同体が混ざり、一元的な運営は困難ですので、この、政治や宗教や企業といわず地域といわず、いろんな共同体間の関係に取り組み直す必要がある。それが欠けますと、現代となる。すなわち、紛争の火種となりかねないのでしょう。
 国家も、固定した観念を押し付けるつもりはりませんが、あらゆる権利をより包括的に表現し、実現していることが望ましいと思っていますが、目的志向性が強いグループも少なくない。

 これはまあ、すぐには無理で、抽象論の部類に入るんですけど、尊び合われる明るく好もしき人類的未来の開拓のために必要不可欠な、本源的な人間観・社会観が問われる探求課題です。
 どこまで往っても問題が出て参りますから、絶えざる改善しか無いんです。

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 これから「釜ヶ崎炊き出しの会」とか安塚自由学園とか大杉の里とかにも僅かばかりで恐縮ながら、差し入れする予定にしていますし、門徒さんの分け隔てをしたくないので全部に配る必要があるんですけど、きゅうりの糠漬け配りも挫折したままですし、大変過ぎて出来ずにいます。
 回らせていただいている近隣の独り暮らしのご家庭や困窮家庭だけでも配れればと思っていますが、近隣ご門徒の六分の一以上(25軒以上)はそういう家庭ですので、十分な量がありません。

 野菜もたまたま獲れましてもウチは無農薬が多く、アブラナ科にしましても少農薬で穴だらけの場合が少なくなく、差し上げるのは失礼な気がするんです。サツマイモも以前独り暮らしに近い婆ちゃんに配ったところ好評だったんですけど、昨年は大不作、今年も子芋ばかりで配れそうにありません。

 本来家内さんや役員さんくらい配るべきでしょうけど、何とかやっておられるご家庭が多いので、今のところ勘弁してもらってます。

 今年は秋口から日照不足と長雨で、まだ暑い内に植えなかった作物は悉く生育が抑制され気味。
10日現在、霜はまだ降りていませんが、寒さには強いアブラナ科の作物も遅々として育たず、根雪までに、小さくとも収穫出来るまでに育つんやろか。
 お馴染みの大衆的な野菜も「桐箱入り」で差し入れして、みたいな?

 この辺りもだいぶ減りながらもお米は生産農家がまだ残っておられますが、野菜は自家用と言いますか、趣味と実益の範囲のご家庭が大半で、自家用と、せいぜい親族知人に配って無くなるなわけですが、可能であれば是非とも供給いただければ、と思っています。

 これまた教相本来ですと、自らが食わずとも食わせるべし、という激しいものでしょうけど、ええ、隠れもせず恥じもせず、公然と腹いっぱい食いながら、分かち合いたい、と。相も変わらず太ったソクラテスを目標にしてます。

無戒からー8

 無戒の中に喘ぎつつ、帰命とは、教法に出遇うこと。

 これは何度も言って参りましたが、間に合わぬこの世(自分の世界)を投げ捨てて、身を投げ出している姿(機)。
 そしてそこに本当に自分が求め願った世界があったという、頷きの姿(法との出遇い)。

 気づけば自然にして当然の願いですが、気付かずにきた、ということなんです。

 ですから、我々自身が自ら形作ってきました娑婆世界というところは、いのちの尊重には間に合わんところで、なんとかやれている内はいいが、最期は全て間に合わん。

 そして、自然な願いなり求め、ということであれば、いろいろあるわけですが、そうした中で言葉、ディスクールによってどのように表現されたものが私の願心をより正確に深く広く開発するのか、ということがあるわけでしょう。

 信心、願心に頷き、確認した状態というのは、古来あるわけで、色んな宗教文化パラダイムをまとっているけれども、それらが果たして的を得ているのかどうか、という問題のほかに、諸宗教がまだそれとして自らを十分には表現していない状態からずっと、願心自体はあったわけで、ただ、ハッキリと開発されていないということが、あったと思うんです。

 例えば尊重とか慈しみとかは、ヴェーダとか旧約とかにも孕まれており、それがシャカムニやイエズス、いや、モーセなどにも影響していて、独自に創造的にまとめ上げられていったのではないか、と思うんです。不勉強で恐縮ですけれども。

 また、そうすると、シャカムニが発見されたダルマの中で、縁起の法は釈尊が集大成したかもしれないが、変化を基本とする考え方は既に「古代地中海ー西域ーインド文化パラダイム」の中で、相当程度伝わっていた可能性があるし、ギリシャ・エジプト・ペルシャ・インドの交流は、シャカムニ以前からあった、と思われて来るようになったわけです。

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 これからの人間関係を考えますと、グローバルに通じていくことの一つが、諸個人の欲求ですとか、それこそ自然のはたらきが、多少の違いとか、例外状態を孕みながらも、万民共通としてある。

 地域により、文化的パラダイムが違うけれども、それらの中で根源的にして肝要な事柄は、大慈大悲の、いのちと人間を尊ばんと志す願心、志願なんです。バラバラで一緒、差異を認める世界の発見、帰ろうもとのいのちへ、いま、いのちがあなたを生きている、という言葉になるんでしょう。
 これを欠くと、上手くいっている間は良いかもしれないが、怒りとか裁きばかりが前面化してゆく。

 同時に、差異を認めるよりも認めないことがグローバルなのも事実かも知れませんが、認め合う方が願わしいのもグローバルで、差異を認める世界の発見を選ぶべきだ、と。

 仏意・願心なる本願の開かれる世界、グローバルに共々に共通する自然の求めでは、大事なのは一人ひとり全員=個の尊重ですから、差異を認めないとか、人権が害われた状態ということになりますと、人間をスポイルするものとして、全人類を敵に回しかねないわけです。

 イジメ・迫害・差別・殺害意識といった体質はしかし、どうも、万人に備わってもいるようで、犯罪者たり得ぬ人は誰も居られない。そうした自身とどう闘い、克己するのか、どう組み伏せようとするのか、そうしたことが、機の深信から湧出して参るのでございましょう。

 身が汚染された底下の凡愚であればあるほどに、かかる身に添って呼びかけるもの、それが本尊で在り本願ですから、愈々、身を痛み、克服できぬままながら、志願を共にせん、と。機の深信とは、こういうことでしょう。
 ですから、多くを課題として、克服できぬままに生涯を終えようとも、たとえ身を諸苦毒中に終えようとも、我行精進は忍んで終に悔いじ、と。それが本願の願心であり、その願心を賜った姿で在り、二種深信とブッダ・ワールドへの往生を意味するわけです。

 個は、職業及び職業の有無、家族の有無、血脈、既婚未婚、国、民族、性、肌の色や外見、思想信条、障がいの有無、出自、能力、年齢、性質等々の差異によって差別されるべきではない。
 すると、現行の法と制度と、諸個人間の関係では、なお、間に合っていないと思われます。

 個の尊重は「他者をみそなわすこと自己の如くする」ことによってしか成立しないから、届かぬまでもその道を求めるべきですが、どういうライフスタイルを求め、どういう関係と制度的なものを創造し続けていくのか。

 公や社会を優先したり過剰適応すべきではないし、といって、連帯も選ぶべきだし、個に分断された状態を選ぶべきでもないといたしますと、生活、仕事や富や所有や時間や労力自体も、それぞれの自由選択であるけれども、模索の途上にあるのかも知れません。
 
 生活はそれこそ論議を待たないので、なかなか取り組み難いテーマですけれども、世界の経済構造の改善を申し上げますのも、この辺の、より好き人間関係の創造に関係していると思うからです。

 制度としてスカッと提示されても上手くいかない部分が出て参りましょうし、制度上の改善は続けられるべきですが、制度以前の一人ひとりの課題としてもあると思うんです。

 先ずは制度上の提案が出来るといいんですけど、専門家の領分として政財界や労働界ほか、生活の各方面の方々のご活躍をお願いしているわけです。

 我々は動物であるから、なお、動物の自然を続けるけれども、動物以下になってきた面も、大き過ぎないでしょうか。

 ただ、世界は認識された世界であるけれども、例えば魚眼や複眼の世界構成を我々は持ちませんし、認識の能動性は客観世界へのかかる主観をもたらす器官の種の自己創造にあるように思います。マンガ『火の鳥』で宇宙パイロットでしたか視覚認識が崩れた状態が描かれていましたが、とにかく、感覚器官の受動的な感受の在り方自体が、器官の種なり類としての自己創造によって異なっている。
 多少、能動的な構成が成長に伴い認識内容自体も変化させるように思いますし、個体差もあるようにも思いますけれども。

 ともあれ、我々の世界創造へのイマジネーションは、非常に貧困であって、既得の観念や感覚が血の中に溶け込んで、絶大な力を持って我々に君臨していることが分ります。
 新しく素晴らしい時代、新しく素晴らしい人間観と人間生活と人間社会を準備しないわけにはいかんと思っても、稚拙なモデルをイメージすることさえ困難であることを、認めざるを得ません。

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 もう少し続けます。

「他者をみそなわすこと自己の如くす」
という無量寿経の質はしかも、我々の自然でもあるわけです。

 人の為になる世界構成をめざして、時には自身を後回しにして=いのちを投げて、人々と共に往生をめざそう。すると、仏になる。本願を主として念仏申さば(念仏の願心を憶念する、念仏というブッダワールドを憶念すること)、仏になる。

 ここでまた、単純に図式化しても二通りの問題点がクローズアップされてくるわけです。
 人々がそれを分ろうとしないことや正しく理解できないことと、仏道が言ってきた内容(経文と教判・善知識・思想文化など)と行いが間違っていたり、不足があること、の二点。

 自己の自然性が分らない。
 そして申して参りました通り、誤った事例を引いた因果応報論、様々な社会的差別を是認したうえで構成されたディスクールなどや、48願に見受けられる「生尊貴家」などの差別的で間違った願文といわず、反って往生を遠ざける教判といわず、ブッダや菩薩や仏国土の絶対化と超人化が我々をオミットすることといわず、既述の通り、シャカムニもお弟子さん方も祖師方も間違いを含むうえ、善知識も怪しく、科学上の知識も今日では遅れている。
 そういう問題があると思います。

 「生尊貴家」とは、差別なき家に生まれるという意味のほか無いのではありませんか?実際教学者の中ではそうした今日的解釈が施されることが多数を占めるでしょう。
 なるほど仏教本来としてはそれが正しい理解であるけれども、それは本来の意味からいたしますと、むしろ強弁であり、差別的願文を捻じ曲げる護教論的解釈になるわけです。

 間違いだらけの人生である。

 けれども同時に、大丈夫なんです。
 志願居ます(まします=坐します)。

 願文全部がおかしくても、願心だけが、素晴らしい。
 通力ひとつ取りましても関係性重視の故なんですが、縁起に生きる、関係に生きる、縁起なり関係自体を尊ぶことと、関係自体をブッダワールドに導くはたらきなんです。
 この経教に惹かれ、道を歩まれる方々が既得のディスクールと教判と善知識に惑わされず、探し当てなくてはいけませんけれども。

 ですから一向一揆勢が退かないのも、単なる権力争いという汚染も孕みつつも、一般的な共同体意識もありながらも、その他に、いろいろ間違っていても、志願居ます、ということなんでしょう。仏意・願心だけが、独清閑ということなんでしょう。
 なお、一向宗、信長―秀吉公時代のキリシタンからは「イッコショ」と呼ばれていましたが、これは念仏サンガ外からの謂いに過ぎません。

 本願の開かれます世界は自然な理想主義と思いますが、志願居ますということは、目指すに於いて、多少とも現実していなくては、そう願うようになることでもあるわけです。
 そして、そう願って、至るところで人民の為になる世界の具現を志してこられた方々こそ、皆、往生成道、成仏を得られるに違いありません。観経でシャカムニが授記されたように。
 これは真宗で言いますと、内仏という菩提願心が根幹と成っていく素地が、十全に機に熟成される、ということを如実に示すことになる、と思っています。
 どこどこまでも仏意・願心に添い、憶念の念仏を継続させていただく、そこにモメントが孕まれているのでございましょう。

 少しクドクドと「精講」になりまして恐縮です。

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 もちろん、共同体とか社会全体を創造してゆくと同時に、擬似カスト化している現実の教団ということがあるけれども、これにはどうアプローチしたらいいのか、そういうテーマについても、なお、深く探っておく必要は無いか。

 これは同時に、教団人諸個人の生活運動ということですから、還相の菩薩道というのはどういうことなのか、曇鸞・親鸞両師の還相回向理解、往生人なり成道者の還相ということの実際、具体相がどういうことなのか、それらに対するアプローチを含めまして、問い返すことを意味しましょう。

 内なる信心=念仏と往生はイコールですが、私の意識や観念と往生・仏道の関係はどうなのか。菩提心、信心開発が既に往生なら、還相の姿はどうなっているのか、問い自体を問い返しつつ、いろいろ考え直さんならんようにも、思われます。真宗的に言いますと、念仏者の生活はどうなっているか、と。

 これまでイメージされてきたような如来菩薩観も、問われましょう。

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 「さよならだけが人生さ」ですが、「さよならは別れの言葉じゃなくて、再び逢うまでの遠い約束」とも。
 しかし、激しい変化の中で、自身も世界も変わってゆくことは免れません。ですから、再びめぐり逢ったとしましても、観念が固定化している所為か、よく驚くんですけど、再開したら婆さんだった、驚いた、みたいな?
 そして、個の生涯はもちろん、自身も世界も激しい変化の中で、最期には雲散霧消していくのでしょう?
 そうした身にあって、では、再び何に巡り遇い得るのか?

 個はいつか潰え去っていかねばなりませんから、自身も世界も何ひとつ持ってはゆけませんし、それどころか、生命史も、いいえ、物質さえも、何処から来て何処へと質を変えてゆくのか。

 ずっと恋してる、とか。ずっと抱きしめていたい、とか。限り無い連帯感と宇宙大の灼熱の慈しみ、とか。そうした気持ちだけが遺るのかもしれません。

 形態と風景は探求しますけれども分からないし、描けないんですけど、ひどくても汚くても、世界も人々も美しく素晴らしい処でもあるので、さよならは寂しいわけでしょう。自身の心身とのお別れも、もちろん無念なんでしょう。
 いや、自身よりも、共に在った世界との別れの方が、むしろ辛く悲しいかもしれません。

 辛さは、自身の見通しの甘さにも問題はあるけれども、生きながら我々は素晴らしい世界の逆の、裏切りや別離や関係の喪失と言う憂き目にも会いましょう。
 イジメでも差別でも、何がと言って、それが一番辛い。関係の破たんは内面的な対象喪失、別離と言えましょう。死をもたらすのがイジメと差別と迫害なんです。生き残っていても、人間性を殺された状態、そういう暗い影がイジメの加害者と被害者双方に舞い降りる。

 そうしたことが身の上に起こった、とすれば、そうした大慈大悲に属する世界を、我々は最も尊んでいたことに気付くはずです。

 身は三悪趣の在り方しか無いけれども、尊ばしい世界に生まれた後は、苦にならないかもしれません。私を滅ぼし尽くす広々とした世界。
 ちっぽけで、せまあい世界なんでしょう。その自身にしかし、限りなき智慧と限りなき慈しみの真ニルバーナ、真安楽が生じたとき、本当に広々とした世界が開けて来る。こちらから努めて往くのではなく、仏性が向うからこちらに生まれて来られる。開発とはそういうものかもしれません。

 すると、愈々、別れ難い自身にも、なるのではありませんか?もはや、永遠に共に在るしかない。本願の世界の誕生なんでしょう。大執着なんでしょうね。
 一番大事な世界。

 ともあれ、しばらく休むはずやったんスけど、湧出してくる事柄があったので少し記してみました。生活の糧になりましたかどうか・・・。
 改めまして、しばらく休みます。

動き

 10月1日には高田教区御遠忌 東部地区お待ち受け大会が安塚区コミュニティプラザにて開催され、光圓寺から10名超参加いたしました。役員さん方には特にお願いいたしましたが、ご多用の中、有り難うございました。

 慙愧の御遠忌ということでしたが、さあ、慙愧無き身に適うのかどうか・・・教相改革と宗門改革という重すぎる課題で、重担とすることも怪しいわけですが、いのちと人間にとっての真に宗とすべき世界を、愈々、明かしていく営みこそ、いのちに関わるが故に待つことの出来ない、緊要の課題と言えましょう。




無戒からー7続き

 少し私の本尊というか菩提というか信心の感覚から、関連して思われる世界にふれます。

 いろいろあっても、何もかも揃っていても、肝要なる根幹にして根源が欠けていると、何も無い迷妄に放置されたような気がする。
 ですから、敬虔な信者や本尊とかダルマにどういう態度を取るのか、ということは、極めて重要な問題として現れましょう。

 仏教でも他の宗教でも、人間と生活を害うものではなく、尊ぶものである。生活の根幹を明かし、それに生きようとするものですから、そうするとこれは、他人事でない。
 教義の根幹に関わるだけでなく、宗教は自然の人間性を示す故にー自然もいろいろながら、そのうち、重要で人間を尊ぼうとする自然に依るものであるからー、我々の自然の求めを的確に知り、且つ、的確に表現しようとする定評ある史的運動ですから、人間自体に背き続けることになりかねない。

