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願心成就-4

私は人々の有様を放っておきません。ほとけの世界を更に訪ね、人々を守護する為に、必ず更なる好き世界の創造を進めます・・・。

 ディアレクティクなる現代の法蔵菩薩が居られたなら、そう誓願なさるでしょうね・・・そして、三世十方の尊師聖衆も参画なさるのでしょう。

 この真仏土、浄土を論ずるというか、ほとけの世界、衆生友なるほとけの世界、それ故衆生ももはやほとけと等しいか近い世界、を論ずるにも、ディスクールによる教相、伝教に拘りますなら、やはり、各地に伝わった三蔵を精査いただき、ブッダとその世界をレリーフいただかないといけないわけでしょう。

 この場合、傍観哲学的にも陥り易い縁起なり空無自性の教説は既に十二分過ぎるほど知られておりますから、それ以外の面があるなら、開祖といわず高僧方の到達点を研究いただくと好いのでしょう。もちろんハッキリしない面もあり得ましょうし、先師先学お一人お一人の了解の違いもあるわけでしょう。

 親鸞様に於かれても七高僧の教相理解を斉しく列挙して居られ、そのうえで、七高僧それぞれを讃嘆されているわけです。

 ところで、本願を賜った念仏の衆生ももはや仏に等しいか近い。
 それが親鸞様が明かした信心為本による、信心の人は如来等同、弥勒も如来等同ながら彌勒等同、ということだと思います。
 善導様でしたか、樹心仏地ということも、同様の事柄と申せましょう。

 そこで、どの程度等同なのか、ってことが疑問として出てくるんでしょうけど、不同ということですと、経の願文がおかしいことになりますし、といって、全員が全く同じということは無いはずです。

 何が同じなのか、という問いとして見直していくべきなのかも知れませんし、さすれば信心為本、まこれは、念仏と願心とイコールのようなもんですから、願心が図らずもクローズアップされることにはなりましょう。

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 名号と称名について、忘れられたり、軽視されてはいけませんので、念のため申し添えておきます。

 名ということでは、ブッダが成ったのが仏意・願心であり、それを教法と共に伝えるのが経であり、経が成ったのが名である。
 故に、ブッダが成ったのが名号である。
 ちなみに、経のお題目も仏の勧化と誓願ですから同様です。

 ですから私たちの場合ですと、六字名号をこちらに来られた仏さんであり真仏土そのものである、としていただいているわけです。当然、ブッダ・ワールドとそこへの往生ということを意味して居られる。

 必ずしも名号を掲げていない時でも、口や声で称えることが出来なくても、仏そのものとして尊び喜び賜っている、ということなんです。

 仏ということですから、名号はまた法報応の三身に展開することを喜ばれましょうし、輝ける人間の身となって現れることを、特に未来仏でなくても、殊に喜ばれるし、待って居られる、そういう仏意・願心と教法を体現しているわけです。

 そして実際、輝かれて現れられた方が、居られたわけです。大変好かったわけでしょう。お釈迦さんなら、甚だ快し、と。
 ですから、証人があるようなもんで、これまた当然、阿弥陀経に今現在説法とされている通り、願心は今生きてはたらいており、雄弁に説法を続けている、という受け止めなんです。

 更にそれ故、これは既に末法・滅法では無くなっている、シャカムニご在世の正法時代と同等である、仏が名として、願心も教法も伝えようと残られているんだから、御勧化の名号である、ほとけの世界に生まれるよう願われている、と、こういう理解に転じられましょう。実際にはお釈迦さん時代も末法・滅法であったけれども、教法が生きたお釈迦さんに説かれていたという違いがある。

 まあ、必ずしも私ら真宗のような称名念仏の御一流でなくても構わないけれども、少なくとも名号も、仏の誓願である称名も、経や教法や願心と同じように、ブッダそのものを意味する、ということなんです。
 少なくとも、仏と仏弟子方は名号と成られた願心・教法の御一流としても、自身を経で遺されている。

 法然聖人・親鸞聖人、親鸞聖人・蓮如上人の両度も専修称名念仏を選ばれたけれども、名号と称名はブッダであるから、専ら名号と称名というブッダを修する、ということで、否応なく菩薩道、成道を選んでいるのと同じになっちゃうでしょうね。

 実際往生があり、仏に成るんでしょうね。菩薩道は賜ったと言えるのではないか、と思いますが、存命中と実際が大事ですから、いま、現実にはどの程度が仏なのか、迷っている最中ですけど・・・。

 称名という念仏は、ブッダと教法と願心を賜っているということを意味するんです。振り向くかどうかは別ですし、他の道もあるんでしょうけれども。

 他方、現在しているサンガも世間も、昔も今も、変わることなく、ずうっと、背いている。そういうことかも知れないんでしょうね。健全なる自己認識と思っています。

 ともあれ、それ故称名と名号には必ず、ブッダとブッダの教法・願心と生活姿勢に出遇い続けるという意味がございます。
 教法に依り、道を進め、ということがブッダの遺言でもあり、初期経典にもございました。

 真宗でいただきますと、教法に依り、仏意・願心を、御説法の趣旨を汲み取る如く明し、人生を進もう、ということになります。ですから、経に記される通り、名号の称名念仏となったブッダが、生きてはたらいて説法されている。

 まあこれは、化石というのは宝石です。なほし明鏡の如し。
 遺されていることで、シャカムニご存命中の姿も思想的質も、髣髴(ほうふつ)とされましょうし、現代も照らされ、未来を準備させましょうし、改革された未来の予見をも、もたらしましょう。

 古代からの遺産は生きていて、しかも、生き生きと生きる仏弟子によって、色んな意味で、生かされている。まあ、死んだ如き人生状態の方や、菩薩としての死を生きて居られる方も中にはあるかも知れませんが、悲観する必要は無く、明るい将来が予見されます。

【参考】

これ経教はこれを喩ふるに鏡のごとし。しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す。もし智慧の眼開けぬれば、すなはちよく苦を厭ひて涅槃等を欣楽することを明かす。(善導大師)

 それが、現状の健全さなんでしょう。幣派内部の法規において「健全」という曖昧な文言がみつかり、どう説明するのか戸惑ったわけでしたけれども、法の深信より生ずる機の深信と、背ける教団なり世間への歎異ということも、意味する処に含まれましょう。
 集団としての、共同体としての二種深信を申しておりますのも、そういう論拠であります。

 健全な社会の形成。機・法ともに、自他ともに、改革に次ぐ改革。これで好い、が無くても前に進む、と。

【参考】

「同朋会は、教化基本条例第九条の規定に則り、会員が自らの上に教法を聞き開き、その自覚を生活に生かし、もって健全な社会の形成に寄与することをその本旨とする。」
(真宗同朋会条例第二条)


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 仏と浄仏土を賜わっている。
 すると、凡夫の自身はいうまでもなく、教説にも、なお、問題点はあるかも知れないけれども、やはり仏意は尊く、願心は尊い。還相回向も賜り、機と法と二種深信も賜り、健全なる人生を賜った、と。

 いろいろ大切なものがあるけれども、核心が欠けておりますと、どうも大事なものが無いという感覚になるんです。不自由であって、健全さを欠いている。無仏というのは、もう既に最初から大事な核心が欠けている世界。
 共同体、総理や元首や偉人の御影、いろんな種類の旗など、大事に決まっている。その奥には集まりの思想と運動があるわけです。

 けれども更に、私らにとってはそれらの中の核心が、ブッダとブッダの世界である、と。これが欠けておりますと、自由ではなく、健全でも無いんだ、相互に友である世界でないことには、尊び合えて認め合えることがハッキリしていないことには、とても居れん、と。

 まあ、ですからいろんなイベントでいろんな種類の旗が据えられて居りましても、その奥に大事な核心があるのかどうか。即物的ですから、旗よりも身近な、御影や肖像画か何かの方がまだ身近に感じられるんですけど、問題だらけの人たちばかりみたいな・・・。

 考えてみますと名号も抽象的ですから、人間に現れて諸根悦予されている御影や像の方が身近なのかも知れませんが、やはり名号が法体・法界であり仏として我々の方に来られている、そういう理解と心情が大切だと思います。

 近代以降もいろいろ取り組まれて来たけれども、社会創造なのか改革なのか、大事なものが欠けているとなりますとこれは、どう取り組まれましても、上手く運ばない懸念もございましょう。
 逆に、(何やってもアカンかも知れんけどなああ)という自戒と謙虚の構えと共に、尊び合え認め合え、喜び合える相互に友である世界、限りもない灼熱の慈しみを基底とする世界ならば、多くの齟齬も対立もうまく緩和し合えるかも知れません。楽観的に過ぎましょうか?

 願心が娑婆世間で如何に、整備され、ついに具体化されるのか。
 ユリウス・フチークさんの遺稿からも、いろいろ見えて参りました。
 願心の具体化、これは私らなら、法界、ほとけの世界ですが、国境とか国家とか民族とか人種とか性別とか障害の有無とかにとらわれ無い、差別なき世界。ほかにも、尊び合い認め合える世界、相互に友であれる世界、皮肉にも彼の信奉していたスターリン政治体制の無い世界、でしょうか。

 大まかに申しますと、そうした事柄が願われていたんでしょう。実際に彼らがどう思っておられたかも史実として重要でしょうけど、むしろその求められた世界を、更に求め直して、賜り直して往くことが、彼我の尊重に繋がって参る、そう確信いたします。

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 願心ということでは、生物の願心、生きるということと、人間のそれとは違っているのではないか、という点に関しては、生物の願心がパンツをはき更には法衣までもまとうような面倒なものに成った、その原因をどこどこまでも探っていかなくてはならない、ということでしょう。

 誰がすんの、そんなバカげた「考究」を・・・みたいな?まあねえ、もういい加減やめようかなとも思うんですよね~、どうでも好いんじゃないか、みたいな。少なくとも我々人間の願心も、十分に自然なものであることは確認されているわけですから。
 ただ・・・原因はやはり生物の願心だと思うんですよね~。進化と同じで、生物、まあ動物ですけど、動物が成りたくてこうなったんだろう、心は否定したとしても、と。

 とにかく、動物をもちろん継続しながら、人間では、アタマが発達して、学びと遊び、創造と幻想や妄想が発達して、変化と進歩に加速度がついたかも、知れないんです。

 それだけ迷い易くも成れたし、選択肢も持てたし、当初は孕まれていなかったことも人間になる途上で備わって来たのでしょう。迷いも苦悩も思惟も全部が深まったんでしょう。
 また、生産力も創造されて巨大化したし、破壊力も同様です。もしや、自身を受け止め難くもなったんでしょうか。

 すると、その萌芽があった、とまで言うのは教条のアテハメに走り過ぎているかも知れませんが、最初は微塵も無かったかも知れないものが、進化の途中から孕まれていく。その都度その都度、色んな萌芽と原因が孕まれて結果していくことを繰り返していく。

 しかし生物の進化自体も、願心も、安住と満足を求めている。安慰、満足を求めている。それが決して成就しない形を取っていたとしても、ニルバーナを求めている。
 ブッダと成られたシャカムニ沙門ゴータマの見解では、もろもろの生きとし生けるいのちは安らぎを、安住なり満足を求めているんだ、ということだったんです。

 ただ、それが明瞭に自覚できたのは、人間、就中、シャカムニなどいくつかの祖師方とグループだった。
 そしてその願心の形を、成就実現出来るように整えられ、ひっくり返されたのが、シャカムニと仏弟子方だったわけです。大安慰、大満足と、大の字が付きます。

 彼の尊師が全てとは申しませんし、彼もまた、なお、十全では無かったかも知れません。信用しないでくださいよ。
 ただ、少なくともその試みをかなり徹底して推進されたんです。なお、幻想ではないか、差別的ではないか、そのほか色々怪しいものを含みながらも。

 ですからいのちとするものには、いろいろと高邁にして深淵なものもあるかも知れませんが、気取らずに肩を張らず平らに、生物、端的に、図ることなく、在るがままの生物の願心、と。いのち、としてしまいますと、やや曖昧になるのではないか、ふとそう感じまして「生物の願心」としたんですけど、好いかどうか、こうした展開になりました。
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願心成就-3

 ・・・ですから、娑婆世間型のサンガ(実際の教団)というも、異端というも、世間というも、須らく、好き世界にこそ、背けるものである、と。仏もとよりこのことは予て知ろしめして(ご存じで)居られたわけです。

 選択ということは摂取の選択だが、逸れ、背き、異なれるを仏予てしろしめされるが、実際は、それだけじゃ無いんです。
 衆生相応も予てしろしめされる。

 選択ということがある。浄土の選択ということがある。
 自然を知られるし、作為、妄念、これも人間には自然だが、それも知られるから、さまざまの自然性や人工性を具に観ぜられて、我が身を全部顧みない、我が身の大悪も小善も全部振り捨てるという仕方での摂取をこそ、選択された。
 それが大きな自然の選択ということでしょう。
 選択は、大慈大悲なんです。

 裁くのは、人間自身の全部なんです。全てが、裁かれている。
 普通は、とても採れん、あんなもん、となる。
 事実シャカムニ最初期には、見捨てて居られたわけです。

 内に森羅万象を意味する梵天勧請が萌されていたからこそ、重い腰を上げてこちらに来られ、漸く、転法輪されるに至る。
 興法の因内に萌し、利生の縁催ししによりて。
 如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり(親鸞様)、と。願心成就ということは如来の大悲心成就からはじまり、衆生成道によってもたらされる。

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 シャカムニご自身が覚者ですから、自身を知られる。
 お覚りだけでなく、降誕も出家前も、無知も智も、知られているということでしょう?
 迷いの自己を知り、なお無知と未知の自身だったことも、示現されたし、存知されていたんです。

 私らの先生はシャカムニで、縁起も空無自性も発見されたり、学説も創造されたり、後代には祖師方に生まれ変わられて、色々と分類されたり、認識も分類されたり明かされたり、衆生と現われられたり、浄土三経や祖師方として現われられたりもしている、かかるシャカムニがお示しだったのは、予て出世本懐教であったアミタの世界であった、と受け止めるわけです。
 時代を追って、発展されていく。功績は師にこそ存する、と。まあこれは、逆に汚れも酷くなった、煩瑣性も増やした、と、功罪いずれもがあるかも知れません。

 すなわち、色々と分類や分別してもいかれるけれども、摂取を選択される。
 その仕方は、そのままではなく、そのままで無いのでもなく、自身を顧みず、振り捨てて、往く。身は依然として凡夫ですから、不断煩悩得涅槃。

 昔はそういうご門徒がたくさん居られたんです。もちろん我も強いまんま、なお韋提希夫人のようには身を投げ出せんまま、なのかも知れませんけど、同時に、好き世界をご存じであった。身も娑婆も間に合わんことも、よくご存じだったとも申せましょう。

 時代が変わり人間もいろいろ達成出来るようになりましたから、これは好いことですが、反って迷い、こころが覆われて来たのかも知れません。自己の姿も分らなくなったかも知れません。

 要するに、彼が嘗て師事された先生へのお言葉をポロンと漏らされたように、私らも、シャカムニ世尊初期説法は、なお、十全には自己と世界を理解・表現されるには至っていなかった、お覚りには達せられたが、ご自身のダルマが後代の祖師方と現われられて、漸く十全な成就に近づかれた・・・とつぶやくわけです。

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 背けるとか異なれるとかが問題になるのは、菩提を求めることや得たことからはじまるわけで、その前に、そもそも無仏であって、結縁してこないということも、あったわけです。

 たすかりがわからん、要らん、ということがある、また、なろうとも思わない、ということがある。自分を知らないか、好ましい教相に遇っていないか、それらが不十分か、日頃の心に沈みたいか、自分と世界をあきらめている姿、それが、私だった、と。

 ですから、成道の予定はゼロだったんです。気がついたら、入門ということがあり、成っていた。横超ですから、作為も努めも意欲も無効です。
 浄土門に予言されてたけれども、お釈迦さんみたいに名指しで個人指名されてたわけじゃありませんから、苦労せんで良かったんだ。横超。

 浄土の予言は、アシタ仙人の預言と異なり、人類全員をご指名ですけど、さあ、如何やらん・・・。開発次第でしょうけど、成らんのも、成れんのも、たすかりの姿なんでしょう、帰命に於いて。

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 もちろん提婆・アジャセなどの逆悪という動きもあったわけですし、初期経典からはいろいろと軋轢が伺えます。また、シャカムニの言葉としては初期経典では悪党の間にさえ協和があるのに、サンガ(これは和合僧と訳されますが)には欠けている、と。サンガにもまた、不和があり、お釈迦さんのいら立ちも窺えるんでしょう。

 如来の怒りもあるんです。現状への悲しみもあるんです。いい加減に死ねええいっ、と。ご自身もまたこれは、諸苦毒中にある。仮令身止、この仮の語は、如実という意味に、みえます。
 ブッダ成るけれども、真人のブッダ・ワールドから、神(魂、菩提)を母胎に宿して出世(世間に現れられた意味)されたからは、人間の身と世間道に於いては、実際の娑婆世間生活では、怒り悲しみ苦悩し虚しい以外の在り方は困難、ということでしょう。

 この迷妄煩悩ともいえる怒りこそはまた、ですから、ブッダの場合には、ほとけの世界を生きて居られるからでもありますが、衆生の世間道に出られるうえで、同時にそのまま益するものに転ぜられて往かれる。我もまた衆生なり、凡夫なり、と。
 もちろん、統御を重視されるので、忍辱を仰ってはおられますが。

 ただ、人間を喜び、可愛い、と。存在全部をブラフマンが代表して声を上げた、と。
 如何にひどくても、切ったり捨てたり出来ない。かかる自然であって且つ好もしき形にまとめられた、限りなき灼熱の慈しみという願心が、同時に備わって居られる。

 この世の問題点の全部を課題とされて取り組まれるが、そのままでしかし同時に願心に於いて、衆生往生が成立していく。極論いたしますと永代、凡夫のままだ、しかし大げさに申しますならば回心、願心受領が全てなんでしょう。

 同時に、するとやはり、如来の現実に於ける還相廻向のお姿はこれは、大衆部的な菩薩道的なものとしてしか、あり得ない。部派仏教や上座部を小乗と蔑称するのには反対ですし、自らを大乗と誇るのもちょっと自己認識が疑われますが・・・。
 ブッダのままでもなく、ブッダで無いのでも無い。
 ほとけの世界と願心を保ったまま、世間と身を生きる。ブッダワールドを賜った、ブッダのお覚りを賜った薩埵=衆生、そういうことであります。

 遂げ難し、達し難し、されど、世と人々を喜ばれ、自らとされて、課題として担って悔いない在り方に、往生されている。
 いや、私はこの世界にとどまろう、と、仮令身止、諸苦毒中、我行精進、忍終不悔と、そうに決まっているんです。

 そんだけ素晴らしいんですよ、無条件に端的にただ生きているというだけのことが。
 殊にほとけの世界からみられる世間は、既に予てより転ぜられていて、石瓦礫も一々が光り輝いているように、経でもしばしば示されて参りました。

 お釈迦さんみたいな古代人とは違う、ってこともあるけれども、お釈迦さんの出会われた世界や願心というものを、後代の方々が逆に見つけていく、みたいなことだって、ありでしょう?まあ、容易ならんし、いろいろ反と非仏教的なものも混入したけれども。

 ハッキリ言うと、お釈迦さんが素晴らしかったから、後代に素晴らしさも生まれたんだ、と。大衆部と部派仏教、上座部とを問わず。かの世尊の中に孕まれていた素晴らしい世界を萌芽態として、さらに時代を待って開花したんだ、と。

 それらもまた、機と法と両方ともが、人間が始まった時から固定されていたわけではなく、相互に深められたことを示しましょうし、発展もせられ、幾多の変遷を通して今日がある。

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 自ずと、歎異、悲嘆述懐ということがある。寄る辺なき当て所なき自身や世間や生存に期待しても仕方が無いけれども、逸れるをば嘆く。
 親鸞様に於かれては、「正像末御和讃」に於いて、自己自身のこととして、悲歎述懐も表白されたわけです。

【参考】

#2悲歎述懐
愚禿悲歎述懐

(94)
浄土真宗に帰すれども
 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて
 清浄の心もさらになし

(95)
外儀のすがたはひとごとに
 賢善精進現ぜしむ
 貪瞋・邪偽おほきゆゑ
 奸詐ももはし(百端。多数の意)身にみてり
D--
(96)
悪性さらにやめがたし
 こころは蛇蝎(動物に差別的偏見あり)のごとくなり
 修善も雑毒なるゆゑに
 虚仮の行とぞなづけたる

(97)
無慚無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀の回向の御名なれば
 功徳は十方にみちたまふ

(98)
小慈小悲もなき身にて
 有情利益はおもふまじ
 如来の願船いまさずは
 苦海をいかでかわたるべき
P--618
(99)
蛇蝎奸詐のこころにて(動物への偏見も感じられます)
 自力修善はかなふまじ
 如来の回向をたのまでは
 無慚無愧にては(果)てぞせん

(100)
五濁増のしるしには
 この世の道俗ことごとく
 外儀は仏教のすがたにて
 内心外道を帰敬せり

(101)
かなしきかなや道俗の
 良時・吉日えらばしめ
 天神・地祇をあがめつつ
 卜占祭祀つとめとす
D--
(102)
僧ぞ法師のその御名は
 たふときこととききしかど
 提婆五邪の法ににて
 いやしきものになづけたり

(103)
外道・梵士・尼乾志(バラモン教徒・ジャイナ教徒)に
 こころはかはらぬものとして
 如来の法衣をつねにきて
 一切鬼神をあがむめり(昔の意識でしょうけど、やや偏見あり。)
(この部分もやや偏見があったのかも知れません。道教といわず、諸教への対抗の歴史が反映されているんでしょうけど、聖人がどう理解されていたかは不明です)


(104)
かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す
P--619
(105)
五濁邪悪のしるしには
 僧ぞ法師といふ御名を
 奴婢・僕使になづけてぞ
 いやしきものとさだめたる

(106)
無戒名字の比丘なれど(得度した僧であるという名のりでしょうね。無戒名字でも。)
 末法濁世の世となりて
 舎利弗・目連にひとしくて(!ええっ?)
 供養恭敬をすすめしむ

(107)
罪業もとよりかたちなし
 妄想顛倒のなせるなり
 心性もとよりきよけれど
 この世はまことのひとぞなき
D--
(108)
末法悪世のかなしみは
 南都北嶺の仏法者の
 輿かく僧達力者法師
 高位をもてなす名としたり

(109)
仏法あなづるしるしには
 比丘・比丘尼を奴婢として
 法師・僧徒のたふとさも
 僕従ものの名としたり

 以上十六首、これは愚禿がかなしみなげきにして述懐としたり。この世の本寺本山のいみじき僧とまうすも法師とP--620まうすもう(憂)きことなり。

 釈親鸞これを書く。

 かく悲嘆して居られます。
 ちなみに、同じ正像末和讃の次の行は、「真宗こそ末世の正法だ」ということを表白されている数少ない部分なんでしょう。

(15)
正法の時機(シャカムニご在世時代)とおもへども
 底下の凡愚となれる身は
 清浄真実のこころなし
 発菩提心いかがせん

(16)
自力聖道の菩提心
 こころもことばもおよばれず
 常没流転の凡愚は
 いかでか発起せしむべき

(17)
三恒河沙の諸仏の
 出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども
 自力かなはで流転せり
D--
(18)
像末五濁の世となりて
 釈迦の遺教かくれしむ
 弥陀の悲願ひろまりて
 念仏往生さかりなり



 ・・・なお、先に『無量寿経』出世本懐の部分でお釈迦様が「如来は・・・される」と自身に対して謙譲語を用いられるのは、自身ではないからです。
 自分では無いし、無いのでもない。この世の娑婆世間にあるけれども、あるのでもない。しかし常に、かの世界と如来相にあるわけです。時に止めようなく表出されて、行、如来徳、と。

 で、親鸞様は、舎利弗・目連にひとしくて、とか、またこの和讃の終わりの部分では、名利に人師をこのむなり、とか仰るわけで、自信家なのかなとも思われるんですけど、経に照らすと、という、教条重視も感じられるわけです。経が実語であり仏語としていただけるものならば、紛れもなくこうなる、と。当時の祖師方と称名念仏の流布もあり、経への絶対的な信頼をお持ちでした。

 また蓮如様が自分の御文を周囲に拝読させて自ら聞いておられたのは、やはり自信家だからでしょうけど、間違いない、と、いつも頷いて居られた。これも、お示しの内容が自分を超えているからでしょう。

 一応、そうでも思わないと、祖師方の自信家ぶりを説明することが出来ないんですね、しょーみ。それにしても非常識で、謙虚さが疑われはせぬか、となりませんか?

 けれども、それだけ確信を持って居られた部分、とも言えると思うんです。疑いの余地がない、間違いない、というご了解ですし、行如来徳なんです。
 時代や、探求、解明なり解析の限界はあった、としても。

 自分のことでは無い、至ってパブリックな在り方と申せましょう。
 現代文化水準からいたしますと、差別性と言わず、今一つ改善されていくべき諸点があるとしましても、それは、それこそ、各種の解放運動も進み、学術も進み、社会も成熟した今だからこそ、見えて来たんだと思います。

 この確信という点では、長く引っ掛かりを持たれたり疑問視されてきたけれども、容易には持てなかったわけでしょう。
 ハッキリと、おかしいという処まで辿り着けたこと自体、まさに現代の人間解放と学問の自由がもたらした文化水準のたすけが大きい。

 信心と、経・律・論という三蔵等の教相世界だけですと、まあ、とうに信心から開かれていて当然だったものが、容易に開かれない。シャカムニと祖師方と教相の固定化と絶対化、そして権威というものが強まっていったんです。

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 さて、何度か学び自体についてもふれたことがありましたが、学びについて少し思われるところがありますので、メモしておきます。

 これは、学びの方法ということがあるんでしょうから、勉強苦手、べんきょー嫌い~組が語っちゃいけないんですけど、それでも、ゼロではない。少しくらい分かりますし、反面、分かった、こうだと称して、その実は間違った見方、も併せ持つかも知れません。
 点検課題として提起しておきます。

 一つ目はテキストと参考の書物や善知識(先生)です。

 大体不熱心且つ大雑把にかも知れませんけど、浄土三部経でも御本書でも、私らはアレコレと本にも当たり、ちょっとだけですけど直接の先生方の講義にもふれ、法話や講演や雑誌の小論にも、よくふれたわけです。

 理解が浅いし、誤解もあるだろうけれども、とにかく、意味や解釈にふれている。
 教行信証でも、講義も出版されているし、幾度となく講義がされて講録が出版されている。

 往生や成道自体は学問して至り得るものではありませんけれども、教相と教判がまとめられていますから、全く無関係でもありません。

 ですから、『真宗聖典』でも何でも、まず、ふれてもらわないと、分り難いものもあると思うんで、浄土真宗本願寺派様のと、真宗大谷派のと、両方揃えておいてください。和漢文の書き下し文や古典文のままですが、注釈や解説も少しだけあります。ダウンロード版では十分ではありません。

 寺では、滅多にみませんが、事辞典や『真宗聖教全書』や一切経、史料集成とか大系類、真蹟集成、相伝とか清沢・曽我・金子・安田・平野・宮城など先生方の全集・選集が、いろいろあるのが普通です。寺川さんのも出されたので、あります。うちのはボロボロの国譯一切経だが、大正蔵や南伝がある寺も少なく無いでしょう。

 まあ、ゼロではありませんけど、全部が往生とか成道に関係があるわけではありませんから、読めないままで死んで行って構わないんです。ふれた方がどこかで講義や法話をされると好い。
 しかし、仏教を説明しようとすると、また、信心の溝を浚うとすると、読めると好いでしょう。新たなる視点を賜るに違いありません。

 信心自体は、付いて学んだ知識(善知識)から願心受領を直接間接に受けていく。往生というも、成道というも、たった、それだけ。

 釈迦なら釈迦が好い。龍樹腹でも曇鸞腹でも何でも、そこから生まれて往くと、好いんでしょう。
 けれども、祖師方全部が、もう既に死んで居られる。驚異的で神秘的なる見仏も怪しい。
 意味が取れる場所は好いが、疑問点や不明点はどうしようもない。

 それで、知識(師)から手ほどきを受けて、求めて、探して、間違っているかも知れないけれども釈迦や七高僧のイメージを知識から直接間接に賜わって、み教えが分かるか、分からんまま終えるのか、とにかく学ぶんです。

 ですから、誰か全集になった先生方にふれた先生方がまた生まれられ、そこでまた学ぶ。直接か、論説にふれる間接か、学びと深まりが続いていく。

 それで、ふれているといないとでは、転ということに繋がり、理解し易いかどうかとか、理解の深まり拡がりがもたらされるかどうかに、差が出てくるかも知れません。

 まあ引文一つ取りましても、誰それのフレーズを誰それが引文して、それを誰誰がこう解釈したんだろう、ここは転記ミスだとか、聞き違いだみたいなことが今度は生じても参りましょうから、この点でも諸刃の剣みたいな?



 で、次に学び方です。

 飛躍は革命とか天才とか、ちょっとついていけない状況ですので述べ得ませんが、転成(てんじょう)、転化、転回、回転(えてん)、転展(てんでん)という語が常用されます。
 仏教では普通に用いられることが少なく無いわけですが、転、転々、転々々、転々々々?ということがある。すってんころりん、とは真逆の効果がある。

 趣旨の展開と論説の持つ意味、まあ単語の意味もそうですけど、これを理解するには、語用ということになると思うんですけど、転じて漢字の説明をしたりする。

 別の漢字で説明を試みたりして、なお、煩瑣になることがあるけれども、詳しく幅広く説明されておく意義はあるんです。
 スパッと簡潔に言い当てる難い場合と、起承転結の意味で転じていく場合、ひっくり返したり、色んな場合がるかも知れませんが、油断なく意味全部を求めようとすることも、重要かも知れません。

 視点を転じることもありましょうが、一つのことを転じて展べるので、転展と言います。
例えば、ご和讃の次第章というのは編集されている三帖和讃を順番に、普通は六首~数首まで順番に拝読していく。
 一方、飛び三首引きや、経の懸け和讃、全然別の部分に飛んで拝読することは転展章といわれますが、そういうことなんでしょう。
 三蔵や聖典の聖句なども、ピックアップして繋げると転展になる。

 趣旨説明の為に設けられる教理や論(反含む)の場合ですと、言い当ても難しくなるので、あまりやらんわけです。諸学の先生方の全集ものでもそうでしょう。

 理智こそ最重要ですが、また、感覚でものを言うのかなあという、はしたなさみたいなもんを何となく感じられるかも知れません。
 省略が多過ぎる、みたいな。

 この部分は経ではこうだ、論ではこうだ、両度はそれぞれこう述べられており、現代のある先生はこう言われた、と。
 このことで、願心や菩提や信心にとって、趣旨説明の意味自体がハッキリいたしましたり、理解の幅が拡がったりいたしましょう。
 どういう事態なのか、ハッキリして来る。

 我々のは狭いばかりですが、広い視点であるほど、いろいろな分野に該博であればあるほど、理解が解き明かされていき、学問や教理の説明の進化にも、啓蒙にもなるかも知れない。
 学ばれるべき一番肝心なのは仏意=願心=大慈悲心=庶民、そして人心などですけれども、幅広く深く説かれるのが好い、と。

 私の場合は、他の分野の諸説や願心、解放運動やディアレクティク、政治経済や制度などとも対照しながら見て参ったわけですが、今後諸賢は一層該博なお智慧で機・法とも、進化を図られることと予見いたし居ります。

 いつも急いでアップして参りました為、説明や引用の省略が大変多く、真宗の専門家以外の方には、論議以前に説明が届きませんで、いつもながら言い訳と共に、お詫び申し上げます。

 先ずは有縁から、そして何時何が起こるか分からないので先ずは人類大事之聖教を大急ぎで遺さんと、ということなんです。腹切って押し込めて聖教を護ったり、壁に塗り込めて護る必要が無かったのは幸いで、偏に、皆様のおかげです。



 まあ、文学や言語は重要だと思いますが苦手でして、もっと分からんのが俳句とか短歌でして、詠まれた句自体からは、その隣に説明されている内容、意味が、全く分からないんです。

 何となく分るのではなく、微かに分かるのでもなく、全然分からん。逆の解釈をやっていることさえ、ある。現代の詩なども、語そのものも創造されていくのか、文法はどうなのかも分からん、ましてや何を言いたいのか、さっぱり分からん、と。

 漢詩でも日本語でも、毛筆、殊に草書ですと、女性的だとか力強いとか整っているとか、内容は分らんことが多いけれども、文字は何語の文字で、何ポイントで、何体で、何文字で、とか、外側から文字を理解できるけれども、恐ろしいほど分からない。

 形式から、外側から、どう認識すれば好いのか、と。論理と文法だけでは、補足説明が無いと、分からないほど意味深いわけでしょう。意味はある、けれども門外漢には分らん、と。

 日ごろ現代日本語を喋ってて、読み書きがやれているのかというと、全然出来ていなかったわけです。

 まあこれも、日常生活にはほとんど支障ないけれども、多少とも文芸の専門家でないと分からんのでしょうし、思想の深まりや人生の充実には欠かせないのかも知れません。私は、学習意欲もかなり薄い方ですけど。

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 ただ、学びとは関係なく、この道を往きたい。出遇った願心の世界、ブッダ・ワールドが好い、と。
 ラトナ(宝)ということがある。昔は仏教を三宝と言ったそうです。これは宝である、ということです。出遇ってみれば、実は私の大事であり、かけがえがない道だった、と。

 自分と言わず自分たちと言わず共同体でも世界でも、歴史を振り返って、いろいろとまとめて道を探したり、努力目標を求めて努めることは大事である。
 学びも大事である。
 いろいろと立ち返り、振り返らなくてはなりません。

 しかし、顧みず、振り返らずに、この道を往きたい。そういう好き道である。身も心もいろいろと壊れていくし変化していき、ついに終えて斃れるけれども、この道を往きたい、と。生存も死も、創造も崩壊も振り捨てて、往きたい。

 喜びある輝きの世界に往く。

 願心や理想も色々あるだろうけれども、同時に生まれながら持っている道を往きたい。
 要するに、生物的ないのちも大事だから、衣食住も尊重したいうちは、尊重すべきであるけれども、生存が尽きようとも、既に備わるこの道を、往きたいわけである。

 我々が集い、生きて往くということは、そういう受容の世界、価値ある世界なんです。そういう世界しか往きたくないし、往けないんです。住めないし、居れない。

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 ここ数回、「浄仏土と往生」で終えた質に対する、やや追記的な内容になりました。もう少し続けさせてください。

 これが好い、これで好い、そういう世界に在る。
 しかしそれを、では、どう表現し、どう実現出来るのか。述べました通り、専門外の俺の仕事じゃない、誰かやるんだろう、と思って長く放置していたわけです。

 しかし既にこうなったから、及ばずながら、達している処から遡及して、手を染めてみるか、ということでしたため始めただけ、なんです。ですから、何故もっと早く出来なかったんだと叱られても、ですね、これは時宜を得て、ということもあります。また、機が純熟して、ということもあるんです。取り組みを進める中でしか、開けて来ない。

 皆さんも、先ず隗より始めよ、と、お始めください。
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2018-04-13

 この辺りでも梅もモクレンも散りはじめ、桜も散りそうです。やはり去年よりも十日ほど早いみたいですね。
 畑や外の片付けとかもやりたいんスけど身体が重いのだけは例年同様みたいです。

 もう少し補足と申しますか敷衍と申しますか、浄土と往生に関係して展開いたします。ただ、皆さんもお忙しいと存じますので、取り敢えず今週はお休みして、前回の思惟アップから二~三週間後にアップできれば・・・と思ってます。

 もう少し経ちますと、ほんとにポカポカして来そうです。くれぐれもご自愛ご清祥のほど、念じ申し上げます。
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願心成就-2

 無味乾燥なる傍観哲学が好いんだ、沈空と縁覚が好いんだよおおお、ものすごくううう、などという乱暴なご意見も以心伝心で届くわけですが、は、あ・・・、と。
 これまた、確かに執着、愛執ということがございますから、一部高僧方のご意見も一理ございます。

 真仏と真仏土(法界・法体)を素晴らしく解き明かしましてすんません、いつも。名だたる碩学さん方を差し置くつもりはありませんが、浄仏土へのこれまでの理解でどこまで人々の求めを満足していけるか、如何やらん、という問題提起としてご理解願います。

 迷妄の妄執が晴れたところに、露わな私があった、その私の在るがままの事実はしかし、友なる世界であった、と。
 人間をお互いに喜び合い、称(たた)え合い、輝き合う世界であった。
 初めてそこで生き、そこに死んで悔い無き世界に生まれた。そういう一大事件であった、と。

 未曾瞻覩(いまだかつて見ず)とは、そういう事態であります。
 阿難尊者は光顔巍々とされたシャカムニのお姿に、驚きや感動の中で心が安らいでいくような不思議な感じ(親鸞様によれば、未曾有見とぞ怪しみし)を仮に示しながらも、一切衆生の為に一切衆生を代表して問われたけれども、ブッダ・シャカムニが初めて到達された仏土からの回向でも、ありましょう。
 それでシャカムニは阿難に、愍念衆生、問斯慧義、はなはだ快し、と。

 この場合、如来の限りなき灼熱の慈しみ、情愛、友なる対他性、仏仏相念の喜びは、とらわれなき境涯にあって、愈々あきらかであって、四無量(慈・悲・喜・捨が無量)である。

 底下凡愚つみびとたることと同様に、ごまかしようがない、紛れもない私自身の求めだ、ということなんです。
 選ぶとか捨てるとか、そういうものでない、自然に備わるはたらきであり、自然の人間性。
(ところで「あきらか」という漢字が一杯あるんですね。ちょっと驚きます。「威」もそうした字の一つになってるようです。)

 もちろん、

不請の法をもつてもろもろの黎庶に施すこと、純孝の子の父母を愛敬するがごとし。もろもろの衆生において視そなはすこと、自己のごとし。(以不請之法 施諸黎庶 如純孝之子 愛敬父母 於諸衆生視 若自己)(『無量寿経』)

 斯くの如きの論説、またまた執着。執着を免れないわけですから、とらわれてはなりませんが、執着しない方が、おかしいんです。
 この解釈はいのちと同じで考える必要の無い事柄ですけれども、仏教的に理解するとなると、結構難しいんです。

 己を超えた大慈悲であるから、狭い自己への執着が無い。他者を慈しむけれども、自身との関係に於いて見るのではなく、所有被所有も無い。その人一人の為になると思われることを試み続ける。そういう自分自身を生き切る、ということでしょうか・・・。まさに逆に、無執着でないと開けて来ない在り方。
(ちなみに所有の考え方もまた、所有無所有無無所有と転じて理解される深さが大事です。)

 ともあれ『無量寿経』の展開は、シャカムニの展開が好いのか、それとも、『無量寿経』の展開が好いのか、実はそういう問題かも知れません。
 差別性と差別者の思想的根拠を持って来た問題があるけれども、通達諸法性 一切空無我 専求浄仏土 必定如是刹なる、『無量寿経』という大慈悲・大施主の展開が好い、と。

 シャカムニは巨大徳である、その徳用を無限にしようとされた試みの一流、それが浄土広大異門とも、みえます。

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 親鸞様に於かれてはもはや、浄土門の祖師方の総括的な地平がめざされましたから、釈迦の説法ましませど、修すべき有情の無き故に、と、歴史の中で宗門改革が進められた末、『無量寿経』広大異門に大利あり、という判定になられていく。

 別に日本の鎌倉仏教を待つことなく、東漸や西漸など仏教伝播と共に、各地域で何度も宗教改革が為されたのでしょう。
 たとえば初期キリスト教などと宗教間の相互浸透が確認されると言われます。多分ほかにも諸宗教・哲学・政治・宗教とも対論や弁証の中で相互浸透しているだろうし、その割には想定外に質が保たれながらも、変化も進んだんでしょう。

 これも前から申しておりますが、シャカムニご出世当時から、いろんな宗教の倫理性や世界観もあったとはいえ、末法滅法というよりも無仏法の時代であって、異端しか居なかった。
 仏教徒と教団、そして民衆の自覚としての末法・滅法は時代の中で愈々明確にされ続けるべきですが、実際には、現代と共通していたのではないかと思います。

 すると昔から、これは機の深信ですが、末代(末法世)の無智(肝心の大事なことだけ知らない)なる在家止住のともがらであって、迷妄煩悩、妄執を私とする、虚仮不実を自身とする。当て所なくさ迷える自己とは他なし、曠劫来、出離の縁、あること無し、と。ただ、本願を主として人生を担い直すのみ。
 こうした自覚を先師先学はよく言われたんだと思います。

 かかる自覚は機の深信であって、自体もう、法の深信と一体のもの。虚心坦懐、謙虚そのものでありましょう。
 かかる底下凡愚罪人の機をこそ、担わんとするのが浄土異門。広大無辺際。

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 真のブッダとその世界を「未曾瞻覩」ということで、更に思われますのが、煩悩即菩提とか、この即は不即不不即ですけれども、不断煩悩得涅槃とか、ここを去ること遠からず、凡夫往生には近いけれども、十万億土の彼方でもあるとか、最初から自身にも備わっているけれども、他力回向によって知らされないと、自分では容易には分らん世界だった、ということでございます。

 ほとけの世界が自分の中に最初からある。ところが成道以後のブッダと成られたシャカムニしか気づかない。
 最初から器である自身の身体と意識に、菩提心も仏性も備わっているが、気づけない。発心が出て来ない。そこで教法に出遇うことで開発(かいほつ)、と言われる次第であります。

 認識論なんかでも、認識は最初から自身の中ではたらいているとドイツ観念論の流れの中でも、明らかにされたんでしょう。
 ただ西哲も、近代以降の再侵略に伴う東方文化の受容と東方への傾倒も色濃くあるはずです。もともと中心から無いものねだりすると、四方八方しかありませんから、東南西北とかが探される方角になり易い。

 自分のとこ、世界の中心に備わらんような気がする。探すとかもたらして来るとなると、周囲の世界だったんでしょう。
 これはこれで、探し物とは別に、異なれることとのふれあいこそ、新たなる世界の誕生に繋がりますから、自体、大変重要なエポックとなりましょう。

 ともかく、ほとけの世界相応ということがちゃんと最初から備わっていて、ほとけにもなるけれども、いろいろ何でも知っているけれども肝心の大事なことだけ知らない、どもならん、手の施しようの無い凡夫でもある。

 しかし、成道宗とも申しますのは、最初からちゃんと開発されるべき道が備わっているから、なんです。
 だからそれ故、凡夫の開発さえあれば信心獲得も、成仏も、衆生友なる如来の願心成就として、成立できる。少なくとも、はず、であります。



 真仏土往生、願心の成就。ただし、ほとけまでいくのかどうか、私的にはこれは使命の有無として考えたりもしますが、凡夫の死としてはこれは、菩薩としての人生の死とは真逆の、凡夫のままだけれども、誹謗正法の私の死、本願に相応しない私の死。
 ですから、生まれ変わりカテゴリーで行きますと、信に死して願に生きる、みたいな「人の誕生」ということかも知れません。

 菩薩としての死が動き回っとるようでは、アカンのです。他の生物やただの人より、更に芳しくないかも知れません。これまた派内では以前から、自覚ある先学方の間で結構言われて来たわけです。至ってまともな感覚だと思います。

 まあ、成れん、ということでしたら、大経の48願から、変成男子の願はもとより無視してますが、六神通とかを無視しても構わんかも知れない、とも思います。ただ、すると今度は友なる対他性にあるブッダ軽視、凡夫居直りも懸念されましょう。