 あなた方はいつまでムハンマドやイエスやパウロなりブッダにひどい仕打ちをし続けるのか、という「大慈大悲を体現する存在」への「姿勢」に関わることなんですけど、ダルマに帰依したり、ダルマを体現したり、そういう人は、人間を尊ぼうとする人であるが、そういう人への姿勢はどうか、ということも気になります。

 ダルマ・ディスクールは大事だけれども、それを体現した輝いている人、還相の菩薩とか、天使とか、如来とか、そういった人への姿勢はどうなのか、それが神学とかブッダ論上の疑問としてあるわけです。
 元来ダルマはいのちと人間の為のものであるから、それを体現した具体的な人間が大事。

 様々な教団の感覚、場によっては共同体の感覚としても、私の持つような感覚があると思うんです。
 ただし、私の場合は、可能の限り正統妥当でかつ自然で、適わぬまでも人間を害わないで慈しみ、尊ぼうとする菩提を中心とする処から(真宗で言えば本尊の本願という菩提から)、そういう感覚を持つわけです。

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 教師修練で昔、道場長の木曽さんが「人と生まれて、人となる」と称えておられましたが、人間性の開発ということもあるわけです。可発である。機は可発なんだそうです。

 信心というのも、何かを信ずることでもなく、信心獲得と言うのも、安心(あんじん)というのも、これはもう、実相、あるがままに自然の私の健康なる人間性の根源、根幹としてあった大慈大悲なる、広く温かな世界にハッキリと気づき、それに生き、それに死んでいく具体的な道を智慧によって知らされる、ということなんでしょう。
 開発されるんでしょう。
 
 シャカムニ・ゴータマ・ブッダとその法統で「一切衆生悉有仏性」と仰り、「一切衆生悉求安楽」と仰ったわけですが、私もそうでしたが、そんなこと、分らんし、なかなか気づけないわけでしょう。
 自分に対しても他者に対しても、教育も啓発も難しく、善知識にあうことも、教うることもまた難し、と。難中之難、極難至難である。
 開発され難い、と。

 人間として生まれますから、端的に、ただ存在するだけでかわいいわけです、本来全部。
 しかし、信心なり菩提が開発されますと、両刃の剣みたいなもんで、人を裁くに決まってるんです。論駁も生まれるに決まっている。すると、人間を人間扱いしなくなるので、これはこれでまた、宗教者の問題点になるんでしょう。

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 じゃ、共同体とか言ってもいろいろあるし、昔の教団や共同体が、いろんな人々をスポイルしていくような差別的な問題点とか、なお、教相として不十分な探求と到達とディスクールのままにもかかわらず、一向一揆軍でもそうですけれども、破壊者に対して「進むは浄土、退くは地獄」とばかりに、念仏を唱えながら女も子どもも、素手でも突撃していいのか、どうか。

 そういう問題もありますが、知っているんです。最初から身も心も、それがいのちであることを好く知っている。
 安楽を求めているから、私なんかも安逸や堕落や怠惰は叱られますけど、世調を待つまでもなく、「危険な汚染」や「危険な経済状態」や「危険な戦場化」を忌避するのは、至極当たり前、なんでしょう?不安だらけのもののうち、制度的改善が可能のことを要請したり実現するのも、至極当然自然なんです。
 まあ、いつも申しておりますが、楽になるのは死んでからでも仕方がないけれども、苦しくとも生まれた意義と喜びのある生存が好い。そこに何とか安らげましょう。また、存命自体が能う限り可能であることも、同時に願うのも、至極当然自然なんでしょう。

 しかし、現実の諸問題やいのちを害う運動や動きに対して、理想は通りませんし、何とか黙って居れるうちは好いが、黙っていても殺されるうえに、自分にとっても全人類的にも一番大事なものを破壊されかねない状況となれば、かかる「迷妄に支配された人たちの運動」と対峙しないわけには、いかなくなるわけです。生存を求めながらも、それこそがいのちである世界を奪われては、生きている状態ではない。それが人間です。

 ご自身が安楽を求めているという自然の求めを、よくご存じなんでしょう。共同体の重要性も、好く知っておられる。この世の何よりも大事なんです。
 もちろん、生きる為ですから、死にとうないわけですし、圧制者に対しても、いのちを捨てても闘うことをお勧めもしかねるけれども、大事なことの破壊者に対しては退かん、ということでしょう。
 表面上一時的には融和的であったとしても、日和見を決め込んだとしても。圧政下にあるなら責めようとは思いません。

 アタマ、教学が間違ってても、一番大事なこと、信心、賜りたる菩提はまさに、間違えようがないんですね、実は。初めから身が知っている。自身が大事な世界、安らげる世界を求めているということを。
 むしろ、往けなくなっていたり、往生ではなく往死にしてたり、教相理解とかお説教に問題があったりするのかも知れません。

 隠れキリシタンも隠れ念仏も、ご信心の質から共同体の在り方まで、随分変質していったとされているわけですから、これについては色々是正は必要だったのかもしれませんが・・・。そして、寺請け制度や宗門人別帖など、侵略と占領以外にも、封建社会での縛り付けについても、反って宗教批判の原因になっているわけですが。

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 関連して、社会的な面では、嫌らしい言い方ですけど、宗教政策。

 この点では融和主義と共通するような問題があるんじゃないかなと思いますけど、宗教的な迫害や弾圧、隠れキリシタンや隠れ念仏がありましたが、禁教や、思想統制、焚書も繰り返されてきた。
 権力主義的な支配と統治とかの感覚でも起こりましたし、宗教間の争いでも起こりましたし、コミュニズム革命の中でもありましたし、それらが複合している。また、理念ではなくて実態としての宗教に対する、(あれっ?どこかおかしいぞ)っていう素朴な、また宗教的な理由からの、批判や反感や攻撃もあるわけですから、実は外部からだけでなく、その宗教内部からも、攻勢があったりします。

 いずれにいたしましても、それが、一大事が破壊せらるるということになりますと、それこそ、黙っていることは出来ないのではないか。

 世界的に、色んな事例があって、追われたイスラエルの民ですとか、十字軍侵略ですとか、イスラム軍侵略ですとか、隋唐帝国軍侵略ですとか、インド軍侵略ですとか、レコンキスタですとか、アメリカ侵略ですとか、アフリカとの関係ですとか、ことの是非ではなくて、占領、被占領ということがあり、そうした中で、何が起きて、害われて、克服されていくのか、昔からすでに、問題視する思想と宗教家があったわけですが、人間尊重の思想と行動は現代でも退化しつつあり、大問題になっている。

 日本なんかも、近代の中朝侵略と占領の中で、神道だけではなく、仏教教団や真宗教団も加担していきまして、諸宗教の上に君臨しようとしたりしたわけです。軍政に加担して人々を抑圧し殺害した面がある。それは内国でも同様だったわけです。本山御影堂白洲での学徒出陣式などのフォトが想起されましょう。

 占領・被占領という中での、女性と子どもたちへの悪影響に思い至るわけですし、労働者も勤労者も生産者も男も、スポイルされていくということが、ずっと続いているわけでして、やるせないお気持ちが重たく伝わって参りましょう。踏みつけにされた地面からの声が伝わって参るわけで す。

 田川先生が昔仰っていたけれども、長年の侵略において教団というものが権力と一緒に侵略していく。近現代の植民地化への加担ということがバチカン等でも内省されて、第三世界民族解放運動に支援していったりされるわけですが、古代から世界中で続いているわけでしょう。
 昨日まであったバイボーとシナゴーグが無くなる。地域からも追われたり、流刑の憂き目を見る。コーラーンとモスクが禁止される。バイボーとチャーチが壊される。マルクスなんかでも焚書と追放があったり、王政が滅んだり・・・等々、殺害されなくても、文化や神学が近いからいいじゃないか、じゃ、済まんのでしょう?

 その時々の占領軍は絶対性を以って君臨しようとするけれども、時には寛大な政権も、民主的で自由と解放をもたらす政権も、以前よりも好い思想政権だってあるかもしれないけれども、やはり、何か違ってるんじゃないの、と。

 彼らは自由だと思っていたり、圧制から解放したり、自由にするんだと信じていたり、より高邁だとおもっているかもしれない。実際にそうである場合もあるでしょう。そうであっても、しかし、そうではなくなるわけでしょう。それまでの生活を奪うとか、大事にしてきたものを奪うとかいうことになりますと、そうではなくなる。

 これは平時でも同一共同体内でも、差別的な思いや意識が占領している人間や共同体等の集まりに於いては、大変な圧政下となるし、好いはずの運動でも、人間性の根幹が不鮮明だったり、好き人間社会がハッキリみえていないと、いつでも落ちていく。

 例えば先にふれましたように、人間防衛と解放の旗も、スターリンが居たり、社会帝国主義だったり、排他的だったり、死刑や軍や拷問という殺人教肯定があったり、政治的に利用出来そうな反人間的な概念や差別的な感覚も総動員したり、そういう問題がありましょう。

 まさに末法世なんでしょうし、『無量寿経』に言われた如く、「世人薄俗にして不急のことを争う」状態なんでしょう。
 ただし、何でも一元化・単純化したがる経文の留意点を申し添えますなら、争いにも原因がありまして、奪い合いばかりではなくて、時には善悪もあるわけです。正統で妥当の質が混在することが少なくありませんから、色んな紛争を全て一緒くたにすべきではありませんが、なるべくなら互いを害わない平和的な状態を求めることが好ましい。

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 ですから、これは難しい問題で私らの手には負えませんけど、国家や国連でも、背景というか趣旨としては、人間尊重という、宗とすべき教条文が、真宗でも宗乗となるような質が条文として、規程されていたりするわけですが、現代諸国家の憲法理念にも何とか盛り込んでおくべきことなんです。

 理念としての、「人間が宗とすべきこととしての宗教」のほかに、「実態としての各教団」ということがありますから、特定の教団や宗教を持ち込むことは出来ないかも知れないけれども、人間を尊重して害わぬことを大前提としなくてはいけない。
 実際上の事例を考慮しつつ、尊重ということの具体化をいくつもリストアップする必要もあるでしょうから、大変すぎるんですけど・・・。

 また、人間が求め、依るべきことは、ただ大慈大悲だけである、と思いますが、一元化は文化の発展法則自体に背くので無理があるのでしょうし、どれほど正統であったとしても、自己の正統性については距離を置いていつも疑念を持たねばなりません。ただ、独裁され、一元化されていいものが唯一ある、と思うわけです。それこそ、独りを尊ぶ大慈大悲の存在であり、人間を根源的に尊ぼうとすること、万民が一人の為に、ということなんでしょう。

 グローバルな浸透が可能な思想と運動と制度は、独りの尊重である。万民の尊重ですから、どこのどなたでも、独りがちゃんと尊重される運動と制度である。人間の尊重が見失われると、何もかもが、危うくなるからです。

 まあ、現代で漸く好き思想と運動と法律と体制が仄見えて来てはいるけれども、まだまだなんでしょう。むしろ退化していることが大問題になっている。話が通じなかったり、話にならない、「
地獄」という問題性でしょうか。

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 すいません、アップした後ですけど、少し確認しておきます。
 浄土真宗学には全く疎いのですが、可発の機と信心の探求ばかりではなく、お浚えもしておきますと、『真宗概要』では願心受領ということが古来それである、ということでした。
 本願のいわれに頷く願心受領とは、願心が分って、そこに自身の求めが、安楽があることに気付いたということは、どういうことが私の身の上に起こったのか。

 元々備われる仏性ということは、開発されなくては気づかないままでしたし、開発されたからといって凡夫でなくなるわけではありませんが、開発されるに際して何が必要なのか。機縁は何なのか。
 智慧と慈悲の存在、法身ですか、法統として伝えられて参りました事柄と自身の仏性が相応する、その機縁は、ディスクールや願心に生きる人への出遇いなんでしょう。必ずしも明瞭な教相理解が施されていないかもしれないけれども、そうした出遇いがある。

 そういたしますと、以前述べましたように、いろんな宗教がある。いろんな宗教文化のパラダイムもあり、いろんな教判、ディスクールの違いもあるなかで、自分にはどれが有利なのか、政治的経済的に、ではなくて、全き世界了解と全き人生を手にするには、どれが有利か、そうしたテーマも出て参りましょう。実態としての共同体宗教の社会上の有利不利という汚れた世界は今は捨象しますが。

 同時に、願心ということが分ったということは、これは願心の大慈大悲に頷くことが出来た機であることを示すわけで、仏性が開発された状態を意味するわけでしょう。往生人とも言えましょう。主客の転倒が起こって本願の仏意願心が主と成るし、仏眼を賜るともいわれます。

 身は凡夫のままですから、以前コラム「御和讃・御文用語接近の試み」で「・・・余談  ちなみに笠原先生は岩文版『蓮如文集』133p「正定聚」について「真宗においては、いうなれば〈煩悩具足のほとけ〉が〈正定聚の位についた人〉であると、私は考えている」とユニークを仰いますが、甘いっ!優し過ぎますし、ブッダ観が大雑把過ぎます。・・・」と言いましたが、文字通り「凡夫のほとけ」になるのでしょう。

 初めて凡夫が仏になる不思議が成就する大乗至極である。理論的な整合性としては、ですし、ひょっとすると理論に留まるのかもしれませんが・・・。
 それ故、当然、自ずと還相してゆかれ、如来のお手伝いをすることになる、はずなんです。

 実際は出来ないことしかありませんから、還相の菩薩も難行苦行であるけれども、目指す処をハッキリさせていくこと、その実現に近づけることも容易ではないけれども、そうした姿勢が、万民の生活にとって重要なんでしょう。
 出来ても限定的だったり、心身の状況次第では、何も出来ないことだって少なくありませんから、注文致しません。
 けれども、少しでも可能のことがある場合は、めざして着手しないと何も進まんのですから、現実に無理でも目標として磨き上げ、鍛えていくべきである。

 一人ひとり全員を尊ぶのが如来自然の願心ですが、ツイッターなんかでも、皆さん、色んなことを知ってもらいたい、理解してもらいたい。
 民主主義にぴったりですが、少数意見は粗末にできないし、多数派は無視できない。正しい方向でも、慎重に言葉を選んで進めないと、反対に押し切られるし、みたいな・・・。
 ですから、全員受けて欲しい、分って欲しいし、認めて欲しい。自分が自分を認めることが大事なことも述べましたが、そういうことがありましょう。
 そうしますと、うちらの宗旨は一人ひとりを全部受けます、ということなんですが、それがマッチもしていることになるでしょう。

 全部受けます、という如来の自然の願心が信心ですので、いろいろ厳しいもんでなくてはいかんし、細かく煩いけれども、同時に、端的にそのままを受容もするわけでしょう。
 また、無戒ではあるが、如来から生活姿勢ということが逆にずっと問われて来るので、どういった姿勢を持つべきなのか、宗教上の規程された生活規範みたいなものが、弊派でもあるわけです。
 また、現実にはそんな細かいことや厳しいことは通らないから、細かな戒めや現実の生活のなかで社会対応について理想論を述べても無意味という意見もあるが、そうではなくて、願心を受ける自らの姿勢を見直す点でも現実の意義もあるし、好ましからざる人間関係も緩和されていく現実のメリットがあるので、ずっと課題として賜るということがあるわけでしょう。

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 くどくなって申し訳ありませんが、また現実に足を付けてしまいまして、現実社会との関係をどうすればいいのかという問題になって参りますし、同時に、私の願ってきた世界と現実とのギャップみたいなものを、どう取り扱えばいいのか、ということになって参ります。
 亡き人を思います度に、有縁といわず、人々の為にどうしていったらいいのか、問われ続けて参りましたが、粗末にし続けていくほかないまま。そんな自己情況を何とか、チェンジ!みたいな?