 これはやはりブッダ・仏性を中心としていかなくては、核心を欠く。神通万能観は如何かと思いますが、遊煩悩林だけになって、友なる対他性の核心として神通力が願文の比較的初めの部分にある以上、それを欠くということになりますと、自身の仏性を害っていくことにもなろう、と思います。

 軽視しておくしか無いでしょうかね・・・そうでないとほとんどの人がたすからんことにもなりかねんし、実際のサンガは完成したブッダや門徒だけじゃありませんから。現実の教団が大事。理念をめざすかどうか、ということが試金石となりましょうが、現実を問うてくるとしても架空の理念だけのサンガではアカンのです。

 浄土は架空のサンガではいかんのです。無茶言う、と思われるかも知れませんが、理念通りにはいかなくても、課題として担う。そういうところに、実際と実践が備わって来るんです。実際の仏仏相念が輝いてある、大経にもそういう頂きをします。
 すいません、いつも現実重視の娑婆べったりで。

 限り無き灼熱の慈しみ、友なる対他性の完成、他者をみそなわすこと自己の如くすべし、という核心が大事。
 ブッダはいろいろ喜ばれるけれども、人間を喜ぶ。人間を喜ぶのが真人と言われる真のブッダでしょう。

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 真仏土、友なる対他性のほとけの世界という共同体に照らされるとき、人と人との関係を巡りまして、異なれる者同士の矛盾における対立・闘争と、協力や連帯がレリーフされて参りましょう。

 ほとけの世界、限りなき慈悲と智慧の世界、限りなき灼熱の慈しみという対他性、これを社会性というのか、共同性というのか、友好性というのか、いろいろな謂いがあるんでしょうけど、要は、大事にする、一大事、御大切。

 また、生物というものも、無機質も生き物に喩えられるように、変化し続ける無機質と不可分、不一不異、不同不異、縁起の関係性にある。
 おおきくは存在全部が生き物なんでしょうね。

 だから、主観的な意識も、出遇いも、信心も、石ころ一粒とも不可分だ、と。存在全部を粗末にせず、存在全部が尊ばれて輝いてくるということだって、あるかも知れません。

 慈悲の展開、対他性の成就(実現)と展開、述べて参りました通り、矛盾の展開値は多様であって、闘争と申しましても、一が他を食い破る形式とも限らず、いずれにせよ関係する事物はもとの性質と異なった状態に変化してゆくし、人間に於いては平和的であり得る。

 また協力、連帯は一時的で分裂が主要乍ら、異なれる者同士が連帯し、協力が末永く続くことも稀ではない。

 「敵」の消滅、殲滅戦が近代以降まで続く認識ですが、そもそも、どうして敵が誕生したのか、誰にも分らんわけです。自分(たち)が創り上げたんです。自分(たち)自身を粗末にする為に、わざわざ、敵を設けて、余計な時間と金と労力を注ぎ込みたいらしい、と。

 また、赦しの歴史が埋もれたまま、仏像も御影も名号もそうですけど、閉じ込められて生き埋めにされたままになった。変化の哲学説が埋もれていたが勃興したように、そろそろ緩やかに勃興しても好いのではないか、と思うんです。

 また、対立、異なれる見解やデータ同士がぶつからないことには、発展が無いから、一元化はどうか、と。

 多様な異なれるということ、他者などのカテゴリーもじっくりと取り組まれるべき重い課題でありまして、塾考・熟慮され、熟成されていくべき、と願っています。

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 真仏の仏意・願心やその開く真仏土、まあ、真宗の仏と仏土ですが、そこへの回心往生につきましてはこれは、生物の願心というものがあって、エリートさんがまとめた教相があり、それが他力回向、外部注入されるということで、初めて、私ら凡夫の開発がある。

 マルクスご自身の回心や、マルクスへの回心、ヴ・ナロードへの回心、イスクラなるサンガの集い、毛さんの至るところで人民の為にという友なる対他性表明への回心・信順、これら全て、行動は間違っていた面が大きかったと思うんですけど、願心の一つの表現なんです。

 国民の為、世界人類の為、いろんな政策や協約、規範への取り組みなども、もう、全部ダメで、疑わしい質や間違っている質が少なく無いだろうと思いますが、願心には尊いものが孕まれている。
 姿勢自体が邪なケースもあるでしょうけど、人々の為になる志向も、それほど少なくも無いのでしょう。

 願心のみぞ尊し、と。
 人間解放の願心に於いて勝利者がある。チェコのユリウス・フチークも、いよいよ磨かれた願心に於いて、仏教のパラダイムでないとしても、好き世界への往生がある。あのまま生きられて頑張られても好い世界を招けなかったとは思いますが、願心に於いて。

 願心に、ご本人の意図に関わらず、アムネスティへの功績や遺徳も、そして現代社会や好き世界の求めに於いての遺徳も、友たらん対他性も、あるからです。疑いもなく、好き世界への往生が授記される方々の中にあるように、感じますね。彼らの願心にふれた方々もまた。

 ただこれもまた、孕まれているというだけで、願心自体にはいろいろ付着してるし、浄でもなく、洗練でも無い。スッキリしていて無理なく自然でないと、すえ通らん。構成が大事なんでしょう。エリートさんがまとめてくれないと。
 あんまりスッキリしてても逆に、スポーツと違って、怪しまれるかも知れませんが、それでも、シャカムニによっても祖師方によっても、多少とも、きちんとした筋道が説かれた所以です。

 どなたでも、エリートさんがまとめてくれないと、人類全部が困るんです。冗談除けて。
 事態は本来茫漠としているものだからといって、本当に茫漠としたままですと(スッキリしとらんのは、ああた、分かっとらんからだ、なあんも)って、先生には思われるでしょうね。しとっても、そう思われるかも、知れませんけど。

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 親鸞様に薄いように感じられましたのは、広大異門こそは末世・末代の人類救済のための正法だ、未来の有情を利せんとする法門だ、止住百歳だ、という教相です。

 頷きとしてはもう、これ以上無いほど強烈にお持ちだったけれども、教相展開全体の中では、やや薄く、感じられる。

 その原因にはやはり、強い機の深信や仏と浄土の絶対観から、仏や浄土と自身との隔たりの大きさがあったかも知れませんし、正像末の三時観もありましょう。
 末法感、末世観、来世信仰、阿弥陀仏称名念仏の広範な民間での流布、時代の中では碩学も居た、横川の念仏もあった、真言念仏もあった。

 そうした時代背景がありましょうから、どうも自然に流布するという確信めいたものはお持ちだったように感じるんです。領有された奴隷状態だったか棄民とされたか、民衆の置かれた境遇も文化も、今と違うんです、全然。

 しかしその反面、機の深信は怜悧そのものですし、往生とか成道に至っては、信心の人は弥勒等同・如来等同とされながら、確定的な証拠をお探しのまま、亡くなられたやに、見受けるわけです。まあ、理解できます。いやあるいは、師、法然聖人のご逝去に際して、奇瑞あぐるべからず、と確証も持って居られたにしましても。
 とすればこのことは同時に、いずれにせよ、未来の有情において実現されるべき課題となっていた、とも、申せましょう。

 しかし、近代以降の発掘や史観の再構成を待つまでもなく、前述の通り、シャカムニご在世時代というのは、無仏法で、シャカムニにとっては全部が異端。末法滅法と同じでは無かったか、と。
且つ、娑婆世間の争いと戦争の時代、教団問題の時代なんですね、まともに見ると。

 ですから、初期仏教時代から現代に至るまで、止住百歳の教えで好かった、シャカムニが見出されたのが例えばアミタであって、シャカムニの在り方もあそこまで厳格でなくても好かったし、在家で好かったし、『無量寿経』の仏仏相念で好かった、と。その後の仏教運動の流れの大きな一部は、こういうことなんです。

 微妙過ぎますが、願心だけじゃ無くて、ブッダ観自体も、微妙に異なっているように感じます。



 ちなみにシャカムニも娑婆世間に解決法を提示されたが、誰も聞かなかったんです。で、長く戦乱と悲惨が繰り返され続けて今日に至る。色んな宗教も開祖方も、全部ダメだった。

 諸個人のたすかりへと還元してゆくなら話は別ですが、これはもう求めるところの大慈悲、友なる対他性どころじゃない。対他性自体さえ欠いた、仏道でも何でもないものにほかならない。
 聞き届けられないことには、一部の集まりや一人ではたすからんですから、誰一人たすかっとらんまま、現在があるんです。

 にもかかわらず、近代までずっと生身のシャカムニが説法されていた正法時代ということが、理想郷の如き印象でみられていくし、羨まれ、どうしても会わんならん、と、見仏(ブッダにまみえる、仏に会う)ということも課題となっていた。

 相応學舎の方が仰ったとおり、念仏申して、たすからん、ということが分って来た。逆説的な謂いでは、如来本願に出遇い、念仏申す身になって漸く、誰もたすかっとらん、たすからんということが、「分かった」とされるわけです。

 で、両度の場合、たすからんほどに、いよいよ本願念仏のありがたさかたじけなさよ、となるわけです。大変素晴らしいんです。
 願心と、願心に生きて往こうとする姿が、たすかりなんです。

 たすからんけれども、たすかりは誰にもある。生物全部に最初から備わっている方角が、開発されると、それで好い。即の時に横ざまに、たすからんを超えて、往けるんです。たすからんけれども、自身を滅ぼし尽していく勝利者では、あり得るのでしょう。

 たすからんままに、ミッションを果たしていく、そんな人生を賜るんじゃないかと思うんです。
ミッションとか菩薩道と申しましても、そんな大それた傑物は滅多に居らんので、日々、み教えに道をいただいていく。ご聴聞と言われますのも、寄合談合と言われますのも、お互いの人生とこの世を尊び続けていく。

 たすからん、正義も怪しい、そうした機の深信からこそ、如来の世界と相互浸透して照らされながら、赦しも寛容もひろまりましょう。正義どころか悪も止む無し、っていう居直りも少なく無いのも、現実の偽らざる我々の有様かも知れませんから、ひるみながらも。

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 学びは諸刃の剣。ずっと注視されなくてはなりません。
 正しく好もしく学ばないと、害自害他することにも繋がりかねません。
 学びこそ、思想こそ、その逆に、好き世界をもたらすべきなんです。利自利他の世界。利は大利、まさに友たらんとする対他性の利でありましょう。

 ちょっと思ってるんですけど、例えば作品「ゲルニカ」は評価され続けなくてはならないし、問題には取り組まれ続けなくてはならない。アムネスティで用いられるピカソ作品もあったと思います。時には身を投じて時代社会を担わなくてはならないかも知れません。輝いたお姿でもあるんです。

 しかし同時に、「社会性」とか、アートにおける政治表現への忌避があるんです。
 一見するとこうした類の忌避はよくみられるわけで、自己を克服して変革すべき課題と言われるかも知れません。

 情況は好き世界ではないから、止む無く頑張らんならん。
 けれども、本当は間違った頑張りをしなくて好い世界が、一番、好い。
 頑張るとしても供給、支援、救済、喜び合い、友好姿勢など、正しい頑張りをするのが好い。子供の顔をみながら、よくよく思量いただきたい。

 好き世界と頑張るべきことは、戦争や殺害や拷問や、女性・障がい者・少数派などへの差別迫害などの犯罪が無い世界と、その世界の創造なんです。
 喜べ合える、幸ある世界から漏れていくのは、嫌だ!と。
 3.11震災後、言いたいことを言えなくては・・・と申しましたのは、それこそが大事、という意味でした。無理強いとか、戦争翼賛・汚染強要など苦悩や苦痛の美化は、避けなくては、いのちの守護が出来ません。

 そんな甘いこと言っとったら・・・と、間違った娑婆世間の状態の方に、合わせようとするわけですが、それがアカンと思うんです。
 急に変えることは困難かも知れませんし、理解はしますが、合わせるべきは間違いのない世界だけ、好き世界なんです。

 犠牲にされ易い女性・子ども・若者・障がい者など、いつもの弱そうな「老・病・弱」三結合で参りましょう。好き世界へ。
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願心成就

(分り難くなってましたので、すいません、この項、少し手直ししました)


 仏教異門、真宗の素晴しい点と問題点を主に教相と教判からみて参りまして、力不足のままながら、終わりました。まだまだ、であることは言うまでもありません。

 「所感いくつか」として述べました仏教に関する私の心象風景点描は、どなたからも、いくらでも出て来そうですが、いくつか重大な教相上の問題があるので反って驚きました。まあ、時代が時代ですからね。

 ただ、具体課題となって参ります生活での願心展開ということが、願心成就から生じて参るわけでございまして、これはまた演習とも重なり、教相との相互対照、相互転回に於いて開かれて参りましょうけれども、現下の私と世の問題点、課題に取り組む、ということでございます。

 及び難いけれども、真宗で言えば両度時代・蓮師時代から続く問題点を発展的に担い、より素晴らしい教相と姿勢を求める。単に現代化ではない、創造に近いかも知れません。

 そうは申しましても、各人の範囲ということもございますから、何ほどのことも為し得ないけれども、という謙虚な気持ちで、分かることは分っていく、取り組めることは取り組んでいくのみ、それしかないと思います。

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 生物の史的運動に備わる願心というものが、様々に展開してゆくように思われます。

 仏教史はその一つの展開に過ぎませんし、私のは、問題点を挙げてみて更なる好き世界を求めようとするものの、そのまた小さな展開の一つに過ぎません。まだまだ無量の展開がありましょう。

 では、願心の自己成就はあるのでしょうか?上手くまとめることが出来るのでしょうか?

 人みな偏頗あり、とされております。
 どういうことかと申しますと、具体的には精神とか、物質とか、政治とか、法制とか、宗教とか、諸学とか、偏ってまとめられて来る。一々が珠玉であって、でかい。
 ニルバーナの世界はさらに広い。囚われの世界は至らない、とも言われますが、これだけ一々が肥大しますと、学び自体も容易ではありません。

 それぞれの分野として表現されているのは、それらもきっと、何とか自身の願心の「まとめ」を求めたいから、願心の現われだからであろう、とも思うわけです。

 一つにはこれは、仏教自体についても、優秀な教学者もおられるが、宗教以外の各分野の優秀な先生方にも、是非ともお進めをいただくべき学びなり点検ポイントが、なお、存する、ということでしょう。

 スポーツは好い、自然学は好い、科学や技術は好い、と。政経や政治利用の具にされるし政争にも巻き込まれるけれども、それ自体は無色透明で人類共通だ、と。一方、人間のことや政治は面倒で面倒で、もちろん愛情問題でも芸術でも人類共通ながら、その分野ではもう政治社会が侵略して来る可能性がでかい・・・と思っているわけです。

 他方、仏教は人生そのもの、存在そのものであるとはいえ、どうせ学術も入って来るのなら、ちょっと頭の体操、ということで、異なれる分野の研究者の先生方にも、所感を賜ってゆけると、と思います。まあ、インドや仏教に関する講演が併設されているか、その場に近い大学でないと難しいと思いますけど。

 まあ、非政治社会的の分野も全部、時には悪用されても参りましょうし、理研も予算確保で大ごとなんで、娑婆丸出しの私らと同じ面もあるんでしょう。
 けれども、殊にあまり触れて来られなかった各方面各大学などの先生方には、アタマの体操か趣味程度に、高名な仏教学者のお話など一聴いただくと、おもしろいかも知れません。



 願心が成就することと、成就に展開があることについて、学びで仄浮かんだ疑問のうち、例えば次のような課題には、どのように向き合い、どう取り扱えば好いのでしょう。

 シャカムニと諸々のブッダは、神通と法界に丸投げされたなかで、自然に自ずと慈しみ合い、尊び合い、認め合い、喜び合う浄土として開かれた光の国、全てが輝いている繋がりと神々と仏々と人々と生き物たちと物々と共なる、まあ友なるかも知れないが、世界に居て、娑婆世間の様子に驚き、起ち上がった、そして仏の方からこの娑婆世間へ来られた、と。

 ちなみに、仏と仏と相念じ、相互に喜び合い、相互に友であって認め合え尊び合えるので、讃嘆し合え、称揚し合え、称賛し合えるわけです。
 『無量寿経』「三誓偈(または重誓偈)」の三誓のうちの一つでもあるので、これはまちがいなく、王本願だと思います。
 娑婆世間の世俗の国と王位に対しては「棄国捐王」にして、阿弥陀法王と呼ばれては来たけれども、王本願です。

 通常は『無量寿経』では王本願は往相廻向の第18願とされますし、これに関係して諸仏称名の第17願と必至滅度(成道)の第11願であるけれども、本願である。
 阿弥陀経の巻末部分や第17願や三誓偈は、法界、ほとけの世界にあることの、ほとけの世界が成就されているということの、証明にもなります。

 まあ、弊派といわず真宗教学の脈路ではこれは、選択の浄土、最高のほとけの世界、として差別化を図っているし、名号への固執があるけれども、ほとけの間に差別なんか無いんですよ。
 ただし、浄土一流の法統に於いて、名が讃えられることへの拘りもあると思いますし、最上の浄土への最上の讃嘆を企図している面もございましょうから、歴史的に神格化が図られてきた嫌いが強い。一面、理解もしますが、こうした点は念頭に置かれるべきではあります。
 一つのスタンスに於ける潔癖症からいたしますと、到底承け難い腐敗堕落にさえ、思われるかも知れません。

 社会と文化の改善には弁証、多様な複数が競い続けるということは重要かつ不可避ですが、神格化や、争いの中で有象無象何でも総動員する、権謀術数をやらかす問題姿勢は、後代に悪影響を遺すことがありましょう。
 一元化を図ったり固定化を図ることも不可能なので、夢想家にみえますけれども、弾圧されたことから生じた危機感もあったので、過度な自説への固執がみられるかも知れません。また、本寺本山を忌避されるのと表裏一体にサンガ強化にも拘られたかも知れないな、とも、歴史のなかで次第に体制主流にも固執されたかも知れないとも思います。
 過度に目先のことに囚われず、人類の未来を求めることが大切だと思います。

 戻ります。
 阿弥陀仏がどういう存在かといいますと、すいませんいつも煩瑣教学(これまた失礼いたします)を単純化しまして、『無量寿経』では、国王が世自在王仏に出遇われて、心懐悦予、すなわち発心され、棄国捐王されて法蔵菩薩となられ、阿弥陀仏へと成道された、そういう方なんです。
 悦予は、これはシャカムニが出世本懐を述べられる行でもやはり、諸根悦予され、姿色清浄にして光顔巍々とまします、とあるわけです。仏の世界は諸根悦予ですから、阿弥陀仏もまた、諸根悦予の世界に居られる。

【無量寿経より出世本懐部分抜粋】

・・・P--8【3】 その時に、世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍々とまします。 尊者阿難、仏の聖旨を承けてすなはち座より起ちて、ひとへに右の肩を袒ぎ、長跪合掌して、仏にまうしてまうさく、 「今日世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍々とましますこと、明浄なる鏡の影、表裏に暢るがごとし。 威容顕曜にして超絶したまへること無量なり。 いまだかつて瞻覩せず、殊妙なること今のごとくましますをば。 やや、しかなり。 大聖、われ心に念言すらく、 今日世尊、奇特の法に住したまへり。 今日世雄、仏の所住に住したまへり。 今日世眼、導師の行に住したまへり。 今日世英、最勝の道に住したまへり。 今日天尊、如来の徳を行じたまへり。 去来現の仏、仏と仏とあひ念じたまふ。いまの仏も諸仏を念じたまふことなきことを得んや。 なんがゆゑぞ、威神光々たることいまし、しかるや」と。 ここにおいて世尊、阿難に告げてのたまはく、 「いかんぞ阿難、諸天のなんぢを教へて仏に来し問はしむるか。みづから慧見をもつて威顔を問へるか」と。 阿難、仏にまうさく、「諸天の来りてわれを教ふるものあることなし。みづから所見をもつてこの義を問ひたてまつるのみ」と。 仏のたまはく、「善いかな阿難、問へるところはなはだ快し。深き智慧、真妙のP--9弁才を発し、衆生を愍念せんとしてこの慧義を問へり。 如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。・・・

 シャカムニも世自在王仏もアミタも、ほとけの在り方と世界に出遇って、喜ばれた方だ、それも光輝かれて、ということです。
 初歓喜地とか、信心歓喜住不退転とか、歓喜湧躍とか言われますが、身が踊って喜べる世界に即の時に生まれられた。信心なんですね、これが。我々が想定しているものとは違う。

 ともあれ、教相が上手くまとめられているかどうかは、差別性も孕まれて参りましたし、なお、課題かも知れませんが、法界に於いて、如来の願心が自己成就されている。

 そして、起ち上がって、苦悩の有情を棄てずして、こちらに来られるという地点に、まちがいのないたすかり、共(朋、友)なる世界があったわけです。
 まさに住処として来た浄仏土というほとけの世界のたすかり、人々を喜ぶ友なる世界に在られたということが、人々の友としてこちらへ来られるために起座されたことに於いて、証されている。

 それとして意識されていないかも知れないけれども、限り無き灼熱の慈しみの世界であるから、初めから自ずと還相廻向ということが生じて来るし、発願回向のこころ、仏意願心ということがある。
 限り無く温かな交流と対応を住処とするということなんでしょう。

 迷妄の娑婆世間、日ごろのこころの凡夫には程遠いかも知れませんが、少なくともその姿勢の素晴しさ・大切さが分かる方々は決して少なく無いはずです。
 ですので、更に、願心成就ということで、発願回向のこころ、衆生が願心を受領する、ということが成立して参ります。
 ほとんどの方々の人心に自然であってスムースに受容される、ということなんです。

 信心は二種深信ですが、これは素晴らしさに照らされて自身が知られる、機(自身)の深信が初めて生じますし、同時にかかる底下凡愚罪人の自身を顧みずに振り捨てて、素晴らしき法界に生まれ、生きようとする、法の深信も芽生えましょう。
 器は機ですので、機のなかで法が主と成り、機を照らす。

 しかし、それは成道以降のパノラミックな大光景であって、史実や諸個人の事実関係としては逆なのではないか。

 むしろ最初は、娑婆世間の日常の城、常識の砦なる、日ごろのこころなる、言ってみれば異端に溢れていて、娑婆世間の妄執という暗黒星雲の中ではなかったのか。
⇒そこから、ほとけの世界に往生され、
⇒還相廻向ということを為される。
⇒そして衆生の願心受領ということで、仏の願成就がある。

 信心ということはこれはほとけの世界なり成道ということが分ったということですから、信心から開かれる光景ではあるけれども。

 また、如何に自然でスムースとは言え、そんなに簡単に、易く、願成就があるのか?



 衆生の願行悉く、速やかに疾く満足す、と。限り無き喜びと光の世界。法界はもちろん、ほとけの居られる世界は、生まれた意義と喜びがある世界、ということでしょう。

 ただし、ブッダというのは、一歩覚りの世界から娑婆世間へ踏み出されますと、これはもう、菩提薩埵、薩埵である。尽衆生性という言葉通りである。
 それ以外にないわけです。
 如来はタターガタの漢訳でしょうけど、タターガタは同時に「衆生」という意味でもあるそうですが、如来は法界から還りては法界を体現しながら菩薩として機能していく。

 法界が世間を徘徊しているんです。まあこれは市井に虎あるが如し、と、末世にあってはならないこと、と、自戒もされ懸念もされて参った次第であります。
 本願を賜った衆生代表。自分が凡夫衆生であることを、同時に明知された方である。無知の知であり、謙虚であり、自身の明知がある。

 まあ、シャカムニに限れば、お城の中から自由思想の学生であり沙門であられた頃まで、クシャトリアであられたり、お覚りを全うされていないから、これは悪人かどうか、少なくとも凡夫であられたし、衆生という処に身がある。
 衆生であるから、道を求め、求める処を得て、一切衆生に通じていく。

 衆生もまた、最初から求めているし、知っている、ということです。十全にでも無いし、なお、それとして明瞭になっていないとしても。

 ブッダにとってこの世界とは、友なる、輝ける法界である。
 これは真宗的に言えば法の深信であって、機の有様ということが、何ら問われないし、問題にならず、障碍にならないわけです。尽十方無碍である。底下凡愚つみびとたる自身、機なんぞというものは、ふつと、たすかるということ、あるべからざる、いくらひっくり返しても問うても、煮ても焼いても攻めても、まあ、面倒が増すだけで、どんならんがや(どうしようもない)、と。

 そういうただの人が、どうもならん自分に、そのまま往生がある。頑張って往くのでもなく、努力を積み重ねるのでもない。
 本願に出遇った悪人は、即の時に、横超に、往生。出遇い、気づきに於いて成就がある。
 ところが、モメントだらけであって、万象が声を上げているけれども、全身を上げて求めているし、求めを知っているけれども、気づかない、と。

 また、機の深信というかたちで、底下凡愚つみびと、という自己自身への事実認識をハッキリさせていく。自分に期待なんぞしても仕方が無いけれども、一度は悲嘆したり自責も感じんならんはずです。
 往生には、機は問われない。あんなもん、問うてみても意味がない。取るにも足らんし、話にもならん。
 けれども、智慧と慈悲の光に対照され、担われていく存在ではある、と。

 ですから、誰も往けなくしたのではなかろうか、などと両度に食い下がるわけですが、往生とは、往生無き底下の身の自覚(機の深信)でもある、とは申せましょう。
 日本では、往生したわ、というのは難儀した、苦労したという意味ですが、本当に浄土に往生したということを言う門弟が居られますと、これもやはり、一つのスタンスの潔癖症からみますと、到底受け容れ難いに決まってるんです。裏表なし、手の施しようの無い、隠しようも無く、底下の凡愚なんですから。

 私見では、そうだ、それが事実あるがままの観だ、と。ただし、そうだが、永代自己自身の改善が課題となるはずだ、また、往生の縁遠さの誇張は如何か、と言いたいんです。いずれにせよ法と機といずれも、固定ではなく、発展し改善されていくものでもあるとすれば、回心往生で好いんでないか、同時にまた機法の弛まざる改善が条件となりましょうし、努めとなりましょう。
 これも往生の萌しの重要な点であって、菩薩道でもありましょう。
 このことは明瞭にしておく必要があるんです。親鸞めづらしき法をも説かず、ということで、私が言い始めたわけでは無く、既に皆さんも心でお分かりなんで、少なからぬ僧分・門徒に於かれても、事実上長年その通り実践されているわけです。

 こういうテーマを巡って逡巡いたして参ったわけであります。



 モメントや発心は折に触れて時折立ち返って探るとしまして、ひとまず置いといて、我々の願心の自己成就に絞ってみて参りますと、衆生そのままに通じていくブッダの在り方、法界と、指し示す方角に於いて、既に衆生の願心と行ということが、成就されているわけでしょう。
 ほとけは、凡夫の私、なんです。
 ほとけはほとけ、自分は自分、ではない。

 蓮如様が仰られた、凡夫がほとけになる不思議が、成就するんです。
 もう、輝いて輝いて、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍々とされる、それだけでも既に、人々への回向になるし、功徳が限りない。
 自然でもあるから、無理なく往く、と。易く往く。

 名号はそうした運動の一つとして解され、示されて参りました。まあ、あんまりアミタとか名号に拘らんでも好いような気もいたしますし、名号に拘り過ぎますと煩瑣教学に過ぎるような嫌いも感じられるわけでございましょう。

 ただ、願心と発心と教法には拘らんならん、と思います。世尊、我一心にアミタ(尽十方無碍光如来)に帰命す、大衆もろともに友なる世界に赴かん、と。

 名号・称名と言われますのも、仏自ら仏意・願心・教法を託した名号と成られ、称名にも成られて、衆生の方に来られて、勧化されているわけですから、仏そのものと言うことなんです。
 だから、他宗他乗もあろうけれども、真宗の宗乗では、経が示す通り、専修称名念仏というのは、名号と称名のブッダを修する、という意味のまま、受容しております。ブッダである。少なくともその表れの一つ。

 もっとも私も、願心一つのほかには、あまり神経質になるのもどうかな、と思ったり、現身に於いて最高の覚り、完成を得ることが出来る、という以上のことは無いわけで、横超で好いのではないか、艱難辛苦を乗り超えてみたいな菩薩道の理解もどうか、とか、いろいろ思われるわけです。

 要するに、近代以降、様々に人間観、人間の関係が問われたり提示されて参りましたが、人民の為になる方、人民の友とは誰か、仏教で示されるような無三悪趣等の世界が好いのではないか、と思うわけです。
 政策とか、経済体制とか、違いも認めようとか、いろいろあるでしょうけど、喩えますなら、ほとけの世界の人間関係が好い。

 また、到達という点でも、横超慧日という名前の先生が居られましたけど、横超の慧日で好いのではないか、と。そのままで易く横ざまに身を超えて往く。底下凡愚つみびとの身のままで、大迷開悟して見方が変わっていく、横超が好い。

 また、信心というのは横超ですが、相応するはたらきであって、よろこべる世界に関係するものである。安堵であり、安心。これが私だっていう、自身の求めに出遇ったことなんです。
 針の筵(むしろ)は欲しない。心底から喜べるほとけの世界、身が諸根悦予する、身が歓喜湧躍する出遇い。尊び合えて友であれる世界が、好いんでないですか?

 ええ、信用しないでくださいね、むしろ、更に更に、展開してくださることを願います。



 ただし、往生自体も成道も、未生にして不生になったかの如き両度の展開の大問題要素を数点指摘して参りましたが、当て所ないけれども辺地往生、声聞、縁覚、信者には何とかなりそうな気がする。けれども、必至滅度、成道は如何やらん・・・と。
 如来の願文を疑っちゃいかんことになってるんスけど、見つけたのもまとめたのも人間なんですね~。差別性も露わですから、とても往生は未生ぞかし。地獄一定どころやない面も残っていましょう。

 これにはブッダや浄仏土の絶対化のほか、慈しみ合い、喜べ合う、友なる、浄仏土への理解にも問題があったかも知れない、と思うわけです。

 シャカムニと以後の教相展開では、執着を否定するあまり、『無量寿経』でもふれられている仏国土、仏仏相念の、喜びと光に溢れた、互いに友である世界が、すっかり忘れられたのではないか、両度の場合には流罪にもあわれた以上、尚更かも知れない、とも思っているんです。(以下に「淳一のスペース」(アドレス:https://buddhistjtjp.wordpress.com/)でアップする私見をそのまま書いておきます。)

 本来、友に遇うより大事は無い。友人と言わず、家族と言わず、何時斃れるか分からないいのちならば、先ず以て友なる世界に生まれて、そこをベースとしてから、仕事でも学びでもいろいろ取り組まれては如何でしょうか。

 教相面の問題点と思われますのは、温かく慈しみ深く喜び合い認め合い尊び合う、とらわれもなく自由な、法体・法界の把握と表現が、どうも傍観哲学に陥り易い質を持つのではなかろうか、という点なんです。
 温かさや慈悲が見つけにくい。わざわざ別にテーマを設けて説明し直さないと、分からなくなっている。

 執着・絶対化・固定我(実体観)を離れた空無自性に気づかぬことには、もちろん解き放たれませんが、さりとて、肝心のいのちのたすかり、解放ということが生じて来るところの限りなき灼熱の慈しみと一体のものとして有無執着世界も空無自性界もあるんだ、ということが放り出されては、道を誤ると言えましょう。

 シャカムニは大変聡明な方でしたから、尚更客観的に説明されたかも知れませんし、世界観の提示となりますと学問・哲学・科学の面もございましょうから、いよいよ偏った把握をもたらしたかも知れない、後代の高僧方も、ますますそうだったかも知れない、と。

 それから派生して参りますのが縁覚や沈空という課題であります。

 仏性不空とか如来常住とか言われますがこれも、空無自性が常住法則だみたいな、まあそれも悪いとは申しませんが、理解に陥りかねないわけです。世界観を貫いている根源たるいのちの受容と尊重と慈しみの温かさが、忘却されかねない。



 更には、成道以後の課題もあるんです。
 還相と言われて参りましたが、「還相社会学」と定位して取り組んで来られた先生方も居られます。
 娑婆世間で人民の為になる、互いに友であれる日常を、どう定着していくのか。

 悪いコやない、ええコしかおらんけれども、まあ、歪められて悪いコにもなったけれども、相互に温かく接したい、接して欲しい世界。

 視点の大転回が日常となるような在り方なんでしょう。

 シャカムニは初期の付き人を人々の代表たる対告衆として「現身に於いて最高の覚り、完成を得ることが出来る」と授記されましたが、これは一切衆生に遺されたお言葉なんでしょう。

 願心成就の世界としてのほとけの世界、浄仏土は、輝く。今日世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍々とまします・・・ということで、アミタ及び諸仏とシャカムニの相念の悦び、世尊説法の悦び、そして

・・・如来、無蓋の大悲(限りなき灼熱の慈しみ)をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり・・・

と表白された荷負群萌、恵以真実之利の悦びがあるわけです。まあ、他者の再発見があったかも知れません、全然そういう風には他者がみえて参りませんけど。
 仏仏相念であって、慈しみ合い、認め合い、喜び合い、尊び合い、教え合い、与え合い、互いに友である。

 これで好いんでないか、と言いたいわけです。アムネスティでも教団でも、これで好いし、あらゆる共同体と共同体同士も、これで好い。

 生産と供給が大切でもありましょうし、仕事と言わず、学びや遊びと言わず、人間生活の諸分野に於いて頑張りが大事。
 ですから、機を問い詰めることも、自分でも道でも何でも、詰めていくこと、追い込んでいくことも大事ですし、また、少なからず好みでもありましょう。さらに政治改革とか経済体制改革、制度改革とかも大事でしょう。

 しかしまた同時に、それとは別に、赦しも大事なら、度外視も大事。
 あさましき底下凡愚罪人の自覚は必要ですが、それらに囚われず、問われずに、開かれた明るい道に往け、と。我が身の悪きも振り捨てて、一心に帰命(頷き、めざし、求める)すべき世界が、あった、と。

 ほとけの世界や神の国とは、しかし異なれる我が身、我が国、我が世界が、あるではないか、ということですね?

 もちろん「異なれる」という、集団としての歎異、集合体としての機の深信、憂うということも必要でしょう。
 ただ、度外視し、赦していく。娑婆や悪しき道に沿うのではなく、求めをまとめた理念に生きる。まあ、努力は誰しもするんですが、自身とか機みたいな、どうもならんもんは、アテにしたり顧みたりせずに、能う限り赦しを拡げてゆかれると、それで、好いのでは、ありませんか?

 近代以降の面倒な人間観、人間関係観、社会観と社会論にも、一応お取り組みをお進めいただきたいけれども、それとは別に、述べましたようなほとけの世界にシフトされ、少なくともベースに据えられましたなら、それで、好いのでは、ありませんか?



・ちなみに、先に2017ブックレビューの一冊を紹介しましたが、ほかに弊派「親鸞仏教センター」の先生方が取り上げて居られましたのは、

『海遊記ー義浄西征伝ー』(文春文庫)
『信仰についての対話Ⅰ・Ⅱ』(安田理深 大法輪閣)
『責任と判断』(ハンナ・アーレント ちくま学芸文庫)
『ネガティヴ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(朝日新聞出版)
『親鸞で考えるー相模原殺傷事件』(芹沢俊介 真宗大谷派東京一組よにん会)
『沈黙』(遠藤周作)

などでした。それぞれに鮮明なる問題意識が感じられますけど・・・分かりますけど内向的というか、内面がクラいんですよね~。まあ、世相が明るくないですしね~。

・最後に、亡くなる間際に光り輝かれて往かれるのはともかく、信心歓喜してさん然と輝くと死ぬ、イジメ合って暗くしなくちゃ、と思われているようなフシがあるんですけど・・・逆であって、生きる、ということなんです。
 生まれ変わって、初めて、生きる、が成立した、と。
 ですから、いのち友なる使命が生まれる、喜ばしい使命に生まれた、ということでもあるんです。皆、ミッションに限界もありましょうけれど。
 まあ、寺院も僧侶も葬式法事以外ご縁が薄いわけですから、分からんでも無いんですけど・・・。

 ミッションに生まれるということは、ただ喜んで一方的にほとけの世界とか神の国に往くだけ、居るだけ、では無いんです。
 真の友なる勤めとはたらきが備わり、それ自体も喜んで居られることが、『無量寿経』に於かれましても、短いながらも登場されるブッダたちの諸根悦予、光顔巍々の部分に描かれ、内実としては「てんこ盛り」であることにお気づき願います。

 今から死にそうなのに、言われても困る、という向きは、出遇って輝かれるだけで結構ですので、どうか。御容赦願います。

・休みます休みます言い続けながら全然休んどらん、と思われてるかも知れませんが、難事業が終わって一区切りついた後なので、基本的には休みながらのつもりです。

 たださ迷っているだけの者がブックレビューなんぞとてもとても、ながら、私的読書につきましては、浅田先生は忙しそうなので・・・他の先生の本を問い訪ねていこうと思うんですけど、その前に、もう少し、聖典をみるつもりです。

 次回アップはしばらく先になるかも知れませんが、相互に喜び合い尊び合い認め合う世界、度外視、赦し等々に関連いたしまして、人間同士の関係について、対立、協力や連帯、などの矛盾の展開値に、更にふれて参れたら・・・と考えております。

 もちろん、これこそ我邦や欧米での大小色んなグループの調査データとかがございました。
 データも直ちに役立つかどうか分かりませんが、埋もれてるんでしょうから、データを参考に人間の意識と関係に取り組んで来られた先学の労作もあるでしょうし、公刊され、マスコミでも広くご紹介いただけると有難いです。もちろん、私なんぞでなく、今取り組まれている方々の成果に委ねられてもいます。

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31日のサクランボの花


 壁際に板を立てかけて冬囲いしてあったものですが、南向きで鉢も温まるからでしょうね、今年も一番咲きでした。地植えの梅も数個だけ咲きましたが、桃と桜はまだ。
 なお、高田城址公園の桜は3月30日に開花したそうで、桜の様子をテレビが冷酷無慈悲に映すんですけど、観桜会も早められたけど、開始日の6日には、満開を過ぎているだろうな・・・と。
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浄仏土ー私の居場所

 私の居場所があった。

 『親鸞仏教センター通信』64のブックレビューでいくつかの本が紹介されてました。中に『人間の居場所』(集英社新書)が紹介されていました。

 仏教に遇う、というのは、私の居場所についての事件なんです。

 曠劫来流転して畢竟楽しまず、安らがず、ただ愁嘆の声を聞く、そういう我々の中の、一大事件。

 宗教というものが権威や権力やアヘンであり、曖昧さ、差別化や反民主性、呪縛もある、言うならば魔郷の質を露わに発現して来た時代も、随分様変わりして参りました。

 もちろん現代では、人工知能も進み、政・経・法・共同体の、擬似宗教化みたいなこともそのまま、文字通りの権威・権力、呪縛、アヘン、反人間性を孕み、危ういので注視されるべきでしょう。
 けれども、言ってみればもろの宗教の栄えた過去は、もはや喪失されつつあるのでしょう。
 ということは・・・ようやくミネルヴァの梟が飛び立つのでしょう!

 しかし、真に人類が宗とすべき事柄は何なのか。
 これほど文化が進みながら、人類の為の世界を手にしてゆくためには、実はまだまだこれから開かれるべき事柄が立ちはだかっているに違いありません。

 第一セメステルの往生にかかる回心、発心、モメントには時間を費やしました。
 しかし、セメステルの第二期の聖教探索、第三期演習は、これはもう「力及ばずして斃れることを辞さない」言葉通りとなってしまいまして、実社会に通じるのかどうか、そも、出向けるのかどうか、恐縮いたし居ります。

 多くの問題抽出と批判を行いながらも、めざすべき地上の世界も、個人の姿勢も、なお、描けたわけではありません。お一人お一人が形作っていただくほかありません。



 どなたも、須らく全てを自己自身が引き受け、明かしてゆくほか、たすかりは無いんです。

 また、学び、とは申しましても、面倒な仏教思想やカテゴリーではありません。
 日々の暮らし、従事している事柄にこそ、豊かな人間の出遇いや繋がり、更に時には連帯までも、あるのでしょう。友に遇うより、友であるより、大事は無い。

 その質は大変難しいものがありますが、同時に、子どもでも大人でも、能力の違いも、分野の違いも、障碍とはなりません。

 念仏の行者に於かれては、「全ては心である」という謂いは、全てを自己の課題としていくこと、と換言出来ましょう。傍観哲学としての物質や精神の観察ではない。ほかならぬ私の尊いことがら、わたしのいのち、なんです。



 ただ、心とは誰なのか?通常、私だとか、自分だとか思っているし、それでいいように思います。
 自の業識・父母の精血といい、誕生とは、生まれるを願う自分を因とする、という把握なんですけれども、まあ、自は地と言うべきでしょう。

 心というものも、私のそれは共同的になり過ぎ、いろんな方が雑居することが少なく無いけれども、基本は私一人という個人であるように、思うでしょう?

 地球のいのちは、ソラリスではなく、あ・・・あれも一つか、単一の存在では無いんです。有機的連関を持った一元でもなく、バラバラの人々の調和に近いのは分るけれども、とにかく、千差万別の個人や諸生物として、現われ、進化したんです。

 しかし同時に、身体も心も、因と縁によって構成されたものであって、他者や他の物体や生物の意識や学びや存在により、初めて構成されたものでもあるわけでしょう?
 もろに、繋がりの存在である。
 父母だけではなく、地球の存在や空気や水や恒星や惑星の存在と、生命の歴史が、私をもたらしているわけでしょう?