 「私の人生」としては、特に年寄って参りますと人生短く思われ「楽しかったひとときも[るんるん]今はもう帰らない」なんつー寂しさも禁じ得ませんが、「[るんるん]終わりなき世のめでたさよ」みたいな正月も遠くないことですし、ひとつ皆さん、斃れる寸前まで取り組みましょう。

無戒からー7

 宗教、生存と生活のこのセミナリオも大分進みまして、いよいよ「非形而上学的」かどうか、「倫理主義的」かどうかはともかく、「実践宗教」としての演習らしい領域に踏み込んで参りました。

 真宗学には疎いのですが、無戒のままに教誡を受けて生活運動として求道を進めるということになるのでしょう。

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 ニルバーナに戻ります。

 心千々に乱れ、身も害われ、そうではなくとも朽ち果てる、一言で言えば散乱し、ドロドロし、汚濁して、激流に雲散霧消するに過ぎない私らなんぞが、居ながらにしてスッキリ澄み切って穏やかである。

 公私に及び、いろいろと四分五裂したり浮き沈み激しく、何もかも失ってチャラになったりするけれども、流動し続けて雲散霧消する私のままに、居ながらにして、不動にしてゆるぎない。それがニルバーナ。

 ですから、私の中心にして根幹であり枢要なる一大事が定まったということでしょう。自然の求めに呼応した実際の成就、具現がある。

 これは皆さんにお分かりいただけますか、どうか、例えば「私の感覚」で言いますと、色んな集まりも、国連の旗も国旗も、悪いわけではありませんが、何があっても、大事なことが足りないんです。人間の根幹が闡明されていないと、何も無いに等しいんです。
 幸い現代国家では憲法理念に不十分ながら依って立つべき「宗乗」が盛り込まれておりますし、国際社会でも人権宣言、差別撤廃等多くの好き根源が盛り込まれている。

 しかし、それらも、荊冠旗も赤い旗も青い旗も、時には一大事が見失われ、大変危うく、当て所ない世界に陥ることがある。大慈大悲なる無差別の根源に立ち返るところから、いつも課題も見つかりましょうし、解決への姿勢も促されましょうし、激しさも緩和されましょう。

 本願に込められた相互尊重の世界を示す、仏自らが成られた名号や、それが我々に現れた御影やブッダが中心である。
 共同体の中心も、共同体をシンボライズされた国旗や国連旗が中央にありましても、一番大事なことが欠けている、と感じます。大慈大悲なる存在、ダルマ、法身をシンボライズする名号が欠けておりますと、ああ、ここは何も無い、自身の根幹が欠けた場だ、と。

 自由不自由とか権利無権利どころじゃない。自分という存在が無い。存在が奪われた状態、とも感じるわけです。
 いろんなお仕事や制度や日暮が何の為か、人間の為なのか、そうではないのか、根幹となるべき慈しみの世界が欠けておりますと、万事に対して、まことに危うい感を否めません。

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 いや、美味い酒で・・・稲穂の香り立つような、凛とした味わい。村山先生が置いて行かれた「米百俵」、ちょうど哲ちゃんが来て、一緒に味わわせていただきました。おもちゃにしているシェイカーで、アメリカンに片手で二~三度、カシャッツ、カシャッツと大振りしますと、味が引き立って、また格別です。

 ただ、米百俵には故事があるようでして、ウエブ検索いただくと分かりますが、小泉元総理も引用されたことがあるらしいんですけど、戊辰戦争で負けて逼迫していた長岡藩に贈られた米百俵を売却して、藩の教育資金に充当し、人材養成と将来の一万俵、百万俵をめざした、と。
 そうしたご苦労が報われたんでしょう、この名のポン酒の方も、中秋の宵を一層味わい深くしたわけです。

 しばらく休みそうです。

動き

 本年度は東部地区社会問題研修会の担当になりましたので、9.14に一回目の実行委員会として事前協議会を開催。

 ペシャワール会、日赤、国境なき医師団などお医者様も呼んで欲しいような感じが伝わっている今日この頃なんですが、久しくお呼びしていないので、今回はアムネスティから先生をお招きして、人類的危機への対応について考える運びとなりました。

 独りの尊重ということになりますと、これは交通遺児と言わず、孤児の方々の独り立ちとか養子縁組とか、ブリッジフォースマイルみたいに自立支援という運動もありますし、高齢者支援、障がい者解放、あらゆる差別からの解放、朝田教育財団、コリアNGOセンター、難民問題でのUNCHR、炊き出しの会、ユニセフ、解同、人権同和センター、同宗連など、枚挙に暇がありません。

 加えまして、各地の自然災害や原発などの人災がありますし、戦災による難民支援などもあるわけで、いくつかの運動には、最近財政難で、滞納してまして、評判悪いんスけど、害う運動ではない、正統の人類的運動への一層の支援を願っています。

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 派内の教区の教務所長が代わられ、歓送迎会に行って参りました。
 派内のいくつかの課題とか宗選、今後の同朋会の寺としての門徒の持ちたる寺の具現化の模索など、いま思っていることいくつかについて、お馴染みの方々とお話しさせていただいたことです。
 ブッダと菩薩論、その位置づけについては依然として問題を感じますが、それは取り上げませんでした。

 有象無象、何でも併せ呑むのがこの世の集まりと言うもので、教相上のきつい原則論も崩すべきではありませんが、あくまでも達成可能性のある目標であり、課題になるわけでしょう。

 取り敢えず、女性・門徒(及び門徒出身者の僧侶)・外人などを講師に招く、門徒さんに寄ってもらって一つ寺を設け、門徒から住職になっていただく、過疎化著しい光圓寺門徒自体も何とか増やして一寺を増設する、など具体的なテーマに取り組む方向で、協力をお願いいたします。

 巨大教団や教界を牛耳る?まあ、そういうのが好きで、そういうのに向いた方がやってください。長年煩いご意見を賜り、疲労困憊したもんで、小規模な目標値なんです。

 お店について感じたのは、やはり馴染みのお客さんが好いらしい。ややご縁は薄いが仲間みたいなものでもあるのでしょう。こうげんぎぎとしてししきしょうじょうである。先日はそんなことも感じました。
 いろいろあるんでしょう。四分五裂したり、なにもかもチャラになったり。それでも任務や事業に熱意を持ち、前向きに周辺や関係者とやっていこうとすることは、極めて重要である。

 何でも思惑通りには運ばんもんですし、私らの思いなんぞ、どこ吹く風ってことばかりかもしれませんが、種々妨げばかりが気になるんですけど、明瞭な方向を見失わず、長い目で見て頑張りましょう。

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 教団を論じつつ、寺族ということについて以前少し述べましたが、校正し直さんといかんのですが、一番めんどうな課題で、切り口が奈辺なのか、どうのべたらいいのか、いまだ接近途上の感が深いわけです。
 寺族というのは仕事じゃないから、奉仕職である。奉仕を自身とすることが出来、それが自身の喜びである、ということなんでしょう。
 奉仕できるのは、そこで自己が実現される世界だから、であって、そうでないものを根幹としたり土台として奉仕奉職することは出来ないんです。
 真の共同性というか社会性を顕現できる世界と申せましょう。
 一方では、俺が私が、と、生活も大事ですし、欲も大事ですし、奉仕も奉公も実は、誰にも出来ないけど、それ故にこそ尚更、身を自己否定しながら、世界人類の為に邁進する姿勢を保って参りたいし、少し立ち止まって考えたい。

 寺は同朋会運動で、門徒が寄る場であり、寺族も門徒であるから、女性、若者、出来れば外人と、異なる者同士によって運営されるし、異なる者同士でも寄れる場でもあるわけでしょう。寄れる場でなくてはいけないような気がします。
 教相上、信心は明瞭ですから、なかなか難しいんですけど、重要なポイントでもある。

 似たような面もあるけれども、運動体としての教団とは異なりまして、現代では国や共同体は自由社会で、矛盾の自然性からしても、一元化や権力支配と統治の姿勢自体に無理がある。
 けれども、自由社会を表明していても、娑婆のいろいろが意味を持ってくるのは、一大事、価値、大慈大悲が実現されたところで初めて意味を持つ。

 そうでない、往生ではない、往死とかの世界に囚われていますと、価値無き世界で、大事が無い。他者も尊重しない世界になるんでしょう。すると、自らも他者からすると、そして人類社会にとっても、価値のない存在にならないか。そうなってしまっていないか?

 若い頃にはモットーとかポリシーとか、どう生きるかとか、自分の求めは何か、いろいろ取り組まねばならないし、ハッキリさせたいことが沢山ある。焦りもあったりしましょう。お一人お一人の御はからいで、大事なこと。ただ、固定しておかず、いつも相対化された方が好いでしょう。

 現代人は総インテリであり、生活が大事でもあるから、そうしたことは見つけ難くなってきていると言えましょう。
 また、昔は分家で、生産力の増大があれば、門徒が増えたが、今は逆で、生活事情で何処にでも飛んでいかんならんし、共同体も門徒も分散していく。
門徒さんの家庭自体も雲散霧消しかねない人生にもなったのかもしれません。

 ですから生活ばかりで、関心自体が薄れていて、求めは自然のはたらきで無くなるはずがないけれども、実際に行き詰まって求める方も少なくないけれども、機縁が奪われ易い社会状態だと思われます。また、違ったものをつかんでいないか、どうか、ということも気掛かりです。

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 そうしたことと別に、具体的な派内の課題について思うことがいくつかあるんですが、政治的判断も大事かもしれないが、諸個人の自由な意思はさらに大事。勅額については問題も見据えておく必要はあるだろうが史跡としてこのままでも構わないと思ってますし、大谷家の今後についても、御意思を尊重すべきかと思っています。
 そうしたことは日本の憲法上の位置づけでも同様であって、問題点もあるが、人間にかかることは自由意志を尊重する必要もあると考えているし、人々の福利と権利が保障される条件にある限り、許容することにしたい。

 珍しく皆様のご尊顔を拝見、いろいろなことを思いました。

無戒からー6(続き)

 ですから、諸々の生きとし生けるいのちはニルバーナを求めている、一切衆生悉有仏性ということは、最初から備わっている。菩提と菩提心ということが、最初から備わっているから、理由が要らないし、自然なんです。安心を求めている気持ちが、生き物に万有だ、と。

 シャカムニなり高僧方のディスクールに充当されたタームが違うとしても、仰りたい意は、そういうことなんです。

 一体、古くからの様々なテキストのディスクールには、諸宗教に共通する大慈大悲から見て、また、人間を尊重する願いから見て、人間の解放から見て、明らかに間違っていたり、おかしい部分が含まれている。これまでこのブログ上で誤謬を探って参ったとおりです。

 大慈大悲なる智慧の存在に出遇われた方が頷いた世界、大慈大悲なる世界から、改めて今度は既存のダルマという概念を表現したディスクールや仏教徒の在り方に迫ることで、意が汲み取られ、再構成されていく。
 法統に結集された結集者(三蔵の編纂者)によって、創造されるんです。結集(「けつじゅう」と読んでいます。経律論の三蔵の編纂)は何度か行われています。そうした古いディスクールや在り方と、それと獲り組む主体との相互浸透、相互作用により、発展なり、確認がある。

 そればかりか、これもこれまで繰り返し指摘して参りましたが、仏教でも二つの極端を避けるよう教示されながら、生存を粗末にする極端がやや窺われる。
 科学、あるがままの客観的観察により、人間の自然について可能の限り迫られてきたわけですが、なお、十分ではなかったとも思われましょう。昔のことですから、考え方自体も様々であったし、様々な分野の探求も、相当程度発達していたけれども、なお、現代の水準には至らなかったのは、当然であります。むしろ、あの魑魅魍魎と妖怪と霊魂の時代に、あれほどの学的水準を人類が獲得していたことの方を驚くわけで、不十分なのは当たり前なんです。
 そうしたことはこのブログ上で長年に亘り、明証的に無矛盾に考察されたわけです。

 もっと簡潔に表現できるわけですが、すいません、テキスト類へのアタリがふっ・まじめなものですから、時間ばかり過ぎちゃいまして、回りくどくなる。仕事が溜まって参りますと、稟議書面は中身をみないで押印になり、色んな申請や書面のアタリも面倒で、投げ出したまま年月ばかりが過ぎていくみたいな・・・。一年ほど経って突然、(あれ、どうなった?)と。(そういえば・・・確かに・・・御うかがいしていたような気がいたしますううううう)で平身低頭みたいな。

 求道して、聞法をどんどん重ねて、それで発得したり大迷開悟したり信心開発したりする、そんなんやないんです。戒定慧三学を重ねて覚るとか、そういうのではない。
 気づき、頷いた即の時に、横超に、即得の阿耨多羅三藐三菩提がある。三学などは、むしろそこから始まる。

 ただそれに気づくかどうか、どこまで正しく認識できるか(換言しますとどこまで自覚できるか、何処まで智が近づくか)だけが課題とも申せましょう。

 同時にそれは、智ではない。通常考慮されるような教判や教相研究じゃないんでしょう。それはどこまでも十全ではないばかりか、間違いだらけだったり、反って迷わせたりするのかもしれません。

 理智というものは、震えがくるほどの的確な洞察や表現をもたらすものでもあります。
 しかし同時に、世の諸々と同じく羽根も生えていて、何処へでも、当て所なく、寄る辺なく、飛んでいき、雲散霧消しかねないものでもあるのでしょう。幻想や部分性を免れることも難しいでしょう。
 真実は明確であるから、開祖や祖師方には軍配が挙げられるけれども、その教相や教判が十全かどうか、大いに問われるべきだと思われますし、ましてや、非仏教的非真宗的な内容が混入しているとなりますと、何をかいわんや、なんでしょう。

 逆に教判が色々ゴチャゴチャしてても、間違いを含もうと、分かりづらかろうと、仏の世界から反って遠ざける懸念さえあるとしても、ニッバーナを求め、喜ぶ、という私の動かし難い事実は、微動だにしないわけです。明証的な、証を要しない事実。

 ミスティシズムとか秘蹟ということの重視も、迷わせる質を持つことから、さあ、どうなんでしょうねえ。

 なおそれとして現れて来ないそのものを、ハッキリと確認する、それが信心獲得、まことの自身の開発なんです。
 信というものも、何かを確かめて、信用するんですけど、信じようとしたりするものではない。最初から自然に備わっている、動かし難い事実としての菩提心、仏性に気付く、ということなんです。ですから、まことのこころ。事実あるがままの私の求めが発見される。

 元祖法然聖人は「生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城(ニルバーナの世界)には信をもつて能入となす。」と仰り、如来たる龍樹菩薩は「仏法の大海(ニルバーナの世界に至る道ということでしょうね)には信を以って能入とす」と仰いました。

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 有縁ということと血族ということと身分や貴人ということについてハッキリさせますと、昔であれば、血族でいろいろと集まるけれども、これも昔からあるわけですが、親の血を引く兄弟よりも、ということだってあるわけです。素朴には家族ももちろん大事ですが、貴人や血脈ではない、血盟の同志とか、真の友人仲間という集まりがある。

 釈迦の時代でさえ、他の教団からの方々が長じた指導者になられたケースが少なくないし、従兄弟の阿難は最後まで悟りを開かなかったとされるわけですし、提婆なんかは事あるごとに敵対される。

 毛遠心という方も、毛さんからすると彼は出身に甘えていて、今で言えば太子組というんでしょうか、あれはダメだ、などと言われましたが、むしろ異なれる同士のお付き合いが大事なのかもしれません。
 ユーロ地域でもハノーバーとかハプスブルクとか名門がありまして、アジア・アフリカ・南アメリカを問わず、世界中で貴人の血脈がある。派内でも蓮如様の血筋だとか、親鸞様の血筋があり、ご先祖さんを誇りに思うのも大事かもしれませんが、ちょっと、立ち止まって再考いただきたい。

 現代ではむしろ、民主主義と自由が定着してきまして、相互に万民が尊重される社会であるから、むしろ、他者同士が親しい関係で共に生きていくことが普通なんでしょう。
 元来差別的で排他的な親族が有縁というわけではなく、差別的な貴人ということが有縁でもない。他者をみそなわすこと自己の如くす、という点からしても、むしろ疎遠でさえある。

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 龍樹直系の親鸞様は御和讃を見ておりますと八高僧目だと意識されているような気がいたして参りますし、親鸞様の発見に対して私は、明らかに八高僧目だと思っています。

 が、無戒を仰りながら、以前藤原さんの論文にふれましたが、(異義邪執を)「教誡せば」なんどいふお言葉がポロンとこぼれるわけでございます。

 やはり、人を害う宗教や思想や姿勢は、厳しく戒められるということでしょう。放置も許容も出来ないということを明示されたと思います。晩年の御消息の悪業への戒めにもそのことははっきり現れている。

 身の自覚の言葉、間に合わぬ凡夫の自覚として無戒の身であるけれども、同時に、無戒にて往生する身でもあるわけでしょう。そういたしますとこの「教誡」ということは、教相理解への戒めであって、身の在り方を過剰に問うものではない。
 御縁によって、如何なる振る舞いもするであろう身や心を、たのもうとするものではない。

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 なお、七高僧の位置づけということで思われますのは、各人各様の解釈をこえて、信心と申しますか、菩提心の創造ということが思われるわけでございます。
 それぞれのお味わい、であり、それぞれの接近であるけれども、そしていずれのご了解も親鸞様は並べて評価されますが、むしろ創造的である。アミタの法統ということとご自身の菩提心との相互浸透ですが、創造的なんでしょう。少なくともご自身の人生の創造になっている。

 さまざまに見いだされたアミタとその世界の発見ということは、時代と共に創造されて、愈々ブッダの世界として窮められたに違いありません。

 ア・ミタという名は、限定(ミタ)の否定(ア。UNということでしょうかね。)とされますが、自体、一元性も否定され、済度の限界も否定され、大変寛容な世界を開かれる。

無戒からー6

 先日、お引上げと永代経、円成いたしました。各位にはお世話になり、有り難うございました。

 村山先生にはご多用の中お越しいただき、貴重なお話しを賜りました。改めて御礼申し上げます。有り難うございました。今後の更なるご活躍を念じ申し上げます。

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「・・・本学は他の学校とは異なりまして宗教学校なること、殊に仏教の中に於いて浄土真宗の学場であります。即ち、我々が信奉する本願他力の宗義に基づきまして、我々に於いて最大事件なる自己の信念の確立の上に、其の信仰を他に伝へる、即ち自信教人信の誠を尽すべき人物を養成するのが、本学の特質であります。」

 真宗大学(現大谷大学)初代学長清沢満之師は「開校の辞」でこう述べられたわけですが、この「せみなりお」も、人間が宗とすべき教相を学ぶ。
 ということで、本寺院は他の寺院と異なりまして宗教寺院なること、殊に人間の真宗の学場であります。

 他の寺院は・・・さあ、どうなんでしょうね。宗教や宗派を問わず、人間にとっての正統の教相に不誠実であるなら、何をかいわんや、と思うんです。
 あらゆる集まりは有象無象何でも併せ呑みますから、どんなところでも、いろいろな方が居られるので、本来なら頭を丸めて寺や教団から出て行っていただかんならんわけでしょうけれども、そうも言えない。

 国の政策上でも、安倍ちゃんご一統も本来御退陣いただきたいけれども、ここまで酷くなった日本と世界の状態を誰が尻拭い出来るのか考えると、今一つ消極的になるんスけど・・・。国民全員がそっぽを向いて、あとは任せるみたいな・・・。
 偉ぶって言うつもりはありません。昔の私も「至るところで人民の為に派」ではあったが、非真宗的傾向が一杯あったわけで、とっくの昔に頭を丸めて寺院から出て行かねばならなかったのでしょう。

 しかし現在、教判がここまで鮮明に迫られた以上、非形而上学的かどうか、倫理主義かどうかはともかく、怠らず勤め励む実践宗教としての運動が、愈々要請されているわけでしょう?