 外縁と内因で、とにかく生物は自分で変わって来た、というのが最近の見解らしいですけど、そういう意味ではもとより繋がりのある多様な個体の一つとして、私がある。
 心もまた、そうした側面があるんです。

 これは認知認識の通時性とか共時性、間主観性や共同主観性と差異性と呼ばれることがあるんでしょうけれども、単一ではない。同時にバラバラに彷徨う散乱でもない。

 引き受け難いけれども、すべてを自分の課題として受けていく。心は自然のアミタ・ブッダにも通じているのでしょう。



 人類が宗とすべき事柄も、達人に教えてもらわんと鮮明にならんとは申せ、実は初めからいのち自体に、求め、願心というものが、備わっている。誰にもある。そういうことだと思います。

 体制にも反体制にも、協力的だったり批判的なことも少なく無いのが、我々誰しもが宗としている、自然に湧出して来る願心の性質ですが、そうしたことと別に、願心自体に気づき、頷いて生きて往くところに、サンガということがあるのでしょう。

 だから、所属や思いを超えて、敵味方の区別なく、一堂に会して参ったわけであります。
 共通の願心がある。

 多くの身近なまた著名な方々が存命中にも、亡くなられる際にも、私の意識を訪問されたが、最期の求めということが、何宗と言わず、何教と言わず、あるのでしょう。

 ある方々は輝かれていた。やはり願心の限りないいのちの慈愛の世界やサンガということに、帰された、ということだと思います。

 私なんかも因と縁で娑婆世間道に目を向けがちですから、逆に、むしろそうした事績に学ぶべしという廻向として受け止めます。
 世間向きのことを厭うばかりでは、今度は逆に社会に目を向けるべし、となるかも知れませんが、まあ面倒なもんで、政治でも教団問題でも、世間のことばかりでは、肝心の魂を忘れてしまうことがよくあるんです。



 まあ、何教とも言わず、何宗とも言わず、何思想とも言わず、いのちの、人類の願心が展開する。それが仏教として展開して来ましたし、他の宗派や宗教でも、同様なのでありましょう。

 しかし、人類の願心をハッキリ分かるように闡明して参りましたのは、広大異門の真宗だけであります。
 現代からするとアレもダメならコレもダメ、そんなアラも目立つ両度(元祖源空聖人・宗祖親鸞聖人また、親鸞聖人・蓮如聖人)ですが、ただ、願心を闡明された。

「火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(『歎異抄』)

と。本願が念仏であり、本願の念仏なんです。
 両度とも、何かと煩瑣な展開をなさったにも関わらず、意外にもすえ通ってスッキリしてます。唯仏一道、独清閑、と。

 ですから、他の教相とは異なりますこと、人類自体の、いのちの願心である。全く他の事柄では無いのでありまして、私の人生の一大事件だった、と。

 本願廻向の教えに遇って、私の願いだった、と気づかれたから、老若男女をこえ、立場も地位も超えて、多くの方々が身を寄せられて、一堂に会することが出来たのであります。
 しかも同時に、如来の願心は老少善悪をえらばず、寛大・無碍にして、広大な質を持つ。

 そうでなければ、あり得ません、歴史の中で、短期間で飛躍的に大教団が誕生するような出来事は。一部は有力者も含めてではありましょうけれども、一斉に各層の方々が群生して集まられたんですから、これはもう政治社会にとっても大問題になったに決まっている。
 中興の祖、蓮如様時代に顕著ですが、既に親鸞様関東行きの時点で、関東の大教団みたいな感じになっていたのではないですかね。



 私自身が何処にも居らん。また、とても居れんような娑婆世間という場所で、しかし同時にそのままで、私の居場所があった、と。

 だから願心は、邪ならぬかどうか自身の質を問うことも無いままなのか、それとも問い返しながらなのか、祈祷し、祈願もする。
 また、政治や法制、経済、経営に就職、学問に遊びに手習いに旅と、様々娑婆の運動もするし、それはそれで大事なことです。
 けれども、居らん、私が居らん、居れもせん、ということでは、何一つも生きて来ない。

 あ~あ、疲れた疲れた、家が一番いい・・・何も楽しまず、ただ愁嘆の声を聞く、それだけの人生なんです。まあこの喩えも、家があったり、安らげるだけまだ好いんでしょう。家にも居場所が無くなるケースが少なくありません。帰りとう無い、みたいな?
 それが、生き返る。

 私も、居るんです。私も居た。存在の根拠がある。
 加えて価値まで、生まれた意義と生きる喜びまでもろうた。なので、オントロジーとも、喩えた次第です。

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「所感いくつか」に追加しといてください。

・お釈迦さんを論じて叱られたりしてますけど、大聖にして大徳であられるシャカムニ如来は、未曾有の発見をされた。
 誰かに教わったのではなく、自ら発見した、と表白されています。

 しかし、一つは、成道には、成道をもたらす萌芽もあったに違いない、と。
 何らかの時代の情況もあった。過酷な求道環境ながら、沙門など自由思想家たちと行動を共にされていた。預言もされていらっしゃった。非アーリア系とも言われています。もちろん既存の宗教・思想があった。どうも、ペルシャはもちろん、ペルシャを通じてかどうか、ギリシャとの文化回路さえ推測されてもおかしくないような時代でもあったでしょう。

 同時に二つ目に、しかし卓越した思考回路と論理と言辞と表現に恵まれていらっしゃったことと、勇敢であられたことが、後代に大きな影響をもたらされた。
 別のパラダイムが既存であったから、自ずとその枠内になりがちだった、と、思われませんか?常識を弁える人ほど。

 例えば、自然に湧出してくる大慈大悲も、それとして気づけましょうか?
 凡夫のアタマ、巷間広く流布されてきた狭い料簡や世間知によって、階級や民族や同族・部族内だけの狭き慈悲にも、転ぜられかねなかった危うさを思います。いやむしろ、その方がまともだった、と思いませんか?
 神々とか、神とか、ヴェーダとかウパニとか諸法典類とか、一杯あったんでしょう?

 同時に三つ目に、それ故既成のパラダイムやコンテキストも流用されながらも、なお、十全にはそれとして自身の到達点を自己認識・表現・表白表出し切っては居られなかったのではないか、と申して参りました。

 それまでの単語・カテゴリー・言辞と思考回路を超えた到達点だとするとこれは、まあ、一般諸学の例で申しますなら、下手をすれば数世紀遅れとなるんでしょう?
 前に言ったような気がしますが、発火の方法を手にしながら、ひょんなことから火起こしが数万年も遅れることになったSFがありましたけど。

 何分大昔のことでして、足跡を探ること自体困難でしょうし、既存の先学の労作以上のことは分らないと思うんですけど、いろいろ考えちゃいます。

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 少し補足的にとりとめなくメモっておきます。

・「悪人」について、現下の世界体制でも、なお、多分に良民が少なくて悪人だらけの世界を招いているように感じるんですけど、「悪人」とは誰か?

 本質的に悪人である、罪人である、という宗教的自覚のほかに、昔は「領民」の中の人間が、でしたが、共同体内の人間が、如何に悪に手を染めるのか、という問題と、今一つは、誰にとっての悪人なのか、こうしたことに少し留意頂き念頭に置いていただければ、と思います。

 古来、被差別民・庶民が悪人とされてきたことが一般に注目されるようになってからも、既に30年ちょっと、いやもっとか・・・、経ってると思いますが、まあ、庶民と言えましょう。
 大貧窮、被差別良民、賤民視された人々、彼らが或いは襲い、奪取し、反乱軍となることもたまにあるんです。宜しく無いけれども。

 一言でいうと、外国人、異教徒など、政権に都合の悪い人が含まれることが少なく無いし、庶民、社会的下層が、悪人と見なされるんです。
 現代でも、大体いつも、いまだに為政者は、デモを主催する反対派を悪党、悪人と仰るんです。

 人権政策確立、差別撤廃、民主化、多党化、各種の権利擁護、自主・独立・自治・自由の尊重、福祉と福利など、人間の尊重の為に十全なる政策をお願い申し上げます。

・次に攻究テーマについては、ほんの数十年前ですけど現代思想で「イエス―キリスト教の核心」とか「ブッダ インド文化圏への視点」(’77臨増)がありました。「ブッダーキリスト教の核心」ではおかしいので、「キリスト教」を「宗教性」に変えますと、大事な我々の人生そのもの、ということですので、アプローチにもしっくりくるわけでした。何とかそれがセメステルの途中で終えたわけです。

 「宗教性」という場合これは、私と人類とを、何を如何に改めて見直し、如何なる世界と結びつけるのか、という意味です。私と人類が、何を宗(むね)として世を受けていけるのか、という問いと同質であります。
 で、まさしく宗教性の核心をブッダに於いて見い出すことの試み。

・あと、古代王朝の問題点。夢想家というのは私の観察では、アムネスティや春風の共同体とかではなく、自然性を欠き、到底あり得ない一元化を目論む人たちのことにしか思えないんですけど・・・。

 まあ、理想主義とも言えましょうけれども、過度の多様性と一元化は、扱いかねるのではありませんか?
 始皇帝批判は文革当時ある指導者を指しておりまして、一元化を目論む夢想家が多かった時代、今も怪しさを感じてますけど、私らも旧習派独裁政治家の批判と受け止めていた。
 もっとも、あの時代は儒家等にも西洋思想にも正統の評価が欠け、全部ボロクソでしたから、功罪というよりも罪の方がデカかったんでしょうけど・・・。

 そこから、さあこれは、運動としては依然として文革小組みたいなものながら、宗教・思想的にも「同朋会運動を問う連続講演会」や「80年代は宗教の時代か」から照らされる中で、在り方と思想が相照らされていく。

 さまざま内包されて来る萌芽がそれぞれに発芽して伸びて行く。
 さまざまの運動や生命や物体に於いて、十分に内因が成熟して初めて、外縁によって発芽と生長があるわけでしょう。
 アムネスティというも春風というも、須らく、歴史の中に孕まれて来た萌芽が、時宜を得て、鼓動と息吹をはじめたものです。

 判定は時宜に応じて、皆さんが下されるんです。

今回的のえぴ

 私事に及び恐縮ですけど、卒業証書ももらい、打ち上げも終わり、優秀なる成績で谷大も合格してたんスけど、何となくやる気にならなかった「忌避科目」がございまして、たまに追試を受けたりするんです。

 さすがに卒業式後追試メンバーは閑散としてましたが、一遍、各学年全員の説明会がありまして、死んだような目で戸を開けますと、想定外の光景。
 (!こんなに居るのか・・・)がやがやとごったがえして、まんべんなく色んな科目の先生方が揃っておられ、対象の生徒に喋っていらっしゃる。(えっ、こんな楽勝科目でも追試?)とか、(えっ、優秀で勉強家のあいつが?)と驚きました。
 先生方に於かれては見慣れた風景なのかも知れませんし、まんべんなく優秀な子には、分らんのでしょうけど。

 大体は毎日、気軽な庶民らいふですから、家でテレビ観ながら下宿されてた方々や家族と喋ったり遊んでまして、そのあとSF読んだり、たまに友人と飲みながらだべってたりでしたんで、受験必須科目自体も苦手だが、それ以外となりますとテスト勉強さえ、さあ、如何やらん・・・みたいな?一夜漬けし易い科目は好いんでしょうけど・・・。
 また具合の悪いことに星新一先生の作品も1~2ヶ月に一冊づつ出てまして、ほかに北杜夫、畑正憲さん、ウルフガイシリーズや、SFの先生方のものが多く出ていた頃なんです。

 で、先ずは何か関心を持てる科目の方向でいろいろ学ぶことは重要で、生涯役に立ちます。
 次に、まんべんなく多様な科目を勉強することは、自分が課題とする事柄が何であろうと大切に決まっているんですけど、就職と進学が目的であれば、その為に必要な勉強が出来ると良い。

 ただし、本当は、学びも仕事も習い事も、須らく世の為にあるわけでして、自分の為にやることがそのまま、実は世の為だったり、他者の為になります。また、多少ともそうでないと、他者(仲間・同僚やお客さん)には必要が無い、ということになり、世の中に通じていかないんです。

 しかし、冷たい言い方に聞こえるかもしれませんが、一度きりの、しかもいつ果てるとも知れない人生、その時やりたくて且つ出来ることも、出来るだけすべきかも知れませんよね。それでも、万一長生きしてしまった場合に困らない程度には、勉強でも何でもやっておかれることを、お勧めします。

 で、一番重要なテーマは、自分の人生。生まれた意義と生きる喜び、限りなき灼熱の慈しみによる、繋がりの世界、友なる世界。まあ最初、初発は学びというよりも気づき、頷きの世界ですけど。

 そこから先は応用演習ということで、私の勉強と攻究のテーマも、年齢と共に次第に、至るところで全人類の為に、全世界の為に、の具体化という、大変仏教的なものになりました。

 さて、字感にかかる閑話休題。
 彌勒の字は、弓と璽(爾)、革と力で、縦書きはよくありますが、昔は右から「勒彌」と書いたことがあるかもしれません。
 すると、璽が弓と力を革める、意にも、読めましょう。
 ただ、璽が弓力で革める、となると、武力なので、あまり好い印象を受けません。

 文字通り、彌勒の彌は彌陀の彌なので、インド仏教とは別に、日・朝・漢文化の仏教僧の感覚ですと、彌陀が世を統御する、如き字感もありませんか?

 意味的には璽は爾となり、而にも通じるそうですが、玉璽、玉印の意味らしい。
 璽や而には汝、~のみ、おわる、長引く、緩む、亘る、久しい、いよいよ、広く、あまねく、満つる、取り繕う、安んずる、おさめる、など、多岐に亘る意味があります。長く伸びる意味が転じたのでしょうか。



 最後に、『真宗』で紹介されてましたが、アンベードカル菩薩のお話しも交えてアウトカースト、差別問題について、天台僧サンガラトナさんの弊派における講演があり、ご好意によりユーチューブにアップされているそうで、観させていただきました。
 お話しの中の史実にはやや俗説や偏見もあるように感じましたが、多少割り引いて人間解放の視点でお聞きください。

 そういえば、一緒に王宮に忍び込んだ友人は殺されたけれども龍樹が赦されたのも、バラモンで学問に精通していたからとされます。差別は人間の尊厳と生死と待遇にかかる深刻な問題。
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浄仏土と往生-4(追加-2)

 住職の問題提起的なセミナリオが平昌パラリンピック中に、一つの攻究として終えられたのは好かったです。

 長年このHPにお付き合いいただいた皆さんも、めでたくご卒業や満期退学を迎えられたわけです。
 このHP等の教相を参考とされ、日々の暮らしが活かされてゆくことをお念じ申し上げ、贈る言葉とさせていただきます。

 そういえば、開講したの、何時でしたっけ・・・調べた結果、2010年でした。8年弱もかかってますね。

 2010年に「試運転にあたって」で開講の言葉をアップいたしましたが、これと二講目の「古代南アジア西域地域について」との簡潔な二つで、基本的な趣旨と結論は到達を意味していたわけです。
 このHPの「プロフィール」でも趣旨を重ねますが、現代思想パロディ型テーマ「ブッダー宗教性の核心」が途中で終わってしまっていました(2016.5.5のコラム「最終章」)。
 えっ?テーマまでが、パロディだったの?みたいな?
 ええ、実はいっぺん終わってたんですね。
 そのまま何とか奥義を開顕し切るまでに至りましたことは、望外の喜びとしますけど。

 それまでの学びと考察もあったわけですが、それらはゲレンデ・ガイドや政治論集などとミソくそ一緒に公開してあります。
〈「淳一のスペース」上部の「プロフィール」でアドレスを紹介してあります。MSNスカイドライヴ(現ワンドライヴ)を利用させてもらってます〉

 社会問題と政権交代、ゲレンデガイド、野菜作りなどにエネルギーを割きましたし、仕事と雑務と遊びが好きなものですから、攻究に於いて後れを取ってしまいましたので、中退・休学された方もあったかも知れません。

 ちなみにソニーは御門首が以前勤めて居られたのでso-netにしてますが、PCはTOSHIBAとNEC、子どもは自作品ですので、そーですねー、子どもがプレステを使ってますので、何時になるか分かりませんが、そのうちPS―4にすると思います。

 で、往生や如何?と問われますなら、全員往生人なるも、宗祖に倣うでもなく、成道につきましては、さあ・・・とも思いますが、しかし、とある方々みたいに、何十年も無駄にされたまま人生を終えられるようなことがなくなったのは、何よりだ、と。

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所感いくつか(卒業式終わってから馴染みの顔ぶれと追試受けたりしてましたけど、終わりましてから、もうちょっとだけ追加)


・事実の捏造とか改竄、隠蔽・破壊・歪曲など、「史実」ということの重要性があるにもかかわらず、今日では常にそうした作為が入っているものと割り引いて受け止めることさえ、普通のことになっています。

 分かるけれども、現代以降、事実関係は未来に残す方向で考慮すべきだろう、と。思い入れはともかく、保身しなくてはならぬ状況の改善が望まれますし、また、政治的謀略の入る余地も多過ぎるのでしょう。

 親鸞様関連のいくつもの「史実」にも、疑問を憶えるわけですが、真偽が確定しているものも、少なく無いのでしょう。
 たとえ信心から善しとされるものでも、やはり史実の捏造や改竄は好もしくないと思います。

 政略が多過ぎるんです。現代でもその傾向が強いので、憂慮するわけです。


・歴史背景として、赦免(勅免)以後もいろいろと動乱が続いてますね。
 ①主上臣下への怒り露わな御本書であるが、後鳥羽天皇が退位して上皇となり院政を行っていた時代、流罪も赦免も受けている。

 ②1254頃、朝家のおんため、の御消息が書かれる。
 これは後嵯峨上皇院政時代であり、かつ、後深草天皇時代である。
 こののち、上皇が後深草に要請して亀山さんを天皇にしたようである。これはこれで、政争を招いたようであるし、九条家や近衛家の浮き沈みもあったようであるが、史家の領分です。

 吉水のサンガを流罪にした後鳥羽院は討幕の挙兵を行ったが敗北し、1221年7月9日隠岐へ流罪にされた後、1239年に亡くなられた。
 少なくとももはや後鳥羽院の時代ではないので、こうした謂いがあったのでしょうか。幕府というよりも朝家との関係で未来が思量されている点が、興味深い。

 そして亀山天皇は本願寺(と言っても叡山の末寺で草創期は草庵のようなものといえよう)の寺地安堵に関係したとされていて、維新前後に、東照宮(家康公)尊牌が亀山天皇のそれに変えられた経緯があります。

 ③国際的には1250年代はモンゴル軍の高麗侵入が激化し、終に陥落し、1259にはモンゴルの属領となる。そして南宋も滅び、二度に及ぶ日本攻めは失敗したものの、世界中が嫌がった時代でしょうね。
 1263年に親鸞様はお亡くなりですが、1268年には蒙古からの外交文書が届いており、1度目文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目弘安の役(こうあんのえき・1281年)と二回攻められたが、いずれも没後のことです。

 1250年代の太子奉賛は、さあ、幕府による朝廷介入の深まりなのか、金は滅ぶは、南宋なども危ういわ、で、南宋から渡来していた禅僧による情報ももたらされていたらしいですから、大陸情勢への反応なのか、太子信仰で朝廷に思い入れを示す必要があったものか、念仏停止が激しくなったのか、為政者による仏教導入の讃嘆、とも言えるわけでしょう。史家の研究に委ねられています。

 問題関心の部分をごく僅かだけみてみました。ウィキ「親鸞」その他ウエブ上にも簡単な年表や事跡があります。

 『仏教史年表』『真宗年表』『親鸞聖人行実』なども参考とされると好いと思いますが、国内事情だけでも騒乱時代、動乱時代なんです。
 そして歴史は法然様・親鸞様も蓮如様も、それ以後も、騒乱の歴史であって、何ら平たんでも穏やかでも無かった。
 騒乱と戦乱の只中で、生き、死んでいかれたんです。

 話が逸れますが、諸外国との関係では、まあ、渤海もモンゴルも朝鮮も日本も、私は言語や文法は好まず苦手ですが、朝鮮語族もしくは類似点を持つ関係であって、これは同族間の覇権争いだったと言えるかも知れないが、当時の日本人や宗祖はそんなことはご存じない。突厥・匈奴・鮮卑・契丹でさえも、地理と生活様式からみて、多分同系もしくは類似若しくは混合文法なんだろうと思う。

 いずれも漢民族・漢文化からは「夷狄討つべし」の「いてき」で、多分に野蛮人扱いされたり差別された共同体であったが、中原の中華思想や文化と相互浸透したし、漢文化の優れた面が大きかったため、日本を含めて近隣勢力に多く採り入れられた。
 もちろんその漢民族も、大罪人の始皇帝以前、夏や殷以前を考えますと、後代に東夷、西戎、南蛮、北狄と呼ばれるような東西南北の色んな民族がゴチャゴチャと混ざっていたに決まってるんです。共同体文化の多様性は分るけれども、国家主義や民族主義は如何なものか、と。

 ちなみに、東夷、西戎、南蛮、北狄という謂いもあったらしく、小日本なども言われますが、民族や国家を差別して一元化していく中華思想は、尊王攘夷思想等、日本や朝鮮でも再生産されたそうです。
 まあ、資本制や共産主義・社会主義でもそうですけど、悪いところばっかり真似たり採り入れたりするんです。

 人民の為になる矛盾の展開値から考えますと、「汝の隣人を愛せ」と言われるほど、緊張関係があるのが隣国・隣人であるから、相互浸透とともに反発も大きいことがあろう。独自性も要請されて来る。中国と北方、西方の関係は、ずっとせめぎ合いであった。
 すると、むしろ離れた地域の方が共同できることもあるかも知れないわけです。言語や文化の違いは、隣であると、困難な場合も、離れた地域だと、協調的に歩めることがあるかも知れません。北方から離れた内陸部で北方型文化があったとしても、漢民族との関係がむしろ同盟的・協調的なら、相互に損失が無いかも知れません。もとは夷・戎・狄などの共同体文化も中国内部に分布していて、関係が良好だったり深かった時代もあるそうです。興味深く歴史研究されましょう。

 矛盾の展開値としてはまた、何でも殲滅戦だと思い込みがちな現代人とは違い、赦しさえもたまにあったし、同盟と分裂を繰り返すうちに、生産破壊にも繋がるような虐殺はかなり抑えられたケースもあるわけでしょう?好い関係を作る好い方策が取られるようになったことも、少なく無いはずです。


・親鸞様の神通依存も、夢のお告げの重視も、現代だから疑問視するんだけれども、不思議でも何でも無いのは、南都北嶺、東密台密といわず、釈迦・龍樹・世親・善導など、神がかりが当たり前の時代だった。そして、神秘的な能力故に、崇拝されていた、とも思われるわけである。超人性が尊重されていたことはほぼ疑いをまたないが、今日的に振り返るなら、とんでもなく怪しく、人々が自らの信心開発でたすかっていく世界とも、寺社全部が最初から程遠かった、とも思いませんか?

 太子も卜占を取り混ぜて大乗仏教導入に踏み切ったとも言われているが、これとて故無きことでは無い。好いみ教えであることは理解されていたであろうけれども、朝鮮諸国との同盟関係と敵対関係があり、背後には隋唐帝国がある。不安があって当然だったのであろう。太子自体も天才的で神秘的能力で評価される嫌いがあるほどでしょう?

 今でも天神信仰や秘蹟重視や占いが為政者にまかり通っているのである。昔はむしろ、至極当然だった。
 この点も忘れられている点なので、一応弁えておくべきであろう。


・空・不空、諸行無常と仏常住・涅槃常住、通達諸法性一切空無我であるが専求浄仏土・必成如是刹、こうした謂いが物語るのは、囚われを脱していく世界の重要性ですが、同時にそれは、いのちの、自己自身の真の尊重だということなんです。不空というのは空でもあるけれども空ではない、沈空ではない、自性は空なれども尊し、ということです。
 「空」のカテゴリー自体は、空・無空・無無空と、一応三つ並べて理解いただくと好いと思います。有・無有・無無有とかと同じです。まあ、有部への対抗上、祖師方は空にこだわられたのでしょうかね。
 全部や無限をシンボリックに示す漢数字が一・三・五・十・百。まあ、千・万・劫も漢文化人の好きな大袈裟な表現です。百歳(はくさい)というのも、永代、という意味です。千歳になり、万歳になっていきますが、同じか類似の意味とされます。
 空無自性に気づかないと、実体観・固定我の暴風雨から自他を守護できません。


・漢字の説明をしますと、慈の文字は、はぐくみ育てる、かわいがる、ということです。
 真の友であって、一緒にいることを喜ぶ。

 これはまあ、10年生きて来て1、2、何とか長生きしても5、3。
 しかも、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦に見舞われぬ出会いなど、一つとて無し。
 かように稀な出遇いである。あとの人生部分は全部、修羅場とまでは申しませんが、何ら楽しめず、なのかも知れません。

 ですから、実際の娑婆世間暮らしをキープする上では、それこそ理想主義の最たるものだ、とても求め難い、事務日程に載せるのはバカだ、となりましょう。
 超世希有というブッダ讃嘆があるわけですが、とても手にし難い、たぐい稀なるものを、どうして目標にしているんだ、と。

 立派やろうけど、ほとけはほとけ、凡夫は凡夫、とても出来まへん、と、こうなっているんです。
 四無量ということは、これは慈・悲・喜・捨と言われるもんですけど、常ならん境涯であって、日ごろのこころからは出て来ないんでしょう。

 それでも慈しみの世界を求めるのは、何故かと申しますと、一度でも二度でも、友なる慈しみの世界が私の中でちゃんと生きているから、それが素晴らしいから、それ以外は何も楽しめないから、なんでしょう。ハッキリしています。一度が無限に生きて往く一度なんでしょう。

 我が子・我が親・我が妻や夫では無いんです。ましてや我が思いや我が都合ではない。親の血を引く姉妹兄弟もですが、義兄弟も、赤の他人も、なんです。
 他者をみそなわすこと自己の如くする、一子地であり、孝養の子の父母を意うが如し、なんです。思い計って限りない。

 ただ凡夫ですから、大慈大悲に照らして努めて求めるべきことがあり、それは捨の一文字なんです。これは戒や律ではないが、努めて求めないと、想像さえできない。
 差別心がありますと、まあ、大抵はしっかり差別心を抱きしめて離さんわけですが、これは希有どころか、生涯ふれることが無いまま、ということだって、あり得ましょう。

 捨の解説も、いろいろ意味がありそうですが、重要な意味の一つは、相による分け隔てを捨てる、ということなんです。無相。如来は相であり、無相であり、無相であるのでも無い。そして、無差別である。

 尊ぶに於いてもたすかるに於いても、姿かたちも人間も動物も敵味方の区分も無いし、男女も大人も子どもも無い。
 まあ、とても実際に大事には出来ないけれども、痛みを憶える。少なくとも、そういう性質のものです。

 ここに於いて、少なくとも自身の姿勢と願心に於いて、慈、四無量ということが成立して来る。
もちろん他者が拡がって来ましょうけれども、因を訪ねますなら、嘗てふれたこと、その奥を訪ねますなら、如来の願心に通ずる自身の願心であった。そして整備された如来の願心に照らされ、教えられることで、このことが愈々明瞭になった、更には溝も浚われ、磨かれもした、及ばなくとも、ということでしょう。
 姿勢が招いていく世界が開けても、来るんです。友なる世界。
 まあ、娑婆の凡夫ばかりですから、戦場ばかりになって来たし、三悪趣ばかりになって来たけれども、捨てたもんでは無いんです。
 願心のみぞまことにて、必成の、如是刹である。

 経教は猶し明鏡の如し(善導大師)、如来の願心に照らされて自身と世が明らかになっていく。慈に於いても、同様です。


・少し引っ掛かるのは、凡夫とか煩悩ということが問題となって来るのは、教に照らされるから、なんです。ですから、いきなり、親鸞が問題としたのは煩悩だ、とはならない。教相にふれているから、煩悩が課題となっていたわけです。現代人とは違うんです。

 自然状態では、問われない。
 いろいろ問題は引き起こしますけど、それが自然であって、凡夫でなくても煩悩が問われなくても、問われても、問題を引き起こす存在ではある。
 ただ、その状態が生き好いか、どうか。省察と自己への諦念と自責、自己否定も大事なんでしょう。好き関係への前進の礎となっていく。

 善し悪しの文字をも知らぬ人はみな、まことのこころなりけるを・・・と、田舎の人々の自ずと温かな人間性を誉めて居られるが、さあ、自己否定と自責と罪人意識も、大事なんでしょう。
 自然状態では、自分の都合中心で、必ずしも悪とも限らんけれども、騙される。見せかけの仮象に走り、自障障他するんです。

 関連してモラル、罰はともかく、罪ということがありましょう。これはもう、いのちに対する罪、なんです。いのちの為のモラルであり、罪がある。多少可変的ではあるが、仏教では、ブッダの世界と仏教が、人々の為、いのちの守護の為であるから、教法に対することが罪なんです。ほかに罪はない。

 まあ、教法だけでも結構煩いわけで、抵触しないことなんぞ、一つもない。箸の上げ下ろしどころじゃ無い、動いても止まっていてもアカン。何にもたすからん。罪人なんです、全員。

 また、煩悩こそ人間的で、他の動物にもあるけれども、人間の創造性と想像力は煩悩そのものですが、欠かせないし、消そうとしても消せないでしょう?それが好いんです。
 だからこれは、断煩悩は如何か、と思うんですし、ただ、煩悩にとらわれすぎず、煩悩に振り回され過ぎず、が大事だとは思います。
 迷妄・煩悩・雑行・異端の身である、と、煩悩としての自己の対象化と、それへの取り組みは要るだろう、不可欠だ、と。
 本願に出遇ったほどの者が、その振る舞いは如何なものか、と。御消息の中に明瞭であります。

 親鸞様の煩悩観は、理論上も、応身によって様々運用され得ることになるんでしょうから、仏法の種になっていくような印象を持ちますが、如何でしょう?
 また、煩悩の身をそのままに担ってくれるが如き救世観音による女犯偈の夢告がありました。若き頃の親鸞様睡眠中に仲間の坊さんが耳元で囁いたんちゃうか、とも思うんですけど・・・。

 自然のはたらきを、わざわざ女犯偈で理解し直さないといけないのでしょうか?違うでしょうね。元々の理解がおかしいのではないか、としか思えないんです。

 ただ、非僧非俗の罪人以降、今度は与えられた罪人ではなく、状況を自ら企投してゆかれ、「無戒名字比丘」という史上無かった名のりとして、煩悩理解ということが一層ご自身の中に定着していかれたのかも知れない、とは思います。

 無漏も無余も、仏意願心を除けば、あり得ません。
 しかし、信心ということが、回向の仏意願心が自分となった、という理解でいきますと、不断煩悩だが、仏・涅槃が同時に備わることにはなります。
 それで好いのでは、ありませんか?


・未来と明日が定かならぬ時代でしたが、弥勒の弥はアミタの弥、勒は革と力で抑える、治め整える、まあ、統御する意味があります。
 弥陀と不可分でもある印象ですし、なかなか奥深くて、興味深いんです。
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浄仏土と往生-4(まとめて追加)

所感いくつか(追加)


・シャカムニでも両度でも、他の祖師方でも、バタバタと人が斃れ、救えないことが多いわけです。
 自身もまた、明日をも知れぬ境涯である。いろいろ目標を立てたり、卑近な目論見もあるけれども、兵隊や悪党や奴隷状態、畜生とも同じで、明日をも知れない。

 身を投げ出す、身を棄てる、自身を滅ぼし尽す、というけれども、それは厭離穢土ということが鮮明であることも意味するわけでしょう。機の深信にも関係しましょう。

 留まるも死、進むも死、退くも死。ということで、死王に打ち克てる者はいない、とシャカムニは仰られた。機攻め臭いもんがありますけれども、そうしたことが実感されていきますと、いよいよ生存と身を厭われた傾向が強いのがお釈迦様。愈々後代に託さんとする傾向が強まったのが、羅什とか両度。

 これも、モメントとしては誰でもそうなんですし、めざすべきものは願心に依って拓かれる明るい世界なんですから、健全であって、厭世観・厭身感とはズレがあるんですけど、寿命が延びた現代でも時にそうした感覚を持つことは、何ら不思議では無いわけです。

 ただ、明日をも知れぬってことになりますとまた、卑近なる愚痴ばっかり出るわな。信奉するものがある奴は好い、とか、護るべきものを持つ奴は好い、とか・・・。

 そして、「力尽さずして斃れることを辞さないが、力尽さずして斃れることを拒否する。」「連帯を求めて孤立を恐れず」(散逸して手許にありませんが、三一新書『東大全共闘』所収落書きだったと思う。『ティーチ・イン 騒乱の青春』もよかったですね。)こうした姿勢の根源、礎となって来る民主思想、民衆が民衆自身の為に起ち上がっていく、そうしたカテゴリー自体も欠けている。

 まあこれは、官許の出家しか許されないパラダイムの中では、そして常に朝家と幕府の意向を注視し、それによって左右されていく半ば隷属状態では、到底無理だった、と。


・『正信偈』に

「已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣」

とあるけれども、曇りの扱いはどうなのかな、と。パッと晴れてるのと、闇と、二つあるわけです。それを適当なところで、薄曇りにしていく、みたいな・・・ちょっとだけ、引っ掛かりを憶えますよね。奥深くもあるけれども。
 已によく無明の闇を破れりと雖も、と、既に選択の浄仏土のパッと晴れた世界に出遇いながら、貪愛瞋憎之雲霧が常に真実信心の天を覆っている、と。開けたから、光があって、慢性的に覆っている自身の姿が分ったわけでしょう。

 だから、曇っているけれども、願心が曇っていないんだから、光を活かさんといかんはず、なんじゃないか、と。間に合わんながらもシャカムニもアショカも龍樹も勝曼夫人など在俗大衆部も、微力を尽くされたじゃないか、と。

 NHKドキュメンタリーの経済ものを観てますと、アダム・スミスが利己主義と他者を放っておけない慈愛と、二つある、と仰る。二種深信じゃないけど、機の深信と法の深信に近いことがクッキリしている。人間にはそうした傾向がある、と仰られたそうですが、他の文化でも、皆、お分かりなんでしょう。

 我々が如何に素晴らしい世界を紹介いたしましても、足許のところが、ですね、自然の前進・向上・競争もあれば、自己保存もあれば、菩薩?とんでもない、と尻込みする。そういう事実の世界がありましょう。
 この身の事実認識から、どうするのか、と。面倒だけれども、群生を荷負して重く担う、と。


・ですから、親鸞さんと願心が違うような気がすると言われるけれども、違っとらんように思うわけです、むしろ願心だけが。
 願心が違うということは、信心が違うんだ、ということになるんですけど、あんまりそういう気がしない。これはこれで不思議ですね。

 ただ、両度と吉水のサンガは追い詰められていたから、余裕もない。念仏禁令も続いているし、破戒の謗りも続いていたし、源空さまはお年ですし、実際流罪赦免もほどなくお亡くなりになる。民衆による改革なども、毛も思い浮かべることが出来ない時代でもありましょうし、自分たちも非力で間に合わないから、総力で教判に精力を注がれた。

 また、現世いのりも、狭い、自分たちの御利益ばかりに走らずは生きていくことも困難な世相も続いたんでしょうから、そうした類に他ならないものばかりだったかも知れません。

 そうした事情からも同時に、世間改革の断念にも繋がっていかれたのではないか、と。これ、苦悩の有情を棄てずして、ということなんで、出来ないからと言って棄てちゃいかん最重要事なんですけど、どうも、棄てないまでも重視できないまま、赦免後も異義・邪執への審問と教誡に力を注がないといけない状況が続いたんだろうと思うんです。

 三経の教相自体にもやや薄めであるか、若しくは自明の前提化がされていてかなり省略されてて分り難い面があるかも知れません。『無量寿経』の三悪趣批判も五悪批判段も法蔵菩薩の三誓偈も現世いのりですし、特に『観無量寿経』の三悪趣批判の扱いはそうなんですけど・・・。
 とにかく、出来なくても、課題として賜っているんです。憶念して受持すべし、と。


・これも、とにかく怪しい。法然聖人ご入滅に遺徳讃嘆は分りますが、奇瑞称計すべからず?これも、代々の対権力、対他教団、対門「内」姿勢など、ずうっと続く、有象無象、在ること無いこと総動員する闘争の姿勢ではないでしょうか。


・そもそも往生も成道も死後か存命中か、この世か、かの世か、分り難い。だから有漏だとか無漏だとか有余だとか無余だとか言わねばならなくなるわけでした。これも怪しい。
 覚如さんで生まれ変わり概念の導入が見られたのは喜ばしく、浄土と弥陀と三経讃嘆部分とは言え『正信偈』で「不断煩悩得涅槃」と仰りながらも、また、娑婆即浄土的なことも仰りながら、それまで強く提起され難かったカテゴリーだったのかも知れない。
 つくづくそう思います。


・いろんな史料・資料類を駆使して先生方が問題点をとうに明かしてくれているはずなのに・・・先生方がどうなんだろうと思ったりもしますが、しかし、例えば色んな専門からの所謂、学際が必要ですが、これも、ゆーても無理やろな、と。

 そもそも誰がどういうセンスで音頭を取ってどういう方向に事業を進めるのか。好いセンスならいいが・・・。
 それに、研究者が言うことを聞いてくれるのか・・・。
 賢者は、包み隠さず教え合え、学び合え、讃嘆し合え、喜び合え、信頼し合え、改善し合え、与え合え、照らし合えて輝き合える、一言でいうと互いに慈しみ合える友であるけれども、さあ、如何やらん、と。愚者だ妄者だとは申しませんが・・・。

 チーフやボスの声と権威が幅を利かせるし、研究者は自由研究に埋没したがるし、アメとムチの権力と、定期的に〇〇しなくてはならぬ的法制で、強圧的に研究を強要し続けるしかないんですけど、いやいや事業に当たられてもダメでしょうし。
 とにかく、より包括的で全面的な成果が欲しい。諸賢個人個人では無理なんです、絶対に。何とかして欲しいわけです。

 それ以前に出版事業自体、まだ続いているわけでしょう。
 史料集成とか体系とか大部の典籍がいまだに出版されている。関係研究者を除けば、ヒマな趣味人が、それもたま~に目通しする程度の類に分類されていくわけです。あると便利なので数年に一回、また、課題に関係するときは集中して目通しすることがあるけれども、開かれない。
相当数を送られてきた箱に入れたまま、前住も亡くなった、俺もそうなるだろう、と。
研究者が当たってまとめてくれるしか無いに決まってるんでしょう?

 しかし考えてみると、封建時代も維新以後も政治と思想闘争、迫害と統制と弾圧が続いてきた。いまだに闘争が続いている。迫害と弾圧と統制。人民の為の文化破壊。いまだにそういう国と地域がある。

 簡単ではない、ものすごく難しいんです。


・願心というものはさまざまの現われをするので、発心や回心は仏意・願心に相応した状態ですが、身体全体、毛先まで湧踊歓喜して輝くので、光顔巍々として、諸根悦予する。
 まあ、内奥から自身を衝き動かすのとはちょっと違います。身の全体が悦ぶ。個人の悦びで無いんです。願心や尊し、というのは、共にたすからん、共にたすけん、という願心だからです。

 いずれにしましても、身に現れまして、身が喜び、踊る。


・前回は信心について大分突っ込んでみました。蓮如様の御文で聖人一流もそうですが、信心為本をみてみます。

(2)  当流、親鸞聖人の一義は、あながちに出家発心のかたちを本とせず、捨家棄欲のすがたを標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものなり。さればこの信をえたる位を、『経』(大経・下)には「即得往生住不退転」と説き、釈(論註・上意)には「一念発起入正定之聚」ともいへり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。  『和讃』(高僧和讃・九六)にいはく、「弥陀の報土をねがふひと 外儀のすがたはことなりと 本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」といへり。 P--1086 「外儀のすがた」といふは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり。つぎに「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」といふは、かたちはいかやうなりといふとも、また罪は十悪・五逆、謗法・闡提のともがらなれども、回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめて も憶念の心つねにしてわすれざるを、本願たのむ決定心をえたる信心の行人とはいふなり。さてこのうへには、たとひ行住坐臥に称名すとも、弥陀如来の御恩を報じまうす念仏なりとおもふべきなり。これを真実信心をえたる決定往生の行者とは申すなり。あなかしこ、あなかしこ。   あつき日にながるるあせはなみだかな かきおくふでのあとぞをかしき    [文明三年七月十八日]

 歎異抄でも御文でも、随所に信心為本を述べられるけれども、蓮如様に於かれてはまた、信心の溝を浚う(さらう)、ということが問われてまして、さまざま、雑、不浄、混入してきたチリ埃を浚う。九十五種を離れる、身は異にして雑のままですが、ただ願心と信心のみぞまことにておはします、わけでしょう。
 願心と信心のみがまこと。チリ埃の身も心も、私の全部がまことならず、みたいな。かかる願心と呼応する信心に於いて、浄なる仏国土が開かれる、と。
 普通の人の底流としてある願心、誰にも現れる自然の願心、それこそが人類に真の友なる願心ですが、それを智慧を以って見抜き、好き方向へとまとめ上げて提示された営為の一つが仏道です。
かかる人類の真の友なる願心に然(そ)のとおり、と随順し(すなおにスムーズに従い)、称(適)い、称(讃)えるので、淳・一・不二・相承之信。称名は名に託された法界に出遇うと同時に音で称(とな)え、讃えることを意味するのでしょう。


・真仏土における還相廻向の扱いはどうなんでしょう?還相こそ真仏土だと思われますが、如何?
 ダルマの世界の思考回路、法身と法体、法界へのアプローチの在り方の一つとして、大乗経典の儀を踏襲され、如来は・・・である、とイコールを述べられますから、イコールは、・・・と成って、・・・と為して、というよりも、・・・と現れる、という解釈で好いのでしょうか。
まあとにかく、仏眼には、偏在して来られていることが分るわけです。
 信心の人に開かれた世界相ともみえましょう。

 注意せられるべきはただ、変化(へんげ)は応化身として現れるのだろうと思うんです。ただ機械的に変身したり、いろんな現われとなるのではない。苦悩の有情を捨てずして、であり、導師に添いますなら、至る処で凡夫の為に、一人として棄てずに、なんでしょう。


・シャカムニは戒や律について厳し過ぎるなら緩めても好い、とパリニッバーナ経で言われましたが、戒も律も修行も、大変は大変なんですけれども、それが宗教忌避の原因かと考えますと、違うような気がいたします。

 何故なら、観察、まあ人間的な表現に翻訳いたしますと、拝察申し上げましたところ、大変な荒行を日夜励んで居られることが分るんです。
 お仕事でも、趣味でも遊びでも、スポーツ、社会運動、芸事、何でも、物凄い努力をされ、走られ、泳がれる。
 とてもクリア出来んような課題を突き付けられ続けまして、様々抵抗することもありながら、ハイ、やります、と。口に出しては言えんけれども、内心(おっさん〈おばはん〉、簡単に言うけどやな、そんなもん、ワシに出来るわけないやろ、人見てもの言えや)と。失敗続きで叱られますと、すいませんでした、二度といたしません、と言いながら(かんべんせえや、ワシら頑張ったんや、元々アカンのやあああああ)、と。
 もちろん、いつか出来ることもあるんです。まあ、ほとんどダメだけれども、いつしか、(あれ、今日は泳げてる)とか、(何時の間にか走れるようにされていた)とか、人によっては気が付いたら勝っていた、ということだってあるでしょう。
 腐った話しましたけど、何事も実は相当、身を律して努めて居られるんでしょう?

 おそらく少なからぬ方々は、中には身も心も弱い方もあるかも知れませんが、ほんのちょっとだけですが、身を棄てて骨を埋めて荒行を進めようともしましたし、様々を自身に課したこともありましたし、今でもそうなんです。生活と雑務に追われて投げ出すことが多くなりましょうが、何とかせんならん、とは思ってはるんです。

 ですから、人間は自律と修行が好きだ、というテーゼが導かれましょう。
 いや、むしろ、戒と律と行がある方が、好まれます。その結果が厳然としていますと、さらに好い。
 今では大分自律も行いも聴聞も重視していることが理解されていますが、それで真宗も忌避されることがあったかも知れません。百万遍念仏したリ籠ったり歩いたりした方が気が休まる、このままでたすかるとは、我ながら、とても思えん、みたいな・・・。
 好もしからざる営みさえ、大変な努力が要るし、ご縁だけというわけには参りません。

 仕事だって、暇だとはたらきたくなるけれども、さんざんやって参りますと、いやもう十分やりました、長い間お世話になり有り難うございました、と、疲れ果てました、と、こうなることもありましょう。
 遊びに行っても旅に出ても、家が一番好い、とか。
 ダラダラする時間、内観、静かな時間も要るんです。恋愛・結婚・子育ても要る。
 けれども、ずっとそれで好いかというと、どうも違う。やっぱり、何かしたい、と。

 時間が持てますと、とにかくはたらきたい、とか、経営でも労働でも、束縛の世界で一緒にやりたい気持ちが強いし、籠っては、やはり関心事に没頭して暇がない、とか。
 当て所なくさ迷うのはなかなか大変だ、と。
 特に家族を持っていたり子育てするにはゲインも大事ですから、しんどくて嫌なこともあるけど、働きたいわけです。ところがそれが無くても、何かやりたいに決まってます。

 では、何が大変なのか、何が忌避されるのか?赴きたくないんでしょう。意味と喜びの無い世界へは。

 職場も社会もそうなっているかも知れないけれども、宗教も、往きたくない世界になっている。
何度も繰り返しふれてみるが、ふれて更に、何かおかしい、どこかおかしいような気持ちさえ湧いて来る。
 智慧も慈悲も願心も素晴らしいし、行いも立派だ。けれども、シャカムニや各宗祖師方にふれても、現実の教団にふれても、寺や坊さんにふれても、あれでは如何やらん、と。そうなってるんです。

 くどいようですが一言で申し上げますと、如何なる世界を願うのか、何処へ往きたいのか、このこと一つに尽きるんでしょう。
 願心なんです。如来の願心が好い。念仏が好い。
 そこに自分の供養がある、生まれて来た意義と喜びがある、受苦なる生存ではあるけれども、ようやく身も心も安堵された、何程のことも適わぬ身なれど、と、こういうことであります。


・とにかく聖道門への決然たる姿勢がハッキリしておられる。そして、正像末滅の四時を問わず、浄土真宗が濁悪の群萠を慈しんで法界に引入せしめると仰っている。成道の証道である、という御理解です。

・・・【69】 まことに知んぬ、聖道の諸教は、在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。

浄土真宗は、在世・正法、像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

【70】 ここをもつて経家によりて師釈を披きたるに、「説人の差別を弁ぜば、おほよそ諸経の起説、五種に過ぎず。一つには仏説、二つには聖弟P--414子説、三つには天仙説、四つには鬼神説、五つには変化説なり」(玄義分 三〇五)と。しかれば、四種の所説は信用に足らず。この三経はすなはち大聖(釈尊)の自説なり。 【71】 『大論』(大智度論)に四依を釈していはく、・・・略・・・ ・・・【72】 しかれば、末代の道俗、よく四依を知りて法を修すべきなりと。【73】 しかるに正真の教意によつて古徳の伝説を披く。聖道・浄土の真仮を顕開して、邪偽異執の外教を教誡す。如来涅槃の時代を勘決して正像末法の旨際を開示す。 【74】 ここをもつて玄中寺の綽和尚(道綽)のいはく・・・略・・・


・源空様、法然聖人と時代を重ねて居られたので、奇瑞称計すべからず、際限なく奇瑞があった、と仰ったのも、周囲には疑問視する運動があったに決まっています。
 しかし、取り敢えず証文は揃えたから、未来に資するうえで、より効果的だったわけでしょう。
 晦渋な部分も含みますから、晦渋で何が言いたいのか分らんおかげで、研究も盛んになった面もありましょう。

 親鸞様は法然様を勢至菩薩とも言っておられますから、むしろ、未来の有情を利せんとて、大勢至菩薩に・・・という御和讃は源空様のことと思われます。まあこの未来も、『選択集』御製作を以って、でもありましょうし、既に親鸞様にとっての現在が含まれましょう。


・弥勒=仏、信心の人は如来や弥勒と同じ、というお考えでしたが、弥勒が必ずしも未来として理解されていなかった、シャカムニにとっての未来とすれば、これはシャカムニ没後、ということでいいとも考えられます。

 ちなみに、往生なり済度なりを巡る一つの特徴は、我々の意識の、これは実態としてですが、成仏の未来への丸投げ。親鸞様は違うかもしれませんが、通仏教常識的には弥勒なんか典型です。まあ、何をかいわんや、でしょう。
 今一つは、親鸞様による神通力への丸投げ。これは如何なもんでしょうかね。通力自在自体が利他にして相念の、たすかった方の姿ですから、参考にはなるんでしょうけど・・・。
 今一つは、これは親鸞様と私らと深い違いがあるように感じますけれども、ご本尊阿弥陀さん・祖師方(・親鸞様)と本願への丸投げ。

 ですからどうしても往生なり済度に於いて、不断煩悩得涅槃とされつつも、現世・現身が疑われ続け、死後往生に近い面を持ち易いわけでしょう。

 済度における、ご本尊阿弥陀さん・祖師方・親鸞様と本願への丸投げは、それで好いわけでしょう。念仏は仏の願心を念じて、賜ることです。
 ただ一点、特にこの部分に関して、信心の溝を浚う必要があるのではないか、と言いたいわけです。色々あるんでしょうけど問題の所在を私に思いますのは、
 一つは菩薩の願心。どこへ行っちゃったのか?
 一つは如何なる世界を願うのか。テキストを注視する限り、とんでもない差別土になっているけれども、そこが往きたいところたり得るのか?

 願心と信心の受け止めで、最重要ポイント。

 アミダさんとして伝わる仏意・願心は好い、が、菩薩の願心に関係していくわけでしょう?そのまま、自分の願心にならんといかんのじゃ、ありませんか?何程のことも為し得ず、といたしましても。鎧、ということがある。『無量寿経』漢訳者は疑問視されているけれども、康僧鎧という名が出ています。48願文中に於ける鎧と鎧の本願がある。

「(第22願) たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。」

 この願文にはまた奇(く)しくも「一生補処に至る」と、弥勒等同になることが示されており、如来の本願に相応して来ないと、たすかったことになんか、ならんでしょう?何にも出来んけど、少なくとも願心だけは。

 今回、信心にもちょっとふれて来ましたが、どうもこの点が不鮮明。
 実際には親鸞様も証文集めと流罪記録、関東の門弟方への書状等で疑謗・誹謗・攻撃に対峙していかれたけれども、書面、論調からは薄く感じられる。
 まあ、親鸞様にはご自分のことですから、控え目になるのは当たり前ですが、不鮮明に、少なくとも聴聞してきた側からいたしますと、感じられましょう。

 ついでに回心、発心に及びますが、何に回心したのか。何に出遇ったのか。御本書や御和讃の七面倒くさい晦渋な質にふれたのか。
 違うでしょう?我々門徒は皆、知ってるんです。あんなすさまじいもん、常人の読めるもんじゃありません。むしろ法界の探求も、還相や教化、日ごろの常識に潜む陥穽を明かす参考にはなるかも知れませんが・・・。
 親鸞がアカンと仰るのは如何なものかと思いますが、ただ、とてもあのままでは常人の凡夫には通じないでしょうね。通じ難いから、アカン、ということなんです。

 では、何にふれたのか。如何に、ふれたのか。どういただいたのか。
 願心一つに出遇った、ハイ、分りました、これで好いんです。自分の願心でも無い、自分だけの為の願心でも無い、阿弥陀さんだけが呼んで居られるんでも無い、出遇われた無数の方々、生者のみならず死者方々のサンガが共に呼び掛けて居られる。
 偏に、人民の為、人類の為なんです。
 その願心を賜る。それが自身の供養になるんです。

 ですから、自分が承けたなら、自分の中心で主としてはたらくなら、及ばずながら、お手伝いさせてもらうんでしょう?
 そうなるに決まってるんです。自然の摂理の内の重要な一つ(慈愛、情愛、人情、友好)にも、無矛盾に合致しましょう。

 まあ自然でさえも、浚って、磨いて、伝えられないと分かり難いし、今一つ、何がお手伝いになるのか、という難行が待ち受けてくるわけですけれども、この部分に関しては、還相廻向の課題である。
 至るところで人民の為に、と。何が人民の為、人民の供養になるのか、何が本願のお手伝いになるのか、ということです。
 教団も寺も僧も、その為だけにある。ご自身の供養の場が、ご聴聞の場なんでしょう。生活を訪ねる。ご聴聞から開く。

 「そんなこと、書いてない」って?
 だからこそ、聞き開き、説き開かんとアカンのでしょう?再構成せにゃアカンのでしょう?聴聞とは、訪ねることです。
 あのままで好いんなら、お説教なんぞ要らんのです。漢字による漢字の説明ばかりじゃ、分かるはずがない。

 しかしとにかく、親鸞様にとっての弥勒は、釈迦没後のほとけであって、親鸞様の時代には、既に未来の仏ではないような印象があります。
 信心の人が如来や弥勒と等同である説にしましても、無著・世親が既に出遇っていた、ほかにも、既に弥勒がはたらいていた、という実感をお持ちだったかも知れません。
 御和讃では次の通り述べられています。

(26) 五十六億七千万  弥勒菩薩はとしをへん  まことの信心うるひとは  このたびさとりをひらくべし P--605 (27) 念仏往生の願により  等正覚にいたるひと  すなはち弥勒におなじくて  大般涅槃をさとるべし (28) 真実信心うるゆゑに  すなはち定聚にいりぬれば  補処の弥勒におなじくて  無上覚をさとるなり

 御消息をみましたが、御本書でも次の通り述べられています。

【99】 王日休がいはく(龍舒浄土文)、「われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生、この仏名を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す〉と。

不退転は梵語にはこれを阿惟越致といふ。『法華経』にはいはく、〈弥勒菩薩の所得の報地なり〉と。 一念往生、便ち弥勒に同じ。仏語虚しからず、この『経』(大経)はまことに往生の径術、脱苦の神方なり。みな信受すべし」と。{以上}

【100】 『大経』(下)にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この世界より六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一々の菩薩は、すでに曾無数の諸仏を供養せりき、次いで弥勒のごとし〉」と。

【101】 またのたまはく(如来会・下)、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この仏土のなかに七十二億の菩薩あり。かれは無量億那由他百千の仏の所にして、もP--264ろもろの善根を種ゑて不退転を成ぜるなり。まさにかの国に生ずべし〉」と。{抄出} 【102】 律宗の用欽師のいはく、「至れること、『華厳』の極唱、『法華』の妙談にしかんや。かつはいまだ普授あることを見ず。衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記を得ることは、まことにいふところの不可思議功徳の利なり」と。{以上}

 【103】 まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。 念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。 ゆゑに便同といふなり。 しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。

 結構突っ込んだ仏教の教相史学習にもなりましょうから、親鸞様の信心との関係でマイトレーヤ・ボーディサットヴァ(タターガタ)に関して、あるいは師事され、あるいは書に当たられ、ご自身の供養、信心を明かす営みとして論をまとめていかれるのも好いかな、と思います。


・クマーラジーヴァ、鳩摩羅什の問題点も知られていたかもしれませんが、羅什偏依は時代の中の仏教常識だったかも知れないと申しました。特に龍樹、それを承ける世親浄土論、阿弥陀経その他がありますから、浄土門は強い影響を受けたに決まってます。
 まあ、現代の先生方も親鸞様における羅什訳の扱いについては昔から関心を持って居られたようで、たまに疑問点などを口にされていたことを記憶しますが、関心が薄かったので内容は憶えてません。

 事実は分りませんが、羅什はまた、余りに有能で子孫を残させたい為もあり、何人もの女官を与えられ、拉致・強制連行されて以来、束縛の中で訳経を続けることになった、とされています。

 けれども、親鸞様にとって女を抱くということの意味は、鳩摩羅什とは大分異なっていたのかも知れません。
 六角堂参篭の末法然門下に入られたとされますが、その六角堂での救世観音からの夢告がございまして、テキスト『宗祖親鸞聖人』p21にあります。

「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」(修行者が過去の因縁によって女を抱くなら、私が玉女の身となり犯され、生涯にわたり仏法で人生をたもち、命が終わるときは導いて仏国土に生まれさせよう。」)

「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」

 実際、恵信尼公と夫婦になられ、ほかに玉日姫でしたか、関係が取り沙汰されています。
 これには、流罪となった法難で、法名と僧籍を奪われて俗名を名のらされ、非僧非俗の犯罪人とされた経緯もあるのかも知れませんが、夫婦になられた時期については現時点では定かでは無いようです。

 山(叡山)に赴かれる際にも、流罪の際にも、当時は、誰かが付き添う方が普通、高位者には大名行列での入山や流罪が普通でした。

 越後流罪の際には特に、吉水の念仏サンガ崩壊を恐れたサポーターといわず、文章博士など少なからぬ随行者なり同伴者が居られたという伝承もありましょう。ですから、そうした際の関係者なのか、下山以後なのか、流罪以後なのか、ただし何時であれ、妻帯ということですから、公式には在俗者ということになったはずです。

 関係者付随ということは赦免にも関係して居りましょうし、赦免以後にも関わります。関東でのもてなしや有力者の招待があったことからも照らされましょう。私らのように単独孤立を想定いたしますなら、とんでもない間違いです。既存の有力者や教団が関係者として一貫して存在していた、ということに、なるでしょうね。真宗教団として、なお、自らを十全には開花させては居なかった状態の人間関係や集まりであった、としても。
 そしてそれらの集まりが野合の如く集合することもあり、集合離散を繰り返しながら、形成されたんでしょう。ですから、シャカムニのサンガ同様、集まりと集まりの結合や離散なんでしょう。どれだけが信を獲られたのかは、分かりませんけど。

また、

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし(「すべきである」ではなく、「するであろう」の意です)」(『歎異抄』13章)

というすえ通りたる二種深信がありますが、煩悩の身の在り方と同時に、それが往生や済度の障碍にならないことを言われたものです。(ただし、誤解を招いたことが晩年の聖人の課題となった。それで、念仏者の姿勢を糺す御消息があるわけでしょう。現世への姿勢を示すものとしても興味深く、既に引きましたが、後に重ねて御消息を引いておきます。)

 しかしいずれにいたしましても結果、晩年は特に、羅什と遠からず近からずの境涯を迎えられるようになったことは、想像に難くありません。いや、当時の教界の常識からしても、至極当然のことだったと申せましょう。
 無戒名字比丘はいくらか居られたかも知れないが、教界には公的に認められていかないまま、だったのでしょう。

 その後漸く、半ば在家仏教として、浄土真宗により僧俗の区別なくお覚りが開かれるようになったわけです。少なくとも理論上は。
 肉食妻帯は成道の妨げにならないということです。


・現世への姿勢を重ねて『御消息』から引きます。

(2)  かたがたよりの御こころざしのものども、数のままにたしかにたまはり候ふ。明教房ののぼられて候ふこと、ありがたきことに候ふ。かたがたの御こころざし、申しつくしがたく候ふ。明法御房の往生のこと、おどろきまうすP--738べきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。鹿島・行方・奥郡、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ。またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。めでたさ申しつくすべくも候はず。おのおのみな往生は一定とおぼしめすべし。

さりながらも、往生をねがはせたまふひとびとの御中にも、御こころえぬことも候ひき、いまもさこそ候ふらめとおぼえ候ふ。京にもこころえずして、やうやうにまどひあうて候ふめり。くにぐににもおほくきこえ候ふ。法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゆしき学生などとおもひあひたるひとびとも、この世には、みなやうやうに法文をいひかへて、身もまどひ、ひとをもまどはして、わづらひあうて候ふめり。

 聖教のをしへをもみずしらぬ、おのおののやうにおはしますひとびとは、往生にさはりなしとばかりいふをききて、あしざまに御こころえあること、おほく候ひき。いまもさこそ候ふらめとおぼえ候ふ。浄土の教もしらぬ信見房などが申すことによりて、ひがざまにいよいよなりあはせたまひ候ふらんをきき候ふこそ、あさましく候へ。P—739

 まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。

 しかるに、なほ酔ひもさめやらぬに、かさねて酔ひをすすめ、毒も消えやらぬに、なほ毒をすすめられ候ふらんこそ、あさましく候へ。煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきに、なほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、後世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとP--740ひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ。

 はじめて仏のちかひをききはじむるひとびとの、わが身のわろく、こころのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこそ、煩悩具足したる身なれば、わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたまふぞとは申し候へ。かくききてのち、仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには、まことにこの身をもいとひ、流転せんことをもかなしみて、ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは、もとこそ、こころのままにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ、世をいとふしるしにても候はめ。また往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこるとこそみえて候へば、さりともまことのこころおこらせたまひなんには、いかがむかしの御こころのままにては候ふべき。

 この御中のひとびとも、少々はあしきさまなることのきこえ候ふめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候ふこそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。なP--741れむつぶべからず。『浄土論』(論註・上意)と申すふみには、「かやうのひとは仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり」と候ふめり。また至誠心のなかには、「かやうに悪をこのまんにはつつしんでとほざかれ、ちかづくべからず」(散善義・意)とこそ説かれて候へ。善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ説きおかれて候へ。

 悪をこのむひとにもちかづきなんどすることは、浄土にまゐりてのち、衆生利益にかへりてこそ、さやうの罪人にもしたがひちかづくことは候へ。それも、わがはからひにはあらず。弥陀のちかひによりて御たすけにてこそ、おもふさまのふるまひも候はんずれ。当時は、この身どものやうにては、いかが候ふべかるらんとおぼえ候ふ。よくよく案ぜさせたまふべく候ふ。

 往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。

この文をもつて鹿島・行方・南の荘、いづかたもこれにこころざしおはしまさんひとには、おなじ御こころによみきかせたまふべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。 P--742    建長四年二月二十四日

(3)  この明教房ののぼられて候ふこと、まことにありがたきこととおぼえ候ふ。明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。ひとびとの御こころざしも、ありがたくおぼえ候ふ。かたがたこのひとびとののぼり、不思議のことに候ふ。この文をたれたれにもおなじこころによみきかせたまふべく候ふ。この文は奥郡におはします同朋の御中に、みなおなじく御覧候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。

 としごろ念仏して往生ねがふしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもひかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ、世をいとふしるしにても候はめとこそおぼえ候へ。よくよく御こころえ候ふべし。

(37)  なによりも、聖教のをしへをもしらず、また浄土宗のまことのそこをもしらずして、不可思議の放逸無慚のものどものなかに、悪はおもふさまにふるまふべしと仰せられ候ふなるこそ、かへすがへすあるべくも候はず。北の郡にありし善証房といひしものに、つひにあひむつるることなくてやみにしをばみざりけるにや。凡夫なればとて、なにごともおもふさまならば、ぬすみをもし、人をもころしなんどすべきかは。

もとぬすみごころあらん人も、極楽をねがひ、念仏を申すほどのことになりなば、もとひがうたるこころをもおもひなほしてこそあるべきに、そのしるしもなからんひとびとに、悪くるしからずとP--801いふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ。煩悩にくるはされて、おもはざるほかにすまじきことをもふるまひ、いふまじきことをもいひ、おもふまじきことをもおもふにてこそあれ。さはらぬことなればとて、ひとのためにもはらぐろく、すまじきことをもし、いふまじきことをもいはば、煩悩にくるはされたる儀にはあらで、わざとすまじきことをもせば、かへすがへすあるまじきことなり。

 鹿島・行方のひとびとのあしからんことをばいひとどめ、その辺の人々の、ことにひがみたることをば制したまはばこそ、この辺より出できたるしるしにては候はめ。ふるまひは、なにともこころにまかせよといひつると候ふらん、あさましきことに候ふ。この世のわろきをもすて、あさましきことをもせざらんこそ、世をいとひ、念仏申すことにては候へ。としごろ念仏するひとなんどの、ひとのためにあしきことをし、またいひもせば、世をいとふしるしもなし。  されば善導の御をしへには、「悪をこのむ人をば、つつしんでとほざかれ」(散善義・意)とこそ、至誠心のなかにはをしへおかせおはしまして候へ。いつか、わがこころのわろきにまかせてふるまへとは候ふ。おほかた経釈をもしらず、如来の御ことをもしらぬ身に、ゆめゆめその沙汰あるべくも候はず。P--802 あなかしこ、あなかしこ。    十一月二十四日          親鸞

前に引いた部分も繰り返し、引いておきます。

「#225※弊派聖典ではp568 (25)  六月一日の御文、くはしくみ候ひぬ。さては鎌倉にての御訴へのやうは、おろおろうけたまはりて候ふ。この御文にたがはずうけたまはりて候ひしに、別のことはよも候はじとおもひ候ひしに、御くだりうれしく候ふ。  おほかたは、この訴へのやうは、御身ひとりのことにはあらず候ふ。すべて浄土の念仏者のことなり。このやうは、故聖人(法然)の御時、この身どものやうやうに申され候ひしことなり。こともあたらしき訴へにても候はず。性信坊ひとりの沙汰あるべきことにはあらず。念仏申さんひとは、みなおなじこころに御沙汰あるべきことなり。御身をわらひまうすべきことにはあらず候ふ べし。念仏者のものにこころえぬは、性信坊のとがに申しなされんは、きはまれるひがごとに候ふべし。念仏申さんひとは、性信坊のかたうどにこそなりあはせたまふべけれ。母・姉・妹なんどやうやうに申さるることは、ふるごとにて候ふ。

さればとて、念仏をとどめられ候ひしが、世に曲事のおこり候ひP--784しかば、それにつけても念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころにいれて、申しあはせたまふべしとぞおぼえ候ふ。

 御文のやう、おほかたの陳状、よく御はからひども候ひけり。うれしく候ふ。 詮じ候ふところは、御身にかぎらず、

念仏申さんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため、国民のために、念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたう候ふべし。往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の 往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。 わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。よ くよく御案候ふべし。このほかは、別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。

 なほなほ疾く御くだりの候ふこそ、うれしう候へ。よくよく御こころにいれ て、往生一定とおもひさだめられ候ひなば、仏の御恩をおぼしめさんには、 異事は候ふべからず。御念仏をこころにいれて申させたまふべしとおぼえ候 ふ。あなかしこ、あなかしこ。    七月九日             親鸞 P--785   性信御坊」


・留意点は今一つ、教相や理念理想と実態への対応(実生活)が相互浸透、相互作用していくということです。
 その運動の中で、ほとけの世界に照らされて現実が革められていく、逆に照らすべき質も問われ、より好い質に選ばれてゆきましょう。
 永遠普遍は存在しない。固定したものではない、ずっと選択本願されていくものだ、ともいえるわけです。事実、記述や願文の質には明瞭な差別問題がありました。


・女性だらけの宿坊から訳経所に通うことになった羅什の境涯は宦官の方々とは逆で、興福寺奏状と法会に通った女官との密通疑惑とで弾圧を受けた吉水の教団とも、親鸞さんとも逆と言えましょう。
 ただ、彼の拉致・連行には、仏図澄の弟子道安の嘱望、招聘への強い願い出もあり、羅什はずっと勅命で召し抱えられたわけです。
 そして訳経上からも浄土門に影響は大。これは当時の西域と中国での浄土教の影響、既に醸成されていた浄土門の影響もあるかも知れません。

 初期女性サンガ以降、時代の中で女性成仏が否定されていった中で、大経35願は女性のままでは往生できないが如き女性差別を引きずった内容で、明確な差別問題である。
 が、観経では韋提希と女官が往生(成仏)を預言されていく。
 また親鸞様は『三経義疏(法華経・維摩経・勝蔓経)』の太子は嘗て勝蔓夫人だった、ともしておられる。

 いずれにいたしましても、吉水の事件の中で、女性の入信があり、また、親鸞様が妻帯したことで、女性の占める位置が変わったことは、否定出来ない。
 明確に仏門の中に位置を占めはじめたのである。
 しかし、女性の位置が変化していく質が孕まれたものの、主従関係、差別を変革していくまでには、終に至らぬまま、現代を迎える運びとなった、と言えましょう。
 恵信尼公との関係では、書簡が遺されています。

 蓮如様に至っては七回に及ぶ妻帯が伝えられており、真宗教団での在家僧は当然のことになっていたことを示す。

 より広くは仏教の、初期女性サンガも、人々を尊重する民主的な考え方も、差別の否定も、基本的には時代の中で失われるか、薄れていった。
 どの時点に起因するかは不明であるが、おそらくインドでも西域でも中国でも、仏教内部で順調に薄れていった、と思われる。

 インドでも中世化の中で仏教も女性の不浄視が進み、女人禁制や変成男子(祈祷により胎内で男に変わる)の考え方が出るようになった、と言われる(『世界の宗教と経典』総解説p120)し、中国では『勝鬘経』(この鬘、字が難し過ぎてよく間違えるんです。ご寛恕願います)訳経さえ遅れたようですし、中日とも、女人禁制だらけである。

 人間を尊重する、という単純なことも、現実におけるその具体的表現も、現代に至るまで、超少数派を除けば、とうとう分らなかった、とも言えよう。上・下・左・右・中間を問わず、差別事件に憤懣を持つ人たちも、大勢の賢者が居たにも関わらず、差別思想には順応して、素直に受容して来たのである。

 危機に臨んでの強力なリーダーシップ必要説があるが、バカだ、と思う。
 そもそも一人ひとりを尊重することを知らずして、宗教や仏教が分るはずがない。帝政さえも存続出来ない。宗教も権威や権力やアヘンとしてだけ機能しがちだった歴史は、むしろ自然の成り行きで、至極当然だろう、と。
 一言でいうと、改革以前に、何故改革しなくてはならないか、どういう方向への改革が好き世界をもたらすのか、ほとんど分からなかったのではなかろうか。
 だからこれも現代以降の課題、なんです。


・親鸞様の救いという中には法界みたいな仏教常識が詳述されていて、分かる、それも弁えておく必要はあるだろう、それを欠くと、死後世界の実在浄土みたいな執着が疑われよう、また、生存はいつ失われるか分からないうえ、大安慰も得られないから、社会福祉や生活支援だけではたすからん、とは思うが、「究極の救い」としてそれだけに集中するのは如何か。

 ちなみに、法身仏たる大日如来が天台叡山でも真言高野山でも、よく本尊である。
 藤原鎌足の子孫の日野家ゆかりの寺が当時は多分天台宗の法界寺とされ、親鸞様もこの辺りの日野の里で誕生されたと言われている。しかしこの寺の本尊は、安産・授乳参りの薬師如来としても知られるらしいが、阿弥陀如来坐像をいただいている。寺でも大日経が学ばれた記録があるので、多分、法身仏の観念は東密台密とも、叡山高野山とも、常識的にあったと思われる。
 親鸞様が阿弥陀さんを法身仏としていただかれる一つのご縁かも知れません。

 法界寺や密教との関係で言えば、要するに親鸞様はもと台密の出自でもあるわけで、また、高野山熊谷寺との関係も実際にあっても何ら不思議ではありませんから、このことも法界の熱心な言及に関係しているかも知れません。

 それでもやはり、法界を得ても尚更、身の事実たる自然の願心、限りなき灼熱の慈しみに起つ社会事業や個人の姿勢が出てくるはずであろう、と。
 また、申しました通り、通力にすくいを丸投げするのも如何か。
 シャカムニに限らず、龍樹、勝蔓夫人の社会貢献を知り、アミタとなっていく法蔵菩薩の貧窮に対する大施主たらん重誓偈もご存じだったはずである。
 無理に自己抑圧を試みられているような感も憶えられましょう。まあ結果、現世対応に忙しい晩年を得られたわけですから、むしろここからこそ、出発があったはずでした。
 しかし封建幕藩体制を経る中で、愈々、存命中の娑婆世間での利他行が忘れられていったんです。


・さて、我々もそれぞれ、それなりに親鸞様・蓮如様の御旧跡巡りの旅を少し体験して参りました。これから愈々、関東から東海の事績をうかがいたく思ってますが、先ずは旅へ。

 で、今では疑問視される事柄を事実認定している嫌いもありますが『古寺巡礼ガイド 親鸞 付・蓮如の旅』(法蔵館)など、御旧跡ガイドを紐解かれながら、観光の旅のプログラムに加えられては如何でしょうか。
 まあ、この本、故細川先生と加賀田先生で編集・監修されておりまして、親しみを持ちながら史実から当時を推量していく学びになっているわけです。

 例えば、日野家に漢学碩学アリ、と以前申しましたが、叔父さんである儒学の碩学、日野範綱・日野宗業には、若き親鸞様が直接手ほどきを受けた、みたいなこともp5にあります。
 そういたしますと、後序で批判されるところの洛都の儒林、って、叔父さんの日野範綱・日野宗業、若しくはその関係者やないかああああああ、ということも推量されましょう?これは(えっ?!)と思うはずでしょう?同時に、この所為もあって、漢字による漢字の説明が諄く(クドく)なったのではないか、とも推察するわけです。

 また、p49康楽寺寺伝で、開基の西仏房は、進士蔵人道広と称する南都の興福寺勧学院の文章博士だったとされ、叡山で親鸞と交わったり、吉水の門にも共に入ったとも伝え、親鸞に従って越後に来て、更に東国、関東へも同行した、とされています。更には覚如さんとの関係も描かれます。
 はじめて読みました際、これにも(えっ!?)と思ったわけです。
 ①弾圧した側の興福寺門下からも?ってことでしょう?②興福寺門下も吉水に惹かれて寺門が脅かされたので、弾圧が激しくなった、ということとか、やはり親鸞様一家だけではなく、③随行された方が幾らか居られた、ということも、同時に分かるわけです。
 更には、④もしかすると南都北嶺の中にも少なからぬ同情者や同調者、支援者が居たのではないか、とも。また、⑤対立競争しながらも、各宗で比較的自由な往来もあったことまで、推量出来ましょう。

 まあ、現代では宗派や教団の壁を超えて、横の連帯を各寺と各僧侶が求めるべきでしょうね、いつも言ってますけど。祖師方はあんなもん、偉いけど、全部アカンのですから。読んで、破らんとアカンのでしょうね、ホンマは。及びませんけど。

 こっちは、凝り固まった常識でものを推理してますから、ダメなんです。ってことで、旅は好い、旅は楽しい、何処までも、と。自分を破っていく。


・摂取不捨というのは、人々を喜ぶ、生き物を喜ぶ、木々の緑も河川の流れも喜ぶ、存在を喜ぶ、お姿。
 人間にとっての真の友であって、人々を喜び、尊び、認めるから、摂取不捨の願心自体がたすかったお姿であり、ブッダの真言だ、ということでしょう。

 谷大のパンフでしたか、人間が好き、とありましたが、摂取不捨の真言、大悲大慈には及ばずとも、慈しむ。慈しむ、というのは、共に居ることを悦ぶお姿。

 蓮如様は仰います。信心獲得の御文で、令諸衆生功徳成就、と。往生の発願を受けて自ら発願、帰命するということは、自分にも他者にも供養になる、互いに友に成ろうとする世界で、功徳なんです。
 互いに功徳のある好い世界に生まれた。そういうことです。


・御本書から「魔郷」の語の部分を引いておきます。

【12】 またいはく(光明寺(善導)の『疏』定善義 四〇五)、「西方寂静無為の楽には、畢竟逍遥して有無を離れたり。大悲、心に熏じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること等しくして殊なることなし。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る。変現の荘厳、意に随ひて出づ。群生見るもの罪みな除こると。また讃じていはく、帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到る処に余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へて後、かの涅槃の城に入らん」と。{以上}(『教行信証』証の巻と、真仏土の巻)

 魔郷というのは、まあ、いわずもがなで、直感して居られる通りの、我々の生み出している世界。魔界もさることながら、娑婆と外道外教がひどい。
 もちろん自然災害なんかも大変だけれども、我々の教誡せられるような行い、姿勢、ものの考え方、観念。まあ、異義邪執です。
 また、娑婆世間。娑婆世間というのも、自然性に於いても好もしからざるものに満ちているが、人間に取り組めるのは、娑婆を娑婆(苦しめ合う堪忍土)にしている自他の在り方を、ほんのちょっとだけ、課題として重担し、チェンジして行こうとすること、それだけです。

 魔郷に停まらず、ということは、娑婆に帰るのではなくて、娑婆に還っては、友となっていく、変えていく生き方。これはこれで大変なので大経には、重担、と。


 で、いずくんぞ、仮なる鬼神(的な様相の世界)に礼せんや、帰去来、いざいなん、宜しく魔郷にとどまるべからず、と。


参考事項1


 多くの典籍が遺されているわけですが、本願寺派様聖典ダウンロードや聖典検索の中に多数アップされております。

 中で『教行信証』は、東西両本願寺から別個に出されている『真宗聖典』所収ですが、本願寺派様の現代語訳(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類〈現代語訳〉』や、『顕浄土真実教行証文類 現代語訳付き 教行信証 親鸞聖人集 下』)もありますし、以前からの岩新版のほか、最近弊派、東本願寺出版部から出版された『解読教行信証』(上)もあります。下巻も出ると思いますが、門外漢には十分では無い嫌いを持ちつつ、註釈なども結構ありますので、参考とされると好いでしょう。

 すいません、『親鸞「教行信証」(現代語訳)―鈴木大拙の英訳にもとづく現代日本語訳―』も2015年に東本願寺から出てたみたいです。知らん間に出されてました。

 親鸞さんや真宗や御本書の解説も、既に昔から逐語的な解説もあるし、講義録もあるので、当たられると宜しいと思います。

 御文・御消息ほか各種の解説書と現代語訳もある。親しむうえで興味深いと思います。

 『親鸞とその妻の手紙』
 『現代の聖典 親鸞書簡集』
 『親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』
 『現代の聖典 蓮如五帖御文』

 これはいろいろテキストや現代語訳や解説や研究書があるけれども、更に辞書とかも必要であろうし、時代背景とかも知っていないと接近出来ないものがあるだろう、とも思うわけです。

 より詳しくは、『真宗聖教(しょうぎょう)全書』のほか、『望月仏教大辞典』『真宗新辞典』『仏典解題辞典』、仏教史のテキストなどが必要になりますが、まあ、そこまでは一般には。
 ただ、先ごろの法蔵館からのパンフではJAPAN KNOWLEDGE PERSONALという事辞典50以上、項目数360万以上のデータベースが利用できるそうで、まあ、年会費が要りますので大変ですが、便利そうです。

 しかしたとえば『仏教経典の世界 総解説』(‘90 自由国民社)など、通俗書は、好い場合があります。
 大分前にふれましたが、「華厳経」の項目では鎌田茂雄師が、聖武天皇が新羅人の講義を聞いて発願された東大寺大仏の、開眼供養会の様子も簡潔に書かれています。
 華厳経を持ってきたのは漢人道璿、講師が新羅の審祥、建立参画がやはり玄昉など新羅系の方々、導師がインド人の菩提僊那と、当時の教界の国際色を教えてくださっています。今よりよっぽど謙虚だし、開放されてますね。
 この経はア・プリオリであるそうで、もちろん原典に当たるのも理解するのも大変なんでしょうけど、研究者がご理解の範囲を分かり易く書かれているので、通俗書は気軽に読め、誰にでも勧めることが出来ます。

 それと、参考事項紹介ではありませんが、弊派では2011年にお迎えした750回御遠忌の一環として現存する『教行信証』原本の再研究も行われましたが、その結果、色々発見されたこともあるかも知れません。残念ながら、私はあまり存じませんので、ご了承願います。

参考事項2

 また、門外漢が常識的に知っておくべき事項がいくつもあるのでしょう。
 例えば、時代背景。
 例えば官許の僧と私度僧 最高学府にして国家権力の叡山。
 貴人・高官などの出家で、堂宇が建てられることだってあっただろうし、中には清僧もあっただろうが、付き人もあったとなると、窺い知れぬ奥の院で何が起こっても分らないとも言えよう。
 例えば日野家の系図と推移。主要ではないけれども、意外な影響もあるかも知れない。

 とにかく、専修称名以外のいろんな念仏、末法感、来世信仰、観音や薬師や地蔵などの信仰がありました。
 また、赦免の事情、赦免以後の関東の教団と支援者についても、あまり知りません。各方面に史料を当たった詳しい考証が要るでしょう。

 流布していた民間信仰や念仏諸流派に加えて、叡山、源信様以後の影響、吉水サンガ以後の影響も加わっていきましたから、宗教情況の見極めは難しいし、詳細に検討すべきでしょう。
 赦免における叡山、源信様、吉水一門関係者の影響もあったと思います。

 既に東密台密問わず、南都北嶺問わず、飢饉と自然災害と疫病に苦しむ民衆の寺社頼みや称名念仏も根付いていたといわれますが、事態の詳細は想像でものを言うことは出来ません。
 東密との関係もあるけれども、どちらかというと親鸞は得度剃髪の出自である山家の伝教大師最澄派です。
 いろんな寺に出向かれたのでしょうけど、どこでどれくらい学ばれたのか。

 南都北嶺の迫害と共に、空海と最澄の手紙やり取りも出版されてましたが、法華一条至上主義の最澄と密教至上主義の空海はついに合わなかったとされていますが、この両山とはどうだったのでしょう?
 まあこれも旅のついでみたいなところで、気に留めてもらえるといいかな。

 親鸞様は山家中心でいらっしゃいますが、台密という言葉通り、天台密教も色濃く学ばれているはずです。お生まれは法界寺という天台寺院ですが、寺伝では早くから大日経も学ばれている。

〇真言宗(元は天台宗) 法界寺(ほうかいじ)

【寺伝抄録】

・・・最澄作の薬師如来ほか、平安後期の阿弥陀信仰の高まりや末法思想の普及にともない、法界寺にも阿弥陀堂が建てられた。

 当時は幾つかお堂があったが、現存するのは阿弥陀堂のみである。平安時代後期の法界寺には、当時の日記等の記録で判明するだけで少なくとも5体の丈六の阿弥陀如来像が存在したことがわかっている。現在、阿弥陀堂に安置される像がそのうちのどれに当たるかは判明していない。・・・
以上


 現在は醍醐派であるが、1400年代に改宗ともいわれ、元は天台宗とされるから、親鸞様時代はやはり天台宗だったと言えよう。ただ、台密系でもあるから、大日経関係も学ばれていたようである。

 このことからも、①密教色も濃く持ちながらも、②当時の末法感や、来世信仰としての阿弥陀信仰の普及ぶりが見て取れよう。
 ここは真宗では日野家ゆかりの著名な寺です。しかし、次の寺はあまり紹介されません。

〇真言宗高野山 熊谷寺(ゆうこくじ)

【寺伝抄録】

・・・当寺は圓光大師(法然上人)・見真大師(親鸞上人)・熊谷蓮生法師(熊谷直実公)の御旧跡、法然上人二十五霊場の番外札所です。

 当寺は桓武天皇(737~806)の皇子、葛原親王(786~853)の御願により、承和4年(837年)に建立せられ、宗祖弘法大師(774~835)の法孫、真隆阿闍梨が初代住職です。

 寿永3年(1184年)2月7日、摂津(今の神戸市)一の谷における源平の合戦(鵯越の逆落とし)に敗れた平家方の将兵は友軍の軍船に逃れましたが、この時遠浅の海に駒を乗り入れた武将を呼び返した熊谷直実は格闘数合やがて組敷いて首級をあげようと良く見ると、一子小次郎直家と同年輩の美少年、平家の大将参議経盛(1,125~1,185)の末子敦盛(1,169~1,184)でした。
 直実は同じ日の未明、敵の矢に傷ついた直家の「父よ、この矢を抜いてたべ」との願いを耳にするも、敵中の事とて傷の手当てをする暇なく敵陣深く突入した時の親心の切なさを思い起こし、敦盛の首を斬るに忍びず、暫し躊躇ったのですが、心を鬼にして首を掻き斬ったのです。
 かくて直実はほとほと世の無常を感じて発心し、当時日本一の上人と尊崇されていた吉水の法然上人の弟子となり「法力房蓮生」の名を与えられ、専心念仏の行者となったのです。

 建久元年(1,190年)は敦盛卿の7回忌に当たるにつき、追福の法要を営まんと思い立ち、師法然上人の指示により高野山に登り、父祖の菩提寺であった当寺(当時は智識院と言う名だった)に寄寓し、敦盛卿の位牌および石塔を建立し、懇ろに敦盛卿の菩提を祈ったのです。
 以来14年間山に留まり念仏に専心し、建仁元年(1,201年)鎌倉将軍源平両氏の戦死者大追悼会をこの山で営んだ時、法然上人その特請に遭われ、親鸞聖人及び圓證入道関白兼実(1,149~1,207)と共に登山し一夏九旬の間当寺に留錫、そのころ真別処において称名念仏していた24人の社友等と交誼を交えながら衆生済度の大願を祈求されたのです。

 或る時御三方(法然上人・親鸞聖人・熊谷蓮生)庭前の井戸の水鏡にて各々のお姿を写され、自らその像を彫られました。その御尊像を奉安してあるのが、表門の横にある「圓光堂」です。

 また、法然上人は龍華三会の暁に、弘法大師に値遇の良縁を結ばんが為に、末世道俗摂化の方便にもと五輪の石塔を奥の院のほとりに建立し、自ら梵字を書し「源空」の二字を刻んで置かれました。
 上人の滅後、弟子等相寄り御芳骨をその塔下に納め奉ったと伝えられており、「高野山圓光大師廟」とは、この五輪塔の事であります。

 蓮生法師は承元2年(1,208年)9月14日、念仏を唱え睡るが如く往生されました。その後直家は亡父の遺命により登山、当寺の堂宇を改造修築して追孝の法要を営みました。
 この事が時の将軍実朝公の知る所となり、蓮生房の詠まれた「約束の念仏」の歌と、「熊谷寺」と書かれた扁額を寄進されました。
この因縁により「熊谷寺」と改称し今日に及んでいるのであります。

 弘長4年(1,264年)親鸞上人の3回忌に当たり、覚信尼公(親鸞上人の末娘 1,224~1.283)上人の遺命にて御臨終の名号並びに御遺骨、及び御母公玉日(九条兼実の娘、恵信尼)の前の木像を、使者日野家の士下条専右衛門頼一を遣わして当寺に納められ、且つ上人が師の流れを汲んで、かねて手書しおかれた梵字を刻んで石塔を建立されました。・・・
以上


 ここを見る限り、玉日姫は恵信尼公と同一とされていますが、論拠は何でしょう?派内史料に限らず各宗派所蔵史料類も渉猟されてきたと思うんですが、未発見史料もあるんでしょうから、気になります。

 まあ、時代の特徴と人々の課題や教界の課題というものが、ほかにも一杯あるはずです。
 不十分な点、曖昧さ、差別化や反民主性など時代の問題点は、開祖や祖師方以降の人間が取り組んでゆくしかないわけです。

後記

 骨格と根幹にギリギリふれ得ましたので、一区切りつきました。
 一旦、セミナリオを終わります。
 テキストも解説書もありますので、任にも無き私の任務は、おかしいと思われる点をレリーフすることで、あらかた終えたわけです。

 いろんな皆様にお会い出来て喜んでいます。

 いつどうなるか分らんのが人生というものですから、最近は焦燥感ばかりでしたが、さりとて、思い浮かばぬ時間、手を付けあぐねる時間も少なく無いうえ、学びも欠けがちですから、大変残念でしたが、楽しく進めて来れたのは望外の喜びです。

 「このこと一つ」のレリーフばかりでなく、問題やテーマの発見も、一々のそれの探求も、まだまだこれから、です。
 友に遇うより大事は無いながら、あるいは師事され、あるいは独自に、文献と資料に当たられ、愈々このこと一つ、一大事を窮められますようお念じ申し上げて居ります。

 あと、これから取り組むべきことがあるとするとやはり、真仏土とか化身土で取り組まれた課題とか、まあ、法と機の世界を明らかにして、我々自身全員の供養のために、行いも世間の在り方もチェンジを試みるっていうことしかないわけです。
 これも既に諸賢諸先学に於かれては長く取り組んで来られましたし、私も取り組み、記して参りました。まあ、これこそ娑婆絡みだから、間違い易い、と。

 約めて言うと仏教は、人間の自然のはたらきのなかで重要かつ尊いのは「智慧と慈悲」であるから、まあ智慧と言っても世間のとは違うけれども、そこへ往生して、そこから出発して構わないわけだが、その具現、生存中の姿勢については簡単ではない。
 実は化身土の課題とか、応化身の課題とか、社会改革とか、全部そういうことだ、と言えましょう。

 その前に、生存自体の自然の問題点もあることから、ややもすれば、極端な禁欲、はなはだしきは自殺教の如き、初めから死んだ方が早いのではないか、と思われる傾向を生んだわけですが、大変な間違いであり、さまざま問題と限界があっても自身と闘って好き人生と世界を形作ることこそ、願われるべきことだった、と思うわけです。

 浄土教の発生原因も多々あるでしょうけれども、ブッダに遇おうとすることも、厭世観や来世感も、苦悩から解放された人生を手にしたい志向でもあり、まさに願わしく喜べ合える世界をもたらすにも、好適な運動と思うわけです。

 即ちこうした転回はもはや、精選されたブッダの思想の核心となるものであり、開祖の教説自体にもそれ以後にも有象無象こびりついていた、凡そ認め合え、尊び合え、慈しみ合え、喜び合えることが永代得られぬが如き「汚れ」を払拭すること抜きには、得難いものでしょう。
仏説自体が差別性もあり、呪縛もある、言うならば、魔郷の質を露わに発現して来たわけです。

 親鸞めずらしき法をも説かず・・・ということで、私の述べ終えた感のある展開もまた、既に明瞭に若しくは何となく曖昧ながら、門徒も僧侶も門外の人々も感じていたことの一部を、ハッキリ言ったに過ぎないわけであります。ですから、既に深められている教相の現状と現実社会に言葉で追いつこうとしているに過ぎぬ、とも言えましょう。

 そして既に脱却が教相構成面でも、実社会面でも、実践されても参りました。社会貢献と言わず救援事業と言わず、現実は踏み出しているし、宗門開創当初から、教相の如何に関わらず、教団人は問題点を踏み越えて、真の道を開いて来られた面がある。
 殊に現代、愈々民主性を以って、様々の問題と取り組まれていることです。

 現代の化身土や応身の取り組み、と言いましても、しかし既に救援事業に学び支援してますし、陥穽や呪縛を暴くべく、現代社会にも散々ものを言って参りましたので、これも実は余すところがほとんど無いような気もするわけです。

 まあむしろ、数十年ほども遅れ過ぎましたけれども、現代思想の智の饗宴を学ぶ、ということで、何時になるかは分りませんが、田川先生とか栗本・柄谷・浅田などの先生方の本について読書感想文をアップするかも知れません。いや、皆さんも、アップしてください。

しばらく休みます。

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浄仏土と往生-4

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春のお参り(3月3日)



 まあまあ、一度に課題や疑問をぶちまけましても、古来の、そして近代以降の疑念と疑問点が多数あるんでしょう。

 それらを一度に羅列するほど知りませんし、また今、更に私的な疑問点を提起しているかも知れませんが、全てはダルマの願心を明らかにして、それに生き、死んでいける世界に生まれたい、と。こういうことであります。

 いろんな疑問が湧いて来るんです。

 例えば、如何なる世界を願うのか。
 曇っているけれども、この点で曇りがあっては困る。だから、選択の浄なのに・・・、と。
あんな差別土のままで、願わしい世界だろうか、いや、決してそうではないに決まっているわけでしょう。
 では、往こうとも思わない世界が建立されたのか?微力を尽くして願わしい幸ある世界をレリーフしなくてはならんのに?