 何でも併せ呑むから、宗教や文化的なパラダイムの違いを超え、現実の諸宗教に対して不問で事に臨むべきとも思いますが、あまりにも逸れていては、手の施しようがない。「真宗門徒一人も無し」は、信心から、機の深信から生まれる自覚の言葉だったはずですが、諸教団の指導層にも「本当に一人も居なかった」ということでは、困るんです。

 ○○公会議でも某中央委員会でも、教相理解に問題があるとなれば普通、全員退陣するもんなんですが・・・。

 もちろん、何でも受けますとはいえ、差別教とか殺人教みたいなもんまで併せ呑むことは出来ません。
 ところが宗教以外で、差別教とか殺人教とか、人類を害う諸思念が宗教的装いを全くまとわないところで力を持っているので困るんです。最前線突撃時の「殺!」(殺してまえええ!)の軍隊とか、武器製造や取引がそれに該当しますし、○○教徒以外を殺せ、とか、ヘイトスピーチとか、差別教、排外教も物凄く蔓延している。

 そうした事柄を宗としないのがほとんどの正統宗教のご宗旨なんですけど、実際には世間では非常に多く、且つ「一般的」でさえある。

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 さて、人間という者には最初から完成が備わっている。少なくとも萌芽態として可能であろう。
最高の完成を得ることさえ可能である。人格を備えることが出来、他者を感化し、素晴らしい生涯を尽くすことが出来る。

 しかし人間は遊びや学びが抜きんでて居り、煩悩や幻想さえ特長で、思いや考えや気分は何処へでも行くし、類、個体の身心ともに、激しい変化の生涯である。
 また、そうした傾向は、変化と発展ももたらすし、いのちを活かすうえでも、有益である。
 同時に、そうした色々に遮られ、大事なことを見失い続ける存在ともいえましょう。

 シャカムニ・ゴータマ・ブッダは諸々の如来はただあるがままを語るに過ぎないと仰り、諸宗諸門の如来ブッダも、約めて申し述べれば、事物自体をあるがままに観ぜられ、述べられたに過ぎぬ、とされましたが、有るがままに一切衆生を観察された結果、
 「もろもろの生きとし生けるいのちは、安らぎ、ニルバーナを求めている。」と明言されたわけでしょう。

 世調を俟つまでもなく、改革の理念を俟つまでもなく、人々は健康的で活気ある平穏で友好的な暮らしを求めている。
 そして、誰に教わったわけでもなく、初めからこのことを自覚され、よくご存じなんです。意識されようとされまいと、初めからご自身の満足できる願望や求めを知っておられるとも、申せましょう。
 安らぎとは満足でもあるわけです。その暮らしとその世界とその自身に安んじて満足できる、そういう処に生まれるということが、願望であり人生の目的なんでしょう。

 ですから、私らの仕事は、どうやってそれを手にするのか、ということと、それで大丈夫なのかどうか点検することだけだと申せましょう。
 裏返しますと、今の満足や安心は大丈夫なのかどうか、また、今求めている安心や満足は本当に安心や満足をもたらすのかどうか、自身や他者や過去や未来の人類を害わないか、どうか、どこどこまでも明らかにして行くことだけなんでしょう。

 ですから、ただの満足ではなく大満足、大安慰。

 我々の自然、それが仏教なんです。資格なんか要りませんし、無戒でも無碍である。自身を尊び、時には自らをも投げ打って人々、他者をも尊ぼうとする。それもまた、あるがままの私らなんでしょう。

 亡き人、人の死に出遇って我々はその人を尊んでいたことに気付く。生存の出遇いの尊さです。
どこのどなたでも皆、一仏子である。他の誰でなくても、偏に、一仏子として迎えられなくてはなりません。

 けれども、どこにいても、誰といても、何か合わない、違うような気もいたします。
 これがまた大事で、違和感が大事な役割を持っている。異なれる、矛と盾が大事で、ものごとの問題点を示したり、改善を求めようとしたり。
 仏道に於いてもまた、違和感こそが、自分自身のニルバーナの求めを示しているわけです。

 日常の暮らしでももちろんそうですけれども、殊に寺とか宗教ということになると、そこで自身が安堵されるみたいな、そういう場として求められることもあるのでしょう。自然の安らぎが、願われ、求められている。
 もちろん活発な状態もその一つで、生きてるのか死んでるのかわからんような状態ばかりが安心や満足を意味するわけじゃない。
 最初からちゃんと、身も心も良くご存じだと思います。

 ですから、私一人が安閑としていることなのか、どうか、この答えも既にご存知なんじゃないかと思っています。
 本願は安心であって、安閑ではない。大安慰とは、如何なる境涯にあろうと、このこと一つを賜って生死する道を賜ったということなんでしょう。

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 宗教も、実用性という点では、内観とかヨガとか禅の健康法ということがあるし、信心とか菩提心によって、本願を賜って世界が広くなるということがあるし、ターミナルケアということがあるし、心の安定とか世界観の獲得に伴う処世術みたいなもんまで、もたらされるけれども、それは成道とはあまり関係ないわけです。

 派内にはあるのかどうか、私はよく分かりませんが、仲間や友人ということだって、あるんでしょう。私は全く知りませんけど、他の教団とか宗派の中では、多分、そういう人間関係もあるんだろうなあ、と想像しているんです。
 人間関係が成立していきますと、仕事や生活にも繋がるのが普通ですから、そういう副産物もたまにあり得るでしょうね。

 話は逸れますが、共同体の主要な存在かどうか、公共の存在かどうか、ということが大きな意味を持つのも、教勢の飛躍や定着に関係するから、ふれたわけですが、元々の人徳やグローバルな質に加え、初めから共同体の主要な存在であるかどうか、ということが、仕事や宗教にとって、成否を決していくんです。
 古代から中世までなら有力な血筋だとか家柄だとかも、共同体の主要な勢力に該当するわけです。争いも招くことがあるけれども、優勢な位置を持つことが少なくない。
 イニシャティヴを取って共同体を二分していくには、時代相・時代の宗教観念などの文化的パラダイムに拘らず、実際に共同体の有力陣営の血族であるか、そうだとする神話や偽装は有利にはたらく。

 宗派間抗争や共同体の中の主導権争い、教団改革とかに際しても、ですから、そうした有象無象が総動員されてきたわけで、それら全部が、宗教上からは負の遺産と見なされるし、実際、歴史的にもそうした純粋信仰からの批判的な見方があったわけでしょう。

 話を戻します。しかし皆さんの為になることは成道である。そして成道とは、あくまでも、生死全体が安堵される。大安慰。自ずと、自然で、理由が要らない人間性の根源、大慈大悲が開発され、友好的で交流的な、健康で健全なスタンスも開発される。

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 話は又観念的精神的のことになりますが、知というのは、完成は、無知の知、知らざるを知るを智者とす、と。
 もちろん、身体の感官程は世界を知らないけれども、同時に、身体の知らぬことまでよく知っているのが理性で在り、理智である。どこまでも近づくのが学びと智。
 すると、混入した非人民的なもの、非仏教的なもの、非宗教的なものをキチンと見据え、古いものを改めることが必要であることも導かれる。

 蓮如様は「八万の法蔵を知るとも後世を知らざるを愚者とし、一文不知でも後世を知るを智者とす」といわれましたが、後世と呼ばれる仏の世界の有様、願心の開く世界、慈しみの世界を知ることも、智慧の一番重要なはたらきと申せましょう。
 その具現の為に知恵を働かせることは大事ですが、その前に、先ずは一大事なる自身の願心を知ることが大事。

 人々の願いを満たす。衆生の願楽悉く、速やかに疾く満足す、と。
 願いの質を問うことが大事なのは、それが自身や万民の為になっているのかどうか、というグローバルな問いであり、同時に私一人がその願いを進みたいかどうか、進めるかどうか、進んだ結果何をもたらすのか、ということがあるからです。
 全部上手くいく。正しい世界といのちへの認識と、真の願いが、満足される。そういう世界が大事なんでしょう。

 愈々教相は深化されなくてはならないようです。

 前コラム、すこしだけ修正しました。

無戒からー5

 先日、オリンピックが始まり、間もなく終えますし、甲子園の高校野球も始まり、終わりましたし、広島長崎の追弔の時機でもあり、第二次大戦関連のプログラムが流されたり、天皇ご自身の生前退位が話題となったりしておりますが、お盆も迎え終わりました。

 お盆は法要の大切さをアピールするわけですが、「盂蘭盆会」をウィキで見てお分かりの通り、死者供養の色彩が強いわけです。
 けれども、生者死者ともに、「生のみが我らに非ず死もまた我らなり」であるが故に、そうであるほど尚更、生も死も度外視しかなぐり捨てて、如何なる世界を求めるのか、今一度法座で明らかにすべきと感じます。

 オリンピックでは盛りだくさんの競技が実施され、なるべく見ないようにしてるんですけど、どの種目もおもしろいもんですから、ついTVばかりになってしまいます。
 暑いもんですから、盆参りに回らせてもらったりいたしますと、夏バテで尚更、五輪応援ばかりに偏りがちです。

 おかげで、畑と言わず寺務といわず、万事さらに遅れがちになっちゃいました。すいません。

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 また先日来、九ちゃんの「上を向いて歩こう」が、しきりと懐かしく、聞こえているな、どうしたのかな、と思っておりましたら、永六輔さんの作詞だったらしく、永さんがお亡くなりになった。

 臨終間際に来られる方が多いとはいえ、以心伝心で意識に現れた人が全部死ぬわけでもありませんし、現れないまま亡くなる方も多いわけで、巨泉さんも生前現れた方ですが、トミタイサオさんは分かりませんでしたが、いずれも巨人で、それぞれの人生にタッチして来られた方、と言えるでしょう。先日にはこれまた時に現れられた千代の富士関も亡くなられました。

 いろいろと煩悶して悲しみと不安に残された遺族としては、何もかもかなぐり捨てて、いつも前に進む、不退転の宗教の道を聞かされたって、(はあ・・・)って感じしかしないわけですが、順次生の、遺されていく未来の方々に心を寄せて、我々は皆、逝くほかないわけでしょう。

 さて、前コラムの補足などを交えながら、無戒ということと、人類社会、人間関係の在り方について、さらに探索して参ろうと思います。
 無戒ということから、自身への諦念、自身への傲慢な期待の克服などが思われましたが、これからさらに、仏教や宗教の本質である生活と身体にもたらす、観念や精神のもつ力に迫ろうとします。

 還相回向と申しますのも、自身の身体と生活がどうなってゆくのか、そうした課題としてあるので、身の振り方を含め、更なる攻究が望まれましょう。

 十分な考察は出来ませんが、構成して参ろうと思います。

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 さて、無戒のひらく世界、ということで、真宗関係文書に於ける「観念」の語の扱いから、いろいろと思われて参ります。

29 嘆徳文

1077-6
大才諸徳の講敷を聞くところなり。これによりて十乗三諦の月、観念の秋を
送り、百界千如の花、薫修歳を累ぬ。ここにつらつら出要を窺ひて、この思


43 一枚起請文

1429-3
 もろこし(中国)・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念
にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往


55 往生要集

1144-12
 問ふ。深き観念の力、罪を滅することはしかるべし。いかんぞ、仏号を称念
するに無量の罪を滅する。もししからば、指をもつて月を指すに、この指よく

56 選択集

1222-15
  仏に約して三輩を分別せば、これに二の意あり。一には観念の浅深に随ひ
  てこれを分別す。二には念仏の多少をもつてこれを分別す。浅深は上に引


 詳細はそれぞれ原典に当たってください。必ずしも観念を排せざるも、仏道には観念の介在を排する、ということでしょう。

 そして、元祖法然聖人の「観念の念にても非ず」という言葉の示すものは、ブッダの願心との、自然の、こころの相応・呼応である、と理解するとしっくり来ます。

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 これまでも何度か言いましたが、現代人はみなインテリであるから、ゐなかの人々でもないし、善し悪しの文字をも知らぬわけでもないから、そういう意味ではこれは、観念や煩悩という束縛だらけ。
 大徳寺一休や本願寺蓮如さんみたいな、自分から解き放たれた自由な自然なあるがままの野人ではない。

 本願に出遇い、賜った悪人は、凡夫に還っても安心なんです。我が身に対する機の深信はあるけれども、そんな悪しき自身からも解き放たれ、アテにしなくて好くなり、明るいのでしょう。

 いつも仏道ということ、真宗門徒や仏教徒の生き方みたいなことを、やや観念的でやや精神性に偏っているけれども、と控えめに申し上げて居りますが、必ずしも観念論ではなく、身と世界の事実を在るがままに理解するものと申せましょう。

 そして、元々、シャカムニ・ゴータマ・ブッダご自身はもちろん、多くの祖師方にしましても、精神性に偏った存在だということになっているんでしょう。
 ですから、観念ということは排されても、アプローチしてタッチしていくのは、観念の持ち分が少なくないのでしょう。

 観念と物質の相互浸透とか、上部構造中の上部構造における精神の役割ということもある。

 一方、身は限界がある悪人のままであるから、理想主義ということになりますし、実現の可否が疑われるけれども、決して実現しなくても、それ以外に無い、ということだって、あるわけでしょう。

 しかしそうした理想をいただく中に於いて初めて、限られた生存も、尊ばれるべきこととして、頷かれるようになるわけです。

 人間性の根源、という言葉も長く言ってきましたが、義なきを義とする自然ということが、それでしょう。
 もちろん自然性はいろいろありますから、どれが重要な自然なのか、実は選択ということがある。
 本願は摂取を選択されるわけで、選択の本願は人間性の根源に置かれているものなんでしょう。
 この選択も、自ずと選択されざるを得ない、重要な要素を選択される。自然中の自然であって、これ抜きには生命の存立が危ぶまれるようなもんなんでしょう、大慈大悲という自然は。

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 あまりご縁が無いのか・・・持戒ということを存じませんし、前にも言いましたが、明治までは妻帯も真宗以外は禁じられておりまして、明治以後、いつの間にか、どの宗派も肉食妻帯を公然と行われるようになりました。悪いとは思いません。
 持戒の方が居られるのか、また、実際にたもって居られるのかどうか分りませんが、戒を保っていても、自制しても、正しい政治や社会生活を実践している人も多分、居られるのでしょうが、成道や如何?と。

 「大量破戒平気」みたいなことではなく、戒を破壊しても、酒を飲もうとタバコを吸おうと、遊んでいても、何をやっていても、人を殺しても、しかもそれらはとても辞め難く、人を害わぬ暮らしも出来難いけれども、成道があるかもしれないわけでしょう。気が付いたら、成道していた、みたいな・・・。
 本願は人々の為に、ということですから、至るところで人民の為にということ一事を追求し続けて参りますと、これは本願力であり、本願に出遇った悪人には、成道が近いのでは、ありませんか?