 西方十万億土でもあるが、ここを去ること遠からずの、娑婆即浄土的に、世界自体が仏にとっては輝いている浄土であることを示す大乗経典もある。まあ、大乗共通的な親鸞の仏と仏土常識は理解もされて来たし、それらの思考回路も弁えておくべきだが、往きたいのかどうか。

 サッパリ往こうとも思わず、と歎異抄で表白があるけれども、元々何かが足りないか、どこかで歴史のチリ埃によりおかしくなったのではなかろうか。
 それは丁度初期経典で慈悲の章が孤立している情況に似ている。友なる世界は基軸であるから根底に置かれてよいけれども、他のクールな展開とそぐわないのであろう。

 ほかにもどうも、山ほど課題があるようにも感じられるはずです。

 大体、現代の学びと意識からしても、現代の高僧方の少なからぬ部分にも、もとより、数々の疑問がおありのようなんです。
 そんなもん往きたいはずがないとか、ほとけの世界なんぞ知ってみればつまらんとか、釈迦がバカなんだとか、親鸞はアカンとか、在家仏教とは言え、色々思われているわけです。
 更には、釈迦がアカンのでいろんな祖師と宗派が出たわけだが、それらの祖師方も如何なものか、と、そうなっていらっしゃる。

 実にまともで健全なセンスだ、と思わざるを得ないわけです。まあ、口に出して言うわけにもいかんけれども、と。

 しかしこれも、考えてみますと昔からありまして、在家仏教の維摩居士とか、「十徳」さんとか、凡そ初期には見られない動きとセンスが、相当早い段階からあるんです。
 まあこれは真摯な求道からみましても、私ら在家からみましても、多くの課題があり過ぎるんだ、と、こういうことでありましょう。

 人民の道、宗とすべき思想が政治・統治者の下位に置かれた「中国以後」の問題点もあります。
我邦浄土門なり親鸞様ご一統が多分に中国仏教のように統治者への姿勢を踏襲されているとすれば、善政の要請だけが人々への姿勢を示すものとなるでしょうし、もちろんそれはそれで大事でしょうから、薄いようでは、と。

 また、祖師方が身に着けて居られた当時の仏教常識も色々あるのでしょう。

 更には願心の違い、姿勢の違いが争点になりそうなんですが、祖師方の、遺された書面だけではみえてこない事績もあるんでしょう。
 もちろん私のスタンスもまだまだ一面的です。
 諸先学の論考、労作を座右にされ、攻究に於いて自らの知進守退を堅持されるよう願います。

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 さて、前回のことを少し敷衍します。敷衍になっとらん?まあね。

 『顕浄土教行証文類』(教行信証)という論も、三蔵から証文として引文され、御自釈で以って解説されるわけです。引文で自然に正統性を示そうと、浄土門を評価された高僧、禅師、律師も登場される。
 護教書にも論駁書にもなっているわけでしょうけれども、とにかく高僧方の証文集めに集中され、整備された論説になっていく。
 教相判釈は仏教の教相を明らかにしようとされたもので、仏教史上著名な教判者は『仏教学序説』でも何人か取り上げられておりますけれども、親鸞様におかれても、証文により、アミタと浄仏土が、広大異門とされつつも、正統だ、末法滅法時代の正法は浄土門だ、ということを示そうとされた。

 それでも多分、証果如何あらんや、菩薩の行や如何に、などと論難・疑惑されたんじゃないかと思います。
 親鸞、めずらしき法をも説かず、証果既に天竺中夏日域にあり、ということだったんでしょう。経典であるし、引文された論作の高僧方も皆御入滅後で、皆高僧ですから、それ以外言いようが無い。
 ただ、空聖人だけは同時代の白眉として皆ご存じだったから、御入滅を描かれ、異香砌り、奇瑞挙ぐるべからず(数え切れん)、と。

 長く論戦され問答された師を見習われて、おそらく懸命に果敢に対峙せられたと思います。
 価値あるみ教え、まあ、唯一教と思っておられたはずですので、ゆめ、退くわけには参りません。ですから本当に立派な人だったし、重要なエポックであったことは、疑う余地が無いと確信出来ます。
 三蔵・七祖ましませど、親鸞聖人なかりせば、いまの証道如何せん、ということなんです。

 特にその願心と姿勢を学びたいと思います。
 内容は大変おそれながらも開祖や他宗派の祖師方と同じく、「たたき台」にさせて頂いて好い、読み、破らせてもらって好いんじゃないですか。うち破って、更に更に拓いていく。

 近代以降、という時代は、開祖と言わず、祖師方が叩き台とされ、俎上に乗っていただいた時代であり、叩かせていただいた時代である、という一面がございましょう。
 そしてそのことが、開祖以来の祖師方の真価と願心を損ねたか、と問われましたなら、決してそうではなかった、むしろ逆だった、と。
 時代・文化の限界がありながら、それほどまでに我々の願心や生き方というものを、我々に先立って鮮明に示された、と。

 「後序」には空師のお墨付きに加えて、法義相続ということがありますから、いずれにいたしましても、道綽の『安楽集』から「休止せざらしめんと欲す」を末尾の方に引かれて、正統の後継者、法嗣という宣言を重ねられたんでしょう。

 ちなみに「後序」の「釈綽空」が源空様のその時の名のりかどうか、本派様聖典検索では分りませんでしたので、これは他の史料、典籍、浄土宗各派の資料や典籍なども総当たりしないと分らんので何とも言えませんが、もしそうなら、更に正統論書・正統法嗣だという主張を強めるはたらきを持ちましょう。

 (後日追記)常識的には沙門源空のお墨付きがある『七箇条制誡』の署名で、「僧綽空」という署名がみられ、入門後程なくの親鸞様の法名とされています。その経緯を記した典籍も存在する様です。  その後、「善信」になり、「親鸞」になったということですが、「善信」は房号ではないか、ともされています。すると、原本真本があれば、ですが、何人か『選択集』書写を許されたお弟子さんが居られましょうから、その方々の奥書を点検すると分かるのかも知れません。  また、親鸞様が選ぶ名ではなく、どちらかといえば源空様が選ばれそうな名ではないかとも思われます。だから、源空様の名に感じられるんです。もし親鸞様に許可するという意味なら、まだ入門から遠くない時期、と想定されることになるわけです。そして特に親しく許されたということが想像されるわけです。

 選択集に以前ふれましたが、選択集の内容では道綽禅師と善導禅師は師弟関係であって、且つ、神がかりの善導様は師道綽よりも神通に達していると認められており、師が善導様にいろいろ尋ねたりされ、まあ、後継者とせざるを得ない感も持たれたのでしょう。
 源空(「源光」「叡空」)の名のりに注意せられなくてはいけないが、弟子親鸞様の善・信(善導と源信?)の名のりということもあったとすれば、緊迫して且つ残された時間が乏しい中で、源空は親鸞を認めている、自分は道綽のように親鸞に託すみたいな意味を持ちます。いたずらっぽく書かれるゆとりはあったでしょうか。
 そしてそれが道綽『安楽集』の「休止せざらしめんと欲す」に繋がるといたしますと、何をかいわんや、と。
 腹を裂いて経を入れて守ったり、壁に封じて護ったりせんならん時代です。一大事、大事を失ってはならん、と。

 『顕浄土教行証文類』末尾に引文された、「休止せざらしめん」(道綽『安楽集』)は『歎異抄』では順次生に、と自身に引き据えて表現せられてあります。

「#25 (5) 一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。

いP--835づれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。

わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと[云々]。」(歎異抄)

 話しが外れますが、ちなみにここではまた、仏道には親も子も家族もありません。赤の他人をみそなわすこと自己の如くしていないといけない。一切が縁起の法により有縁ともされます。

 また、神通方便をもつて、と、ここでも当然のように疑惑の表現が登場しております。先ず有縁を誘った釈迦にも因(ちな)むし、神通を方便とした龍樹に沿う展開ですが、どうでしょうね・・・私論では神通は他者、人間の尊重から生じて来る、ある意味関係性成就なので、そういう意味では自体、救済的・支援的・友好的で、自体、相互にたすかる質ですけど、親鸞の理解では超人的で、自然の蛇のような智慧で、人心を掴んでいくみたいな印象がありましょう?。
 また、好い部分は、自力を棄てていそぎ浄土のさとりをひらく、という見解です。これは、

「#23 (3) 一 善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。

しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、P--834真実報土の往生をとぐるなり。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。」(歎異抄)

という部分でもそうですが、賜わりたる正統の本願の念仏によって、日ごろのこころと自力のこころをひるがえし、回心があり、往生がある。
 ただ、現下に既に往生の身を得ている、という理解が祖師方には弱いです。自制と自戒もキツくて、往生も成道も絶対化され過ぎてたからでしょうね。

 『歎異抄』編纂の唯円さんゆかりの本願寺第三世覚如さん『執持鈔』で、初めてかどうか、平生の存命中の生まれ変わりカテゴリーがみえるわけです。

「・・・一切衆生のありさま、過去の業因まちまちなり。また死の縁無量なり。病にをかされて死するものあり、剣にあたりて死するものあり、水におぼれて死するものあり、火に焼けて死するものあり、乃至、寝死するものあり、酒狂して死するたぐひあり。これみな先世の業因なり、さらにのがるべきにあらず。かくのごときの死期にいたりて、一旦の妄心をおこさんほか、いかでか凡夫のならひ、名号称念の正念もおこり、往生浄土の願心もあらんや。平生のとき期するところの約束、もしたがはば、往生ののぞみむなしかるべし。

P--866しかれば、平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定のおもひに住せば、かなふべからず。平生のとき善知識のことばのしたに帰命の一念を発得せば、そのときをもつて娑婆のをはり、臨終とおもふべし。・・・

 すいませんいつも忌々しき先生方も差し置いて講釈し、祖師方の展開内容も正させていただいて・・・。これが如来より賜わりたる教相再構成のお仕事ですので。
 信心談議の参考までに今一つ引いておきます。

「#216 (16) 一 信心の行者、自然にはらをもたて、あしざまなることをもをかし、同朋同侶にもあひて口論をもしては、かならず回心すべしといふこと。この条、断悪修善のここちか。

 一向専修のひとにおいては、回心といふこと、ただひとたびあるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、回心とは申し候へ。

・・・一切の事に、あしたゆふべに回心して、往生をとげ候ふべくは、ひとのいのちは、出づる息、入るほどをまたずしてをはることなれば、回心もせず、柔和忍辱のおもひにも住せざらんさきにいのち尽き〔な〕ば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおはしますべきにや。口には願力をたのみたてまつるといひて、こころにはさこそP--849悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほどに、願力を疑ひ、他力をたのみまゐらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もつともなげきおもひたまふべきことなり。信心定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまゐらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころも出でくべし。すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし。しかれば、念仏も申され候ふ。これ自然なり。わがはからはざるを自然と申すなり。これすなはち他力にてまします。しかるを、自然といふことの別にあるやうに、われ物しりがほにいふひとの候ふよしうけたまはる、あさましく候ふ。」(『歎異抄』)

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 前回からの続きに戻ります。

 なお、通力は社会性・共同性・対他性(他者尊重)の姿に他なりませんけど、仏の相とされる三十二相八十随形好は、これはもう、ハッキリ言って、デタラメでしょうね、あれは。
 そんなもんは居らん、と。未曾有見であるけれども。大乗と言いながら、逆になっている。そういうお姿なんですね、三十二相って。

 誰も成れないような気がしませんか?
 お浄土は、死んだ世界じゃ無くて生きる世界なんです。しかも、往還自在で、入出自由なんですけど、一旦往生して三十二相のお姿で還って来るのか。誰も居ません。
 もちろん性質としましては、もっと多くの相があるかも知れませんが・・・。

 ただし、近代以降特に特に意識されるシンボルという考え方がある。シンボリックで比ゆ的な喩えですから、意味はありそうなんです。例えば、水かきがある⇒救い取って漏らさない、長広舌相で自分の顔をなめることが出来る⇒説法止まぬ、そういう喩えでしょうか。
 『無量寿経』48願中の第21願に、

「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、ことごとく三十二大人相を成満せずは、正覚を取らじ。」

とありますけれども、故谷沢健さんは法話で、ブッダは三十二相。そんなもん障がい者や、障がい者がブッダになるんです、と仰って居られた。解放運動ですから、その通りです。
 成道自体は障がいの有無も妨げにはならんとも思いますが、やっぱり健常だと往生は難しいかも知れません。障がい無き人間は居ない、が持論ですが、障がいが無い、自分は「健常」だと思っている世界、そして「健常」を願って障がいを差別していく世界よりは、苦悩と悲しみを知っている世界だとすれば、成道に近いと思います。

 まさに被差別者・被抑圧者はそのまま菩薩のはたらきを以って一切衆生に訴えている。この現状をどうされるのか!と。例え自身が同時にまた差別者・抑圧者であっても。
 そして、自ら決起された被差別者・被抑圧者も、自らを脱せんと加わる差別者・抑圧者も、解放者として菩薩の実践を為されるわけですから、これはもう、それまでの差別教相と差別解釈をひっくり返していく、教相改革の実践の一つだったんです。

 それにしても、直立して手が膝まであるとか、縦横が等比であるとか、絶対成れんでしょうね。
 初期仏教では余りにも神がかっていて人間離れして居られたことから、また、滅びゆくに過ぎない姿かたちを嫌うことから、ブッダは縦横等比の法輪で表現され、造像は長く為されませんでしたから、ダルマの法輪という意味では、縦横の比は等しいでしょうけど・・・。

 食事が不味くなく感じられる舌は、供給が限られて貧困と栄養失調と餓死の解決にとってやや危ない質が感じられますし、陰部が隠れているということも問題があり、不自然である。陰部が好もしいとは申しませんが。

 まあ差別され抑圧され排除され分断されますと、性格もいじけて歪んで来まして、チビ、とか言われましても、ムカつくわけです。これは宜しく無いけれども、差別する方が悪い。

 いずれにしましても、往生はブッダの相を備えることとなりますから、絶対的で完全かつ非人間的なまでに超人的になった後代では、もはや誰も成れなくなった。

 更には、晦渋な教判展開で、大変分り難くなった。
 死後往生論もあいまって、愈々、存命中ということが危ぶまれたに決まってます。

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 また、罪悪生死、といわれますのは、生滅でもあり、有無にとらわれた流転の世界のことでもありましょう。
 苦しみを受け続け、自障障他し続ける。迷いの生存と言われたのも、そうした意味でしょう。
 生も滅も、有も無もとりとめないものである。
 いのちは重いけれども、移ろいゆくし、生まれたから死がある。三悪道も避け難く、囚われや自我も無くては生きることも成立しない。

 けれども限りなく、生き生きと、生きたい。生まれては、そう思うわけです。それでもいのちは重く尊い、と。
 ですから往生というのは、死ではありませんから、往死ではなくて、生死も障らず、生死に関わらず、願う世界、往く世界なんでしょう。

 いのちというのは、個体として現れますから、個我にとりましては死ということは、限界のように感じられるんですけど、自然のことわりなんです。
 また、人間とか、昆虫とか、種類として現れるので、違うように感じますが、いのちに於いては、様々の違いを持ちながらも、同等である。

 そこで、死をキーワードとして、往生が大事なのか、死後が大事なのか、死で機攻めしていくのと何処が違うのか、ハッキリさせておきたいので浄土真宗聖典データベース検索で「死」をソートさせてもらいました。

 が、「生死」の熟語が多く、実際にはほとけの世界たる浄土や往生と対立概念になっていることが極めて多い。そして「罪悪」と対概念、つまりイコールに扱われ、「罪悪生死」の熟語になっている。
 生死はほとけの世界の対立概念だと押さえていただいて構わないと思いました。

 『正信偈』に「証知生死即涅槃」とありますが、生死は悪であり、悪身である、その罪悪生死の凡夫が、そのままにほとけの世界を賜わって自身をいたみ、とらわれることがなくなり、仏に成って安堵せられる、ということなんでしょう。
 罪悪の身はそのままで、辞めることは出来ないけれども、変わったから、そのままではないとも申せましょう。本願を賜った、涅槃を賜った凡夫悪人。

 生死がいけないのなら、無が好く、手っ取り早く死んだ方が効率的である。ところがほとけの世界は無でも無く、国土人民も仏も菩薩も、生きてはたらいている。入出、往相還相が自在にもなっている。

 存命中に於いては身は凡夫であり、苦界を免れない曠劫来流転のままですけれども、有漏と無漏という言葉もある。
 まあこれは煩悩がまだ残っているか、それとも完全に消えたか、成仏したか、してないか、そういう状態をわざわざ言っているわけですが、死後から還って来られるのはご遺族の心の中に、であって、還って来た人は居ないし、そも、生命が進化し続けているので、現状個体だけを考えているのはおかしい。まあ、ジュラシック・パークとかも出来ましたけど。

 個人の生存の性質から考えて、自我も煩悩も無くてはいけないんです。食物連鎖とか食らい合う悪業を続けなくては生きられない。無漏自体、考える必要は無いんだけれども、世界観や世界認識からも、また悪業煩悩への批判からも生存に否定的な傾向があったから、ずっとこの世と生存を認めない傾向が続いたんです。

 そしてこのことは、願いと理念、理想に生きるべきことを教えているわけです。
 それで好い、それ以外には無いけれども、それにしても生まれたからこそ真のいのちの大切さを想うようになったわけですし、無や死に誘う処まで参りますと、これはもう不自然且つ本末転倒です。

 また涅槃や解脱や成仏にも、有余涅槃と無余涅槃という表現があり、存命中にはなお煩悩を免れないし、完全ではない、死後こそ完全な涅槃だみたいな考え方なんですが、死後のことは仏世界に任せておけばいいから、仏扱いで済むわけです。
 現状、個体として還って来た者はおりませんから、考えなくてもいいんです。後に残された方々や、様々の種別の生物に託すほかはありません。死出での旅路にも、順次生の存命中の方々と共々に、ほとけの道を歩もう、と、それで好いんです。
 有余とか無余とか、まあ面倒なカテゴリーを生み出して考察して来られたんでしょうけど、分り難いからそうなったに決まってるんです。

 死は生と同じく自然の事実。どうせ心身がいずれも滅ぶなら、共なるいのちの世界に生死しよう、浄仏土を賜わって、浄仏土に生死しよう、ご縁を賜ったなら、ずっとその道を真っ直ぐ進みなさい、ということで好いんでしょう。

 生には死があり、十悪五逆三悪道があり、脱せない。はじめから自然であり、身ははじめから自然を選んどる。食らい合っている。シャカムニも嫌悪したけれども、身はそうである。
 実は身も心も、食らい合うこともあまり悦んどらんような気もする。空腹だと食うを喜ぶかも知れんが、病気もケガも人間関係も死も、喜べんので、苦しみがある。
 自分が大事だから苦しむんですけど、そんなことにも気づかん。たまに休まんならんけれども、休んで治る場合と治らん場合がある。

 とにかく、生き生きと喜べて輝く世界を望んでいる。そんなのは高望みで贅沢過ぎる、もったいない、と。けれども、そういう世界こそ、宗教が示されてきた世界なんでしょう。飲食・衣服・施薬を調製し供給し、更に好き関係世界を得る。

 ただまた、生体はバラバラの個体なんで、アメーバ的な、ソラリス的な一ではなく、分岐し分裂していく。多様である。
 これは、問題概念だけれども、今度はこうした事態を仏法では応化身、応身として展開されていくものとして捉え返してきた。
 何故問題かと申しますと、そこに都合の世界が入り込む懸念なしとは言えない、好もしからざるものの混入、魔に弱い懸念があるからですが、積極的に肯定できる質としては、どなたも可能の身に育て合って、与え合い助け合える身になれるんだ、という理解が推奨されましょう。

 ほとけの世界はどうみても生きて往く世界である。シャカムニも生涯を尽くされたではないか、と思います。

 結局、祖師方のみ教えも生き様死にざまも、生きようと死のうと、この願心によってほとけの世界を尽くして往こう、このこと一つに尽きると思います。

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 ここで、及びませんが、源信僧都の「横川法語」をみたいと思います。

「 まづ三悪道をはなれて人間に生るること、おほきなるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや。家はまづしくとも餓鬼にまさるべし。心におもふことかなはずとも地獄の苦にくらぶべからず。世の住み憂きはいとふたよりなり。このゆゑに人間に生れたることをよろこぶべし。

信心あさけれども本願ふかきゆゑに、たのめばかならず往生す。念仏ものうけれども、となふればさだめて来迎にあづかる。功徳莫大なるゆゑに、本願にあふことをよろこぶべし。

またいはく、妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞ、とこころえて念仏すれば、来迎にあづかりて蓮台に乗ずるときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにて、決定往生疑あるべからず。」

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 また少しく復演します。

 初段:三悪道が人間でもあります。厭うたよりとともに、離れる可能性があるのが人間でもありましょうけれども、むしろ人間こそ離れるを得ない存在かも知れません。悪業が深いといいますか・・・。
 かかる三悪道を離れて人間になる道が、世を厭うたよりにふれては人間になる道が、ある、というほどの意味でしょうか。

 このくだりでは特に、源信様は既にほとけの世界、浄仏土を賜って人間道を生きる人である、ということに注意しなくてはなりません。本願を賜りたる碩学の、人間、なんです。

 ちなみに、ブッダは超人ではない。凡夫でもあられ、人間です。当流におきましては、真の人間、真人と受け止めさせていただいて参ったわけです。

 まあシャカムニは少し超人というか、神がかりというか、世間離れというか、神格化されたわけですし、そういう意味では凡夫ではないが、「誰でも覚れる地平」も、開教を続けられる中で少しづつ次第に、得られましたから、凡夫面も併有されるのでなくてはならないわけです。同一仏であれば、凡性もなくてはならないし、そうではないと、一人だけの成仏で仏教史は終わりになるんです。
 この辺りの受け止め、凡夫かどうか、人間かどうかも理論的な分岐点なんでしょうけど、近代の発見と発掘を経た現代ではもはや、自明のことと思います。

 二段目:本願を喜び来迎がある。その通りです。名号なる本尊自体も来迎です。死後や死に際ではありませんが、それまでの私が死んで、新たな私の人生が生まれ往くとき、でしょう。

 三段目:専修称名念仏への深い信頼が示され、如来の願心への信頼が表白される。機の深信の表明。
 来迎にあづかりて蓮台に乗ずるとき、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ、の部分は、本願の名号本尊に出遇って往生するとき、仏となる、ということですが、まあ、死後か、この一生ではないことを示しています。生まれ変わりで考える方が妥当。
 妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにて、決定往生疑あるべからず、ということは、妄念の生涯のままに、汚泥華としての菩薩道の人生の獲得がある、という受け止めが好い。

 七高僧のお一人、源信僧都による異義邪執への教誡とも言えるのでしょう。

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 ここにおいても、仏意・願心、本願ということが中心でありまして、凡夫の自覚も鮮明です。

 『教行信証』「教巻」では往還二種廻向をあげ、往相について教行信証あり、としている。
 経は出世本懐であり、仏意・願心なる本願を示して信と証をもたらすから真実。一切衆生が行、証を得るので、真実教ということだが、しかしこの「行」は真宗では本願とイコールである。
 行というよりも本願に信を得ていくことが往生だ、ということでしょう。

 「行巻」では往相の回向として大行、大信を挙げている。
 称名往生が龍樹を承けて言われたんだろうと思いますが、称名往生が本願とイコールであるから、ブッダという名の、語の響きの孕む仏の質と世界に引かれ、信が生まれ、往生がある、ということで好い。

 念観はダルマのひらく世界として発心に、そして還相に関係する。浄土の様相はこれからの私らの在り方に、還相に不可欠です。そういう意味では、観は真宗では軽視され過ぎている。
 しかし、真宗的には念仏は念本願であって、本願の浄土、智慧と慈悲の世界を念ずることで、往生を得る。
 先ずは、限りなき灼熱の慈しみの世界とその開くほとけの世界(本願の世界)を念じ、信をおいて、帰する。それで好いと思います。

 「信巻」では往相廻向の信というのは、如来選択の願心、つまり本願から信が生じるとしているが、これも、本願への信である。大経18願の信である。
 信楽というのは、信心歓喜のこと。本願とほとけの世界の在り方を喜ぶ。

 だから、称名や回数や声ではなく、念本願が称名念仏。ただ龍樹や羅什訳を尊重して、名となって仏の方から罪悪生死の底下の凡愚に来られたブッダとその本願を尊重して、称名というに過ぎない。その響きの意味、いわれを聞思する、ということでしょう。回心以降は称名による仏徳讃嘆にもなる。
 本願であるから、粗末にしないということと、本願により仏自ら名号となって来られたから、名号本尊と受け止めて好い。

 証巻では涅槃と菩薩道。これは化身土巻末、後序部分でも菩薩。どこどこまでも、至る処で応化身。至る処で人々に添い、人民の為に。

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 三誓偈、嘆仏偈、如来の、菩薩としての願心が、至心に、全身を挙げて、求められ、願われ、誓われます。
 漢訳ですので漢人や非漢人仏教者の人文文化として、高邁にして真剣に表現されたもの、と賜るわけです。

 いたるところで人民の為になるはたらきが願われる。困窮者をみたら、罪人をみたら、罪業をみたら、自害害他をみたら、放っておかない。考え方改善だけに終えるものでなく、個人のたすかりではない、たすかりはいつも共なる、友なる処にある、大乗経典の響流そのもの。
 法華浄土などもそうですが、仏国土、浄仏土を求める運動とも、申せましょう。

 両度の時代は迫害と弾圧に対する正統性の立証だけで費やされるし、それにしましても、たとえ善政の要請でもあればいいんですけど、それも弱そうでしょう?本願中心の割には、願心のずれが感じられ、どこかおかしいような気もいたしますけれども、我々か両度かどちらかの、本願の受け止めが、ズレて居るんでしょう。

 この世を棄ててかの世という発想も、『正信偈』で「不断煩悩得涅槃」と仰るから、両度には見られませんし、だから尚更おかしいような気がするわけでしょう?全部あの世に丸投げされるのなら、話は早く済むわけです。どうぞ、早々に逝ってください、と。

 ただ、まあ、浄土門からだけではないけれども仏意・願心をいただいたから、今から改めて我々が願心をやっていけば好い。
 どっちみち、古代中世の感覚では通らない面もあるんでしょうから。

 嘆仏偈。
 仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔というのは、二種深信。
 諸苦毒というのは、娑婆世間、共同体としての機の深信と、個としての機の深信。
 私も身を苦毒の中に終える、です。
 忍終不悔は、願心の表明であり、法の深信。
 如来の願海を生き、それに死ぬ、と。

 まあ、われ、世界の柱と成らん、というのが、如来の願心なんです。三誓偈でハッキリしている。
 身も世界も汚染されたままだけれども、自然の内奥からの求めがハッキリした、微力を尽くすのみ、と。こういうことです。微力ではなく、無上尊たらん、と仰ってますけど・・・。



 そういたしますとこれは、人民の為にならないことを避けなくてはいけない。

 世界がバラバラでも、諸個人間でも諸共同体間でも、友好と連帯を求めていくべきである。
 個としても共同体としても、差別と分断、支配、権力、政治、抑圧や戦争、民族、国家、党を辞め、質をチェンジしていかねばなりません。

 経済的には、搾取と収奪を辞めるのか、大施主をめざすのか、どちらかというと再分配の税務といわず、現代は後者に近いけれども。
 社会制度としても、福祉が必要でしょう。各種の生活保障もしてあげたいでしょう。
 学びも自由にやれるようにしてあげたい。上から目線の「教育」ではない。

 具体策は困難且つ、問題を持つであろうけれども、あるいは我々の解放や自由にはなかなか繋がらないかも知れないけれども、たすからんかも知れないけれども、微力を尽くしたい、と。

 最初から限りなき灼熱の慈しみなる願心に立ち切って、一人が万民の為になり、万民が一人の為になる世界を求めていくのでなくてはいけない。
 結束は大事でしょうけど、権力や暴力、党や国家に敗北してはならんのです。浄なる勝利者であれ、と。

 あらゆる運動の目標と目的はアムネスティと同じで、自己の消滅です。
 自ずと自然に、世のなりわいに、「慣れてゆく。」
 鸞聖人が神通について仰るように、「遊戯するが如し」、です。
 ・・・まあこれも、どうかな、とは思わざるを得ませんけど。



 ですから、理想は分るんですし、汚染され切った身も弁えるけれども、理想はアレコレ思い巡らしたり躊躇してめざすものではないんです。
 そうではない。
 既にして自分の中心ではたらいているもの、湧出して止むことが無いもの、なんです。
 身を動かさずには居ない。身を動かさずにいることなんか出来ないんです。

 アミタはミタ(限界、限定)の否定(ア)を名乗られているので、マルチな顔であるようにも思われましょうし、十方仏の別の名とも受け取れましょうから、応化身も無限なんでしょう。
 実際、化仏、各々悉く、と密教的でもあり、あらゆる応化身を示してたすけることが、親鸞様にも讃嘆されています。

 ただし、何より浄土門での受け止めは、限りなくいのちをたすける、解放していく名のりとされます。いのちに関係しているから、無量寿、無量光なんだ、と。

 また仏さまとその世界全部が、向こうから、仏のかたより、既にして来られている。ディスクールなどの法身として来られているので、名号として届けられているし、仏に出遇って輝いた方をシンボライズされた尊像は、方便法身尊形とされています。廻向というのは、そういうことです。

 ですから、こちらから頑張って赴く必要はあるけれども、さほどの努めなく、易く往ける条件は備わっているはずなんでしょう。
 ところが煩瑣であったり、理解を誤ったり、日常感覚の延長に求めたりいたしますと、大変遠くて届かなくなるのでしょう。

 とことん修行したり、自分を見つめたり見直していく時間は大切です。
 しかし同時に、自然の願心に生き、それに斃れても往かれたほとけさまとそのサンガが、輝いていた。そのことに気付くことこそ、尊び合い認め合う世界としてのほとけと仏国土が開けていくことです。たすかる、我執と執着から解放されていくことです。

 回向を受け取り、及ばずながら微力を尽くす、ほとけのお手伝いをさせていただく。そうしたことが真宗門徒には願われて参ったことでした。

 まあ、浅はかなままに色々思い巡らしまして、道を求め、関係を求め、政策を求めたり、色々するんですから、実践という時点から、右往左往して紆余曲折することがはじまる、おそらくは律もはじまるわけですけれども、願心自体は即得です。
 曖昧さなんか無い。最初から息づいていることに気づくだけなんです。

 願心が、内奥から自分を衝き動かしてくる形式、五臓六腑の中心、胸の中から湧いているんでしょうけど、まあこれは、若いもんの革新運動の主体の姿になるんでしょう。

 友好一つ取りましても、どなたにも備わる自然の内奥からのことですから、いろいろ妨げがあっても、湧出を止めることは出来ないんです。



 友なる場、共なる願心。それがこの生存に開かれた浄仏土と本願です。

 シャカムニの理解は、最後の生存、最後の身、ですけれども、そんなに身体と決別せんでも、最後もくそもない、既に往っとる身であり、還って来られた身であられたわけでしょう。
 どうもあのお方は生命とか物質世界に距離がありまして・・・精神界からすれば、いや、ニルバーナからしましても、人生が老病死で苦の原因である、ということからしましても、また、バタバタと人々が斃れて逝かれた時代であったことからも、理解は出来ますが・・・。

 しかし同時に人間の身に生まれたことは、理想や理念に出遇い、意義と喜びと幸を得る原因でもあるんです。時には他の動物よりも悪くて始末に終えんとしましても、例え明日をも知れぬ刹那滅の身であったとしても。

 娑婆はひどいけれども、地獄餓鬼畜生四苦八苦というのは、いつどうなるか分からず、苦しめられる世界で、人間に会えません。とても居れない世界なんです。
 愛別離苦、怨憎会苦、イジメ土・差別土などは特にひどくて、自殺された方が沢山あるんです。

 ですから、たとえ飢餓に貧困四苦八苦でも、生存の方が好いというのは、人間を尊ぶが故に、なんです。いのちを喜ぶが故に、です。世間にしか、浄仏土というものは開けて来ない。
 友に、まことの人間に会いたい。大人物にも、人格者にも、会いたいけれども、そういうことでしょう。それが仏道であり、菩薩ということなんです。





所感いくつか


 え~、第三セメスター、法の深信に属して来るんですが、主として如来の願心としてのダルマ研究及び演習に入っての攻究を、微かに、仄かに、進めてみました。
 結果、振り返りまして、いくつもの所感が湧いて参りましたので、何回生になったか数えてませんが、一学生としてしたためておきます。

 なお、機の深信なんでしょうか、回心、発心とモメントの探求も不十分なままですが、追い追い、溝が浚われて参りましょう。

 「教学上決着がついていない」というのが先生方の口癖ですが、願心が生きてはたらいて来て、既に何百年も経っているんでしょう?まあ、祖師方本人が居らんのだから、ハッキリしないに決まってますけど。
 でも、居られても、前にも言いましたけど、「わしゃ、そんなこと、ゆーとらん」となるだけかも知れんのです。

 否、それどころか、人類的願心とするならばこれは、理性や宗教以前から孕まれて来たものでありましょう。

 道と仏とを問わず、如何なる世界を願うのか。初期と、中国でも大経漢訳の道的要素など浄土教の源流に還りまして、ナチュラルなる願心を再発見したい。

 先ずは願心一つ、開祖のそれと、祖師方のそれと格闘する中で、愈々人類に願わしい大菩提心が開かれて参りますように!

 あ・・・長くなっちゃいましたので、この超長文手紙、無理して読まなくて結構です。気分と身体のリフレッシュを、どうぞ。

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・『浄土論』、『阿弥陀経』、『法華経』、龍樹など、羅什訳は多い。仮に批判も既に知られていたとしても、依然として、当時の教界の位置づけや印象としては、彼は絶対だったはずだと思いますね。無戒の、肉食妻帯の親鸞様には、特に強く意識されたと思います。


・法界とか法身とかも、テキストのディスクールもあるけれども、その示すものはといえば、音や光や香りや色彩もあるだろうし、建築構造的に「パラレルで複雑な空間や階層構造を持つ思想観念ワールドだったと思います。
 仏の性質なども、十号や三十二相八十随形好や親鸞様が御本書の「真仏土巻」でふれられた万象であるとか、大乗仏教経典で窮められてきたような変化変身など多様なものが考えられていますから、とりとめなく虚空のような質でもあるけれども、やはり慈悲と智慧ということが中心的に抽出されましょう。

 四十八願文中の三十二大人相の扱いについてソートしても、少なくとも『教行信証』では、さすがに親鸞様もふれておられんようにみえますが、中身についてはどこかでふれて居られるかも知れませんし、別の表現で質を述べて居られるかもしれませんので申し添えます。

 これとは別に仏の姿などが御本書でいくつか取り上げられているし、質としては三十二相に等しかったり近いものがあるだろうからです。


・ただ、神通については、関係性だから、閉ざされがちで狭い片州濁世の日域よりも、異なれる人や国際交流も盛んだった地域で生まれたり、まれたり、生かされるのではないか。
 何より、苦悩の群萠をすくいとらんとする社会的願心と一体のものであることが礎になるのだろうか、とも思います。

 何の気なしに見聞しているのとは違う。至る処で人民の為に、という積極的な見聞であり、願心に付随するもの、とも思います。

 思念を凝らすと確率が上がる説がありましたけど、どうでしょうね。修行説もありますが、体が丈夫なんでしょうね。節食とか滝に打たれたりとか長期間籠るとか歩き回るとか、一心不乱とか。自分を見つめたり見直す時間は大事だとは思いますけど・・・。

 他者をみそなわすこと自己の如くして、身命を顧みない時間も大事なんでしょうか。それも、私は荒行の時期を持ちましたし、結構少なからぬ方々が自己犠牲を以って改革に臨まれましたが、どうでしょう?過剰のご精進はお勧めいたしかねますし、ただ、願心とその実現への姿勢だけは、通力とは関係なく、大事です。


・同じく、特にこれからの人間関係と社会を考えて参りますうえで、異なれるもの、雑なるものとの出会いの多さからしますと、大陸の方が適切なる交渉史があり、考え方も深かったかも知れませんし、排除や融合ばかりではなく、併存や相互浸透があったかも知れませんし、和解と赦しも大分あったかも知れません。今日ではすっかり忘却されたけれども。
 過酷なる掟ばかりが伝えられているが、それ自体、意図的では無いか、と。


・菩薩ということに帰結されているのはさすがですが、親鸞様の願心の質が異なっていたのではないか、と。かかる提起も意識に寄せられました。
 多分、そうでしょうね。
 私に言わせれば、親鸞さま樹心仏地は間違い無し、としましても、往かれたはずの処は奈辺なのか?となりませんか?

 娑婆世間、現世いのりでもふれましたが、現世を祈られながら、否定もされている。自然の欲求たる吉凶禍福への姿勢も、やや過剰かも知れません。

 ということで、その淵源を訪ねますと、また、シャカムニに戻るんです。生存と身体については、少なくとも、あまり愛して居られないし、女は要らんし、一応過度の放縦と禁欲を戒められながらも、自然性を否定するが如き、結構過度で過剰な戒律が散見されましょう。
 苦悩の元ですから、分るんですけど、最も自由な、囚われを脱して何処でも偏在可能となったニルバーナの身と世界を、喜んで生きて往かれたわけでしょうから、さほど囚われるべきでは無いと思われるにも関わらず、です。
 肉体も生存だろう、血・骨と肉の身のいのちが大事なんだろう、たとえいつか身を諸苦毒の中に終えようとも、と思うんですけど・・・。

 ただこの点、シャカムニは人々の為にこうすべきだということを実践されたし、こうしなさい、とも言われました。人々の現実生活や、苦悩の群萠に対する、具体的な姿勢が鮮明です。
 おそらく仏が転輪聖王と並び称されることも原因だったり、仏の行為の結果として並び称されるようになったかも知れませんし、小国とは言えクシャトリアから御出家されたことも原因かも知れません。

 このシャカムニの姿勢は有力諸侯などへの政道の示唆は、ひいてはアショカ王や龍樹菩薩や大乗仏教思想にも受け継がれました。
 如来蔵系経典でも、困窮者解放、罪業からの解放、諸個人の守護と自由への解放が一つのテーマになっているだろう、と思います。

 大変失礼ながら両度の残された文面には、この傾向は薄く感じられます。聖道の慈悲として、排された切り。では浄土往生後の慈悲はどこにあるのか、ふれられないまま、に思われます。
 時代の限界からすれば、そして吉水の教団の学者とすれば、更に弾圧への対抗からしても、無理もないことですが、現代では、どこまでも現実改革をめざされるべきだと思います。

 シャカムニはずっと、社会的、共同的で対他的なんです。もっとも大事な点です。
 有力者と言わず在家信徒と言わず、どなたでも対面された。
 一方、これまた法難で妨げられた面がありますけれども、両度と言わず祖師方は余りにも内向きだったのではないでしょうか。それと、中国仏教の影響で朝廷(為政者)との関係が中心になっていることも、民衆の置かれた状態との乖離を感じさせます。
 往生において全てが決しますから、往生至上主義は分りますけど、それならそれで、存命中の在り方を求めるべきだったやに、感じざるを得ません。

 また、苦悩の有情を棄てずして、という発心が大事なことは分り切ってるけど、続くのか、どうか、ということが実際の中で問われて来るに決まってるんです。
 龍樹菩薩は根気の劣る軟弱もの、と非難するけれども、菩薩道にいたしましても、世間道でさえ、火中の栗を拾うバカはいないわけです。

 まあまあ、それではとてもすくいがないし、自然の情からしても、非常事態となればやむなく起ち上がるんだけども、好き世界、活気のある明るい展望が開かれていたり、仲間と前向きにやれたり、時には安らかな光に満たされていたリ、そんなところじゃないと、往こうとは思わないんです。建立が大事。

 だから、トゥルースであって、事実であって初めてまことである。且つ、好もしいと思われる場でないと、信も安心も得られません。
 必ずしも自分の都合や邪なる願望には好都合では無いように感じられますから、発心なり往生のモメントは難しくなるけれども、好く聴聞と聞思を重ねていただき、時を得まして、即の時に頷いていけるようでないと、いかんのです。聞法求道は努力も要るかも知れないが、発心やお覚り自体は、努力して、ということとも違う。疑法縁、信順因ということです。


・実際には親鸞様は非僧非俗の罪人から、妻子と暮らす無戒名字の比丘になっていかれた。在俗の僧侶、在家仏教になっていくけれども、羅什では無いけれども、依然として学僧として生涯を尽くされたわけです。破戒、という自己認識ではないでしょう。
 戒ということに、もう少し理詰めで接近してみますと、無戒であれば、破戒自体は持戒と対立概念ですから、破戒自体が存在して来ないことにはなります。
 あくまでも、無戒名字。戒めの届かぬ身であることに頷かれると共に、かかる身であるにもかかわらず、本願と仏道に於いて安堵される、と。
 ただ、比丘の名のり、があるんです。僧形です。七高僧を相承される、法嗣であるという名告りなんでしょうか?