 まあ、成道からは、三品の懺悔(さんぼんのさんげ)ということがあり(和讃〈善導讃〉:真心徹到するひとは 金剛心なりければ 三品の懺悔するひとと ひとしと宗師はのたまへり)、宜しくないことが覚られて、成道があるわけです。回心懺悔が必要で、そのままの日ごろのこころにては不可。真実信心は機の深信、懺悔なんでしょう。

 もっとも、懺悔の値打ちもない、自らに期待など、微塵も持つべきではないようにも感じるんです。成程、能力やお仕事や業績など、さまざまな自信を持たれてよいわけですが、自身の自我とか身体さえこれは、当て所なく、寄る辺ない。
 末通りたる機の深信が大事。ずっと身心脱落していく、自らをよしとしない。末通りたる信心なんです。

 無戒ということから、そうしたことが思われて参ります。

 つまり、結論から申し上げますと、それら社会通念も大事だけれども、成道には関係しない。
 もっと言うと、通念を超えた真の社会性と社会の真念、本念に出遇うから、社会通念の完成態ともいえる。

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 いろいろと、宗教上から人間の置かれた現代に迫ろうという試みを目論むんですけど、どうも、これがまた大変で、人間性、来るべき人間関係なり社会論ってのは、容易ならんわけです。

 来るべき人間関係の未来も仄見えては参ったわけですが、さあ、どう取り扱って、どうしていったらいいのか。

 社会性ということで、生産でも色んな集まりの中でも、連帯も団結もチームワークも大事なことは言うまでもないが、さあ、どういう質なのか。
 一元的でいいのか、目的志向性が強くていいのか、個のわがままや自由との関係はどうなのか。

 抜きん出られた天翔けるエリートさん方は、目標や理想に囚われないけれども、見失ったり、諦めたりしない。
 実現の方法を知っているか、見つけ出す場合が多いし、実現しなくても、それが必要な世界だということをちゃんと知っているのでしょう。

 以前掲載しましたが、玉光さんの紹介されたエルネスト・チェの言葉じゃないけど、実現の可否以上に重要性を感じている。それが欠けると、何か生存の尊さも根拠も欠けてしまうような、根源的で中心的な大事さが、何ものかに感じられるのでしょう。

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 深いんです。大事なんです。かけがえなく大事である。飯が大事であるけれども、最悪、食えなくなっても、これだけは大事。いつか食えなくなり、死にますけど、大事。

 それ故、飯が大事なんです。生身のいのちが。個体の自分が死んでも、後の方々が大事でしょう?
 生身の生存を保障することが、本当に大事になる。私が依拠すべき真のいのち、大慈大悲からは、生存こそ、愈々、尊ばれる。
 生きるということは衣食住を要請する。

 飯を食うこと、娑婆改革が、深くて大事ですし、経営の理念でも労働運動の深さとか大事さも、実はそれより更に深い処、人間性の根源にありそうです。人間に於いていのちは自然に自身も互いも尊び、慈しんでいる。
 人々の為に、ということも、物質的条件の整備、生活の改善に限らない。志願います。

 同時に、もうひとつ、いつも思われますのは、それがたとえ他者を害う質であっても、敵と報復を招くとしても、いのちはそうした方向に進むことも一つの自然なので、人間同士の関係であるなら、何らかの調停ができるといいのだが・・・ということです。

 単純化パタン化は重要でしょうけど、事柄を単純化することを排し、あくまでも尊ぼうとする処から、万象を見直したいもんです。

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 ただ、政治経済的エリートさんの中には、誤った有象無象の人間観に囚われているケースが多く、そうした人間の在り方の観察も、一つの自然性の発見であったり、大事なことではあるが、信頼と育成を害うものであり、転生ということの理解もない。また、「支配と統治」の感覚は完全な人間性、喪失であり、人間破壊である。

 殊に矛と盾の闘争が激化いたしますと、間違った考え方やら差別意識やら身分、人種、民族、国家や「宗教」、血筋やら何でもイデオロギーも動員して、「敵の敵は味方」とばかりに敵の敵とも野合して、流布された世間道徳も動員して、旧態依然の反人民的で非民主的な「支配と統治」の感覚もうち固めて、自身の「元来の存立基盤」を傷めながら、突き進もうとするわけですから、これはもう、滅茶苦茶です。

 あの仏にこの菩薩、あの神にこの神、あのマルクスにこのレーニンに・・・流布された既存の名言、感覚、気分、思想に信仰を総動員したって、自ら利用主義によってすべてを九十五種にしてしまう。
 その枠組みで上手くいってる間はいいんです。次第に間に合わなくなって、塗り固めようとしては失敗を深めるみたいな。

 まさに、自分自身に仇を為すような修羅場と申せましょう。

 大同団結が大事ですが、結束した旗幟鮮明も大事なら、わがままを言えるのも大事。協調も大事だが、突っ走るのも無視できない。どういう連帯の質を求めるのか?

憶念弥陀仏本願 自然即時入必定

 一方、往生成道の因であろう、ということで前にちょっとふれたわけですが、「憶念」ということがある。

 これは重要な概念で、憶念弥陀仏本願 自然即時入必定、と。即得往生、即得阿耨多羅三藐三菩提、成道、ということです。超日月光ですけれども、横超の慧日。

 念仏為本ですが、それを信心為本として、願心受領を必定とするわけでしょう。

 ほとけの世界に生まれるほか無いんです。法の深信といわれるが、願心の世界、智慧の世界でもあるわけですが、人文学の願心の世界に生まれる。

 それ以外に、仏にはなれないし、向かおうとする仏の世界は仏しか理解できないのではないか、と私は思っているわけですが、しかも万民に於いて呼応可能であるから、万民に成道が開かれているとも言えると思うんです。

 娑婆の観念からいたしますと、往きたがらないだろう、とも思われますが、それしか選べないし、往くところなんか、無いんです。
 汚染された肉体、それより更に汚れ切った精神、手の施しようもない最悪の汚染にある行い、と三拍子揃っていますから、これはもう、自障障他するほかない暮らしです。
 また、必ず訪れる死という先窄まりの人生は、何一つ宜しくないし、褒められない。そんな我々を丸抱えしてもらえるところは、他に、ない。

 自己嫌悪とか自責とか悲歎以外無いはずなんでしょう、本当は。まあ、それさえ適わない。認めたりアテにしたりすることさえ適わぬ、懺悔の値打ちも無い、ちっぽけで取るに足らぬ、力なき存在なんでしょう。どうしようもないんだから、自責も意味がない。

 まあこの、年を取りますと、しわやシミもひどくなりまして、こきちゃない姿ばかりなんですけど、それがまた大事で大事で。善悪浄穢も無かりけり、と。無差別なんです。
 きっちゃなくても奇麗でも大事に変わりはないんでしょう、本来。

 もちろん、往ったきりでもなく、凡夫に甘んじるわけでもない。

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 とにかく、弥陀仏の本願が、大慈大悲とブッダの開く世界が大事だから、出遇いと憶念ということが成立するわけです。
 機の側からいたしますと、自身を言い当てられる。自身の内奥至奧を探して、空っぽだったものが、まあ、一度は探してみるべきでしょうけど、初めて、呼応するものを自身の内に見出すことが出来た。

 何もないどころか、汚染だけがあるということも、出遇って初めて、ハッキリしてくる。
 大体、探すと言ったって、探すこと自体も、狭くて目先の損得とか快不快とか日ごろのこころで探すわけですから、自身をいくら探したって、何にも出て来ゃせんのです。
 むしろ、報執、我執に迷い、愈々、迷いを深めるばかりなんです。

 成程、自己とは何ぞや、ですが、自己を問う願心と正統の道から問われることが無ければ、日ごろのこころからなんぼ問うてみても、何も見つけることが出来ないのではないでしょうか。

 そして、かかる迷いの生存や凡愚への居直りと、本願は無縁である。仏意願心に表現されているような大慈大悲に出遇った人は皆、天翔ける人間尊重のすべてを尊ばれるに違いありません。
 それこそが人々の友ということでしょう。そも、人民が大切だから、友たらん道を授かる。先ずは自身と闘い続けて、如何なるポジションにあろうと、自ずと闘争でしょうね。

 常識や既定のテキストやそれまでへの異門というところで、それ自体改革であり、創造であり、根底的なコペルニクス的覆しみたいなもんですけど、異門で漸く自身が成就されていくみたいな、そういうことは宗祖も思われたに違いありません。

 民意ということが大事だけれども、反対を押し切ってでも防潮堤を高くして、たすかった地域がある。
 民意に先立って、真に生命尊重を重視されたわけですが、民意に先立って、民意の核心であり真の寄る辺となる根拠を明かす、そういう事実あるがままを示し語るということが、ブッダというお仕事である。
 より人々の安全を尊ぶために、経費と手間を注ぐ道を選ばれたわけで、経費と手間を惜しむなら、いのちを失いかねなかったと思うんです。

 人は誰も自身独りを尊んでいる。そういう風に、いのちは個体として出来ているわけです。その独りは、他者と共なることこそ尊ぶ独りでもある。

 そのことへの出遇いは大慈大悲への出遇いであり、本願への出遇いなんでしょう。
 ですから、自ずと自然に即の時に入必定である。

 それが人間の真に宗とするに堪えうる事柄である、と。仏教とか浄土門とかいうパラダイムやコンテキストもまた、そういう意味なんです。他のパラダイムでも可能である。

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 三十二相・八十随形好(ずいぎょうこう)、仏の十号など、仏の性質を求めるにいろいろあるけれども、実は仏しか適切な説明は出来ないのでしょう。

 どういうスタンスでアプローチできるのかというと、仏教真宗で言えば回心信心からみて、仏とは何か、と。また、回心信心自体も見直されるという、認識の相互関係にあるだろう。

 ですから、何に回心したのか、が厳しく峻別されなくてはならない。
 基準が無いから、大変迫り難い課題ともいえましょうが、一応大慈大悲なる智慧の存在を我々の根源としますが、本当にそれが大事なのか、自らに問わねば。

 まあ、なりたいとも、なれるとも、なろうとも、思わないわけです。私もそんなことは毛頭思い浮かんだことが無い。
 気が付いたら、なっているのかもしれません。

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 前回ふれましたことを少し補足しておきます。顕如さん教如さん、利休と戦国武将については、上場先生をチーフとする教研による『教如上人と東本願寺創立』、『本廟物語』が東本願寺出版部から出ておりますので、ご覧ください。

 また、大阪城にも少し展示されていますが、憤怒の表情の顕如さん教如さんの御影は城端別院など各地に残ります。

 いずれにいたしましても、民衆を巻き込み、苦悩に追いやっていった差別時代であり、民主制というカテゴリーは殆どありませんし、あっても曖昧で混沌とした質であった。仏教自体が民衆、人間解放を求めながら、封建時代や絶対王政の時代に対応した体制を採っていたため、なおさら脱却できなくなった負の遺産とも言えましょう。

 大派的には「顕教踊り(顕如様教如様を讃えるお祭り)」という文化まで伝承されているわけですが、負の文化的側面を軽視すべきではないと言えましょう。

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 仏教真宗について、素晴らしいのでまとめてみて、世界に発信しなくちゃ、と発心しながら、途中で(教学の専門家でもない自分の仕事としては荷が重いなあ、任せとけばいいや)と思って放棄していたわけですが、或る時、教学、仏教真宗でも、宗教ということは自分の現代の生活であって、どうするのか、何を願うのか、どうなりたいのか、そうした前向きのことなので、とても任せておけないことに気付いたわけです。

 昔の話とか歴史も大事でしょうけど、現代の、今生きている私自身に於いて何が大事なのか。

 そういうことが明らかにならないと、ただのディレッタントで終わる。私の中心、私の枢要が、もったいなくも、顧みられなくなりかねんわけで、意味薄どころか、真実教という人間性の根源をスポイルし、重要な点が全部、害われかねない。

 ディスクールに対しましては、開祖以降祖師方はこう仰っている、とか、○○というタームに対する祖師方それぞれの御理解はこういうものであった、とか、いろいろあるわけですが、私自身はどうなのか、私自身にとってどうなのか。
 何か、意味という果てしなき密林に分け入ったり、探求という底なしの泥沼に踏み入る感を深めませんか?ディレッタントとまで言わぬにしましても・・・。

 問いは道より生ずる、その道を見出し、鍛え上げてきた祖師方により、かなり道は備え易く、往き易くなっているはずでしょう。
 そして、異なれる世界を内に抱く問いの世界は広く答えの世界は狭い。

 開祖以来起ち上がり、前進して来られた主体の根拠とは何か?
 少なくともこの汚染された生存の謳歌でもありましょうし、尊重でもありませんか?
そこそは、真のいのちたるブッダの世界へ、神の国への往生へと、自然に導くのでしょう。生身の、血骨肉のいのち自体も、自身をかかる世界へと導かずには居らないに違いありません。
汚染され、激しく変化して生涯を終える個体も、振り返られたり、顧みられたりしなくても好い世界へと。

 そしてこの世界を得て初めて、汚染の身もまた、温かくいただけるのではないでしょうか?
 いのち尊ばれ、慈しまれるべし、と。
 同時にそれ故、愈々、自身を尊べぬ自身の生き様が知られ、批判や否定ということが為され、思い・姿勢・私的公的な行いが問われ、自己と世の改革も要請されるのでしょう。どこまでも届かぬままであっても、否、届かぬが故に、我、退くこと無し、我行精進忍終不悔、と。

 なあんも、まとまってません。一応、探求は最終章で区切りをつけたんですけど、実際ということは、これからなんでしょう。

 お引上げ並永代経、お待ちしております。お斎は先着何名かしか就けませんけど、先生のお話しをお聞きください。


無戒からー4

 先日、原付のスタンドをかけ忘れ、そのまま為す術もなく、あ・あ・あ・あ・あ~っと、倒されるストリート・ファイターみたいなスローモーション感覚と共にひっくり返りまして、あ”-っ!!種を播き、定植間近だったポットの上にべったりと倒れました。
 恐る恐る起き上がりプランターを振り返りますと、育てていたポット苗、半分以上をダメにしてました。隣のサラダ菜も小型プランターから外へぶちまけてしまいまして、自己嫌悪。
 作物や花など、うっかり切っちゃったり、転んで踏み潰し、ダメにすることがたまにあるんですけど、久々の大失敗です。

 何事も慌てず、着実に、ということが大事ですが、せっかちで迂闊ですから。

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 真宗的には、と申しますか、『無量寿経』的には本願文として、アミタの誓願がある。
 これを信頼するということが、往生なり、成道の要件である、みたいな感じで受け止められることもあるかもしれませんが、必至滅度の願文に親鸞様は注目して理論的な整合性を採られるわけです。成仏疑いなし、ということですが、ここにも、末代の正法としての、本願の正機としての凡夫の為の、この経があるのでしょう。
 まあ、それを疑いますと、本願疑惑の行者ということにされて、成道どころじゃないという意見もあることは十二分に承知しますが、本当にそうか、どうか。

 いつも、凡夫の仏になるこそ不思議、という蓮師のお言葉を引きますが、凡夫も仏になるけれども、どんなに立派で素晴らしくて苦労されても、漢学や教判に熱意を注がれても、なれないかもしれん、とも言えませんか?

 先ずは往生とは何か?
 大慈大悲に出遇う。大慈大悲なるブッダに出遇い、ブッダの法が聞き届けられる、ブッダの国というパブリックな世界に、もろともに生まれたことを示すわけです。本願が頷かれる、そう申しても宜しいかと存じます。
 頷くところの本願って何だ、となりますと、大慈大悲なる仏意・願心しかない。それだけが私を往かしめ、生かすわけです。ですから、既に本願受領はブッダを賜っている身であることを示しますが、願心はどういうものであったか。

 願心は一切衆生ですから、具体的のお一人おひとりが、課題となっていく。それが大慈大悲の在り方なんです。人民の為は一人の為。
 通力無窮もパブリックの願心であって、話が通じなくても、分かり合えなくても、背かれても、願心は願心で、一人も漏らさず、何でも全部受けます、というパブリックの在り方を示している。人民の為、と言っても、条件や善悪を問わず、どんな人でも、その具体的な一人を尊ぶ意味のパブリック。不請の友、不請の法、とさえ書かれているでしょう?

 そういたしますと、たとえ有縁の範囲だけでも、一々そんなにお付き合いできるのか、どうか?サンガとして地上で物質的な集いを相続できるのかということだって、問われてくるはずです。
 極悪の凡愚に、出来るはずがないんです。
 樹心仏地で、心だけは何とか、怪しい部分を残すかもしれませんが、仏の意に頷くけれども、娑婆べったりの私らのいろいろには届かない。

 そもそも、どなたも耳は傾けませんし、振り向きません。仏教や宗教に関心がある方も、次第に怪しくなっていくんです。まさに不請の法そのものなんです。
 ですから、私が、私が、と頑張ってみても、何とかあんたらと、と頑張ってみても、通じない。有縁でさえ、通じない。

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 ですから、ハッキリ申し上げましょう、娑婆でのお付き合いじゃないんです。それは要らないかどうか、と問われますなら、まあ、あった方が「経験」の蓄積になって少しくらいは心を寄せることも出来るかもしれませんから否定はしません。経験について探ってみたコラムで経験の役割と限界に迫りましたけれども・・・。
 否定はしませんけど、あまりアテにするのもどうかなと思うんです。

 娑婆に無関係に、何でも全部受けるしかない。そういう世界を実現しようとするしかない。正も反も合も邪も誤もです。
 そんな人はありませんし、受け止め難いけれども、往生には善悪正邪を問わんのです。ブッダの善はそこにあるんでしょう。
 一方、往生しても、菩薩道かどうか怪しいけれども、いずれにしましても身は慢性的に還っているから、全部悪であるし、狭くて限界があり、凡夫のままなんです。ただ、昔の言い方を真似ますと、正しい本願を正しく承った凡夫、悪人、ということがある。
 「その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。」自分の本願によってこう在りたいと思う者を除いて、という言い方も第22願にあるわけですが、さあ、アミタの願心と違わん願心の人、と言えると私は思います。

 無差別の思想、他者と自己の差別が無い思想と姿勢にふれなかったなら、被拘束者や被抑圧者や被差別者にも、それどころか誰であろうと他者に手を差し伸べようとは思わないのでしょう。
 ですから、もはや娑婆を超えてお付き合いするということになるんでしょう?生きようとする、自己を保存しようとする自身の生物としての自然の一つに、抵抗し、同時にしかし、本当に生かそうとする、本当に生きる、みたいな道でしょう。
 ブッダの願心自体も、娑婆を超えて私に呼び掛けられる。
 尚更、聞こえない。往き易くして人無し。

 ただし、すると、同質なのは命だけで、あとは千差万別の人生や個体差がありますから、同じではない。格差があり、適不適もありましょう。
 相互に尊重し合うしかないけれども、これも現実には限界や無理があるわけですが、自然のはたらきは受容するほか無いと思います。
 そういたしますとしかし大事なことは、人間にとっての自然は人工加工ですから、長命短命、ある事柄に於ける有利不利などに当たっては、人事を尽くすべきであるに決まっている、ということになるのではありませんか?

 既に来るべき人間関係と社会の在り方が仄見えているわけですが、真宗的な社会と申しますと具体的な在り方を模索するのはなかなか困難に感じます。人間を害わず、尊ぶうえで、人間関係、社会論と社会性は極めて重要なテーマですが、それだけに、様々人間性に背ける姿ばかりが目につくのでしょう。

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 もう一つ、結局、ブッダはあるがままに道を示すのみで、選択や人生は千差万別で、受容するかしないか、たすかるかどうかは、お一人おひとりが自分で決められて進まなくては。

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 いずれにいたしましても、教団が逸れているのは当然としても、全員が、というのは困る。

 せっかく、「真宗門徒一人もなし」という宗派「真宗同朋会条例」で言う処の「健全」さ、「宗門としての機の深信」を賜りながら、でも本当に一人も無し、では困るんでしょう。
 これは戦後の混乱と崩壊の中で生まれた運動ですが、「宗門としての機の深信」がある。
 もちろん、差別性の自覚とか、問題点の自覚とかは、いまだに十分とは言えませんが、少なくとも、機の深信から生ずる自覚の言葉として、受け止めておきたいと存じます。

 限界に満ちた、逸れてゆく、漏れる、背く、異なれる限界者の為にこそ、ブッダの願いと教えがある。そうした我らこそが、むしろ、真にたすかる。願心にふれ、願心を賜ることが出来るんです。そして、自らを脱していく。ですから、本願の正機であり、末法こそ正法だ、と申し上げたわけです。
 もちろん、行いが問われ、自戒と自制が要請され、戒や律が問われるのは、娑婆に限りません、往生により本願に出遇ったとき、初めて、徹底して問われる、それが機の深信でもあるわけでしょう。

 参考までに「真宗同朋会条例」第二条に「本旨」として「目的」が記載されていますので、引用します。

「(同朋会の本旨)
第二条 同朋会は、教化基本条例第九条の規定に則り、会員が自らの上に教法を聞き開き、その自覚を生活に生かし、もって健全な社会の形成に寄与することをその本旨とする。」

 ここでも健全という言葉の後に、社会形成ということが述べられておりまして、以前ふれましたけれども、曖昧な感を否めなかったわけですが、「健全」ということを「機の深信」といたしますと、しっくり来るんです。
 人間が互いに真の友と成る以外に、来るべき社会は無い。



 現代人はみなインテリであるから、ゐなかの人々でもないし、善し悪しの文字をも知らぬわけでもないから、そういう意味ではこれはもう、観念の人であり、束縛の人だらけなのかもしれません。
 煩悩も人間的な現象とはいえ、いつしか自身を見失っていないか。

 一方、大徳寺一休さんや蓮如さんは、自分から解き放たれた自由な自然なあるがままの野人にも思われます。お稚児さんなんでしょうけど。
 逆に言いますと、本願に出遇わない限り、我々は凡夫に還って安心することは出来ない。

 こうして考えて参りますと、仏とは?
 「仏の十号」があり、誇張されていたり、仏教徒の願望が投影されているかもしれませんが、「三十二相・八十随形好」があるわけで、そんなものを一々講義出来るかどうか分りません。
 けれども、先ず、仏は覚者でもあるけれども、教主でもあり、滅度を以って表現される存在が何か、今一度攻究を進める必要はあるかも知れませんが、その示す方向は人類にとって必要であり、すくいにもなるわけです。
 成仏の可否に関わらず。自らの成仏を考慮せず、後回しにして進む、それがブッダの姿勢ともいえましょうか。

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 一休さんと言えば、前にも述べましたが、時代が下り、大徳寺利休さんと教如さんのかかわりもありまして、先生のお話しですと、千度茶会を持たれたといいます。

 信長公、秀吉公、家康公との関係ということがある。

 信長公との闘いが終わり、以前も書きました通り、秀吉公は教如さんに本願寺の継職を認めたわけですが、その後、弟さんに変えられる。
 そうした事情には、古風で貴族的な教如さんと利休さんとの関係があったに違いありません。利休さんは秀吉公に切腹させられましたから、教如さんも快く思われなくなったのではないでしょうか。

 この時代、現代の先生の研究でご存知のとおり、本願寺は門跡成りし、顕如さんは九条家の、教如さんは近衛家の猶子であって、皇族・公家とのかかわりが深い。ちなみに、顕如さんの妻は如春尼公といい、長子の教如さんと仲が悪かったとされますが、武将の細川家からの申し出により嫁入りされたが、実際は三条家の三女であり、姉二人は武将の細川家と武田信玄に嫁いでいるわけです。

 そして今度は家康公は、家臣に「本願寺は本当に分裂しているのか、切れたのか」と尋ね「本願寺もとより分裂」と答えた古文書を先生は引かれるわけですが、教如さんに東本願寺を作らせ、事実上、二つの本願寺になった。

 原因は権力の介在にもよるわけですが、内部の分裂であった。



 さて、コンスタンチン・ツイオルコフスキーさんにふれたついでに、余談ながら、SFについて。SFはサイエンス・スペキュレイションに人類の道を描こうとする動きとも思います。

 ラジオでH・G・ウエルズの『宇宙戦争』が流されてパニックになった、とかいう事件もありましたが、後から考えますとイギリスはエンゲルスの国でもあったからかもしれません、ウエルズがレーニンと会見しています。

 演説するレーニンを「ロシアの農民そのもの」と描いたトロツキー『レーニン』の中に、その時の様子が少しだけ触れられてましたけど、実務家にして政治家のレーニンにとってはあまり良い印象は無かったようで、手のひらで額をおさえ、指の間から疑り深そうにウエルズを見ていた、と。どうも、重要ではない人物の重要ではない話には、いつもそうだったらしいんです。かぶれ易いものですから、しばらく真似しましたけど。

 レーニンご自身はそうだったかもしれませんが、その後旧「ソ」「連」東欧圏でもSFが盛んとなったようです。

無戒からー3 名から問われるもの(称名について)

 先日、車の前を横切ったのはテンでした。これも少なくなく、早朝、本堂の前で後ろ足で身体を掻いたりしていたんですけど、最近ではむしろ珍しく久しぶりに見かけました。

 とにかく、田舎のこととて、いろんな動物が多く、危険性が極端に大きなスズメカンパチやマムシや熊以外にも、作物保護などで、いろいろと神経をすり減らします。

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 前回ふれました「化身土巻」に限らず、善悪の彼岸みたいなところまで話が行っちゃうわけでしょうけど、やはり前に進む。

 神学も仏教も前に進んで不退である。受け止める人生には大事なことですけど、そも、法事や葬送にはギャップがあるんじゃないでしょうかね。どう説明されても、一人の喪失という悲しみには届かんわけですから・・・。

 ともあれ、疑謗も、素朴な疑念から、宗教的な微に入り細に入る探求をもたらす根源的なものまで、様々でしょうけれども、正しく賜った回心信心に信順であれば、そこから、これでいいかどうか、が幾度となく問われ続けてくるはずです。

 身も娑婆も問題が無ければ、問いも生まれなくて結構なんでしょうけど、まあこれは、頭のてっぺんからつま先まで、お箸の上げ下ろしも、問題ならざる事柄は一事として存在しない。

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 前回も少し話が混乱的の印象を強くしてしまい、恐縮です。

 仏者=念仏者として基本的なスタンスは随分執拗に探って参ったつもりなんですけれども、もう少し整理できると好いのですが、先ずは改めてカオスからはじめよう、いや、カオス状態に執拗に探りを入れてみよう、と。

 ブッダとか覚りとか、仏者の生き方とか目指すべき処を巡り、初期経典類とは異なる質を願ったり、初期経典類の質ながら、その在り方を突き詰めてみたり、結果、異なるを内包し始めたり・・・。「ブッダ」の意味について従前の把握を是とするにしても、一切衆生がブッダに成ることが可能かどうかをめぐって、浄土門がその一つであるように、様々なアプローチがあり得るでしょう。

 いやこれは大ごと過ぎまして、しかも一応、仏教のパラダイム内で詰めて参りますが、もはやブッダの意味自体が見直され始めますと「仏教」と呼べるのかどうか・・・。そうした事態にも遭遇し始めるかもしれません。

 せっかく頭の中をカオスにしたのだから、問題化する場合のスタンス自体の列挙とか、その点検や解決を巡ってのスタンス自体も列挙し、一々、どういう事態を意味したり、どういう事態をもたらすのか、この際洗い直すべきなのかも知れません。

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 同時に今一度、基本的な出発点、私は何を尊ぶか、大事の故に尊び、慈しみ、さに非ずを悲れむという原点みたいなことを確認。
 そして、大事にしている願心を、実際に実現できるかどうか、その方向と実践内容を見直す。

 方向はまず智に裏打ちされた世界認識・自己認識と慈しみ、ニッバーナであり、その意味や定義は満足。満足の意味するものは・・・と攻究していく。

 実践については、具体例で、こうした事態に果たして対応出来るか、どうか、出来ても、どういう対応が可能で、結果、どういう事態を招くのか、攻究。

 単に日ごろの即自的な自分から出発していくのと違って、これは回心からの出発ですから、何に回心されたのか、何を願ったのか、私の信心を問い返し、洗い直して溝を浚えるということです。

 ただ同時に、常識的な自我から出発したり、日ごろのこころから出発することも、もう少し温めておきたいと存じます。
 理由は、感性に従え、ということで、何か「おかしい」と感じたら、実際におかしいかもしれないからです。教条ばかりではなく回心や理性からの常識に潜む危うさみたいなもんも、あり得ないとはいたしません。

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 さて、これまで、仏教教義や真宗教学の定説に対して、特定の語のカテゴリーにいろいろ疑問を投げたり、世界や人間の見方に疑問を持って臨んで参り、否定した部分もありました。
 大分以前になりますが、親鸞様はそれでいいかもしれないけれども、三願転入はどうなのか、と、これにも少し疑念を表明しました。
 また、諸教でもハルマゲドン観などもあるわけですが、三時観についても否定的ですし、煩悩観についても、生存についても、見方に疑問を呈したわけです。
 こうした提起は回心信心から湧き出ずる世界、人間にとって真に宗とすべき質の求めから来るわけですが、いずれにせよ、叩き台として耐えうる質の教学があればの話。

 悪を逃れる者は無いし、「化身土巻」では、間違った処に赴かずにいる者は誰も居ない、必ず違う処に往生する、まさにそうしたことまで、思われてくるわけです。

 もちろん「化身土巻」では、三経などにより疑城胎宮を批判するということが教学上の定説として強調して講義されるわけです。

 が、必ず異なれる世界に赴き、脱しない、しかも、「化身土巻」で取り上げられている世界は多く、質的には似たような、あるいは同じ質を原因とするかもしれないが、現代ではそれよりもさらに多い、そういう感を深くするわけです。仏教自体すら、そういう処に陥る陥穽を免れないかもしれません。油断ならん。

 そして親鸞様の真骨頂は、まさに仏の世界、報土往生へと我々を導くモメントを探っていく。化土から報土への転入ということにあるのでしょう。
 言ってみれば、法を訪ねて彷徨う中で、閉ざされた世界、自己満足を含めた狭い理解に安住してしまっているような「お参り」や「聞法」の中から、何とか法座へと身を運ばしめる、そうして身を破っていくモメントとは何か。

 約めて申しますと、「化身土巻」撰述に込められた願いみたいなことが、窺われるのでしょう。まあ、どちらにしても理解と道を誤ることはよくあることですから、煩瑣な教学理解が必要か、とか、そんな面倒な道を通らなくてはいけないのか、という気もいたしますが、親鸞様に於かれてはそうである。

 同時に今一つ、これは「化身土巻」だけではありませんが、善悪への姿勢。異なれるへの姿勢。「教誡」ということがあるわけですが、同時に、真偽や正誤への姿勢に於いて、示唆が感じられます。
 謗法闡提みな回さるる、往生には善悪問わず、ということのほかに、正あれば誤、邪、偽あり、でしょうし、少なくとも反あるが娑婆の常ですし、異見Aあれば異見BからXYZまであるに決まっている。
 矛盾論です。
 まあこれ、対立と抗争の宗政に携わって来られた先生方、特に身に沁みて感じておられたことでしょうけれども、どう対応したらいいものか?
 主要は矛盾であって、一ではなく、合でもないけれども、尊からざる人は一人も居ない。

 さあ。

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 さて、前コラムに関係いたしまして、誤解の無いように、少し称名念仏について補足いたしますと、専修念仏の念仏は専修称名ですが、親鸞様には「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心を以って本とせられそうろう」と蓮師仰いました通り、先ず第一に仏意・願心から生ずる本願があり、名号に託された願心の受領が信心です。

 故に、まあこれは浄土門の煩瑣な教学なんでどうかと思うんですけど、そこから改めて専修称名ということがいただかれるわけです。

 これは例えば『教行信証』の「行巻」でも、ナンマンダブツが大行を示すわけです。ですから、弊派教学では一般に、教を信じて行ずる、という通仏教的な「教行証」とは異なり、教・行を信じる理解となります。

 これは、私の表現が適切かどうかは自信がありませんが、弊派内では一般に共通理解されている定説なんです。真宗学のクラスでは常識的な見方だと思います。
 定説については皆さん十分にご理解では無いかも知れませんが、大分省略してきました。金太郎飴は好きなんですけど、定説になっていないことの創造や提起、問題点の指摘と論駁を急いで来たものですから、多分、ご門徒さんや派外の方や仏門外の方には分り難いだろうと思うんですけど、ご容赦願います。

 ですからある意味、丁度『末法灯明記』が仏教思想からはみ出す感が持たれるように、親鸞様の名ということと名を称えるということの意味の了解が、名と称名の受け止めが、異色であるように感じられましょう。
 「往生之業、念仏為本」を「念仏為本 信心為本」として解明した点に於いて、名と称名の受け止めが異色になった、と思われるわけです。

 先にご門徒とお話しさせていただく中で申し上げましたが、一体これは、呪文でありますと、唱えるんでしょう。唱え易いとも申せましょう。
 唱え易さから思われますのは、7音階的には「ラ」の音程で、「ア」・「ウ」・「ブ」などの母音ですと、幼児でも唱え易く馴染み易いような気も致しますが・・・。「ウ」に関連して「フ」音などもそうかもしれませんが、これは聞き取りにくいでしょう。アルファーべですとWやHということになるかもしれませんが。

(後日追記:しかしこの「ラ」音は、幼児の鳴き声で、音色はともかく、注意喚起する性質を帯びているそうですから、さらに考えてみますと、身構えさせる性質を帯びています。親や周囲にとっては、じっとしているには、余りにうっとおしい音なんでしょう。身構え、緊張して、駆け付ける、攻勢する、防備に入る、急いで様子を伺う、など、何らかの対応を要請する音色かもしれません。すると、穏やかな気分とは別のことを招くので、むしろこれは吶喊とかアジテーションとかシュプレヒコールに近く、本尊の名、呼び声としてはどうか、とも思います。)

 「当たるも八卦当たらぬも八卦」と軽い気持ちでか、何かにすがるような気持ちでか、全然信用していないけど唱えてもいいと思ってか、主体の思惑は様々でしょうけれども、実際はそうした自身(の願いの質や是非)を問わない唱えが大慈大悲なるアミタに対しては冒涜的なんでしょうけど、そんな宗教みたいな面倒なことは考えませんし、ふれたがりませんから、唱えても損はしないとばかりに、唱えてみる。また唱えても、現代世界の多くでは、特には禁制を設けず沙汰せず、と。

 しかし、名と称名について、以前も述べましたが、先生方には称えるを「かなう」(適う)と受け止められます。

 また、名とは名の響きでもあり、名の響きとは名の意味であり、名の意味とは名が身にもたらしてくるものであり、もたらすはたらき(力)である。はたらかなくては意味がないわけでしょう。

 如何、はたらいてくるのか?世界と私の、より正しい認識と、より好き世界をもたらすよう、はたらく。
 仏教的の表現ですと、ニルバーナ、大満足をもたらすということでしょう。
 かく救済を願われた大慈大悲なるアミタ、ブッダが、名となって向うから我々の処に来られる。

 ですから名号はブッダとその世界自体であり、往生人全体が、パブリックな集まりがこちらに来られていることを示しているわけです。

 なお、少し話が逸れますが、以前から「ブッダに出遇うことが浄土門の発生理由と存在理由の一つ」と言って参りましたが、実際の歴史的な発生理由とは別に、信心の要請という観点からは、そうなるんです。善導大師の「見仏」を説明しました通り、現代日本語の理解とは異なり、ブッダに出遇う、という意味で、出遇って法を聞き、判定を確認する。「見る」のとは違う。シャカを見ることだ、となりますと、これは善導大師も大変なご苦労をされて、実際に会われたと言われているんですけど、観経じゃありませんが、観念を凝らし、精神を統一して観法を身に付け、神秘的な世界で遇う・・・みたいな、如何にも危うい大変な道に入るわけです。しかし、出遇うということですと、シャカムニの遺教のディスクールを通してブッダの世界に出遇っても構わないわけでしょう?まあ同時に、そのディスクールも危ういと申して参ったわけですけど・・・。