 戒や律に関して、いつもながら卑近の例で恐縮ですけど、肉食自体は最終的には否定されなかったとはいえ、生き物を殺すことはいけないし、食べる為に獲る、屠るということも好いわけでは無いんでしょう。人間に於いてはどうも宗教以前的な傾向であって、仏もお勧めにもならないし、自己とは異なる色んな生き物を可愛がり、一緒に暮らしていることさえ普通なんです。

 特に自分の為に生き物を絞めて捌くことは宜しからぬこととされている。
 けれども、私は鯉などが好物ですから、でかいのを求め、家で絞めて、好く食べるわけです。お店でもたまに活け造りなんかも注文して、よく捌いてもらう。舌鼓を打っていただく。鶏でも何でも、御馳走ですから、田舎では昔から自分たちで食べる。たまに牛なんかも潰す。まああれは大きいですから、自分の為だけではありませんが、皆でいただくわけでしょう。どうみても、たすからんはず、成らんはず、なんですわ。

 しかし、本願に出遇い、念仏申さんと思い立つ心の起こる即の時に、罪悪深重な底下の凡愚が、仏に成る。「本願」を「信じて」念仏申さんと思い立つ「心の起こるとき」、称名や声の前に、成るんです。如来の摂取不捨になりますから、往生も成るということです。

 身も心も依然として仏と仏弟子お誓いの通り、諸苦毒中のもののままであるけれども、成ということがあるんです。於泥のままであるけれども、清浄法蓮華が咲いていくわけです。

 声や称名以前に、念仏によって、如来の仏意願心が真であると気づいた(信)即の時に、往生が成っているはずなんです。終に仏道を成るのでしょう。仏意願心が自然の故に、往き易い、ということです。

 この場合念仏は、名号として仏の方からこちらへ来られた仏意願心を聴聞し、聞思し、疑い、学び、そしてその通りだと分かる(真=信)営みであって、声とか称名自体ではないんです。出遇った後は、仏とそのはたらきを讃嘆する称名となる、ブッダの響きを伝える称名になるけれども、学びながら仏の世界を思い巡らし、本願のいわれに出遇って、賜ることである。
 注意点としては、やや観念に勝り、我が思いや娑婆を混入しているかもしれない、自体、陥穽であるという懸念・注意が要るでしょう。
 蓮如様は歎異抄を読まれ、

「[右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機(これまで仏法に遇っていない者)においては、左右なく、これを許すべからざるものなり。][釈蓮如](花押)」

とお墨付きを下されましたし、御文の思想背景の一つとなっていると申しても過言では無いと思います。

「(1) 一 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。 弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。 そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけP--832んがための願にまします。 しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。」(『歎異抄』第1章)

 このままでは、とてもたすからんのです。例え箸の先に飯粒をつまむような苦行や戒律をやったって、娑婆世間に在って戒律を守って頑張ることも無理ならば、自害害他せぬ者も一人として居ない。ましてや、在俗の者や悪人がたすかるようなことは、絶対にない、ふつとたすかるといふことあるべからず、ということに陥るだけなんです。
 真宗に遇わざれば、本願と、念仏と、信に遇わざればいかでか苦悩の世間ライフから脱せましょうか。


・浄土門はシャカムニと対極と思われていますが、逆で、全く悪(わろ)き自身を顧みない、振り返ることが無く、頼めない、問題にもしない、という徹底性に於いて、通底して居り、無矛盾なんです。
 出離の縁あること無し、と自身を断罪した機の深信の時点で、期待すべき自分も自力も無くなっている。
 本願に気づき、頷くとき、やはり、同様の世界を賜るんでしょう。

 大量破戒平気だと思われているが、そうではないんです。
 自然の欲求は、欲望扱いすべきでない、とも言われましたが、もとより、無戒名字。いずれにしても、問題を起こす、と。罪悪ならぬ人生も無ければ、生滅もへったくれも無い、必ず自障障他し、自害害他する、という点が、シャカムニとの相違点になりましょう。
 そして、弥陀の本願をさまたぐる程の悪無し、と。すえ通っているんです。

 シャカムニには、なお、自力だのみが散見される。微力を尽くそう、そうすすべきだ、という点が、さん然と輝いて居られる。真宗では疑問視されるが、これ非常に大事、最も大事なポイントです。

 人類全員済度なる願心の実現へのお努め。
 自力を尽くすのでなくては、菩薩ということが出て来ない。親鸞様もちゃんと学僧としての職責は果たされた。
 シャカムニには法の深信としての、友なる世界のヴ・ナロードあり、無知の知の謙虚さとして機の深信あり、なんです。好き人なんです。

 けど、更には最後の生存と言われて生存を脱して居られたわけですから、残すところが無いはずなんですけど、幻想的世界といい、戒律と言い、矛盾を感じませんか?
 そして、シャカムニのサンガもずうっと飲食衣服されてたんです。
 不味そうな表情をされながらも、だとすれば、それ自体、食べもんに対する罰当たりにしか見えませんけど、多分、舌鼓を打って、なんで、好かったです。初期経典に、彼は舌鼓を打って食べている、というサンガ内の非難がみられ、それをシャカムニがなだめたりしておられますから。


・それで、親鸞様の意識と菩薩観には、更には次の事情も加味しておくべきだとも思われます。唯心論と唯物論は「外界」の扱いにおいて、究極は同じになるけれども、ヨガ行唯識派の総帥として兜率天弥勒コンビがあったことを親鸞様もご存じだったはずで、まあ、「オーム、全ては心である」というところまで御存じだったかどうか不明であるが、唯識が唯心論的立場に近い論展開であることには注意せられなくてはならない。

 特に救済に当たって、娑婆世間との関係で詰めていくなら、無著・世親が実際には政治社会にシフトしていたとしても、かかる質は直接には読み取りがたくなっているかも知れないわけです。
さらに、意識偏重とか通力偏重も、むしろあって当然だったのでしょうか。この点は分りません。しかし少なくとも、三昧とか神通とかは昔の仏教常識で、これも省略されていたくらい、当たり前だったんでしょう。

 もちろん兜率天弥勒コンビは大乗思想の集大成者としても尊重せられる。


・菩薩に関係しますが、もう一つこの兜率天の弥勒菩薩は、大経では未来の為にシャカムニの真言を聞き届け、未来の有情を利するわけですが、未来仏である。ヨガ行唯識派の弥勒も実在されたと伝わるけれども、一般には未来仏として受け止められている。現在ではなく、負託されているけれども、何時になればこの娑婆世間に降臨されることになるか、不明確なんでしょう。

 親鸞様の受け止めはどうなのか、現在の信心に於いて存在を賜り、頷くから、実の如くましますけれども、それでいいんだ、という印象を憶えます。
 だとするともはや未来ではなく、末法滅法の現在である。
 現在であれば、法身と法界である大経によって既に往生が完成してあるのではないか。
 だとすると、ブッダ等同であるはずで、底下の凡愚の自己認識、信心為本とは矛盾しないけれども、実践が乖離していないか。六通や如何、証果や如何、菩薩の行や如何、と。

 親鸞様は、三段論法でいきますと、信心の人は如来や弥勒菩薩と等同である、自分は法然聖人の信心と異なること無けんと選択集書写、真影図画というお墨付きを賜った信心の無戒名字比丘である、故に自分は如来と弥勒に等同である、こうした宣言が思われるんです。
 高僧和讃の巻末の句にも、浄土門信頼の表明がある。

 末法・滅法・濁世の時代、特留此経止住百歳(無量寿経)の真言の通り、ブッダお亡くなりになって以後、ただ一つの仏道成就の証道門、成道門が、広大仏法の異門(無量寿如来会)、浄土門である、と、深く信頼された。

 実際に成ったか成らんかも大事かも知れませんが、またいろいろ教相と行いの限界もおありだったでしょうけど、菩薩の願心に帰された。
 この点に限りますなら、この上も無く重要なお方なんです。これ以上無い。人民の為に、かかる願心以上は無い。友であるより大事は無い。

 先ず今、現に菩薩である。これは選びとして重要な点になります。
 しかも未来に必ず仏となってこの世に出世、降臨する。この点は、未来を代表して『無量寿経』の

「【47】 仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。ゆゑはいかん。多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。もし衆生ありて、この経を聞くものは、無上道においてつひに退転せず。このゆゑにまさに専心に信受し、持誦し、説行すべし」と。仏のたまはく、「われいまもろもろの衆生のためにこの経法を説きて、無量寿仏およびその国土の一切P--82の所有を見せしむ。まさになすべきところのものは、みなこれを〔尋ね〕求むべし。わが滅度の後をもつて、また疑惑を生ずることを得ることなかれ。

当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもつて哀愍して、特に此の経を留めて止住すること百歳せん。それ衆生ありて、この経に値ふものは、意の所願に随ひてみな得度すべし」と。

仏、弥勒に語りたまはく、「如来の興世に値ひがたく、見たてまつること難し。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。このゆゑにわが法はかくのごとくなし、かくのごとく説き、かくのごとく教ふ。まさに信順して法のごとく修行すべし」と。 【48】 その時に、世尊、この経法を説きたまふに、無量の衆生、みな無上正覚の心を発しき。万二千那由他の人、清浄法眼を得、二十二億の諸天・人民、阿那含果を得、八十万の比丘、漏尽意解し、四十億の菩薩、不退転を得、弘誓の功徳をもつてみづから荘厳し、将来の世においてまさに正覚を成P--83るべし。その時に、三千大千世界、六種に震動し、大光あまねく十方国土を照らす。百千の音楽、自然にしてなし、無量の妙華、紛々として降る。仏、経を説きたまふこと已りて、弥勒菩薩および十方より来れるもろもろの菩薩衆、長老阿難、もろもろの大声聞、一切の大衆、仏の所説を聞きたてまつりて、歓喜せざるはなし。仏説無量寿経 巻下」

というみ教えを承け、未来を拓く意味で、重要なんです。
 無仏の時に、必ず度を得る(成道する、成仏する)。

 親鸞様は『御消息』でも、ことのほか、信心の人は如来等同、弥勒等同ということをお慶びの様子が伺われます。

「#211※弊派聖典ではp591 (11)  信心をえたるひとは、かならず正定聚の位に住するがゆゑに等正覚の位と申すなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には等正覚と説きたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は、補処の弥勒とおなじ位なり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆゑに、弥勒におなじと説きたまへり。  さて『大経』(下)には、「次如弥勒」とは申すなり。弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならひは申すなり。しかれば、弥勒におなじ位なれば、正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。弥勒はすでに無上覚にその心定まりてあるべきにならせたまふによりて、三会のあかつきとP--759申すなり。浄土真実のひとも、このこころをこころうべきなり。  光明寺の和尚(善導)の『般舟讃』(意 七九二)には、「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と釈したまへり。「居す」といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたりといふこころなり。これは弥勒とおなじといふことを申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心のひとは如来とひとしと申すこころなり。    正嘉元年[丁巳]十月十日     親鸞   性信御房」

「#212※弊派聖典ではp591 (12)  これは経の文なり。『華厳経』(入法界品・意)にのたまはく、「信心歓喜者与諸如来等」といふは、「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」といふなり。「もろもろの如来とひとし」といふは、信心をえてことによろこぶひとは、釈尊のみことには、「見敬得大慶則我善親友」(大経・下)と説きたまへり。また弥陀の第十七の願には、「十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」(同・上)と誓ひたまへり。願成就の文(同・下意)には、P--760「よろづの仏にほめられ、よろこびたまふ」とみえたり。  すこしも疑ふべきにあらず。これは「如来とひとし」といふ文どもをあらはししるすなり。    正嘉元年[丁巳]十月十日     親鸞   真仏御房」

・菩薩ということですと、大菩薩(法蔵菩薩。還相の菩薩でもありましょう。)の願心は、われ世界の大施主に成らん、でした。「われ無量劫において、大施主となりて、あまねくもろもろの貧苦を済はずは、誓ひて正覚を成らじ。」(無量寿経三誓偈)、だったわけです。浄土三部経と浄土自体、飲食衣服(おんじきえぶく)、生活ということがある。
 しかしこの三誓偈の部分は、意図されたのかどうか、御本書では注目せられた様子があまり見えて参りません。

 また、以前述べました通り、鎌倉幕府との関係は分りませんが、モンゴルに依る朝鮮支配がはじまる中で、聖徳太子奉賛の御和讃の制作を進められているようにみえます。現世において、朝廷と政権へのシフトが漂っているのか、どうか。
 ただまた、その太子は三経義疏の制作伝説がありまして、勝蔓経、維摩経、法華経を、親鸞様は大変よくご存じであらせられた。太子を勝曼夫人の生まれ変わりと記されてもいる。特に又法華経は、山家の伝教大師が法華一乗の傾向が強いとされていますから、注目せられたはずでもあったんでしょう。教行信証では華厳も引文されていますが、菩薩ということです。
 そこに、

「(4) 一 ①慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。 ②聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。 ③浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。 ④今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 ⑤しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。」

という歎異抄の第四章がございます。これは唯円が遺されたものですが、序文に「先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎き、」「故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところ、いささかこれを注す。」とございます通り、かなり忠実に趣旨を伝えようとされた、とみて好いのかも知れません。

 シャカムニの時代も後代になって大乗経典が編纂される時代も、バタバタと人が斃れて逝った時代ですし、民衆に十分な権利が認められていなかった時代でもあるのでしょうから、人々の置かれた惨状はご存じだったわけです。
 ですから、シャカムニも経典も、間に合わないながら、民衆の救済には熱心であられたようです。

 しかしそれに比べまして、親鸞様は世相に動ずることなく、思いより前に、手を差し伸べようとする姿勢が、今一つ感じられない。
 親鸞様現世いのり、苦悩の有情を棄てずして、ということが強く意識はされてたと感じますが、自分は経文類の子守だと、ブッダの真言の子守。どうも、そういう感触も持ちます。羅什じゃないけど、無戒だから破戒じゃないけど、類似の境涯をお感じだったかも知れません。当時ですとこれはもう、破戒僧の謗りは免れませんでしょう?

 これは歎異抄第四章を五分割しましたが、③で全てが解決されていく。まあ、理想主義の楽観主義の思想は全部そういう傾向があるんですけど、そこで⑤が添えられ、念仏申す往生のところに、還相廻向もあるはずです。しかしこれだけを読んでいましても、還相廻向が存命中にはたらいて来るのかどうか、ハッキリとして来ない。
 そして②④の部分では、凡夫の限界に謙虚であり、末通りたる自己認識が表白されるけれども、ただ注意せられるべきはやはり、④の「今生に、」という文言です。
 来生を期するのは分りますが、死後かどうか。来生こそ還相廻向という往生でもあり、菩薩ということでありましょう。仏も菩薩も存命のお姿なんだと思うんですが・・・。

 歎異抄のこのくだりは、多分ほとんどの人が引っ掛かって来るものを感じる部分です。教学の先生方もそうに決まっている。
 最も重要な部分、慈悲の願心に関係しているということになりましょう。
 聖人ご自身、小慈小悲も無き身にて、有情利益は思うまじ、と自己の限界を御和讃で悲嘆されていく、さほどに同悲し共苦し、何とかしようと起ち上がるのが、私らなんです。

 これは大分前に言及して居られた先生を紹介しましたが、最初から孕まれている我々の自然の願心がありまして、それを適切にまとめようとしたのが浄土門、でもあるわけです。コラム「講演(録)の紹介1」(2010-10-24)参照。

 成程、無始以来、如来の願心と呼応せざるを得ないはずの身だった、初めから否応なく呼応してきた、応化身や衆生手当の方法はまだまだ未熟だが、ということなんです。大悪党の形が、もとより願っていた在り方に気づく、本願に出遇った悪人、信心を賜りたる悪人、と言われて参りました。

 我々庶類の惨状を何とかしたいのはお互いに、当たり前で自然、なんです。多少個人差や生活環境生育環境の差はありますが、余程自己規制をしたり圧迫されても、気づかずに生きて来ても、自然の情が湧出して来るのを止めることは出来ません。

 まあこれは還相廻向の扱いがどうか、偏にそこにかかってくるはずですが、やはり現世の各種の救済が全体に弱い、薄い印象が否めません。
 ただ、法難、流罪の中で、第一義の民衆済度として教相を明かすこと一つに絞られて往かれざるを得なかっただろう、とも思います。
 それにいたしましても、回心から、願心から、生活の供給が生まれるんですから、本来は。尊び合え認め合える世界を得た、ということなんですから。まあ聖人がそこをどう考えて居られたか、依然として両度の教示の先には、薄いように感じますけどね、私は。ご本人の慈愛は別として。

 何をやってもどうせ死ぬから、教相を明かして伝えよう、というんじゃ、如何なもんでしょうか。いずれにしても死んじゃうんだよ、今のうちに信心しなさい、という機攻めも如何でしょうか。
 死後は仏に任せるほかないですし、還って来た人もいないんですし、死後世界の有無も、死後世界があってもたすかるかどうかも、分らんのでしょう?本当は。

 親鸞様の現世いのりの御消息を引きます。

「#225※弊派聖典ではp568 (25)  六月一日の御文、くはしくみ候ひぬ。さては鎌倉にての御訴へのやうは、おろおろうけたまはりて候ふ。この御文にたがはずうけたまはりて候ひしに、別のことはよも候はじとおもひ候ひしに、御くだりうれしく候ふ。  おほかたは、この訴へのやうは、御身ひとりのことにはあらず候ふ。すべて浄土の念仏者のことなり。このやうは、故聖人(法然)の御時、この身どものやうやうに申され候ひしことなり。こともあたらしき訴へにても候はず。性信坊ひとりの沙汰あるべきことにはあらず。念仏申さんひとは、みなおなじこころに御沙汰あるべきことなり。御身をわらひまうすべきことにはあらず候ふ べし。念仏者のものにこころえぬは、性信坊のとがに申しなされんは、きはまれるひがごとに候ふべし。念仏申さんひとは、性信坊のかたうどにこそなりあはせたまふべけれ。母・姉・妹なんどやうやうに申さるることは、ふるごとにて候ふ。

さればとて、念仏をとどめられ候ひしが、世に曲事のおこり候ひP--784しかば、それにつけても念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころにいれて、申しあはせたまふべしとぞおぼえ候ふ。

 御文のやう、おほかたの陳状、よく御はからひども候ひけり。うれしく候ふ。 詮じ候ふところは、御身にかぎらず、

念仏申さんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため、国民のために、念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたう候ふべし。往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の 往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。 わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。よ くよく御案候ふべし。このほかは、別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。

 なほなほ疾く御くだりの候ふこそ、うれしう候へ。よくよく御こころにいれ て、往生一定とおもひさだめられ候ひなば、仏の御恩をおぼしめさんには、 異事は候ふべからず。御念仏をこころにいれて申させたまふべしとおぼえ候 ふ。あなかしこ、あなかしこ。    七月九日             親鸞 P--785   性信御坊」


・細かいことですが、菩薩道に関連しますと三乗方便の考え方もありまして、これも親鸞様はご存じだったんでしょうね。


・親鸞様現世いのりのほか、大慈悲心にも関連して、仏法は人のためにあると述べた御消息をみます。

「#213 (13)    畏まりて申し候ふ。    『大無量寿経』(下)に「信心歓喜」と候ふ。『華厳経』を引きて『浄土和讃』(九四)にも、「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり」と仰せられて候ふに、専修の人のなかに、ある人こころえちがへて候ふやらん、「信心よろこぶ人を如来とひとしと同行達ののたまふは自力なり。真言にかたよりたり」と申し候ふなるは、人のうへを知るべきに候はねども申し候ふ。    また、「真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度をさとらしむ」(同・五九)と候ふ。「滅度P--761をさとらしむ」と候ふは、この度この身の終り候はんとき、真実信心の行者の心、報土にいたり候ひなば、寿命無量を体として、光明無量の徳用はなれたまはざれば、如来の心光に一味なり。このゆゑ、「大信心は仏性なり、仏性はすなはち如来なり」と仰せられて候ふやらん。これは十一・二・三の御誓とこころえられ候ふ。罪悪のわれらがためにおこしたまへる大悲の御誓の目出たくあはれにましますうれしさ、こころもおよばれず、ことばもたえて申しつくしがたきこと、かぎりなく候ふ。無始曠劫よりこのかた、過去遠々に、恒沙の諸仏の出世の所にて、大菩提心おこすといへども、自力かなはず、二尊の御方便にもよほされまゐらせて、雑行雑修自力疑心のおもひなし。無礙光如来の摂取不捨の御あはれみのゆゑに、

疑心なくよろこびまゐらせて、一念までの往生定まりて、誓願不思議とこころえ候ひなんには、聞き見候ふにあかぬ浄土の聖教も、知識にあひまゐらせんとおもはんことも、摂取不捨も、信も、念仏も、人のためとおぼえられ候ふ。

   いま師主の御教のゆゑ、心をぬきて御こころむきをうかがひ候ふによP--762りて、願意をさとり、直道をもとめえて、まさしき真実報土にいたり候はんこと、この度、一念聞名にいたるまで、うれしさ御恩のいたり、そのうへ『弥陀経義集』におろおろあきらかにおぼえられ候ふ。しかるに世間のそうそうにまぎれて、一時もしくは二時、三時おこたるといへども、昼夜にわすれず、御あはれみをよろこぶ業力ばかりにて、行住座臥に時所の不浄をもきらはず、一向に金剛の信心ばかりにて、仏恩のふかさ、師主の恩徳のうれしさ、報謝のためにただ御名をとなふるばかりにて、日の所作とせず。このやうひがざまにか候ふらん。一期の大事、ただこれにすぎたるはなし。しかるべくは、よくよくこまかに仰せを蒙り候はんとて、わづかにおもふばかりを記して申しあげ候ふ。    さては京にひさしく候ひしに、そうそうにのみ候ひて、こころしづかにおぼえず候ひしことのなげかれ候ひて、わざといかにしてもまかりのぼりて、こころしづかに、せめては五日、御所に候はばやとねがひ候ふなり。噫、かうまで申し候ふも御恩のちからなり。    進上 聖人(親鸞)の御所へ   蓮位御房申させたまへ P--763      十月十日              慶信上(花押)   ・・・・以下略・・・・・      十月二十九日         蓮位     慶信御坊へ」

 これは蓮位の添え状とともに、慶信の質問状に上人が直接加筆訂正し、返事を書き入れて送り返したものとされますから、聖人のお考えとみて好いでしょう。
 蓮位は常陸下妻の人で帰洛後の聖人晩年の側近。本願寺坊官下間家の祖らしい。この御消息も『末燈鈔』にも収録されてます。(本願寺派様『浄土真宗聖典』)なお弊派にては、底本「善性本」の方に収められています。(真宗聖典p583)

 参考になりますので前二通の御消息も重ねて引いておきます。
 
「#211※弊派聖典ではp591 (11)  信心をえたるひとは、かならず正定聚の位に住するがゆゑに等正覚の位と申すなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には等正覚と説きたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は、補処の弥勒とおなじ位なり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆゑに、弥勒におなじと説きたまへり。  さて『大経』(下)には、「次如弥勒」とは申すなり。弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならひは申すなり。しかれば、弥勒におなじ位なれば、正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。弥勒はすでに無上覚にその心定まりてあるべきにならせたまふによりて、三会のあかつきとP--759申すなり。浄土真実のひとも、このこころをこころうべきなり。  光明寺の和尚(善導)の『般舟讃』(意 七九二)には、「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と釈したまへり。「居す」といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたりといふこころなり。これは弥勒とおなじといふことを申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心のひとは如来とひとしと申すこころなり。    正嘉元年[丁巳]十月十日     親鸞   性信御房」

「#212※弊派聖典ではp591 (12)  これは経の文なり。『華厳経』(入法界品・意)にのたまはく、「信心歓喜者与諸如来等」といふは、「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」といふなり。「もろもろの如来とひとし」といふは、信心をえてことによろこぶひとは、釈尊のみことには、「見敬得大慶則我善親友」(大経・下)と説きたまへり。また弥陀の第十七の願には、「十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我 名者 不取正覚」(同・上)と誓ひたまへり。願成就の文(同・下意)には、P--760「よろづの仏にほめられ、よろこびたまふ」とみえたり。  すこしも疑ふべきにあらず。これは「如来とひとし」といふ文どもをあらはししるすなり。    正嘉元年[丁巳]十月十日     親鸞   真仏御房」

 やわらかな陽光のうちに、一区切りつきました。しばらく休みます。

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浄仏土と往生-3

 さて、往生について、往生の内容は成道、証果、還相廻向ですので、それらについて更に目を向けます。

 親鸞様は『教行信証』の「後序」で、浄土の真宗は「証道いま盛んなり」と断定されました。
 どういうことかと申しますと、浄土の真宗は、聖道門ならぬ「証」道門だ、浄土門は成道門、成道宗だ、と仰って居られることになります。

 また、

「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』(選択集)を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(礼讃 七一一)の真文とを書かしめたまふ。」

と、師、空聖人(源空。法然のこと)への入門を「雑行を棄てて本願に帰す」出来事としてハッキリ仰っておられるわけです。帰命を得た、ということですから、回心された。

 そこには同時に、よき人=師への出遇いが記録され、また、『選択本願念仏集』という論書書写の許可と題字染筆、並びに真影図画による、親鸞自身への付属ということが示されています。正統の宣言とも、申せましょう。

 書、ということですので、なかなか中国東亜文化的な書の尊重ですが、論説への帰命、論説による敬信ということが併せて述べられております。
 師資相承そのものとも言えましょう。

 経教を証しされる知識(=善知識=教師)に出遇われた。この故に、論書という講義録の法統を重んじられるようになられた。
 これは片洲濁世の、インド中国朝鮮の翻訳経由、時代の隔たりなどもあったかも知れません。
 釈迦の遺教ましませど、浄土の諸経ましませど、だと思うんです。いやそれどころか、龍樹・世親ましませど、曇鸞大師なかりせば、と聖人自ら表白されているわけです。

 ですから、徒に狭い料簡で解釈を加えることは制止されるわけですけれども、現代では、より包括的に、より深く、み教えを賜って往くということも大事なこと。
 己の知に妥協すること無き、無知の知からしましても、より広く、より深く、より包括的に、より完全に、より仏意・願心に適っていくべきなんでしょう。

 『浄土文類聚鈔』でも、「ここに片州の愚禿(親鸞)、印度・西蕃の論説に帰し、華漢(中国)・日域(日本)の師釈を仰いで、真宗の教行証を敬信す。」と、七高僧の論説・師釈に帰されたという謂いを示されます。

 同時に「後序」では大上段から、「聖道の諸教は行証久しく廃れ、」とも、「しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし、」とも、仰っている。
 更に流罪についても、「主上(天皇)臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。」と憤りと無念の思いを以って記録されている。

 余談ながら流罪記録は『歎異抄』にもありますけれども、編者唯円と覚如さんとの関係もあり、そのまま今度は教団内の問題としても続いたとも受け止め可能でしょう。
 流罪記録にも、しかし更に菩薩道、仏国土の顕現、実現という志願が感じられましょう。

 「如来の矜哀」ということ自体が、これはもう一切衆生の有様を矜哀されていて、「正信偈」では「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪」と、唯除されて抑止されているところの五逆と誹謗正法に対する、如来と菩薩の思い、現世と為政者への思いを示すわけです。
 はっきりと改革を進めていきたい、進めて欲しい、そういう姿勢を示して居られる。朝家に遠くない教学者として、政界への意向が鮮明なんです。

 しかし親鸞様は、いろいろ苦労されて辛酸をなめられながら、浄土門主流としての自覚を持たれているし、天台と貴族社会に対して実は、ヴ・ナロード傾向もあるんです。
 あまり遺された文章の字面からは見えないかも知れませんが、バタバタと人々が斃れて逝く世相への願心はある。
 有情利益は思うまじ、とか、三部経千部読誦断念とか、何とかしたいお気持ちが伝わって参りましょう。

 そやけど先ずは、流罪にも、続いている念仏への迫害姿勢にも負けず、一貫した為政者と教界へのアピールに着手された。
 それもおそらく単純なものでなく、日野家としても、吉水のサンガとしても、叡山の一翼としても(ことに赦免後は)、撃ちてし止まん、みたいな意見を各方面にお伝えだったんだろうと思います。
 赦免自体、叡山の影響も思われましょう。念仏弾圧も一方では続いていたとされ、必然的に護教的な姿勢に繋がっていくはずです。晩年の太子奉賛のご和讃御制作も、為政者への呼びかけとしても、緊張する国際情勢への対応としても、あるのかも知れません。

 それも御本書(『教行信証』)にみえる重要な一面なんです。御本書をまとめられた一因にもなっている。論駁書でもあるし、整備された祖師方の論説のまとめと紹介でもあるけれども。

 割とハッキリした人だったんです。ここだけ見ると、曖昧さのかけらも無い。

 ですから、人民の為の政治に近づくには好い願心を得られながら、教相をまとめられたのは偉業ですけど、しかし学者の作品みたいにみえたりする。それでホンマに成るんかなあ、と。せっかく娑婆世間に打って出ようとされたのに。

 両度とも、ヴ・ナロードとか、人々の境涯への思いも、決して薄いわけでは無いのに、具体策が弱い。実際の施政方針まで言及するということが弱い。あくまでも僧分、学僧に徹して居られたとみて好いでしょう。
 これは時代の限界もありましょうし、僧分の役割認識の限界も感じられましょう。
 インテリとして流罪赦免後も迫害されながら、同時に政治的頂点との接点もどこかにあったんだろうと思いますが、先ずは浄土門の正当な評価を要請される。その中で、仏法による治世をそれとなく呼び掛けられるだけで精一杯だったことは想像に難くありません。。

 実際の政策が弱い辺りは、実は成道上の大問題なのかも知れません。朝に夕に、間断なく人民の為だけを考えて、どうすればいいか憶念して、現実をみすえ続けないとダメじゃないか。たとえイデオローグに過ぎぬとしても、このこと一つで、成るんではないか、と。人間関係成就にして他者をみそなわすこと自己の如くする菩薩道とか通力自体も、それを示唆します。

 もちろん好き世界という法界パラダイムが、能う限り鮮明でないといけないのも事実ですが、現実の人々の為に、が弱いということですと、如何やらん、と思ったりします。

 存命中をゴマかしていくと、死後かどうか分らんくなるんですけど、存命中だけが大事なんです。いま、生きる道しるべを持てないと、生存自体危ぶまれましょうから。
 ですからひょっとすると、もちろん大切な道を賜る書ではあるけれども、その質でそのまま成道するかどうかといえば、実際に願心の通りに生きないことには分らん、と。そうなるように感じますね?

 友なる政治経済法制の社会が要請されているのに、これは帝政でも民衆尊重の皇帝や貴族により、かなり可能なはずなんですが、まあ、あの時代、社会思想が無いけれども、好き施政の姿勢をシャカムニみたいに提案できなくては、弱いです。
 もっとも、シャカムニも多々誤解される謂いを仰いましたから、籠りっ放しの人たちも産みましたけど・・・。

 如来の真実を代弁してきた自分たちの真実教、真宗処遇への憤りだけがハッキリしてるけど、浄土論で弱い現実の人民ライフへの切り込みは、少なくとも文章上は、かなり薄いんです。『教行信証』「真仏土巻」にいたしましても報土の法身ということが中心に感じられますし、「化身土巻」で課題とされている事柄が、まあ、批判されてはいるが、見直す必要があるかも知れません。
 娑婆世間の救済は、これはもう「現世いのり」として排されがちでさえあるし、「有情利益」も、たすくること難しで、更に薄れていく感すら憶えざるを得ません。教相と解釈が問題なんじゃないか、と。

 そこでまた再び、実生活上での精進が問われて来る。両度には弱かった質があった、と。両度は近づいたけれども、なお、遠かったのではなかろうか、それ位の気持ちで、臨むべきでしょう。

 雑行とは我が思いはからいから生じる自身と人生そのものでしょう。
 これは師、法然聖人との出遇いに於いて述べられている。ですから、諸行往生か専修念仏か、ではないのかも知れません。全ての行、それを否定せられたということですから、それまでの自分の修行と人生全部の自己否定です。
 自らを滅ぼし尽されて往かれた。

 ただ、雑行を棄て、本願に帰す、ということですんで、本願のもたらす生き方からみて、祖師方も私らもどうなのか、何処へ赴いたのか、好い質は保持しつつも、間に合わんとは言え軽視若しくは忘却されている現実的な救済策があるとすれば、何をかいわんや、と思います。
 仮にもしも本当の出遇い、往生ならば・・・素晴らしい出来事ではありますけれども、菩薩業だとすれば、とても出来ないような大変さがありましょう。教えにふれて、たとえ身が踊っても、ひと時のこと。
 娑婆世間の日々の「荒行」だけでもウンザリでしょうし、大体、前の部分でふれましたように、仕事といわず地域、家庭と言わず、縛られてる。
 この状態で、還相の菩薩の利他行までやれますか。本願に帰す、というのは、どうしてもそういう感じがあります。

 しかし本願に出遇ったなら、間に合わなくても微力を尽くそう、となるはず、なんです。間に合わんから、これをやろう、ということも可能で、それが論書御制作、仲間やお弟子さん方との対論だったんでしょうから、文句は言えませんけど、現代からいたしますと、物足りません。何より、シャカムニとお弟子さん方と大乗仏教運動のお示しの、人民への給仕志向からみましても、物足りない感じを持ちます。間に合わんとは言え。

 親鸞様の教判自体も、疑いなく当時はいのちがけだったことは認めますけど、どうしても人民全部の実生活の改善、という質が弱い。如来の本願、仏意・願心って、いのちを生かすもんなんですけど。
 数百年前の先覚に批判して食い下がってもいかんですけど、かかる芳しからざる質が現代まで続いたんでしょう?

 受けた大功徳の宝海を斉しく衆生に回施せん、とも、龍樹を承けて宗祖は『高僧和讃』の最後で表白して居られるんです。この点は、そうだと思います。イデオローグとして、教師として疑いもなく八高僧目になられたし、教団としても教法の中心として親鸞様をいただいているわけですけど、

南無阿弥陀仏をとけるには
 衆善海水のごとくなり
 かの清浄の善身にえたり
 ひとしく衆生に回向せん

と述べられ、さらに、『教行信証』の「証巻」においても菩薩ということに帰され、「後序」に於いても『華厳経』を引かれ、菩薩ということに帰されている。菩薩というのは実践なんです。
 教化地に至る、ということなんですけど、化というのは、教えが人と社会を変える。教えが物質化されもするだろうし、ただ教を明らかにするとか伝えるとかでは無いんです。法が人間と世界に化現されていくことでしょう。共同体が変わる。
 まあ論書等をまとめられましたから、生活実践に生かす、生活を成立させていくという課題は後世の我々に委ねられることになったんでしょう。

 モメントがあって、日ごろの私を脱して、本願に帰する、帰してもちろん、いよいよ脱する。
留まるも進むも退くも先が無い、三方死が人生、なんですけれども、白道がある、と。
 回心、帰命ということはそういうことですけれども、娑婆世間にも永遠の未来があり、可能性に満ちているじゃないか、この生存以外に妄想することは出来ん、と。

 しかし本当に未来と可能性を持てるにはむしろ、棄ててこそ浮かぶ瀬もあれ、日ごろの囚われを離れて初めて、尊び合え認め合える世界に出遇い、これを頂いて、戴いて初めて、生存も生かされて来る、そういうことだと思うんです。優れた施政の姿勢や政策企画や政体だけではなく。

【参考】

『教行信証』証巻末

〈出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく〉(浄土論)とのたまへり。
〈応化身を示す〉といふは、『法華経』の普門示現の類のごときなり。
  (私註:衆生を救済する為に観音菩薩が様々の姿をあらわす。衆生の迷いや悩みに応じて、いろんな姿であらわれること。参考:『顕浄土真実教行証文類現代語訳』本願寺派、岩新『法華経』下p252)
〈遊戯〉に二つの義あり(私註:二つのいずれも、とらわれなき義)。一つには自在の義。菩薩衆生を度す。たとへば獅子の鹿を搏つに、所為難らざるがごときは、遊戯するがごとし。二つには度無所度の義なり。菩薩衆生を観ずるに、畢竟じて所有なし。無量の衆生を度すといへども、実に一衆生として滅度を得るものなし。衆生を度すと示すこと遊戯するがごとし。
  (私註:とらわれなし、究極は作為なし、という解釈が普通です。度そうという執着で衆生をみているのではない。衆生を度すといえども、菩薩には、一人も度した思いが無い。易々と度するようはたらいている、ということです。正信偈では「遊煩悩林現神通」。)
〈本願力〉といふは、大菩薩、法身のなかにおいて、つねに三昧にましまして(私註:憶念し続けている。サマディの一つの在り方ですがこれも、神通と関連することがある)、種々の身、種々の神通、種々の説法を現ずることを示すP--335こと、みな本願力より起るをもつてなり。たとへば阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳の相と名づくとのたまへり」と。{以上抄出}
  (私註:親鸞様の、本願が自然に、自ずと、はたらいてきて、回向を受けた菩薩もまた、本願と同じようにはたらくことを得る、という御自釈です。還相廻向の菩薩も同様だ、ということです。)
【18】 しかれば、大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。還相の利益は利他の正意を顕すなり。ここをもつて論主(天親)は広大無礙の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。

『教行信証』後序

【117】 ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。

ここをもつて、興福寺の学徒、太上天皇 [後鳥羽院と号す、諱尊成] 今上 [土御門院と号す、諱為仁] 聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上(天皇)臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。しかれば、すでに僧にあらず俗にあらず(ただの罪人だ、と)。このゆゑにP--472禿の字をもつて姓とす。

空師(源空)ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。皇帝 [佐渡院、諱守成] 聖代、建暦辛未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて入洛して以後、空(源空)、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまひき。同じき二年壬申寅月の下旬第五日午時に入滅したまふ。奇瑞称計すべからず。別伝に見えたり。

【118】 しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』(選択集)を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(礼讃 七一一)の真文とを書かしめたまふ。また夢の告げにP--473よりて、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもつて名の字を書かしめたまひをはんぬ。本師聖人(源空)今年は七旬三の御歳なり。

 『選択本願念仏集』は、禅定博陸 [月輪殿兼実、法名円照] の教命によりて撰集せしむるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万なりといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつて難し。しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。

 慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。これによりて、真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭ふ。ただ仏恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥ぢず。もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。P—474

【119】 『安楽集』(上 一八四)にいはく、「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。いかんとなれば、前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」と。{以上}
【120】 しかれば、末代の道俗、仰いで信敬すべきなり、知るべし。
【121】 『華厳経』(入法界品・唐訳)の偈にのたまふがごとし。「もし菩薩、種々の行を修行するを見て、善・不善の心を起すことありとも、菩薩みな摂取せん」と。{以上}

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 大変広く深く温かいですね。本願の仏心と、それにふれられた親鸞様のお心が伝わって参ります。本当に安堵される世界に帰された。

 しかし同時に、改めて菩薩道。生活実践。証巻末で思われて参りましたが、三昧、神通など、現代からみますと結構踏み込んだ「危ないカテゴリー」が散見されるほか、度衆生自体も菩薩自体も、もうこれは、十分危ないけど、引文された経、論も、大経21願の三十二相も、ハッキリさせた方がいい。既に先学の労作がありましょうけれども、今一度。
 何の気なしに目通しして参りましたが、随分めんどうで煩瑣な攻究になってくるんです。

 神通力、唯識、兜率天の天親(世親)・無著との弥勒コンビ、鸞に親しい、親が鸞である、論に於いて龍樹を承けた世親(羅什訳ではあるが・・・)、全て聖人はご存知でしたから、こうした親鸞の学びということが、菩薩道として展開した仏道の頷きは好しとしても、どうもこれは曇鸞としての世親みたいなことに傾いている。
 名も天・親であり、世・親、世間ではない方を選ばれている。世間離れしてた方が神通にも理想の布教にも好もしいんでしょうし、皇帝との関係もある。

 名といえば、「釈綽空」の名が出て参りましたが、これも通説と異なり、法然房源空の異名かも知れないという気がして参りました。

 やはり中国仏教と同じく、朝廷との関係も意識されていたとも、言えましょう。
 まあ、「化身土巻」で老子に食い下がっているのも中国仏教の伝統で、やはり儒家と共に、皇帝との関係を巡って争う。皇帝即ち世間の政治、為政者ですから、理想の仏教国家実現への希求とも相まって、そうなるでしょうね。洛都の儒林にも批判的ですが、御身内にも漢学が居られましたし、儒家の形而上学的な固定世界観、それでいて為政者の徳目主義があるのと違って、道家は似たようなところがありましょうから、尚更でしょう。

 一方龍樹はやはり以前仮押さえしましたように、「釈迦の生まれ変わり」として遥か彼方の存在なんでしょうか、信を明らかにした方として、表敬される存在です。

 ただこれは親鸞研究であって、そのまま仏道や菩薩の在り方の参考になるかどうか、自明とすることは、早計に感じられます。
 仏になるはずだったし、なることにしてきたけれども、本当になるのか、なったとしても、ちょっと違ったイメージの存在ではないのか。
 本願の仏意願心は好いけれども、多くの解釈や疑問、解釈の改革に触れて参りますと、更なる教相が求められているのではないか、と。経教よりもさらに別の土へ往くのかも知れません。
 こうした問いはいずれにいたしましても、仏道に終わりなき故に、欠かせないものとも思っています。

 成程、通力を備えることは結構で、対他性備わる共なる世界で自分はたすかっているかもしれないが、果たして底下の凡愚に通じていくのかどうか。
 親鸞様の頭には、アショカ以後のペシャワールや、カニシカ西域王時代があったかどうか分かりません。ただ、ひょっとすると、無著・世親という兜率天弥勒コンビが活躍する時代を、大衆もろともなる仏国土としてイメージして居られたかも知れません。

 神通が届く遊戯地は、そういう意味かも知れない。すると、如来の願心と諸相を有する浄土とも、無矛盾であることになるんです。
 唯識型の意識の中としても、実際に神通力が備わったとしても、無矛盾。
 既に出遇って主として賜って、名号と本願がはたらいているから、これはもう往生人でしょう。
 更には、その後の部分の本願力(阿弥陀さんですが、大経22願の菩薩の本願でもある)のサマディとも無矛盾になるでしょう。

 同時にこれは「度衆生」との関係で定立されていますから、私の言って来ました通り、通力自体が一切衆生という、人民の為という、ともなる私という、尽衆生性という、共同性・対他性重視の表出だということとも、無矛盾だということになりましょう。

 ただ、通力の常ならぬ重視、ということが感じられるわけで、どうなのかな、と。
 神通は関係性の重視ではあるから、成道ということではあるけれども、他者の教化としてはどうでしょう。龍樹菩薩も教化の方便と規定していたけれども、衆生をよく観察して菩薩が仏の応化身で応えるには、通力で知ることは望ましいでしょうけれども、法海とその実現する世界で、慈悲と智慧で、限りなき灼熱の慈しみ、友であれる世界で、好く設けられた社会と人間関係で、応えるしかないのでは、と思います。

 「証巻」末の菩薩道として、各巻も「真仏土巻」も「化身土巻」も検討しないといけませんが、自在ということがある、思うがままに、ということもあり、これは『歎異抄』で不可とされた慈悲が想起される。
 自ずと在れり、ということは、本願力回向により還相菩薩道もまた、自ら湧出する、そして、応化身を尽くしていく、そういう質に決まってます。往生人の世界です。

 まあこれは普通、まず無理で、思うがまま、どころか、何やってもあかんやろうみたいな・・・。
それこそ、二乗に堕するか、途中挫折するか、留まるも死、進むも死、退くも死ですから、度衆生なんぞ、とてもとても、はなはだ心許ない。

 しかし、そうなるんだ、という確信みたいなものが感じられまして、これも危ないような気がする。
 出遇ったのが仏意願心であるから、その願心は信頼するけれども、心身は依然として底下凡愚のまま、本願を賜ったし自己を相対化するけれども悪人のまま、でもあるわけですから。
 まあ、どれもこれも、危ない。
 教師として親鸞様ははたらかれたから、それで好いかも知れないが、七高僧を還相の菩薩とみて証をまとめられただけなら、それ以外の「弥勒等同」のはずの「信心の人」は、往けるのか、どうなのか、整備された御本書の外の実際はどうなのか。
 近いところまで往かれ、薄紙一枚のところで止まられたのか?

 ただ、仏菩薩自ら、次のように仰っている。

○○の人たちはいい人たちだ。(大バリニッバ-ナ経 シャカムニ)
いや私はこの世界に留まろう(岩文梵文現代日本語訳『無量寿経』法蔵菩薩)
仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔(漢訳『無量寿経』法蔵菩薩)

 引用が単純で恐縮ですが、人々を喜び、自身を喜び、人民の中に根付いていく尽衆生性を持って、共同性、対他性が示されているのが事実、ではないでしょう。
 友たらん、共苦し、同悲する限りなき慈しみの表現でもあるんです。
 親鸞様も御消息で、仏法は人の為、と仰るのは、いのちの為ということだと思いますけど、いのちを尊び合え認め合える世界に、樹心仏地しておられるからである。

 現世いのりを批判しながら一方では、御消息などでは朝家の御為とか、世の中安穏なれ、仏法ひろまれとか祈って居られるでしょう?
 ですから、何らかの往生をされている。
 まあ、こころは蛇蠍の如くなり、と仰られたのは、明らかな生物差別ですけど。

 これも危ないんですが、得手に、私に狭い料簡を加えますと、還相の菩薩ということがあるけれどもこれも、応化身は様々である。
 だから、例えば、人民服への解放、これは軍服への解放とかにも近い、ラクになれるものがあるし、また、明るく柔らかなる世界や、自由な社会への解放、そうしたことも視野に入れた浄仏土への遡及みたいなことだって、存命中の人生を尽くしてゆくには欠かせないんじゃないか、と。その「共同体」の中での人間の意識はどうあるか、簡単には結論に肉薄し難いけれども、ナチとスターリン体制の問題点と絡めても、重要なテーマでもありましょう。

 少し高望みし過ぎかも知れませんが、気分だけの、内面だけの浄土では仏自ら満足出来んがやないやろか、と。
 いろんな世界から好い処を選択して、詰めていかんことにはアカンのやないか、経済関係から政治体制まで、明るくて柔軟に越したことは無いんや無かろうか、と。
 本願を主とする、仏道を主とする国づくりを進めたに決まってます。

 往生とは何か、どういうものとして親鸞さまは思っていたか、仏の方より、浄土は開かれてある。
 回心信心でこれを賜って生きることで、共に好い人生としていく糧となる理念、理想、観念が、浄土だろう、と私は思っています。まあ、このことに気づく処までたどり着くこと自体、難しいのかも知れません。

 しかしいずれにしても、成ったか成らんか、成らんとなるとこれは、虚仮土か、観念土か、差別土か、妄想土か、何土に往ったのか分からないことになる。
 娑婆世間土の方が、良くも無いし取り組みやすくもないが、取り組み甲斐は、あると思うんです。現実ですから。正しく観察出来ているかどうか、実相を把握したかどうかは別として。

 なお「ブッダの法・報・応の三身」観としましては、親鸞様は天台横川の源信様、まあ、本願念仏の源信様ですけど、も信奉して居られますから、これもよくご存じだったであろうと思うわけですが、菩薩という処で応化身があり、報土というところで報身があり、み教えは法身、ということでしょうか?報身土がブッダの世界というのは、解釈がおかしいですか?

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 存命中の人生の、共同的な願心を考えます。
 願心が大事ですが、これはもう、どうなのか、いろいろ世のために腐心してみることは大切だが、間に合わない、何とかほとけの世界に学ぶし、それ以後現代までの歴史がもたらした成果を加えていくけれども、それこそ、何をやってもアカンやろうなあ、という自制と自戒が大切。

 現代の成果も加え、十悪・五逆・三悪道というものがもたらす世界を打破するし、迷妄と思い込みの世界を打破するし、良き世界を提示する。そして、間に合わないことを自覚させる好い質が得られるでしょう。
 
 さらには相対化を示しておくべきだし、現代までの成果を盛り込むべきでしょう。
 たとえば、まあこの、人民服とか軍隊ライフとか、自由な社会とか、そこに感じられたり、たまには実際に享受されるような「解放」の質ということが、どういうものをもたらすのか、ずっとみていかなくてはならないわけです。
 何が解放感をもたらしているのか。何が彼らを自由にしたか。

 そして、解放感や居心地の良さは、尊重しなくてはいけません。そして、好き世界へ邁進せよ、と。こういうことなんです。ただ、他者を害っているとすればそれは、自己の人間性を害っていき、結局自害害他の自身を脱せない。

 普通ですと、出来ないことは棚上げ。事務日程に上るかい、そんなもん、と。そんなこと言っとれん、とも。

 しかし仏教の姿勢は違うんです。これは大事な点です。わが身を振り捨てて、我が身の悪きを顧みずに、そのとおりめざせ、と。

 まあこれも、見てまいりました通り、差別性もあるし、全部そのままというわけには、現代教学の水準では、いかない。
 古典でも、三蔵に残る問題点をすべて洗い出して、払拭していかんといけない。
 ましてや現代諸地域のモデルも、そのまま受ける愚を犯すものはいない。
 好いところを選ばざるを得ないんです。

 だから、それが難しいことが歯がゆい、と。それでも、政策や社会モデルの提示を進めざるを得ない。人間関係を好もしくしてゆく道も示唆されなくては。
 また、ちょっとだけ好もしい方向を提示しても、実行されないことも歯がゆい。どんどん悪化してきたが、止められなかった、と。
 
 それでも、進んでいくんです。知進守退ということです。無理するんでないんです。自ずと湧出してくる。

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 そもそも、成道は智慧と慈悲。
 大悲も、慈しみ故に我々の有様を共苦し同悲するはたらきですから慈しみです。
 限りなき灼熱の慈しみと、世界と自己の在るがままの空無自性なる縁起や私の有様を見据えて手当てしていく智慧ということで、成道が既に開かれてある。
 仏が証され、明かされた。
 読んでも聞いてもピンと来んし、自分の中に入って来んけれども。

 それが浄土門のコンテキストにおいて、辿っていける。どうなっているか、そういう作業をしなくてはならない。幸ある世界への道は可能か、と。往き易しと、まとめられた教相世界であります。

 念仏が好い。
 念力があって、通じて来るんです。力ははたらくもの。
 ほとけの世界から伝わってくる。はたらいてくる。何を念ずるのか。本願のいわれ、限りなき灼熱の慈しみ、いのちの本源を訪ねる。
 仏の方から私に既に開かれてある、仏の方から往生は治定である、と。ただ、信心、回心、頷き、開眼、発心と同時に。
 けれども、回心発心から浄土を中心に、ほとけの世界とそこへの往生をいただいた私の、成道は如何やらん、と。

 いろんな方も講義されているが、どうなのか。
 往っとらん成っとらん、と叱るわけにもいかんし、往った成ったと喜ぶものとも違うし、往かんでいい成らんでいいとも、言えない。

 シャカムニは、とにかく怠らず務め励めと仰っているから、成道の如何によらず、成る前には前の、後には後の、精進が言われる。
 成ろうと成るまいと精進。

 これは、まだそれとして十全には開けてこないとしても、素晴らしい世界にふれるなり、頂戴したから、精進出来るわけです。
 本願力回向の世界が素晴らしいんでしょう。温かく明るく、柔らかく広い。
 昔の差別常識も混入してて危ないけれども。

 だから菩薩道として仏道をまとめる運動があった。
 限り無き灼熱の慈しみなる恩寵にあずかっては、今度はそれに報いん、と微力を尽くしてゆこう。と、こうなるはずなんです。及ばんけれども、お手伝いをさせていただく。

 往った切りではないことは度々述べました。
 不勉強で恐縮ですけれども、諸教に於かれても、天使や預言者が、還って来られているわけでしょう。まあこれも、ダルマのようなものとして、法身のように、意識に現れるケースもあるんでしょうし、伝道者として、生身にも、現れて来られるんでしょう。

 春の日差しが明るくなって参りました。
 雪解けも進みます。
 春の日には・・・と、詩にも明るさが蘇りましょう。皆様との出遇いを嬉しく思います。
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浄仏土と往生-2

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雪路のお参り

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火打、妙高のお参り(14日)・・・違うか・・・

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海のお参り(14日)・・・違うか・・・

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川のお参り・・・これも違うか・・・


 旧正月を迎えましたし、オリンピックも開催中でめでたいばかりですが、今になって結構降雪が続き、この辺も2メーターほどの積雪となりました。

 低温と豪雪のお見舞いを申し上げます。

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 モメント、出遇いという点では、人生は、当て所なく寄る辺なく頼りなくさ迷う、惹かれるように道を求めても、依然として彷徨う。

 自分だけが頼りだと思いながら、その自分が全く当てにならない。フワフワ、フラフラとしていて、自身も道も分からないということがある。まあこれ、病気ですけれども、若い時分にはたまにありましょうし、仕事やらいろんな運動やら選挙やら、半分神経衰弱になってたり、強迫観念やノイローゼみたいになることもあるんでしょう・・・。

 個人としての取り組み、仕事・地域・家・生活に追われてもいる。世界観としても、日常的な娑婆世界観も、日常の城・常識の砦になっていて、脱し難い。
 どんな偉人でも、一つことに没頭するなら、一度に多数を聞き届けて応えたり、万民にも通底する質で応えたりする時間は限られている。
 ましてや凡夫ですから、娑婆世間の論理に埋没しがち。出離の縁あることなし、で、モメントどころじゃない。
 本当は至る処がモメントだらけだが、まあこれはもう永代、堂々巡りみたいになっている。

 更に、いのちの尊重、と、生きることの大切さや素晴らしさ、と、色々言われまして、そりゃ大事に決まってます。分かりますよ。でも、何時斃れんとも知れん、既に病んでもいる、先行きも無い、そういう年寄りの自分にそんなこと言われても、今一つ、身が乗り出さんみたいなこともありましょう。

 まあ、先行きなんかは実は、個としては誰にも保障なんかされとらんのですけど、確率上、若い方が永遠の未来に恵まれてて、年寄りは逆に奪われてる、人生終わっとる、と、こういう感覚でしょう。

 爽やかで、静かな時間が大事ですし、自らを見つめる時間が大事だと思います。
 既成の意識や自分の思いからも、時には自由な時間が必要だということでしょう。
 
 また、先ずは身を置く。業務や学びやスポーツ・趣味等々に、先ずは身を置いていくことも大切でしょう。個としては短い一生であれば尚更、自分が自分になれる分野に、先ずは身を置くことを推奨したいと思います。

 解き放たれる時間と場が要請されている。娑婆世間の延長はいつも先窄まりで、いずれは全て失うに過ぎないもので満たされているだけ、でもあるんでしょう。年齢も立場も関係ない。

 ただ、好く生きることが願われている。

 法座というのは学び変化していく場で、出席前も後も、心身は娑婆世間べったりで変わりませんが、それを見据えるというところで、自らを相対化したり問い返したり、少なくとも視点としては娑婆世間から解放していくんです。

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 しかしまた、ちょっと立ち止まって見てください。覚醒という形式で、反って眠らされたり殺されたりしていないか、とも、問われて参りました。

 如来、仏国土の往還、菩薩ということが、彷徨える私の有様を問うて参ってもおられます。
 
 私が本当に満たされる、友なる仏意・願心(法)ということがあるんです。我々に限りない灼熱の慈しみをお伝えになられている。
 身心(機)の事実ということもある。事実が内観によって自らに頷かれていく。

 親鸞様は信心と言うのは「まことのこころ」と読まれましたが、真実、事実に頷くことなんです。ウソや欺瞞、怪しい事柄や危険な事柄に頷くことではない。事実が頷かせるんでしょう。

 まあそれで、戻りますけど、出遇ったところから、どうするか。
 何ほどのことも出来ないことが分っている。ありのままでいい、このままでいい、と言われるけれども、ただ、出来る事は、出来る限りやろう、とは思っている。ほとんど出来そうにはないけど、みたいな?

 見直して、繋がっていく。社会的生物であるからこれはなおそうであるけれども、社会なり政治も、身はそのままそこに置かれているとはいえ、一旦別の視点で見直して、改めて企投していく、みたいなことがあるんでしょう。棄国捐王後に、浄仏土なる仏国を建立される、と。

 見究める力が要るでしょうし、矛盾も雑も異も丸抱えしながら、という姿勢も要りますし、そうした中で真実一路をそれぞれが進めようとし、相互に対論を進める中で好い展開を生み出していくことも要りますけれども。

 菩薩と言うも、如来と言うも、これはもう至る処で人々の機根に応じて自立の支援を続ける、発心自体からしておおごとで、そのうえ求道の心構えは易行道と雖もゆるがせには出来ませんし、発心以後の道のりもまた艱難辛苦に満ちていますし、加えて、日々の娑婆世間暮らしだけでも限界です。

 ですから、ちょっと踏み込みかねますけれども、しかし限りなき灼熱の慈しみたる願心だけが私を中心から支えてくれているのも、事実なんです。
 そして自我とか我が思いとか娑婆世間の論理から解き放たれたる時間は、何ら休まらぬ、安んじ得ぬ場に於いてもなお、破壊せられぬまま、私を問い続けて参られるのでしょう。

 まあこの事実、信心に気づくまでの道のり自体も永劫の道のりで、様々覆っているものがありますし、九十五種もありましょうし、身を迷わせるものも代用品もそこら中に転がっている。そして、こうした実生活にさえ、気づけない。
 もちろん、自我と言わず、邪なる自己を問わないまま、ということはやはり、いつか無理が来る。破たんし、破壊されていくんでしょう。ですから、更なる諸世界の流転が続く。

 しかし願心の気づきに於いて、たすかる。身をそのままに留めながらも、願心が主と成って、問いかけ続け、導き続ける。
 視点、主客が転換され、仏眼を賜るんです。

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 社会性、共同性、他者の重要性に関連して、古来、生死の隔てが薄く、古代メソポタミアの例でも死後も先祖壇が家々に置かれていたり、南米でもミイラなどと一緒に暮らしていたり、古代エジプトでも精霊まで陰膳が添えられていた。
 死後も共同体の一員としての地位があったんです。ネアンデルタール人の墓地にも花が添えられていた、とも。
 共同体なんです。繋がりと連帯。なお、狭い世界を脱しないとしても、他者が大事なんです。

 ただ、サンガと言いますけれども、人類全員がサンガであって、いろいろ、雑であったり、異であったり、宗教も違ってたり、道を志しても、いくつか分かれていたリ、宗教や思想のパラダイムが違ってたりするけれども、それ以外の在り方は無いんです。
 異ならないもの、一元的なものを求めますならば、限りなき灼熱の慈しみが、それとして既にして万民共有で与えられてある。
 まあ、究極を申しますと、そうなると思うんです。

 考えが間違っていたり思想や教相が怪しかったりする人たちに任せておくと、世間も、教も教団も、人々の生活が、時には生存も身体も滅茶苦茶になるから、善導と言うことが願われているんですし、時効なく説法が続けられるんです。
 けど同時に、それとは別に、善悪の二つ総じて以って存知せず、というところで、往生がある。

 全部受け、丸がかえしていく。大事なことです。そうでもしてもらわんことには、とても生きて往けません。



第Ⅱ部

 さて、年末から年始にかけてゴチャゴチャと一杯言いましたので、分り難くなり、すいません。

 先生方には、異論はおありでしょうけど、むしろこれまでの拙論の帰結としても、更には現代教学常識としましても、さほどフレッシュでも無く、驚かれもしない展開の一つ、ということです。

 まあ、近代を経、そして「現代」教学も大きく見直される中で、とにかく教相と教判から自害害他、自障障他する質があればチェックし、除去してみよう、それが取りも直さず反及び非仏教的な質との取り組みの一つである、と。

 現実には我々は罪悪生死のままであるから、除去といっても、実現可能のことは、なお、限られるけれども、仏意・願心が自ずと湧出して、好き世界という理想を身の中心に据えて自身が照らされていく中で、ずっと自身を、いのち全部を課題としていく、ということです。

 今回も所々重複しながら、アチコチ経廻りたいと思います。

 古典仏典を読み解いてゆこうとしますと、テキストのディスクールに当たる中で思量を重ねていくのは当然といたしまして、そのテキストの背景となる時代相と意識みたいなものや何が常識となっていたのかも、ある語で表現したかったことはどんなことかも、どういう状態を想定していたのかということも、また、なかなか難しいけれども、テキストやパラダイムに欠けているものがないかということも、テキスト外の世界のカテゴリーで有用なものがあるのではないかということも、思量を重ねていかないといけないと思います。

 まあ、テキストに当たるだけで仏道を解していけるかと自問いたしますなら、当たらんでも解せる、と。当たると分らんくなる、と。睡魔にも勝てず、よだれを垂らしながら眠る、と。
 先師先人と言わず、現下の方々の志向や行いさえ、多様な出版物さえ、むしろ成道に近づく実践の参考になるかも知れん、と。

 三蔵(経典、律書、論書)とかはどういう視点から見直されなくてはいけないか、何度か触れました。しかし根源は、いうまでもなく、仏意願心から、であろうと思うわけです。
 かかる仏意・願心に触れるのもまた、三蔵であろうけれども、中には仏道に導かない質が孕まれている、となると、大変危ういわけです。

 ですので、何を要として全体を受け止めるか、取捨選択が要るんです。教相判釈といいます。
 しかし第一義の最優先を何にするか、これは実は娑婆世間にもある。多くの害毒性を併有しつつも自然の願心がありまして、衣食住や人間関係全部が好き世界への求めである。必ずしも自分のことばかり思わないのが人間だけれども、自分の為にもなる世界。
 まさに限りなき灼熱の慈しみと、我執から解き放たれたる有様でしょう。友で在れる世界。

 まあ、不死ということがあるけれども、これも、友であれば、与え合って生きていく。いのちを与えて友が生きていけばいいんです。他者をみそなわすこと自己の如くす、と。
 友なんかおらんし、群賊悪獣しかおらんし、留まっても進んでも退いても三方死であるし、限りなく自分がかわいいけれども、とてもたすからん。

 けれども、ただ、たすからんのも、これはこれで嫌だ、という一点で、たすかっていくんです。
 衆生の願楽悉く、速やかに疾(と)く満足す、といわれるが、自分の願楽が分らんと。

 お経、律書、論書の中で、深い人間観と限りなき灼熱の慈しみを以って求められたはずの王道、政道、人間関係、対他関係と社会創造ということが、すっかり忘れられ、はなはだしきは、奥の院に引き籠るを以って尊しとする、シャカムニの生き様にても無き堕落を呈してきたわけです。
 まあこれはシャカムニの教えにもあり、確かに学びと内観の時間は大事です。しかし、本末転倒にならないことが大切。

 また、寺院は集会場所だとしても、出家が仏道の専門家としても、その姿勢はどうなのか、これまた、仏意・如来の願心から、何を為すべきか、人々の為になっているのかどうか、によって見直されなくてはいけない。

 一部の人間だけの救いでいいのか、まあ、そういう事情もありまして、大乗を名乗った運動が出来てきたけれども、実はもっと重要な運動発生の契機があったのではないだろうか。
 それは、人々の暮らし、政治・経済・社会・法制から余りにかけ離れたからである、と。人間観と一体に政策と政道を伝えようとすることが、かなり、失われた。
 龍樹菩薩の宝行王正論などは一部政道を示していますし、アショカは名声が高い。
 これまたシャカムニの責任がある。多く政治経済の有力者の相談を受けながら、また、適切な助言も仰りながら、しかしなお、十全にはご自身の到達点やこれからの娑婆世界に対する展望をお持ちではなかったようにみえます。ただし、時代の社会論からすれば、仕方がありません。

 まあ、奇跡とか病気直し、水湧かしや花さか爺なども大事だが、全体として干ばつや洪水対策、医療充実、衣食住確立が大事でしょう。

 世界の色んなコミュニティの連合の中で、全人民の声として、治ということが願われているわけです。

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 ただ、好き人(善知識。先生)の好き仰せには、これだけはどうしても出遇わんといかんやろう、ということに尽きます。真宗のテキストには、ふれんといかん。
 本願自体が原因となって、いずれは古典もたたき台となっていくけれども、限りなき灼熱の慈しみたる本願という核心が納まってもいるわけですから。
 理想・理念たる好き世界を窮め、他方、自身を窮めるためにも、欠かせません。私はそう思います。

 理由はまた、本願、限りなき灼熱の慈しみたる仏意・願心に出遇われ、帰されただけでなく、特に機の深信、凡夫として自己を見いだされ、相対化され、自己を滅ぼし尽された点が重要です。自己を否定されたので、実際の往生には難が生じたけれども、自己否定の質自体は、シャカムニが仰った、自己を滅ぼし尽すという質に近いわけです。
 そしてこれは法の深信がハッキリしていくことでもある。ブッダの世界がハッキリしているんです。

 それ故、取り敢えず、好き人、知識(善知識)ということですけれども、自分でも求めて色々学び修行してきたけれども、先生に出遇って、しっくりと来た、スッと入って来た、これだ、と。
 そういうことが、曇鸞大師では観経、法然聖人では偏依善導ということなんでしょう。
 親鸞聖人でも法然聖人と善導独明仏正意と、龍樹・世親・曇鸞に比べますと首(句)数は少ないけれども、お正信偈でも言われているのでしょう。

 しかもその質は、改めて思い至って参りましたが、ベックの岩文版『仏教』で述べられていて強く惹きつけて止まなかった「灼熱の慈しみ」とも相応して無矛盾ですから、部派仏教とも浄土門とも、何宗とも、何教ともいわず、最重要事項の一つである。

 実際には凡夫という、的確ですえとおりたる自己認識があるとしても、願心や尊し、なんです。これはもう。
 人間の為になる世界展開と実現ということです。

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 そこから今度は生活実践。これが大事なんです。分かって終わりじゃ無くて、なお十全では無いかも知れないものの「分った」なら、そこから始まる。
 どうしたらいい?と。

 実は、わざわざ大マジメに自己とは何ぞや?とか、これからどうしよう?なんて問いましても、既にして長年生活したり、運動したりしている。取り返しなんか、つかんのですよ。やり直しも出来ません。

 身体も弱いし運も無い、頭もアカン、こころは汚れ切っている、利他とか他者をみそなわすこと自己の如くせよ、なんて、とんでもない。ご遠慮申し上げます。大事なことやけど・・・、と。
自分はとにかく間に合わん奴で、人の為に何ほどのことも為し得ぬままだから、実際に人々の為に何か出来るとは思わない、いや良かれと思ってもむしろ悪しきをもたらすかもしれない、有情利益は思うまじ、でありましょう。

 だけれども、少なくとも、尊び合え認め合える仏法を伝えることが出来る、親鸞聖人が仰る、ただ念仏申すのみぞ、とは、そういうことです。
 祖師方はどなたも皆様、知識人でもあり先生でもありますので姿勢としてはこれは分りますけど、仏道の学びは学問だけではありません、人生に生かす、人生を生かすものですから、知識人になることとは、微妙な違いがありましょう。
 また、ハッキリ悪いと分かっていて改善できることもいくつかあるので、そういう事柄は制止し改善すべきでしょうね。

 ですから、実際に、聖人自らも御消息で、本願に出遇ったほどの者がそうした考えや行いに走るのは如何か、違うだろう、と仰る。御消息は最晩年のものでしょうから、それまでの事件の中で、十分では無かった点も教誡せられているんだと思っています。

 前述べたように、たとえ偏に自分の為だけを考えて暮らしていたとしたって、仕事どころか、遊びに行ったって、メシ食ったって、否応なく公共性があって社会貢献がある。そうなっちゃうんです。ほんのちょっとですけど。
 ましてや、如何にいわんや職業人に於いてをや。

 更には、知らず知らずの内に、思わず、身が動いていく。共感も同感もあるし、共苦し、同悲するんです。少なからず、他人の為に動くんです。もちろん、間に合わんままです。ですけど、そうしたい、そうしよう、ということだって、少なからず、あるのが普通で自然なんです。狭く乏しいながらも、義理人情も、ゼロじゃないでしょう?

 一応こういった辺りの我々の通世間的な在り方や自覚を踏まえましたうえで、可能のことがあれば、邁進すべきでしょうし、無ければ、出来ません。
 仮に可能そうなことが見つかったとしても、それが好き世界をもたらすことに繋がるのか、狭い範囲のお付き合いでも、繋がりが深まったり、人間関係が改善されたりするのか、自信は禁物で、むしろ自分の思いも方針もマズいかも知れない、政策でも何でも事後点検も要りましょうし、そのように、いつも問い返していくことが、極めて大事だろう、と。

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 志願自体は、人の世に熱あれ、光あれ、という水平社宣言もありましたが、明るく温かいんです。色んな運動も全部、願心が生きている。

 ところが、シャカリキになって必死に運動を進めんならんから、そもそも明るい温もりも忘れられていく。この一戦に臨んで、そんなことは言っとれん、と。
 まあこれは、水平社は反差別の非暴力闘争ですが、武装して抑圧を図る差別者や権力との対峙において、多くの解放運動・独立運動では武装闘争になる。たとえ正義でも宜しくないけれども、これは致し方ないかもしれない。

 が、可能のことは全て、非暴力で、非抑圧的に、威嚇も威圧も無く、対決するに越したことはない。

 まあこれは・・・解放っていうのは、闘争からの解放を含むんだ、なんつーと、軟弱もの、日和見主義、体制迎合、融和主義なんて非難浴びるかもしれません。たまに、せっかくの和解や合意や統合に対して急進的部分からテロをあびることもありますけど、解放の究極は闘争ではない。

 解放とは、見てまいりました通り、友になること、連帯と繋がりなんです。

 すいません、あんまり不真面目になっても叱られちゃいますけど、人民解放と雖も、バカマジメに人を害したリ殺したりするくらいなら、楽しく騒いでた方が好いと思いませんか?前から言ってるんですけど、運動は真面目に進めるといたしましても、ギャグもユーモアも低俗も堕落も無いマジメな向きにはこのHPは向いていないんですよね~。

 もちろんこれからの世界を拓いてゆくには、人類に好もしき世界の創造には、勇気も必要ですし頑張りも必要かもしれません。
 しかし同時に、軽やかであること、内に穏やかさを失わないことが必要に感じます。
 明るく信頼のあることが必要にも感じられます。
 柔軟であること、相対化出来ていること、自己否定があり無知の知があること。
 多様さを知り、異なれると雑とを丸抱えしていく必要もありましょう。
 疑念も信頼も知っていること。

 もちろん、三人寄れば文殊の知恵と言われ、矛盾と論議が大事だし、雑と異が大事で、分岐をハッキリすることでアウフヘーベンもある。
 同時に、それぞれが堡塁を守って頑張るわけですから、三人寄れば、否、二人でも政治権力闘争だ。上下左右中間を問わず、担当分野に応じても、殊に学究者・思想家・運動家・企業・専門家・各分野の担当者・諸制度下の諸国家と諸地域がやりあってこそ、アウフヘーベンもされるだろうし、統合もされるだろうし、同時に更なる分岐も生み出すんです。
 それが繰り返されていって初めて、前に進む。

 ですが同時に、全部を丸抱えする必要もある。政治家、国家や国連に願われているのは、サンガもブッダもそうですが、多様な有様を、丸抱えしていくことでも、あるんです。
 これはもう活動家と代表者、思想家や学究肌は、一が他を食い破るべく、やり合うことに熱心になるけれども、矛盾が無くなることは無い。
 矛盾の生滅の歴史をそのまま受け止めるなら、それだけでは、前進を失うんです。むしろより改善された状態をもたらすべく、相互尊重の下に、やり合うべきであるし、人間のことであるから、どこかで全部丸抱えしていかないといけないようにも思います。

 意外とこれは、出発点が限りなき灼熱の慈しみだとしても、無戒とは言っても、戒や律みたいなもんで、私は不勉強で知りませんけど、昔から言われていることだろうな、と思うんです。

 五部編成になっちゃいましたので、続きはその内にアップしたいと思います。

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浄仏土と往生

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雪路のお参り


 親鸞様の高僧和讃の結讃は、次のような讃嘆で締められています。

(118)
五濁悪世の衆生の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり
天竺  {龍樹菩薩 天親菩薩}
震旦  {曇鸞和尚 道綽禅師 善導禅師}
和朝  {源信和尚 源空聖人}
       [以上七人]
聖徳太子 {敏達天皇元年 正月一日誕生したまふ。}
仏滅後一千五百二十一年に当れり。

(119)
南無阿弥陀仏をとけるには
 衆善海水のごとくなり
 かの清浄の善身にえたり
 ひとしく衆生に回向せん

 弥陀の浄土にふれた人は功徳の宝海が満ち満ちて、万事を治める勢いである。殊に、一切衆生に回向すること自体が、既にして菩薩の大功徳なんでしょう。
 なお、部派仏教も上座部も、仏道の質は大衆部系の菩薩道と同じです。声聞・縁覚の二乗は批判されてきたけれども、三乗方便でもありましょう。それ故、経典には上首も菩薩も差別なく同座されている。

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 さて、死後は仏さんに任せておけばいいので、存命中の往生の可否をどう考えたらよいか。この頃でも教学の先生方の中には、お聖教に当たる限りは死後往生のニュアンスが強い、という方向に傾いて居られる方がいらっしゃるけれども、テキスト上ではどうなのか。

 こうした問いは、届かず間に合わぬ凡夫が、狭い料簡でふれたり論じたりすること自体、祖師方が教誡せられた、いわば聖域であることを謙虚に受け止めたうえで、至心に攻究して参りましょう。

 歎異抄には次の一章があります。

(4)
一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。

 浄土や往生や菩薩については、テキストで直接ふれられた部分のアプローチ以外にも、こうした謂いについて、元祖・宗祖・蓮師以外も含め、もう一遍攻究していくことが必要でしょう。まだまだ一杯課題がありそうです。

 蓮如上人御一代記聞書からいくつか引きます。

・・・・・・・一 法敬坊、蓮如上人へ申され候ふ。あそばされ候ふ御名号焼けまうし候ふが、六体の仏になりまうし候ふ。不思議なることと申され候へば、前々住上人(蓮如)そのとき仰せられ候ふ。それは不思議にてもなきなり。仏の仏に御成り候ふは不思議にてもなく候ふ。悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏に成るこそ不思議よと仰せられ候ふなり。・・・・・・・

・・・・・・・ただ凡夫の仏に成ることををしふべし。後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし。なにたる愚痴の衆生なりとも、聞きて信をとるべし。当流には、これよりほかの法門はなきなり・・・・・・・

・・・・・・・一 御普請・御造作の時、法敬申され候ふ。なにも不思議に、御眺望等も御上手に御座候ふよし申され候へば、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。われはなほ不思議なることを知る。凡夫の仏に成り候ふことを知りたると仰せられ候ふと。・・・・・・・

 こう仰っておられながら、如何にして存命中の往生が不可能になって来たのか。
 この問いはまた、如何にしてブッダ絶対主義と仏国土完全主義に陥って来たのか、という問いと一体のこととして現れて参ります。何故なら、モメントと回心が既に備われし処から、この聞き書きが始まっている。とうに成道しているはず、なんです。それが危ぶまれるてきたのは、仏と仏世界の絶対化や完全化があった、からでもありましょう。

 仏道に遇う、幸ある世界に生まれ、好もしき世界を構成する、現世の私と世界をチェンジしていく為には、モメントが見つかり難いという課題のほかに、教相自体のこういう課題があると思います。
 更に申しますと、ハッキリ言って、教相自体の業報論や様々な差別性も、自体、真の仏国土に往けないようにしている質であり、逆にとんでもない差別の穢土に赴かせる質に他ならなかったようにしか、思えません。重大な欠陥なんですよ。

 更には、アングリマーラや王舎城の人々はじめ、罪悪深重の方々をも人間として扱って来られ、共に生きていけるようになりたい、と努められたシャカムニやアショカをいただきながら、これはアムネスティの皆様のみ教えと活動からも湧出して来る思いなんですけど、地獄の閻魔批判が無いことも、問題だということが実に数千年ぶりに「分かった」ことでございます。
 これは仏門に於いて誰もが差別なく障りなく妨げとならず共に生きていけることを証明されたわけですが、同時に、そのように、万民と共に生きたいというシャカムニ・ゴータマ・ブッダに現実し、アショカに降臨したダルマ、願心の為せる御業として、重く受け止めたいと思います。

 一応三蔵と言うテキストのディスクールを見直してみて、問題点は、現代の論蔵を創造される中で、改革される方が好い。

 思うが如くたすくる、の質も完全主義と絶対主義ですと、身を照らす理想としては好もしいけれども、実際には、絶対に出来なくなるに決まってるんです。往くことも、成ることも出来なくなっている。

 これは自覚としては謙虚にして身心の事実を在るがままに受け止める好もしいものなんです。それこそ、無知の知と同様、ブッダの境涯に属する自己認識である。
 われ達せず、の自覚にしか、達は無い。

 だけれども、では、本当にそれで好いかと言いますと、むしろ何もかも放り出して居直る生活しかもたらさないし、全部死後に丸投げするだけになってきた嫌いがありませんか?三悪道の放置は、許されんのでしょうね。

 たすかるとは、浄土とは、往生と言うのは、滅度・涅槃とか成道というのは、どういう状態が想定されていたか、これはシャカムニ観、ブッダ観が問われている状態とも考えられましょう。問いを求めて彷徨いますと、こうした問いも見えて参りました。

 そして、たすからん者が、何処に於いて、たすかるのか。たすからんままのはずの私が、何処でたすかったことになるのか。
 そしてそれは、思うが如く、なのか。また、思うが如く、で想定されているたすかりの質とは何か。やはり絶対主義・完全主義ですと、これはもう到底無理で、限りなき暗黒星雲の彼方、になるんでしょう。

 ちなみに西方十万億土の隔たりの喩えは、これは娑婆世間の論理と有様にては、到底往生は適わぬ喩えなんでしょうけど、それ以外にも色々と往けなくして来られた問題があったんじゃないか、開祖以来、何千年も何百年も、近代になってからも何十年も、往けないままにして来られたんじゃないか、とも思い続けるわけです。

 往けぬ身の自覚は好いとしても、実際に往けないのでは、好き世界を手に出来ない。三悪道なら三悪道の、大経五悪段なら五悪段の、自障障他の世界の克服にならん。

 まあ、私も成りたいとも成れるとも思いませんでしたし、成道自体が想定外だったわけですし、教理教学も、専門家が居られるから任せとけばいい、ってことで数十年を過ごして来たわけですから、如来の法門に席を置いてきた者として、偉そうなことは申せないわけです。
 でも・・・改めて考えてみますと、ひどいと思われませんか?色々好い面もあったとしても、肝心かなめの点だけは、曖昧にされたまま千年以上も経ってるんです。地獄一定でしょう、これはもう。

 性急に結論を仮定して申しますと、たすかりは幸ある世界で、三悪趣等の無い好き世界たるほとけの世界への往生、前進でしょう。ほとけの世界は、他者をみそなわすこと自己の如くする、至る処で人民の為に、の世界。
 ということは取りも直さず同時に、菩薩道、利他行、還相廻向、与え合う世界と言う点にしか見出せない、他者をみそなわすこと自己の如くする、限りなき灼熱の慈しみに生死することに於いてしか、見出せないわけです。

生きよう、生きよう、生かそう、生かそう・・・
育てられよう、育てられよう、育てよう、育てよう・・・
尊ばれよう、尊ばれよう、尊ぼう、尊ぼう・・・
認められよう、認められよう、認めよう、認めよう・・・

 いのちの幸ある世界、好き世界は、こうした世界に属しているんでしょう。主役はいのち。往還二種廻向の世界です。繋がりを求める、連帯を求めて孤立を恐れぬ、友なる世界でもあります。

 が、それも、可能かどうか。気高い発心は結構だが・・・往生なり成道の可否は、そういうテーマです。

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 探求はしばらく続きますが、超長くなりそうなんで、前コラムの未記入部分を現時点で一応、下記の内容で埋め込んでおきたいと思います。

 浄仏土で思われますのは、ただの日常の場がブッダの力によって宝石のように輝き、価値を持って出現する、娑婆即浄土的な描写も、経典によってはあったわけですから、浄土門というものも、確かにかかる法統を継承する法嗣にあたる運動、とも言えるのかも知れません。

「・・・・・また次に舎利弗、かの国にはつねに種々奇妙なる雑色の鳥あり。白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥なり。このもろもろの鳥、昼夜六時に和雅の音を出す。その音、五根・五力・七菩提分・八聖道分、かくのごときらの法を演暢す。その土の衆生、この音を聞きをはりて、みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧を念ず。舎利弗、なんぢこの鳥は実にこれ罪報の所生なりと謂ふことなかれ。ゆゑはいかん。かの仏国土には三悪趣なければなり。舎利弗、その仏国土にはなほ三悪道の名すらなし。いかにいはんや実あらんや。このもろもろの鳥は、みなこれ阿弥陀仏、法音を宣流せしめんと欲して、変化してなしたまふところなり。・・・・・」

 これは浄土三部経の阿弥陀経の一部ですが、浄土の様子が描かれており、鳥なども登場して参ります。迦陵頻伽などは、大法要時には稚児参道列に加わることがある。

 鳥とは何か。
 また、何故鳥なのか。諸経に描かれた色んな動物があることからすると大した問題では無いような気がするけれども、一応、一々を点検しておくべきである。そういうことも問われて来るんでしょうね、面倒ですけど。

 通常、鳥は娑婆世界では、自然環境上重要なことは分るし、観鳥会があったり、鳴き声や美しい色彩も含め、ペットとして親しまれております。
 また、驚異的な飛翔能力は、神々として信仰の対象になったりしたでしょうし、神鳥ということもあった。
 他方、飛行を思わせ、発明にも繋がっていった。フライト。
 一方、農作物など農業では余り愛されてませんし、また、食材として重要産業種があります。先の夕刻の雉も、クリスマス前のこれは応供かもしれないけれども、「三途の黒暗ひらくなり、大応供を帰命せよ」とございますから、食べない処に深い意義があるような気がします。まあ、昔は何でも獲ってたに決まってるんですけど。

 娑婆世間の認識、理解、意識は、そこまでなんです。永代、曠劫来流転を脱しない。
 然るに、極楽国土では、法を伝える為に阿弥陀仏が変化しなしたものである、ということになっている。同じいのちとして大切な役割を担う。デタラメに聞こえるかもしれませんけど。

 鸞鳥ということもございまして、親鸞様も鳥なんですね、実は。曇鸞に親しい、という名乗りですけれども、龍樹を承けた世親、その世親を註釈した曇鸞、ということが大きいわけでしょう。大分前に申しましたが、御和讃の中でも曇鸞大師讃が一番多く詠まれている。

(31)
天親菩薩のみことをも
 鸞師ときのべたまはずは
 他力広大威徳の
 心行いかでかさとらまし
P--584
(32)
本願円頓一乗は
 逆悪摂すと信知して
 煩悩・菩提体無二と
 すみやかにとくさとらしむ
(33)
いつつの不思議をとくなかに
 仏法不思議にしくぞなき
 仏法不思議といふことは
 弥陀の弘誓になづけたり
(34)
弥陀の回向成就して
 往相・還相ふたつなり
 これらの回向によりてこそ
 心行ともにえしむなれ
(35)
往相の回向ととくことは
 弥陀の方便ときいたり
 悲願の信行えしむれば
 生死すなはち涅槃なり
(36)
還相の回向ととくことは
 利他教化の果をえしめ
 すなはち諸有に回入して
 普賢の徳を修するなり

 殊に、生死即涅槃とあり、また、還相廻向の位置づけが大である。菩薩道です。
 曇鸞大師も、さあ、悉曇学(しったんがく。サンスクリットなどインド文化学。)の曇と、鸞鳥の鸞を取られたのか、知りませんけど、これまた鳥である。

 お正信偈では、

天親菩薩の『論』(浄土論)を註解して、報土(真実浄土)の因果誓願に顕す。
往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。
惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。

また、

よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

と言われています。

 ともあれ、浄土の喩えは、花鳥風月を愛でるという文化も背景にあるんでしょう。
 ただし、浄仏土との違いは、花鳥風月が友である世界になっている。好みやお飾りや自分の都合を超えている。ブッダに開かれた、万象、万民が友なる世界。

 花鳥風月は煩悩熾盛で、あまり褒められないこととされて来た、わび、さびが好く、精魂尽き果て枯れ果てた化石みたいな山水が好ましいとされて来たけれども、煌びやかで心地よい世界なんでしょう?心地よき音楽、香り・・・そんなもん、ってことにされて来た。されて来たんだけれども、それしか無い。比喩としては、心地悪い世界や、生きてるのか死んでるのか分からんような世界は、出せんのです。

 しかし実際に、万象が友であるなら、一人が万民の為に、万民が一人の為になってはたらくとすれば、間違いなく心地よく快い世界です。阿難はなはだ快し、と、かかる世界にふれる問いかけでも何でも、はなはだ快い。

 まあ、本来は法を体現している、それがいのちなんでしょう。鳥だけじゃない。

 餓鬼道の食らい合う世界と言う点では、唐揚げか、水炊きか、ソテーなのか、ミンチなのか、前に言いましたけど、もう、貧困や病気で、病人や赤ちゃんが食べられんとなりますと、心配でたまらない。他の動物どころじゃありません。あ、やっと食べた、良かった!みたいな。
 生まれたときから、いや、胎内で親が色々食べて栄養素を給仕している時から、これはもう救いどころじゃない。大悪党の形以外の何もんでも無い。赤ちゃんの時から、大悪党。
 飯が食えれば、たすかった状態だと思っている。
 苦しめて殺した状態は逆で、たすからない私が生まれたことをハッキリさせてるんでしょう?
 食べるということにはそういう面もある。時には他の人間まで食べたり、食べなくても横取りしたリ独り占めしたリ犠牲にしたり・・・。

 もちろんフード・フォースということで、給食や生活物資の供給は必要不可欠なんです。自然の欲求や人間のいのちの救済ということがある。
 志向や祈りと、現実の実態が、鋭く矛盾している。

 話を戻しますが、そういう意味では浄仏土には、三途なき願わしい世界の顕現ということで、作られたものであったり、観念的なものであったりする側面があるけれども、やはり同時に、成道や仏土には自ずと現れる、万象が友なる世界としての浄仏土でもあると思うわけです。
 もちろん述べました通り、ブッダに会いたい、そうした祖師方の切なる願いも軽視できません。これは龍樹の竜宮、無著や世親の兜率天、善導の浄土の見仏など、仏滅後久しい娑婆での説法希求には、現代人には少し想像を絶するものがある。ミスティシズムの神がかり以外の何物でもない。多分昔は当たり前だったんだと思います。いろいろ念じたり、観じたりして、ブッダに近づこう、我当に実の如くブッダに見(まみ)えん、と。

 竜宮城と言えば乙姫さんでしたっけ。けど、妖術で王宮に忍び込んで女性を犯しまくり、殺されかけた龍樹なれば、乙姫さんには目もくれず、真の人類的救いを手にされたわけでしょう。まあ、その後延々と女性差別・女性蔑視にも繋がるような、あるいは自身の欲望にも言い聞かせるように、不自然に、女というものは、糞尿鼻水の塊で骨と皮と内臓と血で構成され・・・と述べ続けるのは、いささかいただけません。男だって同じじゃないですか。

 要するに、本当にもろもろの生きとし生けるいのちが願う理想世界への願心、という観点から見直して参りますと、仏国土はやはり無矛盾に、三途なき、好き世界として受け止められましょう。

 ただ同時に、翻って娑婆世間の暮らしに還りますと、これは勝曼夫人の経典にも以前ふれましたが、いのちを屠(ほふ)ることや売買について、問題提起がされている。
 娑婆世間での動物やお肉の売買を戒めるわけですが、同時に人間間に差別をもたらして来たという問題もあります。長生不死、食らい合う三悪道、三途からの解放といただきますとき、至極重要かつ自然の願いを受け止めたものにほかならないけれども。

 もっとも、鳥が法を宣布するのはよほどイマジネイションが発達しているか、精霊たちと共生していた素朴な古代世界や、ブッダならではの万象友なる世界でないと無理だと思うんです。
 同時に、だから、そういう風に浄土を観じたり、創造・構成するのが仏力であって、それによって観仏、観極楽国土をすべきだし、そこまで到達することがベターだ、とまで言うのはどうか、とも思うんですけど、如何?