 戻ります。この世界を主とし、この世界に生まれ、この世界を生きなさい、というお勧め(勧化)の仏意・願心そのものなんです。
 この呼びかけが、アミタ、ブッダ、ナモーアミタなどの名でしょう。

 同時に、適う、と申されますのは、その名の響きの持つ意味のはたらきによって、それに呼応せしめられて、この願心に出遇って回心信心が成立していく。またそれ以後も、こちらから呼びかけ、出遇おうとするとき、いつでも称え易く、適い易く、出遇うことが出来るんでしょう。

 ですから、必ずしも口で称える形式的な行いを意味していません。
 弊派では小声でつぶやいてもいい、大声で称えるのはむしろこれは自余の行を励む如し、というような感覚もあります。回心信心を以って本とする。
 これも弊派内では一般的で暗黙の共通理解となっており、本派様などとの微妙な違いの一つかもしれません。

 まあ、信心には名号を具しますから、仏意顕彰の意味がありますし、これも前から申しておりますとおり、名号はブッダそのものであり、浄土は仏に見える、出遇う処ですから、軽視もしないし、粗末にもしませんけど、必ずしも口称には拘らないということなんです。

 出遇いに於いて、信心に於いて、往生が成就している。身は慢性的に娑婆に還っているから、どうしようもない存在だけれども、なおさら、かたじけなくも、身に余るおたすけを賜っている有り難さが知られるでしょう。
 やや観念に偏るけれども、それこそ尚更人間的で、観念も大事。

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 ちなみに「教行証」も、どの宗派でもあるわけで、ただし、他の宗門では教を信じて行じて証を得るという「教⇒信⇒行⇒証」になっている。

 ですから、親鸞様『教行⇒信=証』という自余の行を排した立教開宗の構造自体が、大教(大経)・大行への信ということこそが異門であり、異色なんです。何ものも要せず、信を以って能入とす。無戒・無資格で構わず、沙汰せず、注文せず、往生の一大事が開かれている。往生の一大事に限りますなら、真に以って条件に束縛されない自由な世界であります。

 この見解も、弊派教学の一般的な共通認識、定説となっています。信心を以って本とせられ候。回心を以って自身が剥かれ、否定され、滅ぼし尽され、主客が転倒してブッダが主と成り、生まれ変わる。

 御本書『教行信証』の標題自体、立教開(改)宗の名のりである。

 現代的な水準から迫っての是非や評価はともかくとして。
 また、私たち教団内の一部有志や在野の思想家さんたちが現代に取り組んで参りましたような、立脚すべき処自体を問いながらもある程度明らかになった人間が立脚すべき処、例えば回心ですとか、大慈大悲ですとか、一人の尊重ですとか、そうした処から今度は逆に教団とか社会とか教相とかブッダ自体を改めて点検する作業のような発見と再構成の取り組みを別とすれば。

 確かに48本願に集中されたアミタのダルマの世界も、念仏為本、信心為本という出遇いと回心の道も、還相回向の重視も、宗教性において白眉と言えますけれども、いろいろ非仏教的・反仏教的な質も混入して参ったわけですし、様々脱し難く、達し難くしている内容もあるということなんです。

 そしてこうした現代の取り組みは、今後我々がお互いに形作ろうとする社会や社会論、いや、実際の人間関係の創造にも繋がるかもしれません。生産力を更に増大して、万民に供給したいし、生産関係も含めて、これからの人間関係づくりにも寄与したい。
 さすがに、コンスタンチン・ツィオルコフスキーさんが想像されていたみたいな光合成人間まで造れるのか、どうか、あるいはもっとすごいのが出来るのか、どうなのか、現時点ではそこまで考えることは出来ませんが・・・。

 ただ同時に、いろいろ分析して儀軌を定めても、果たしてそれで成仏が可能なのか、どうか?そう問われますと、はなはだ自信がありません。
 至るところで人民の為に身を棄てていただいても、それで全員が成道するのか、いや、一人でも成仏する人の誕生が可能なのか、どうか。
 未だ保障しかねるまま、なんで、すいません。

無戒からー2

 先日、牧区の福楽寺さんからの帰路、夜でしたけど、車道の真ん中を歩いていたのはキツネでした。何でもいるなあ、みたいな?ただ・・・キツネとタヌキ。シンボリックな気もします。

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 さて、親鸞様を手掛かりに「無戒」に迫りますが、戒・破戒・無戒は、戒と破戒、戒・破戒と無戒が対概念ということもありますが、戒・破戒・無戒とも不簡(えらばれず、嫌われず、問われず)、ということもあるでしょう。

 また、往生理解にも関連するかもしれませんが、「善悪」ということで、「善悪の往生人」をサーチしてみます。

04 顕浄土真実教行証文類

201-9
  なほ乳母のごとし、一切善悪の往生人を養育し守護したまふがゆゑに。
  なほ大地のごとし、よく一切の往生を持つがゆゑに。なほ大水のごとし、

件数:1件

 一か所ありました。「一切善悪の往生人」。親鸞様、記載ミス、みたいな?

 往生人さえ「善悪」なんですけど、これは多分、往生には善悪関係しない、浄土には悪無し、とされていますが、さらに深読みしますと、善も悪も全く問わぬ、丸呑みする、汚水大海を汚さず、とも。

 まあこれ、実際に善悪が問われると、問うても好いし、問うことが大事だが、往生に限っては、問われては困るんでしょう?ほとんど全部悪人ですから、往生人が誰も居なくなっちゃう。

 するとこれは、目前にバタバタと人々が斃れて行かれた時代、慈悲への執拗な拘りと同様、親鸞様の善悪に対する執拗な拘りが、反語的表現として強く感じられます。
 強い倫理性の反語的表現でもあるでしょう。

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 その前に留意点を改めて確認しておきますと、浄土教のなかでは正・像・末の三時観と法滅ということが前提となっていて、これは世間の時代観とブッダ在世以降の仏教運動史観を示しているわけです。

 更に、自力他力ということが大きなテーマとなっている。力ははたらきであるから、自身のはたらきに起因するのか、如来に起因して往生を求めるようになったのか、という問題。

 だが三時観は、指導者・判定者たる生き仏シャカムニがご在世かどうかが問題となるとは思われますが、シャカムニにとって周囲全部が全て異端だった、という開祖や教祖特有の事態があった以上、この三時観自体が疑問で、最初から末法滅法だった、と考えるべきではないか、とも思われるんです。

 これについては、結局バタバタと人が斃れた時代が長く続いたわけで、むしろ末法滅法が人間の在り方だ、と言えばそれで済むはずなんです。

 こうした事情を知られてかどうか、ことに現代教学的には像・末・法滅(末代)ということを、我が身と世界にかかる内的自覚として把握しようとする傾向があり、当然だと思う。これは平野が学生時代に教えてくれたんですけど、実際の史観と同時に、自覚的な史観みたいな。

 もともと、元祖法然聖人・宗祖親鸞聖人・蓮師時代も、世の有様への鋭い切り込みと、限界者という凡夫の自覚、自身への諦観が、機の深信と合わさって、非常に際立って確立されていることも、こうした「末代」理解の一因となると思われます。

 より包括的な世界認識の前進から、浄土なりブッダを、信心に於いて初めて現出する世界と了解する志向が愈々ハッキリしてきましたのも、現代では当然で、素晴らしい見識だと思います。

 元々、ある人にとってご縁が無ければ、シャカムニ・ゴータマ・ブッダだろうとモーセでもイエスでもムハンマッドでも、居ないのと同じわけです。
 道で通り過ぎても気づかないことさえ、あるでしょう。如何な神通力があろうと、いつも万人に向けられるのは不可能ですし、いつも大名行列をするわけにもいかなかったでしょうから。

 なおこの考え方から解釈し直しますと、各宗教の聖典では、神や仏などの大慈大悲の存在に出遇わないことは悪や不幸だとされたりしますが、信心為本からいたしますなら、それはその人の信心の欠落を意味することとなります。その為に、出会っていても、気付かずに通り過ぎること、あるいは、本当には出遇えていないこと、を意味するでしょう。

 それでなくとも、これも学生時代に平野が言ってたと思うんですが、イエスは故郷に容れられず、他国坊主、ということで、身近な周囲の人には尚更、それとして見えて来ないということもありましょう。
 まあこれは、イエズスも現代では比較的有力な家柄だとされるのでしょうけれども、すると有力とは自ずと社会的有力ですから、共同体を分ける。宗教改革ということになりますと、共同体や体制を二分するので、そういう点でも受け入れがたいということもあるかもしれませんが。

 それと、シャカムニや親鸞様の到達点やその理論展開でいいのか、という根本問題がありましょう。
 時代や世界認識の限界のほか、シャカムニがご自身の到達点を全部認識され、表現されたのか、どうか?
 この問いから、更には、私ら「本願の正機」とされる凡夫にとっての実生活の在り方は、シャカムニの指し示された内容でいいのか、どうか、同様に、親鸞様の指し示す暮らしでいいのか、どうか、そういう課題がありました。

 シャカムニ・ゴータマ・ブッダや高弟方が、どうしてブッダになったのか、ブッダとはどういう状態を指すのか、という課題のほか、あれこれを論議され、「業」(カーマ)を探り、具体的な「行」(カーマ)を設定されたりしたけれども、いずれも十分に解明できていたのか、大いに怪しみます。何を以ってブッダ成道を印可されるのか、ブッダの定義も怪しければ、方法・コースも怪しい。

 逆に言いますと、そうした事情から、むしろ末代の課題として身に引き据えて論展開を始めたのが浄土門とか真宗とか異門の発生であるとも、その現代であるとも、言えましょうから、それはそれで至極当然の成り行きだとも思います。
 ところが、これも、怪しい、となりますと、更にパラダイムを点検して改善しないと。

 歴史的にも「釈迦に説法」と申しますか、祖師方による教判の再構成ということが繰り返し行われたわけで、現代的にはもはや到底そのままを踏襲することなんぞ出来っこないわけでしょう?

 こうした経緯を踏まえて、このHP上に於いても、再構成と実践の所在について探って参ったわけです。

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 また、今一つ、『教行信証』では「教巻」「行巻」「信巻」「証巻」のあとに「真仏土巻」「化身土巻」が置かれ、どうして製作されたのか分かりませんが、改めて、重ねて、真実報土と方便の世界を示され、報土引接と「教誡」を示されたのでしょうか。

 そして真宗教学の定説として一般には、「真仏土巻」で確認された「報土」への往生が凡夫には適わぬことが知られ、「化身土」で三願転入による往生が窺われることで、方便も真実に繋がる、ということになっているわけです。

 ただし、そも、シャカムニにまで遡ったとしても、なお、真仏土観や涅槃観自体が再度問われなくてはならないような気がするんで、この内容自体、試解とか保留中の状態のものとして頂いておきたいんですけど・・・。

 また、「証の巻」が、親鸞様自ら「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり」と仰られた通り、もしも真実証であるなら、『無量寿経』の末法滅法時代の衆生の為、「特留此経止住百歳」が成就していることを示します。

 何より同時に、末法滅法世が、この仏とこの異門に正しく出遇った者にとっては、実は正法時代となる、ということを意味し始めるわけです。まあ、シャカムニ及び同時代・後代の諸々のブッダに比べると見劣りするのかもしれませんけれども。

 おこがましいから言いませんけれども、浄土門にとっての末法滅法とは、おそるべからず、むしろ凡夫にとっては成道可能の、易く往生を遂げ得る、正法の時代であり、判定者がもし居れば、証道今盛ん、と、本当にお墨付きを押すことが出来るはずなんです。

 この「諸々のブッダ」もシャカムニや祖師方の頭の中の存在だけでなく、マハービーラとか、時代のブッダに近い人たちを指したかも知れず、実際に上座部大衆部共に、ブッダ扱いして居られた高僧方も示しているのかもしれません。

 いずれにせよ、正しい理解と正しい出遇いがあれば、得証の成道者となる。
 けれども、言いました通り、正しい正覚理解とそこへの道が、聖道浄土を問わず、全部間違っているような気がする。
 
 依拠しているテキストやディスクールが怪しいとなりますと、あのテキスト、あのディスクールのままでは、永代、達しないんです。どこまで頑張っても、正確な星の位置に達しないので、コペルニクスやガリレオが頑張り続けることになる。

 目標の星自体も、実際に知ってみると、思われていたものとは違うかもしれませんし、動いているのも自分なのか周りなのか、ハッキリすることもあるかも知れませんが、先ずは、テキストとディスクールの限界が注意されなくては。

 ただ、違う処に達しても、本当の位置が分ることがあるかもしれませんから、それが化身土巻の疑城胎宮の役割とも言えましょう。

 往生之業念仏為本信心為本はその通りだが、念仏ってなんだ、信心ってなんだ、仏ってなんだ、仏の世界ってなんだ、仏意願心ってなんだ、と、教・行・信・証を多少とも作り直さんといかん。シャカムニのディスクールと到達点も、俺に出来るんかいっ、っつことで、おこがましいけれども、再構成しなくてはいかん、と。

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 それらの問題提起を踏まえたうえで、『教行信証』「化身土巻」にて「無戒」ということの意味をみてまいります。

 律や戒はこれは国や自治体や企業や運動体でも、宗派規則や条例でもありますから、事実上運用されているし、姿勢という点で、おおまかながら、晩年の親鸞様にも窺われるわけですが、どう理解すればいいのか。

 また、「化身土巻」の「教誡」ということについて『現代と親鸞』で藤原さんが迫られたが、そうしたことも、意識されましょう。

 事実上、「化身土巻」の問題提起は、親鸞様に於かれては自力執心のもたらす世界という課題として受け止めても好いようにも思われます。
 それと、吉凶禍福、良時吉日という娑婆の課題の克服。これも、吹き消されて死んだような状態の涅槃観なら、最初から死んでもいいわけでしょうし、生存を重視するなら、衣食住は大事でしょうから、吉凶禍福に留意することは日常のことになりますけど。

 しかし、三時観を度外視しても、元来限界凡夫であるということから、そして、自身の罪業を顧みることなく、ひたすら身を投げ捨てて、如来なるブッダとブッダ・ワールドが主と成って、それが私の主体と成って、回心が生じ私が転生される信心成就に於いて、戒は無用。

 それが念仏自然(称名ではなく称名のいわれ、すなわち本願のいわれへの出遇い)と信心自然(それに対する呼応が成立し、仏が私の主、中心と成る)という、教への出遇いに於ける、一つの真っ直ぐな道を示しているわけです。ブッダとブッダ・ワールド内容的には色々綻びも出ているように思いますが、それが「仏法の大海は信を以って能入とす」と言われたことの構造、回心の構造だと思います。

 だが、同時に回心以後に於いて逆に改めて戒が要請され始めるのではないか?という予ての持論を確認します。

 大乗菩薩道ということが強く意識されているにもかかわらず、生活指針や運動方針が無い。それが強く感じられ、読み方によってはなにもかもチャラにしかねない運動をまねきかねませんから、極めて危うい内容で、『選択集』について法然様は読み終えたら焼き捨てるべしと仰ったし、『歎異抄』でしたか、外見あるべからずと唯円さんは仰ったけれども、それより危うい感を持ちます。ポアソン(毒)℃はかなり高い。

 『教行信証』「証巻」まで提起されながら、まあこれも比較的晩年の作なんでしょうけど、結局御消息ではありませんが、悪を好むべからず、という戒めが、次第に大きな課題となって来るでしょう。

 何故なら、往生には善悪を問われること無く、仏や法に出遇って、悪の自身を顧みず、身を棄てて帰依するところに往生があるけれども、自身の悪が無くなるわけでもないし、日常に還っては、さまざまいのちと人間を害う悪を免れないと同時に、その克服が課題となるに決まっているからです。
 いのちを害わない為に、無量寿があり、宗教や仏道があり、成道が促されるが故に。

 ただ、末代の凡愚の救われ難さがレリーフされる反面、積極的な受け止めといたしましては、無資格者の無戒名字というところに、末代の自由が思われるわけで、ありとあらゆる戒めや自我からの出発という束縛から解き放たれた、そして無戒の者も斉しくブッダの世界に赴くことが出来る、そうした印象も憶えるんです。

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 さわりしか出来ませんが、『真宗新辞典』『仏典解題辞典』を引きつつ、「化身土巻」にふれます。

 ここでは三経などのほか、いくつもの経や論が引文されている。
 これは、論駁書の体裁としては、既存の聖典から、特に諸派が尊重している、いわば「敵性ディスクール」から引文しつつ、親鸞めずらしき法をも弘めず、ということで、浄土門を護教される面も併有していて、よくある手法です。

 ただ、内容は現代的には危ういように感じますが、如何?

 と申しますのは、一々、浄土門や真宗の自己正当化や坊主の居直りや証の否定に利用され易いように感じますし、本物が偽物のようにされ、偽物がまかり通るみたいな、もう、これは、絶望的で厭世的なまでに悲観的な流れがあるからです。
 それも自己認識と時代認識の「健全さ」でもあるんですけど・・・。

 特に気掛かりなのは次の聖典です。

『末法灯明記』
 親鸞様は山家の伝教大師最澄の書として引かれますが、真作か偽作か、今なお未決になっています。
 そしてこの書では、末法では釈迦の教えは言葉が残り、行も証も人が無く、戒も意味を為さなくなっている。末代には、無戒名字の姿ばかりの僧も、世の真宝であり、それを破却するのは罪である、とする。
 これは、末代の証果と菩薩道と、末代こそが本願の正機にして正法である、という主張も感じられますから、明らかにおかしいでしょう?自家撞着といいますが、この書自体が再構成され、註釈されないと、居直りだけで終わりかねない。
 すなわち、修めるべき教自体も無いにひとしいという考え方で、『仏典解題辞典』では、シャカムニや仏教思想と根本的に食い違う質を持つのではないかと思われる、とされている。逆に言いますと、やっと、何でも自由に歩んでいける、どこまでも探り、達していける、みたいなことも感じられるかも知れませんけど。
 長々と引かれる。

『大乗起信論』
 これもアシュバゴーシャ(馬鳴)真作か、あるいは彼の流れに託しての、龍樹以後の同名の別人の偽作か、同様の趣旨による中国での偽作か、今なお未決。各宗でもよく取り上げられてきたわけですが、特にここでは末法滅法世のひどさが引かれる。
 神々や菩薩の姿をあらわしたり、仏法者のふりをして説教するものがいたり、人々に世間の欲に執着させたり、見極め難い存在が多くなる。
 まあ、人が何に迷うのか、ということがこの巻のテーマでしょうから、欲だけでなく法執も大きな課題となって参りましょう。そして、様々に右往左往させられ、決して達しないようになってゆく。それどころか、かえって、迷わせ、悩ませ、害わせるもの、それとの闘いと言えましょう。

『大集経』
 密教色の濃い大乗経典。この経は多分、日本でも東密・台密とも、少なくとも、軽視はしておられなかったと思います。サンスクリットやチベット語もあるようです。
 一体、宗教にとって世界観や宇宙論は不可欠のものでしょう。自己にとって世界が関係している以上、必ず世界観が要請されましょう。大部の経らしいですが、ここではインド的な宇宙観と、惑星などの役割について、仏教的な創造観が述べられたり、神々、悪魔などとの関わりが引かれます。これも長く引かれる。

 また、道家との対決姿勢が顕著で、共に国家宗教として利用されてきた関係上、権力の寵愛を競うような傾向も時にあったと思われる中国仏教ではいざ知らず、見苦しいまでの道家批判が長々と引用されているのは奇異の感を持ちますが、取り上げざるを得なかった事情があるのでしょう。

 さて、『真宗新辞典』を引きますと、66p「戒」の項目に、親鸞様の「無戒」ということがありますので、今は時間の関係上引きませんが、その内に紹介できると思います。

 概略、修すべき教すら疑わしく、行者も居らず、戒律も失われている。また、末代では僧侶も奴隷のように扱われているし、自分たちも罪人にされた。そういうことでしょう?
 ですから、「教誡」ということからも、巻末の流罪への怒りに通じていくものも、「化身土巻」には特に色濃いわけです。

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 回向回心、懺悔悔悟ということが出遇いにより生じ、往かしめられることですけれども、身を振り捨てて往生がある。
 往生よりは様々戒めも出て参りましょうけれども、過度に囚われることなく、安堵された生を賜って往かれますよう、念じ申し上げます。

 そのうえでもう一遍、人が求めている何かとは、に応えて、いのちは自身を尊んでいる、自身とは繋がりの存在でもある、そしていのちは自身のニルバーナを求めている、然るにいのちはその逆を得ることばかりに奔走する、というシャカムニ・ゴータマ・ブッダの金言を確認しておきます。

 そしてこのニルバーナとは、大いなる安らぎとは、大いなる満足である。満足とは、無量のいのちの世界、真のいのちの世界、ということですが、先ずは、とらわれなく、互いに友で在り慈しみ尊び合う世界、という我々の自然にも、存在するんでしょう。

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 話はやや逸れますが、ところで、智の饗宴で改めて思われますのは、仏教自体、真理の発見、智を喜ぶ面がある。初期経典類ではそれも満足の要素になっているように感じられますし、述べました通り岩文版『スッタニパータ』終章も学生との質疑応答で圧巻されるわけですが、シャカムニの法座が喜びに溢れている。

 いま、たまたま親鸞様の言葉、自然や善悪や戒や往生人や無戒名字や非僧非俗を手掛かりにしていこうとしたり、現代の教団を研究したりすることも大事ですが、知的趣味になりかねない。

 宗教は常に現代に一人ひとりの真実と道を求めるのであって、研究はその一手段に過ぎないと自戒したいです。

 教相について勝手な人間の解釈がいつでもあるし、文化的パラダイムでも、時代によっても、ニュアンスの違いが感じられましょう。

 また、現代の智=各方面の先生方の惚れ惚れするような知性と洞察と発見には、ため息が出るばかりです。

 むしろ本当は、当然、本尊も宗教施設も建築も制度組織人事も、新時代に相応しく見つけ直され、創造されなくてはならんのでしょうけど、少なくとも、本尊の性格により現代的に多くの角度から迫り直すべきなんでしょう。事実、各方面の碩学さんたちが宗教研究を進められ、多くの角度から宗教が光を当てられて参りました。しかし、とても及びませんので、後代に委ねます。仏教の法身仏も、大日さんとかアミタさんとかありますけど、より包括的な別の名で総合的に好もしい質で、差別性も改め・・・ってことにもなるんでしょうか?どういう質になるか、さあ。

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 なお、参考事項になると思われますので、少しわき道に入りますが、人間の在り方に関する「善悪」という倫理がいずれにいたしましても強く意識されている。ここで日本語の「悪」(あく、あし)の古語用法をみておきます。

 古語用法では「悪」は、現代的な善悪理解以外に、勇猛・乱暴のほか、卑しさ(=罪人や貧しい立場や被差別民衆など、差別されている人々)を示す差別用法も感じられます。

 こうした方向の研究は、日本語古典文の語用法の詳しい研究で示されているかもしれませんし、一時期、解放運動推進派の方々から、そうした探求が提示されたこともありました。

 すると、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり、とは、乱暴者だった人も、差別された人も、本願に出遇われて往生される、ということを示すのかもしれません。
 蓮如様のお母さんは差別された身分の出であったとも伝わりますから、蓮如様に至りますと、なお、そうしたニュアンスが強いのかもしません。

 いずれにいたしましても、「善悪」は悪への差別カテゴリーに属しますから、自ずとこの語用の行く末が暗示される語と申せましょうし、多くの人が差別・被差別の只中に置かれていますから、この意味でも、誰一人「悪人」を免れることは無いでしょうね。
 すなわち、あれはダメ、これもダメと、排除をこととする派と、明瞭に一線を画するのが本願ということです。

 「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。」(『歎異抄』)

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 戻ります。

 イエスは故郷に容れられず、といい、他国坊主、と言う言葉を出しましたが、それは、身近な生活上、さあ、どうなのか、王族系の有力者、共同体の改革者とみなされる彼らでさえ、改革がにわかには理解されないということを示すのではないか?
 同時に、身近に人となりを知っていることから、その人の身の上に起こった一大事も、過去から辿ると軽視されるのかもしれません。
 といって、故郷でなければ好いとすると、必ずしも改革や生まれ変わりや異文化が拒否されるというわけでもないようです。

 他方、伝統にも重要性があり、宗教改革としての真宗ながら、私も依然として浄土三部経と正信偈・和讃を読誦し続ける。
 問題点も明らかになったし、不十分もあれど、真実を指し示す点には変わりがないからです。

 すなわち、いのち、生きらるべし、血骨肉のいのちを超えて、つまらぬ凡愚の自身を超え、輝ける無量寿と無量光の世界を願い、赴きたい、ということです。自己の延長にては決して得られない、すばらしきいのちよ永遠なれ、と。

 これはやや観念的なところに重点があり、精神性に比重がありますし、また、「死後」とか「魂」といったカテゴリーに繋がり易いわけでしょうけど、我々の赴きたい世界は他に無い。
 人間の限界がありますから、結局、限界のままながら、その限界を超えて、願う世界を生きよう、という志願なんです。

 真宗は回心の構造理論上も、往生=成道には念仏為本から信心為本、という構造は宗教回心構造として白眉である。

 ですから、どの本尊とディスクールがより有利に詳細に速やかに我らの願う世界を明かし、そこに導くのか、いかに正確に自身と世を明かすのか、という点でも、まあ、回りくどかったりするけれども、真宗というパラダイムが好い。少なくとも私一人の人生を私ら自身が導くための、叩き台という重役を担うことが出来る教相と教相判釈であると思います。たたき台なんつーと叱られそうですけど、本尊は掛け破れ、聖教は読み破れ、と。

 「毎日」の『宗教を現代に問う』ってのが昔出されました。老化が進みまして、今では絵やフォトと動画しか見たくありませんけど、70年代終わりごろから勤めるまでは、勤めてからもたまに、大体休み中は専門書を少しづつ読み進める合間に、関連する宗教関係を中心に、1~2日に1冊くらいのペースで面倒でない本を読んでた時期があります。
 たまたま寺にあったから読んじゃいましたけど、宗教漬けの東大組が居られたり、へ~、って感じでしたけど、何に出遇うのかは極めて重要な問題で、教義の内容が大事だと思います。まあ、本や分野によっても変化しますけど、それ次第で、人生は大きく変化するでしょう。

 まあ、長年に亘りシャカムニと祖師方と親鸞様への疑念を点検して参りましたところ、いよいよ、あれではダメだ、祖師方も間違っている、不十分だ、ということがハッキリした部分もあるでしょうし、それ以前から、少なからぬ先生方には、釈迦も祖師方も何かがおかしいのでは、という疑問もあられたようで、それこそ、末法滅法でしょうか。先ずは、疑謗縁信順因ということでいきましょう。

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 高田教区で募金している熊本震災募金に5000円納めてきました。少なくて恐縮です。娑婆べったりの悪魔道とは違いますが、さあ、熊本産の球磨焼酎やラーメンみたいなものでも、どんどん、通販ででも、求めてあげて下さい。シャカムニによりますと、施与は闘いである。遊んでいても休んでいてもはたらいていても、これでいいということはありませんから、怠らず続けてください。

 東日本もお忘れなく。

 暑中お見舞い申し上げ、ご自愛のほど念じ申し上げます。

無戒から

 先日、また数珠が切れまして、人間というものは如何な真実にも言い当てにも満足しないものを、また、如何な境涯にも満足しないものを、また、達してなお達しないものを、このうえさらに、如何な束縛のカーマや切れむ、と不審を抱きつるに、とにかく何事か身の上に起こったのでしょう。

 不断煩悩得涅槃で生死即涅槃ですから、束縛のカーマも問題ですが、それが切れることもまた問題。

 先ずは、無戒。凡夫に気づき、非僧非俗の罪人に気づく。
 すると、改めまして、我が身は、さあ、ほとんど多くの方々を大事にして来れなかったことと、罪業確認もいたしたいわけです。
 よしあしの文字をも知らぬ人も、一文不知の尼入道も、後世を知るを智者とし、如何に智慧と知識に恵まれていても、後世を知らざるを愚者とするわけです。
 シャカムニでも大乗でも親鸞さんでもいいが、展開する如来(事実あるがままの世界のあるがままの願心より生まれ来る方)の願心と智慧を明し、レリーフし、そこを生きることを以って、宗教徒とし、仏者とすべし、と思われます。
 無戒という語には、親鸞語や真宗語としての意味があるでしょうから、調べて掲載しようと思いますが、こんなことを感じましたので、無差別の深さを無戒の語に読み取りたくなりまして、前回提起させていただいたことです。

 畑でバタバタしている間に、すっかり梅雨らしくなり、はや七夕月になってしまいました。

 田舎のこととて、へびまたじ・ねずみまたじ等、春先のひと騒ぎもあり、5月下旬にはハチもでかいのが飛び始めました。

 今年は雪解けが早く暑さも強い為、5月15日には原山でセミの声があったという情報も聞きましたが、恒例の春先の一騒ぎも一段落し、周辺にはきれいな花も咲き競っております。花も少しは手を付けますが、いまのところ、なお、畑求道に埋没する日が続いてます。

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 前コラムを点検します。

 現代思想の最前線、現代思想の饗宴みたいなことになりますと、亡き吉本さんといわず、浅田さんや柄谷さん、栗本さんや田川先生と言わず、インテリさんを喜ばせるだけなんスけど、先に引きました御和讃の結讃、まあこれは親鸞様というインテリの側から窺いますと、どうも理屈っぽい。

 一方、在野の人、ただのひと、唯びとから窺いますと、わざわざ凡夫に還るまでもなく、わざわざ自己の境涯に落在するまでもなくて、既にとっくの昔から、脱し難い処で、しかも本願力に乗船して往かれている、安堵されている、みたいな印象なんです。実は多少無自覚なのかもしれないが、理屈抜きに安らいでいる。無戒名字に安堵せられている、肉食妻帯も不簡とせられている。慙愧無き私かも知れないが、それすら不簡みたいな、ギリギリの究極が窺われないでしょうか。

 この和讃では「まことのこころ」が気になるポイントですし、「善悪の字知り顔はおおそらごと」という、おそらく『五会法事讃』が親鸞様に及ぼした絶対の影響の為と推察されますが、確固たる「不簡」(えらばず。嫌わず、捨てず、問わないという意味)のスタンスが感じられます。アミタの願心そのものとしていただかれている。

 これは、「善悪の二つ総じて以って存知せず」(『歎異抄』)という言葉にも窺われましょう。本願寺派様の『浄土真宗聖典』オンライン検索で「善悪」を検索させていただきました中から、いくつか引きますと、

正像末和讃

 凡夫善悪の心水も
 帰入しぬればすなはちに

 善悪・浄穢もなかりけり

 善悪の字しりがほは
 おほそらごとのかたちなり

件数:3件

唯信鈔文意

しかれば、大小の聖人・善悪の凡夫、みなともに自力の智慧をもつては大涅
槃にいたることなければ、無礙光仏の御かたちは、智慧のひかりにてまします

といふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身を
よしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひと

件数:2件

親鸞聖人御消息

にこそ、煩悩具足したる身なれば、わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたま
ふぞとは申し候へ。かくききてのち、仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬ

信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なけれ
ば正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりも

件数:2件

歎異抄

づけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ
信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけ

からのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さは
り、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の

んひとにも、本願には善悪・浄穢なき趣をも説ききかせられ候はばこそ、学
生のかひにても候はめ。たまたまなにごころもなく、本願に相応して念仏する

りとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業
をこころえざるなり。

また易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おほよそ今生においては、煩悩悪
障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法華を行ずる浄侶、なほ

ことをのみ申しあへり。聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知
せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほ

件数:6件

 いずれも、老弱男女貴賤と同じく、善悪の凡夫人、というご了解であることが分ります。不簡の対象である。

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 親鸞様は自ら非僧非俗(罪を着せられた罪人)のほか、無戒名字比丘と名乗られましたが、この「無戒名字」も同じく『浄土真宗聖典』オンライン検索で検索いたしますと、

顕浄土真実教行証文類

ゆる如来、縁覚・声聞および前三果、得定の凡夫、持戒・破戒・無戒名字、
それ次いでのごとし、名づけて正像末の時の無価の宝とするなり。初めの四

正像末和讃

無戒名字の比丘なれど
 末法濁世の世となりて

こうした二か所しか出て参らない単語でございまして、はなはだ分りにくいわけですが、「無戒」という語自体は、戒・破戒と一緒に『教行信証』の顕浄土方便化身土文類六、「化身土巻」で考察されているわけです。

 末代(末法滅法時代)の救いがたい自身というところで、自覚された言葉なのでしょう。それこそ、本当に不簡、本当に無差別の大乗なんでしょう。少なくとも親鸞様は理念上それを突き詰めて考察せられたと思います。

 無戒の意味や善悪について、さらに学びたいと思います。

動き

 先日、頚城区の希望館で開催されました「東部地区共学研修会」に出向きました。地域や寺の同朋会の報告で、昨年の13組に続き、今年は12組の発表です。ただ、来年度は11組の発表らしいので、困りました。

 こういう企画は教区にスプレッドされていくといいと思いますし、派内で取り上げられている各地の同朋会があり、たまにですけど、記事を読ませてもらうんですけど、出版部でも来られても良いし、いろいろな現況をたずねられても好いのではないかと思うんですけど。

 いろんな同朋会のお話しを聞いておりますと、主な行事は、お勤めとお正信偈の内容に触れる、という同朋会が多いように思います。
 行事も様々で、親睦会中心でも構わないと思っておりますが、やはり、三経七祖を集約した『正信偈』が取り上げられているのは妥当でしょう。弥陀の願心とは何か、友とは何か、と、そうした問いが進められる中で、信心の確立と展開があるのでしょう。

 集まりとしては月一を基本に、休みの月と集会月があったり、地域数ヶ寺で一緒に開催されたり、様々です。

 また、会費も様々ですが、事業展開には経費が不可欠ですから、念仏者の共同体、弥陀の願心をいただいた者が互いに友に育てあう、という運動の理念の実現に向けて、地域なり寺の運動として、愈々会の活動を盛んにされたらいいなと思います。

 中には一回中断して再結成されたりしたケースもありましたし、最近結成された会もおありで、こうした取り組みを進められる中で、新たな会の結成が願われていると感じました。

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