 ほかに差別問題といたしましては、引文部分ではまた、「罪報の所生」ということで、業報思想の悪用も伺われる点も、押さえておく必要があると思います。仏土が仏土で無くなっている。差別土に堕ちている!
 因果応報思想と業報思想はやはり、人間間に差別をもたらし、差別の固定化・強化に奉仕するイデオロギーとして体制に利用されて来たんです。
 健全で、近代で言えば市民権を持った人間だけを人間扱いする人間中心主義は、動物を慈しみながらも差別したり、障がい者・被差別民・被支配者・異民族・女性などを差別するイデオロギ-として野蛮な力を発揮して参りました。

 こうした観念の充実に対しまして、現代科学は、凡夫にこの世の物質的な宝土をもたらそうと、錬金術をお進めの面があるんでしょう。
 そして例えば、宇宙に存在する諸物質から栄養源を創造することで、餓鬼道、食らい合う世界からの、部分的ではあっても、解放をもたらすかも知れない。割と明るい楽観視を持ってみています。
 しかしまあ、宇宙移住にいたしましても、余りにも過酷な環境ばかりであることからいたしますと、先ずは地球の回復・保護が大事に決まっています。何より、地球近くで色んな物質が造れるようにならないと、難しいでしょう。小生物、酸素を作るシアノバクテリア、そして水や塩も、系内外惑星の「資源」から造れるのかどうか。それにいたしましても、資源の保護とか増大も考えるべきでしょう?
 科学・工学の世界も資金の取り合いが必要なことは分りますが。

 ただ何よりも、万象が友である世界を尊び、その実現を進めるという点が、科学と宗教との違いなんです。
 科学に対する思想はあるけれども、科学自体は自然学なりにしましても、法則性とか、般化とか量化とか記号化とか論理化で表現される事実の解明やその利用、創造などであって、人間にとってどうあるべきか、については、別の問題なんです。

 宗教的には、まあ諸説あるんでしょうけど、事実を観た結果、私が何を求め願っているのか探り、自然に反することは無理があるけれども、能う限り願わしき幸ある世界をめざそう、と。そして、チェンジしていく。怠らず勤め励む。正統な思想とものの見方を深めていくことで、人間も質が変わっていくし、変えていこうとする。
 そういうことが宗教的な理想世界、人間の為になる世界の実現に向けた運動でしょう。菩薩道と申します運動も、個人や社会の有様に対して問題提起し、更には批判的に問題点を克服することが願われている。
 改善・改革・技術革新・学問思想の深めは、凡夫の限界をきちんと押さえておく営為とは別のことなんです。

 諸学も生活全部も、元々人間を尊ぶから成立して来るわけです。
 人間尊重という宗に於いて初めて、いのちが成立する。

 ですから、森羅万象が友であるのと、敵であるのと、どちらがいい?と。敵であるときには、日々を過ごすことさえ容易では無い。

 ただ、アミタ・ブッダは様々の浄仏土観の中で、仏国土、ほとけに属する世界として種々諸仏浄仏土を観じ、そのうえで優れた点を選択したとされているわけですが、それにいたしましてもやはり、私は、縁起繋がりが生きてはたらいている、友である世界という要素が大事だと思います。凡夫共なる世界、人生という願心であります。

 人民の友である世界、更にはいのち全体と友である世界、更に存在全部が友である世界、ということは、人間やいのちはもちろん、それと繋がっている物体全部に対して限りなき灼熱の慈しみがあり、相念の世界になっている、というポイントが大事でしょう。

 存在の根拠が知られて、尊び合えて認め合え、与え合えているから、害うことが無いから、真の友である。真友であるから、値打ちもあれば、輝きもある。

 同様に仏意・願心からみるときには、述べました通り、地獄の閻魔さんも獄卒さんも犯罪者として裁かれて然るべきである、とも申せましょう。なるほど悪人は良いはずがないけれども、例え悪人でも苦しめるのは如何か、と。シャカムニ・ゴータマ・ブッダの取られた対応は、全然違うものでした。
 単純明快に無矛盾に核心的結論がみえてまいります。

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 まあ、浄仏土、ほとけの世界はどうなっているのか、ふれてみないことには、本当の往生も分からなければ、本当の信心、真の二種深信も出て来ないように思います。

 親鸞様御和讃の善導讃では、

仏号むねと修すれども
 現世をいのる行者をば
 これも雑修となづけてぞ
 千中無一ときらはるる

 このように述べられても居りまして、「現世いのり」も改めて、どう言うことを意味しているのか探っておかないと、現世放置にしかならない。人々と共なる現世を世の中安穏なれ仏法ひろまれと親鸞様も祈られたが、仏教自体が生死の別なくいのちを尊ぶゆえに、いのり、願うんです。還相廻向も、死後の為に還って来るんじゃない。
 だから、どうしても、いっぺん棄てて、改めて浄土建立と言う課題にもなって来たわけです。
 仏教では、菩薩道ではどうなっているのか、何でも黙って見過ごすのか、と。

 これはおそらく吉凶禍福をいのることを戒めて居られる部分なんでしょう。吉凶禍福も、何とか飯が食えるように願い祈るのは普通で、人間の能う限りの努力もするのが普通であるけれども、自我の都合をいのる、自分たちだけの良時吉日を祈る、自己の問題点を問い返すことなく脇の方の棚に上げて、ですね、神々も如何かと思われるような現世いのり。

 観経では三悪趣、三途は死後のこととして言われているのではありません。
 現世のこととして、韋提希夫人の口を借りて法身が説かれているわけで、死んでから赴く世界なんぞではない。三悪趣なき浄仏土への往生は死ではありませんから、存命中の往生の課題であるとも申せましょう。

 また差別と無差別に関連いたしましては、観経についてたまたまふれましたが、観法ということが、視聴覚なのか、触覚・嗅覚の要素も入っているから、それでいいのかどうか、そういう基本的な問題も感じます。
 観法をどの程度重視するのか、いずれにせよ願心が開く世界なんでしょうから、感覚をどう取り扱えば好いのか、押さえておく必要がある。感官差別の課題でしょうし、能力差別にも繋がります。

 差別問題では更に、大経35願も問題ながら、性に関して、性差をどうするのか、性があることは問題なのかどうか、自然ではあるけれども、性が苦悩であるなら、これを排そう、と。
排するなら、科学的な人間造りみたいな、やや非人間的な創造営為があり得るけど、さあ、どうなのか。
 これはまた、性同一性「障害」など、転化した性への差別や、病や事故や戦闘や性的迫害により性から疎外された方々への視座をも問うものとして、深く重く受け止めなくてはならん、と。単に繁殖の為だけの性差だったけれども、めんどうにしたい。面倒にしたいのが人間らしい、と。どすけべえ、みたいな?

 実態としては無三悪趣の課題でもあるけれども、性性迫害の実態への克服として、性差がより多種でも良いのか、一元化して性自体を無くすれば良いのか、阿弥陀経の鳥のように質を変えると好いのか、これは大経第4願の好醜差の課題と同じく、のっぺりと一元化するのかどうか、まあ、取り組み直して好いんでしょう。
 この点に関しては過剰な科学的人工の介入はどうなのかな、と思ったりしてますけど。人間は人工も好きらしいですから、人間でも自分でも何でも、いっぺん造ろう、どうしても作ってみたい、ということらしいんですけど・・・。

 一つ思われましたのでしたためておきますが、王法(国法や政治)vs仏法みたいな感じがありますが、娑婆世間vs浄仏土ということも、問われて参りましょう。
 文字通りの死活問題ですから飯を食うとなりますと、友なる世界の友なるいのちも、バッサリと切り捨て、いただくほかない。フードフォースも大事なら、差別もいかん。シャカムニの初期サンガでも肉食も禁じてはおられない。あまり推奨はされてはいなかったでしょうけど。

 たすかるどころじゃない。たすかる前の、モメント自体を害う私。典型的かつ抜き難い、仏教でいう文字通りの、束縛、ということなんです。
 これは観念や理性や心ではない、身の事実である。情感はあるし、心も痛んだとしても。

 そうしたとき、なお、それでも友なる世界の可能性を選ぼうとしていくのか、それとも娑婆世間道に阿って、アッサリと棄てて三悪道に還って好いのでしょうか。
 こうしたことも、時々刻々と、永代、問われ続けて参りましょう。

 まあ、食らう以外には無い罪悪深重の自身には、どこまでも厳しいけれども、同時に、やさしいんでしょう。これが現状だけれども、共々に、現状を脱していく道を選ぼう、そして、必ずちょっとでも進もう、少なくとも、退転を潔しとせず、めざしたい、と。

 既にして、往ってるんです。往っている状態を受けたまま、還って来てもいる。穢土とも嫌わず、生前死後とも言わず、思い立つ心の起こる即の時にずっと、改善・改革を担い切る。チェンジを続けよう、と。
 その尊き営為の中に、真実報土が開かれて、浄仏土の全部が身に備わって参るのかも知れません。
 それこそ、他の子細なんぞありません。
 往生も娑婆も問わず、ただ、己の至らぬ思想と実践の到達点だけは、問い返し続けねばなりませんけれども。

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 大体、この間言いました通り、例年成人式もあるんですけど、生まれながらの罪みたいなことの他に、大人と言うのは、誰もが倫理上問題がある。
 自分が直接手を下さなくても、体制に加担したとか、反体制に加担したとか、アメリカを応援したとか、「ソ」「連」や中国を応援したとか、解放勢力を応援したとか、人々が害われるのを黙って見過ごそうとした、実際に見過ごしたとか、ずっと知らん顔をしているとか、愛されたけど無視したとか、取り合いになったとか、自分が悪いんじゃない、みたいな、でも、単にそれだけで既に犯罪に加担したと思うんです。

 東西両陣営も含めて、自分では人民の為に良かれと思ってやるし、実際に正しい選択だったこともあったかも知れない。
 けれども、例え正しくても、多くの人民が迫害を受け、殺害され、難民になったり、亡命せざるを得なくなった事実を変えることは出来なかったし、起こってしまった過去の事実というものは、今もこれからも、変えることは出来ません。繰り返さないことだけが、出来るかどうかは疑ってますけど、可能ではある。
 しかも、どの運動も、本当に自身と世界を正しく導く完成度についてだけは、欠いていたのでは無かったか、と思われるわけです。
 願心だけは正しかったんでしょうけど、一面の正しさを持っていたとしても、実態としては多くの正しさを見失って来たかも知れない。だとするとこれは、取り返しのつかない大罪を犯したんだ、と。
 正義の為には、戦争や人殺しが許されるなどと考えるイデオロギーこそ、まさに大罪なんです。
 箸の上げ下ろしも、ふすまの開け閉めも、犯罪ならぬこと一つとして無し。動くことも止まっていることも、犯罪ならぬこと一つとして無し。手の施しようない私、なんです。

 天下国家のことどころではない。個人的にも、多くの罪を犯し続けている。人間に対しても、他の動物に対しても、尊び合え認め合えずに日々過ごすほかない身である。キレイごとでは済みません。それが私らの生存なんだ、ということでしょう。

 まあ、善悪自体も、その判定自体も、いい加減なものだという考え方もありますし、親鸞様も「罪業もとよりかたちなし」とも、「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり」とは仰います。

 歎異抄に於かれても、「聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、P--854火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。」と。

 しかし同時に、自分のいのちを尊ぶということが、どうも観察の結果、いのちの性質らしいので、もろもろのいきとしいけるいのちは、いのちの安堵を、ニルバーナを求めている、こういうのが、お釈迦様の言葉でもあったわけです。

 殺したり殺させることは悪である。自障障他も悪である。いのちを害う事柄は悪である。地獄道・餓鬼道・畜生道という三悪趣は、明白なる克服課題である。

 そうすると大悪党の形しかない、誰もが、絵に描いたような典型的な偽善者である。

 理想は我々を照らしてくる非常に大事なもので、情感、人情も我々の有様を照らしてくる大事なものである、ポエトとポエムということが、散文であっても、我々に訴えかけてくる、そういうことがあるんです。
 確かにあるけれども、あればあるほど、理想に照らしますと、依然として疑いようもなく偽善者である、と、こういう心の事実と身の事実を知らされて参りまして、これもどうしようもないんでしょう。

 どうあがいても、抗ってみようとしましても、ですね、理性も心も身体も、それ以外の生存を得ることが出来ない。

 だからといって、したい放題やって良いのか。
 ここに再び、畳みかけるように、ハッキリしている理念、殺すなかれ、殺させるなかれ、尊ぶべし、尊ばれるべし、ということが来るんじゃないか、向こうから我々の方にやって来るんじゃないか。

 そういたしますと、この場合でも、実態の方に合わせていくのか、理想・理念・願心の方に、ちょっとだけですけど、頑張って、沿って行こうと思うのか。それによってまた、道が変わって来る。
 ずうっと、岐路に立たされているんでしょう。
 開かれてきた、向こうから訪れて来られた願心の方に身を置くんだ、という、こういうことが、往生ということでしょう。

 翻って身は、「是非邪正も分かぬ身」、と、「底下の凡愚と成れる身は」、と、「無慙無愧」、と、「小慈小悲も無き身」、と。このように親鸞様は御和讃で表白して居られるんです。
 これは永代、往生が無いんだ、と。全く矛盾しているけれども、往生人と言うのは、信心の人で、機法二種深信が揃っていらっしゃる。

 確かにたすかる法の深信と、永代たすからんという機の深信。
 どちらかが間違いだと、ハッキリさせたいという風に考えがちであるけれども、そうでない、二種ともハッキリしてきた処こそ、既にして往生の身なんだ、ということなんでしょう。
 成道しても身は凡夫のまま、これが実相です。たまに光顔巍々とされるけれども、いつもはどちらかと言いますと、厳しくてうるさい、みたいな?

 往生となると、説かれてある48願の世界と大分違う、とかですね、滅度や通力や、いろいろ達しないので、浄土教の法統では更に往生が曖昧になってきた。往っているはずがない、このようにしか、思えないに決まってるんです。

 これまた述べて参りました通り、シャカムニ・ゴータマ・ブッダの超人化と絶対化、ニルバーナの絶対化、それも自ずと死後往生化や死後世界化にも繋がりがちなんですけど、こうした問題点が一因となっている。

 48願の浄土、観法に開かれた浄土、阿弥陀経で描かれる浄土ということがあるけれども、そういう世界とは大分違う、そういうことが分っとる。最初から分かっとるけれども、理念がハッキリすればするほど、分かるようになる。

 権威・権力・武力・差別・血筋など、イニシャティヴの争いでは、何でも動員されるが、それが少なくともブッダの宗旨からはおかしい。共同体でもそうですけど、下手をすると娑婆世間論理からさえも、批判されることがある。
 そうした「三代伝持という問題点」はあるけれども、覚如さんのおっしゃる通り、人はどういう死に方をするか千差万別であるけれども、存命中の今の時に生まれ変わっていく、そうした質が往生なり、成道でしょう。
 それ以外、往生も成道も、そこに至る道も、決してありません。

 超人でもないし、生きてるのか死んでるのか分からんような滅度、ニルバーナでも無い。蓮如様が仰る通り、凡夫が仏に成るこそ不思議、そういうこととしてしか、可能性自体が無い。

 ただ、(〈チッ、チッと舌打ちしながら〉、分かっとらんやっちゃなあ・・・)と。
 (菩提流支:これこそ長生不死の教えだ)、(龍樹菩薩:そんな根性では仏門入門すらおぼつかぬ)、(法然聖人:このほかには別の子細候らわず)、と教誡されるわけです。

 正常化とは何か?めざすべき世界とは何か?たすかるとはどういうことか、戦場でこそ、問い続けられるべきなんです。
 如来のご宗門のご宗旨からは、どうなのか、と。友たり得るのか、人の為たり得るのか、と。

 とにかく、教判では凡夫存命中には往けない方に傾いている。不断煩悩得涅槃とまで讃嘆されながら、尋ねられた際には、怪しくおぼえそうろう、などと仰る。往生は死後である、と。
 往けないことはもとよりハッキリしているけれども、その往けない凡夫が、しかし、往くんでしょう?しかも存命中に。そうでなくては、教相自体が無意味である。

 菩薩道として示されるブッダの世界に惹かれていく即の時に、既にして、往っている。如来廻向の願心にふれた、ということは、如来の願心と呼応し、相応した、ということなんでしょう。身は凡愚にして娑婆にあるままだから、汚染され切っているけれども、回向された願心は、回向し、供養したい私の願心になるんです。
 はじめから、そうなんです。

 更には、弥陀の浄土への往生にも遠慮があるんです。世話にばかりなるわけにはいかん、と。自ら娑婆で頑張って仏土を構成すべし、と。
 まあその前に、往った切りではない、往還しながら、愈々、仏法聴聞し、成道に至る。ほとけの世界に生まれると、そうした功徳も身に備わるんでしょう。おそらく。

 仏道ですから当然、実際には出来なくても、我、思うが如く他者をたすけん、となっているはずなんです。回向を承ける、ということは、他者の為の願心を承ける、ということですから、自らが利他の日々をめざすこととなるんです。

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 それで、じゃ、どうして、七高僧と言わず親鸞様と言わず覚如さんと言わず蓮師と言わず、浄土が分ったのか、と申しますと、私なりに思いますと、ふれたから、出遇ったから、分かった。出遇ったと言う事は、往生されたから、分かったわけです。
 観法に開かれた世界も併せつつ、主たる原因として願心に出遇われた傾向が大きいと思いますが、友なる衆生済度の仏意・願心に出遇われることで、浄仏土世界の様子も改めて開かれて来られたのかも知れません。

 出遇っていないと「願力不思議の信心は 大菩提心なりければ」とか、「正法の時機とおもへども 底下の凡愚となれる身は 清浄真実のこころなし 発菩提心いかがせん」とか、「浄土の大菩提心は 願作仏心をすすめしむ すなはち願作仏心を 度衆生心となづけたり」とか、「往相回向の大慈より 還相回向の大悲をう 如来の回向なかりせば 浄土の菩提はいかがせん」といった表白は出て来ないし、釈尊出世本懐のご了解も出て来ない。
 一例を挙げましたが、往生の証文は一杯あるんでしょう。

 ただ、旧い時代には懸命に見仏、ブッダに遇うということを求められたけれども、遠く隔たった後代の、しかも辺地には、もはや超絶した世界になっていたわけですから、遇うどころじゃない。
 遇えないし、往けない。

 探って探って、聞いて聞いて、聴いて聴いて、聴聞し続けて、読んで読んで、求道し続けて、修学・修行もし続けて、なお、拭い去れぬものが残るということもありましょう。更に、漢訳だけでも十分に仏道であると私は思いますけれども、漢訳を通して、という事情もあったでしょう。何より斬新なのは、凡夫というすえ通りたる在るがままの人間像の獲得があった。
 それ故に、謙虚と強い自戒から申しますなら、遇い難くして遇ったけれども、と自省することを選ばれたのでしょう。

 まだまだ!まだまだ!ながらも、かなり自身が鮮明になった故に、往く先も理念もかなり鮮明になった。自身の自然な願いのレリーフが進んだからでしょうか。

 けれども、成道とか往生の原因について、更に、更に、更に、迷ってみなくてはならない。
 これまた自然の願いに沿うが故に、易く往く、ということであろうけれども、その開発がなくては、発得がない。
 何年間にもわたりまして、発心ということを探って参りましたが、キッカケは何か。

 開発のきっかけ、モメントは何か、原因、動因は何か。
 動因は一切衆生悉有仏性と示された、自然な自己自身である。理由が要らないから、ありてあるもの、義なきを義とするもの。
 もともと求めている。他力というけれども、求めていないと宿縁にも宿善にもならないかもしれない。

 しかしそうは申しましても、キッカケ、モメントと、道と方向の獲得ということがハッキリしていないと如何、と思うんです。
 求めていることさえ、ハッキリしないので、モメントが大切ですし、求めていることがハッキリしても、道と方向。教に示される方向を、方法、方便としていただくことで、道と方向がみえてくる、ということであれば、モメントと一体に道と方向が示されて来ないと。

 機会がございましたら、親鸞様の教判展開に当たってみたり諸師を訪ねて、その往生観を訪ねてみてください。

 まあ、失礼いたします、ディスクールで遺された教相も反仏教的な質があって疑惑だらけですし、自分を言い当てることに限っては、これだけはシャカムニも祖師方も限界があったようにしか思えません。
 理由は、創造性がでかければでかいほど、「時代の既成観念や共時的意識で以て自分の全体像を認識すること」は困難に決まってるんです。ただでさえ、色々分かっても、自分だけは分れない、眼も自分が見えない。臭みも分らん。失礼ながら。

 私は、両度も蓮師も既に浄仏土に出遇われ、半ば往還されながら、時代の意識と教判のパラダイムの中では、現世観・凡夫観と相まって、それと対照的な仏浄土の絶対観・完全観とも相まって、それ以上の展開には進もうとされなかったかも知れない、と思っています。
 何しろ、滅度(解脱・涅槃)といわず、衆生済度といわず、どうみても出来ていかない方が、これは今でも自然な認識でしょう。

 浄仏土がかなりレリーフもされて、煩瑣ではあるし反仏教質が混入しているけれども内容のある教相が整っているし、念仏=信心=願心為本というところにスムーズで根本的な正統性も見出せましょうから、自ずと往ってしまう大利があるものの、最終の詰めには、至っておられないように思います。

 これは繋がり、連帯、至る処で人民の為に、ということが、成道です。最初からかかる願心があるのが仏道であり、菩薩道。
 ですんで、通力等にいたしましても、龍樹は方便と仰られたそうですけど、加えまして、既述の通り、他者の尊重という質の対他性が原因なんだ、というのが拙論です。
 理由は、通力の内容は全部他者の済度のための性質ですから、一般性を抽出いたしますと、そういうことにしか、ならない。

 まあ、羅什に会いたくて拉致を要請されたと伝わる道安の師仏図澄なんかも不思議の力があったそうですから、眉唾モノかもしれないが、成道者も何人も居たのかも知れんですね、何宗と言わず、何教と言わず。閻魔さんがジダンダ踏んで悔しがる中、へらへら微笑みながら浄土に往った人殺しも、本当にいたのかも知れませんね。そう考えますと、何でもありか。一々真面目に往生を問う方が問題なのかも知れません。冗談ですけど。

 今回からしばらくは、この往生の可否問題を更に提起し、見据え続けて参りたいと思います。還相の菩薩道ですから約めて申しますと、怠らず勤め励むという、娑婆世間での実践という問題を、です。

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 さて、お聖教は、煩瑣で面倒、所々矛盾が出て来たリ、正と反が混在しているかに見えるんですが、一つのポイントを要素的に抽出し、仮に鳥瞰的な視点として定立してみると、統一的なディスクールの質をもたらしてくるかもしれない。

 それまでと違った質で再び現れるということだって、あるでしょう。

 限り無き灼熱の慈しみを仏意願心として定立し、全てそこから見直されていくのも一つの重要かつ正統のスタンスと考えております。
 縁起、無自性空義などの智慧と慈しみに出遇い、そこをベースとしつつ、実生活に於いて、また諸学・諸テキストにふれる中で、他者との邂逅と交流の中で、気づかされて行く。更に、人間も変わって往き、変えていく。こういう道のりを求道と言うのでしょう。

 またたとえば中観とされる無自性空義なども、散在するシャカムニの説法とされるディスクールを統一的に鳥瞰していく上で、そうした役割を果たしたのでしょう。
 まあこの場合、唯識派もそうかもしれませんが、上から目線的でもあるし、論戦と論考によって導かれてきたものでもありそうですし、こうした再構成の視点の定立にはいろいろ論議もあるんでしょう。

 けれども、八万四千法門といわれ、何処から入っても達するみたいな謂いをされるが、開祖のお言葉にも結集(編纂)結果のお言葉にも疑問がある。解釈にも教団の有様にも疑問がある。翻訳にも疑問がある。
 しかもアナーキーに大部になっていて、頭の体操には好いかも知れぬが、三蔵も三宝もその為にあるわけではない。
 現代ではおまけに、旧習すぎる質を否めない、と。

 観経を目通ししておりましても、念なのか、観なのか、名なのか、あるいは全部なのか、間違いなく迷うはずです。
 念よりも観、ということでしょうけど、ただ、達していないと観じ難い、とも言われる。けれども同時に、努力すれば出来る、みたいな書き方でもある。唐突に名と書かれてても、意味分かんない、と。
 一応一切経とか諸教に通じて居られたとしても、観経だけ伝えられてあるけれども講釈される先生が居られない、となりますと、判定に苦しむことになるわけです。

 そうした事情もございまして、仏滅後のブッダと仏国土と説法への希求があった。
 また、弊派にとっても浄土門にとっても重要なポイントですが、偏依善導、善導の解釈とご了解に依られた。「善導独り仏の正意をあきらかにせり。(正信偈)」と、これは多分観経の読み方として観法重視では無く凡夫済度、名号重視としていただかれたこともあるんでしょう。

 更に七高僧ということで先生方の論釈ということに帰命されている。釈迦の経ではない、その論釈に、です。
 それらの先生方の論釈も、絶対とは申しません。
 むしろ親鸞様も各論併記と言う形式で、軽重判定を示される中でも、それぞれを尊重されながらも、その軌跡を示されたということは、絶対性を排されていることを示しておられることに、否応なく、なるでしょうね。

 そして、ここも私的には最重要ポイントと思いますが、善導大師、偏依導師という元祖法然聖人、釈迦韋提をして安養(阿弥陀仏の浄仏土)をえらばしむる、と讃嘆される宗祖親鸞聖人、善導様と両度のお三方によって、既にして「限りなき灼熱の慈しみ」という仏意・願心が選択されていたんでしょう?
 お聖教の頂き方として基底に据えるべき願心なる最重要ポイントが、既にして定められ、見つけ出されてあった、ということなんです。

 そうしますと、観も念も名も無い、専修称名でいい、こうなって来るわけでございます。願心から窺うに、能力を問うべきではない、と。

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 なお、先に引きました龍樹菩薩の易行品は羅什訳ですが、鳩摩羅什については、大分前に阿弥陀経についてふれたコラムで、くどくどと、あることないこと考察を加え、追記し続けましたが、翻訳の在り方や他の高僧方との問答が色々と取り沙汰されて参ったようです。

 羅什の中観の理解度について、親交のあった仏駄跋陀羅は、自分の師事していた師よりも劣っているという見方をしていた、とも伝わります。

 また翻訳も達意訳であって、恣意的に内容に手を加えた、加筆された、という問題もあるそうです。

 念のために、注意点として改めて記しておきます。

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 フライト・・・子どもの喜ぶ顔をみたいってことで、そうだ!ラジ・ヘリを作ってみよう!・・・同僚職員さんに手伝ってもらってヒロボー組み立てたことがありましたけど、職場で、ある時とある方に電話がかかってたんすけど、模型のフライト協会ってのがあるんですね。全然知りませんでした。ダ・ヴィンチの末裔みたいな?

 プラモは大好きでした。あるときバイクのラジコンが出まして、ある程度走るんです。ただ・・・子どものころから、大体が軍国化の宣伝だったに違いありません。大和、零式、パンテル、ティーゲル。マブチモーターと一緒によく作ったもんです。今や戦艦大和のプラモも中国製ですけど。

 また、阪急梅田でしたか、おもちゃ屋にモデル・ガンがショーケースに入ってて、行く度に毎回観に行くんです。これ、ちょーカッコええんで、欲しいけど、高価で買えませんけど、モーゼル、ルガー、ワルサー、シュマイザーまで飾ってありまして。米軍のもあったかも知れませんから、コンバットごっこが出来る。

 ええ・・・・・・中学校の校庭で遊んでると、ファントムがヘリ以上の超低速・超低空飛行してたり、高校生の反戦デモがあったり、ベトナム戦争当時で、チェコプラハの民衆革命、アポロ11号人類の大きな一歩、高度経済成長の大阪万博の頃でもあり、グループ・サウンズも吉本も急成長、天下大動乱でゴチャゴチャしてる。先生方も、片や(戦争は悪いことことやけどなああ)と仰りながら戦時中の従軍体験にふれられる方もあれば、パルチザンの歌を歌ったり、東大全共闘委員長を誉めておられたり、アポロ記念やCCCP(エス・エス・エス・エルと読むらしい)当時世界最大の宇宙飛行士の切手がありました。
 同時に、すっかり戦後軍国教育に呑まれてもいる時代。

 気づかぬほど静かに飛び去ったファントムは校庭や街の風景に、何をみていたんでしょうか。今でも考えます。
 お気に入りのお道具は戦前の独日もんでしたけど。P51Dも作ったかな。

 ‘60年代には漫画雑誌も出版社がひどかったですしね~、戦記ものとか、戦争ものとか、満載。
ちなみに、恒例だった「ソ」「連」赤軍建軍記念日にモスクワの赤の広場で行われた軍事パレードも、2.23でしたか、忘れましたけど、必ずTV放送されていました。「ソ」「連」の脅威を煽ってたんでしょうね。

 「過ちはもう二度と繰り返しません」という真言の表白から、まだそんなに経っていなかったはずなんですけど、舌の根も乾かぬ内に、アメリカの許諾のもと、晴れ晴れと再軍備を進めた。まあ、専守防衛とは言われてましたけど。

 戦争の傷痕は深く、敵味方の区別なく、苦しみをもたらした。侵略は恥ずべき行為。
 敗戦後、現地に残ってアジア解放の為に闘われたごく僅かの日本兵と、解放勢力に利用された一式や零式などが、せめてもの救いですけど、さあ、それさえ、真の「解放勢力」だったのか、どうか・・・。

 真の解放とは何か?ずっと問われ続けているんです。
 何が人間生活にとって健全で正常な状態なのか?
 我々は何から真に解放されなくてはならないのか?

 こうした問い返しを「抽象論」だと退けられることなく、常に懐深く受持してお忘れにならぬよう、特にお願いしたいと思います。

 以上で少し休みます。
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初春に寄せて

A happy new year!

 ・・・すいません、ご本尊に関することは何時でも何処でもおめでたいもので。
 謹んで年頭のご挨拶を申し上げます。
 旧年中は仏道にいろいろお世話になり、有り難うございました。本年も一層のご支援をお願い申し上げますとともに、御清祥ご精進を衷心より念じ申し上げます。

 早々に賀状を賜り有り難うございます。

 先年までにご逝去された方々をご追弔いたしますと共に、事故・病気で苦しまれた方・災害で被災された方々・様々な被害と苦しみに会われた方々に、衷心よりお見舞い申し上げます。

 いつも通りですけど、人々の為のテーマー友好・安寧・繁栄ーに沿い、幸ある世界へのスローガンを掲げておきます。

Stop torture!
Stop death penalty!
Protect human rights!
Stop violence against women!
Control arms!
Stop war!
Stop nuclear power!

合掌




 世の中のフルモデルチェンジ、フルシフトチェンジということが興味深い年明けになりました。
人間と生活の質的なチェンジということで、これは表面的に考えますと、一見いたしますと、近代の延長に色々展開して来るようにも思われるわけですけど、質自体が変わる、別物になっていく、的なニュアンスで受け止めています。

 さて願心は、もとよりシャカムニ・ブッダは狭く無いわけで、大家族とか近親関係も多く、現代よりは狭いとしても、大乗である。
 部派仏教、上座部も小乗では無く、道が異なるだけで、大乗的なことは論を待たないわけです。やや階級色があるかも知れませんけれども。

 如来の還相は菩薩として表現されて参りましたが、そのカーマこそは、憶念して衆生と共に。
 全てをイマジネーションし、衆生性を尽くし、体験し追体験し、人々の境遇を思い量り続け、共々に好き世界を拓くことであって、同時にそれは常に無知を知り、至らぬを知る、謙虚なものでありましょう。

 ですから、ブッダの願心はもとより、共通的なグローバルな一切衆生というところにあるし、多分、それしかないと思います。そのことを願心の大前提とした上で、前回の提起に続けます。



 状況打開、諸問題からの解放、解脱へのモメントは何処にあるのかと探しますと、我々の自然性の中にしかないけれども、その自然性自体の中にも、願心を覆い隠すのではないけれども、願心の別の表現として、願心自身を、反って憶えさせずに、逆に全く意識出来なくしていくモメントとなってしまう形態が、生じて来るんでしょう。

 すると、曠劫来流転の原因ともなり、静かなドン的に白軍から赤軍から黒軍から、あの運動からかの運動、あの世界からかの世界、あの職からかの職と、いろいろと彷徨いながら、代用観念とか代用運動とかに自己を見つけよう、と試みたり。

 よほど抑圧された環境とか病気、脳の損傷とか様々な原因と状況によってそうならないケースもあるのかも知れませんが、通常ですと願心自身ははたらき続けますので、いろいろ遍歴して求道して探すんでしょう。多少ともそれが普通だと思います。

 その結果近代自我的世界は、人間は観察の結果、元々加工と人工、学びと遊びを求めたい生物らしいので、愈々、科学的に人工を進めて参りまして、結果、最大武力で大量破壊と大量殺害により自身をひどい目に会わせるようになったわけです。そして終には、自分自身も人工的に創れないか、考えるわけでしょう。

 そんな手の施しようの無いバカに、モメントなど舞い降りるはずが無いんですね。ゼッタイに。



 モメントの困難さに関連して、回心のきっかけになる出来事として取り上げられるパウロの落馬ですけど、「淳一のスペース」でちょっとふれましたが、アタマを打った、光に目がくらんで自己が滅んで真我が開眼した、落馬で死にかけて深い思いに目覚めた、まあ、それはきっかけの一つ、モメントの一つかもしれないが、同時にやはり、過去たまたま出遇った善なる教法、という宿善が根本モメントとして無いと、開発ということが無い。
 そして開発があって、初めて発得があるわけです。

 遇う、たまたま遇う、遇い難くして遇う、というところで、こうした人間の出遇い難さが明かされているわけです。偶然にすら、遇い難い、と。百千万劫にもあい遇うこと難し、なんです。

 実際には、一切衆生悉有仏性で、もろもろの生きとし生けるいのちは悉く仏性を備え、ニルバーナ(満足、安心、落在)を求めている、こういう願心が、願心自身がはたらくことによって、我々は無自覚のままでもずっと求め続けますし、まあ、遍歴を重ねるんです。聴いて聴いて、聞いて聞いて、聴聞し続けてなお、開けて来ない。

 しかし同時に、その同じ求めに於いて、出遇うということも成立出来るのでしょう。



 さて、浄仏土とそこへの往生ですけど、現代教学の一部では漸く、出遇いによって、信心によって、開かれてきた世界として考えられるようになりましたが、まあ自分が不勉強なだけで、元々そうだったんでしょう、多分。三蔵や祖師方の論釈をよく読めば分かるのかも知れません。

 浄仏土、仏国土の世界の顕現は、自然性があるが故に、ですけれども、しかし同時にカオスではないので、企図して諸仏浄土の世界から好き質を選び択んで、さらにそれを仏ご自身が磨き抜いた世界としては企投された質があるし、仏の法座に出遇いたいサンガの願いを承けているし、自然に仏に開かれてある世界でもありそうだ、ということなんです。



 脇道に入って考えてみますが、浄仏土に関連して、観経の観法や仙経十巻は、健康で健全な世界への出会いでもあるはずだ、とも思っています。いのちを尊ぶ質もありましょう。
 良時吉日はともかく、吉凶禍福のうち、何とか衣食住等が供給された状態が吉だとすると、殺すな、殺させるな、と同じくらい吉であり、これは自然の欲求で、理屈が要らない、義なきを義とすべき世界でしょう?腹が減って飯を食いたい。これは欲望では無い、という先生の言葉を思い出します。

 まあこれは菩提流支が護教論的に観経一部の勝ちにされたかった面もあったかも知れませんが、結果、少なくとも曇鸞様・親鸞様の中では、観経の勝ち、ということにされてきたわけです。
 そしていずれにいたしましても、時期に応じて、また道・仏の二つを併せて学ばれ身に付けられた高僧方によっても、道教と仏教への姿勢には温度差があるはずです。大抵は皇帝に認めてもらう為に全部争った、としてもですね、大先生方諸個人としては、温度差があったし、大経じゃありませんけど、習合的な姿勢も少なく無かったに違いない、とも思うんです。

 また、呪術的だったり、呪いや対他性の欠如、自分だけの快適と安心みたいなことも懸念されるけれども、少なくとも観経の浄土の描写は解脱への道でもあるからでしょうか、多くの高僧が観経の観法や浄土の描写を讃嘆されているそうです。
 対して元祖法然聖人、宗祖親鸞聖人は、善導大師のご理解に依られ、苦界にあえぐ底下の凡愚罪人のために、往生と専修称名念仏を勧められた経典と言う側面を特に重視された、と、当流之忌々しき先生方に教えられて来たわけです。

 こうした大乗の願心為本、本願為本のご了解には全く異論がありませんが、観法に開かれた浄土と仏菩薩についてはしかし、宗祖元祖とも、特に問題視はされていない、ということなのでしょうか。
 元祖法然聖人に於かれてはただ、起請文で述べられた観念の念にも非ず、というくだりが引っ掛かります。

 しかし、私的には同時に、いのちの尊重、自我を脱してオープンで明るい、幸ある世界でもあるのではないか、極楽国土の情景自体にいのちが解き放たれていく、そうした身心脱落とか解脱の質を見出さずに済ますのは困難であるようにも感じられるんです。

 これは現代の他の観察や研究から、現代に改めて浄仏土を把握することも出来るそうに思われたわけです。しかもその質は解脱とニルバーナに近い主体の在り方を示してはいないか、ブッダの世界とはまさに、そうした形でいのちの開花と尊重をもたらす世界ではないか、と。

 自我にとっての外界、刺激、動き、変化などは、もちろん学びであるけれども、同時に、意識の変化だったり、自我から離れている状態、固執から自由な時であったりしましょう。

 自己の対象化、問題の鮮明化と形態化と対象化など、種々の雑念や想念を対象化し、自身に気づいたり、自我の囚われを離れることになるんでしょう。治療法でもあります。

 外に出る。自己を滅ぼし尽す。オープンになる。自我が相対化される。こだわり続ける日常の自我の疲れを知り、脱していく。開放的になる。外界が刺激になる。閉ざしの原因を自己自身に見出す。
 静かな光に満ちた明るい朝、快適な公園などの環境の散歩も好いとされています。極楽の観法が好い。

 ただ、刺激が何でも意識と身体の好い変化をもたらすかと言うと、キャリーの最後のシーンとか、猿の惑星の最後のシーンとか、刺激はあるが、好い刺激とは言えません。ストレス・フリーからいたしますと。問題提起ではあるけれども。



 先日NHKで瞑想を取り上げた番組をやっていて、健康法ですね。集中法でもあり、学習法でもあるけれども。それで改めて48願や観経や阿弥陀経で示される浄土の姿を振り返りたい、と。全部キレイに忘れてますから、振り返るんじゃなくて、フレッシュに見直すんですけど。

 改めて外界的な内界への視点、外界における、動くこと、移動、快い自然環境、異なれる世界、それらへの出遇いなど、変化や刺激への反応と、認知・認識・意識から、脳や遺伝子や身体の変質と活性化まである事実を伝えられ、また色々考えさせられました。実の如くあれば仮想空間でも好いんですけど、発想が貧弱ですから、汝ら凡夫には想うこと能わず、と観経でも言われてますし、やはり身を運ぶことが可能であれば、それもやった方が好いんでしょう。

 関連して山中先生の人体シリーズも遇い難くして視聴する時代となりまして、生体の物質自身によるWEB型情報伝達としての身体、現代の人間機械論も初耳ばかりで、(やっぱり)とは思うんですけど、未知を可視化して教えていただいてて、きっと色々と新しい健康法も出てくると思います。
 パラダイムシフトという言葉で人体観の質的チェンジ、飛躍を仰って居られたのが印象的です。

 冒頭、科学的な人間創りにふれ、人間と言うのは自分自身まで創ろうとするバカで、解放や解脱のモメントの欠落を、更に塗り固める姿勢になっている、などと言いました。
 ところが、自己相対化とか、あるがままの観察とか、諸意識の形態化・可視化と対象化とか、サマディによって、期せずして、人間の質の変化、変質や変態に近いものまでもたらすかも知れないような変質の可能性が、モメントからも発信されたと思う。
 内観は知られているわけですが、回心展開もそうかも知れませんし、観極楽国土で、ほとけの世界にふれることで、変わっていくんでしょう。

 勿論、サマディ自体も迷路に迷うようにもなりかねませんし、自己満足や法執にも注意すべきですから、客観視と自戒は必要ですけれども、主客の転倒とかパラダイムシフトだけではなく、意識の形態化・対象化、意識の拡大、さまざまの環境への出会いそのほかにより、脳や遺伝子まで変化があるとなりますと、サナギが蝶になるように、蛇が旧い皮を脱皮するように、カニが甲羅を脱するように、質を変えていく。成長自体もそうですけれども、まさに真人へと変貌を遂げてゆくかも知れない・・・悪党と悪用しかないこの世にては、楽観視に過ぎますか。

 まあこの観仏については当流に於いては軽視され否定され排されてきた傾向が強いわけで、往生之業念仏為本、念仏之業信心為本、専修称名ということですから、吉凶禍福にふれるのと同様、何をバカなこと言っとるんや、と、一蹴されても不思議は無いわけです。

 ただ、一部の方々が、事実あるがままを突き進めて来られたところ、現代的な科学的理解の水準まで至ってしまったわけで、やや驚きを以って受け止めているわけです。以前から知られてきたこともありますが、それを科学の視点で照らされた。いのちにとっての好き世界をもたらし、人間改革、自己変革、人間関係改善に資することは間違いないようにみています。

 また、仏に展開する世界としての側面もあるとすればですが、浄土の有様の描写を無視するわけにはいかないようにも感じられます。ただこれもいつも申しております通り、自障障他する、ほとけの世界とも思えないような、いろいろ怪しげな質が混入しているかも知れませんから、警戒が不可欠ですが。

 この件に関しましては、大変危ういものを感じられているはずですけど、先生が居ない、みたいなことと同じで、たいへん怪しい、と。
 しかし、イドラも偏見も無く、虚心坦懐に子どものように素直で謙虚に、アプローチするべきですが、躊躇しますよね?でも、探求や創造には勇気も大事なんです。恐れなく、畏れも無く、自由であるということは、人間にとってかけがえなき質かと。



 また、往生と浄仏土をみてまいりますとき、往古より、モメントということがいろんな宗教にも思想にも日常生活の至る処にも自然にあるのに、モメントに出遇えないばかりか、往けない質の浄土論と言うことでは困る。

 もちろん、往生したから、機の深信もあるわけだし、自戒も出てくるわけでしょうけど、外界のはたらきについての研究と考察からしても、日ごろの自我、日常の絶対観固定我への拘泥から、自身から、自身を滅ぼし尽して脱していくモメントが浄土の観察から出てくるのかも知れません。
 健康法ですね。集中法でもあり、学習法でもあるけれども。

 ですから恐らく、極楽観の真価は、極楽への執着にではなく、自己を離れていく、忘れていくところにあるんでしょう。明るく美しい世界に生まれていくことで、さらに念ずるものが念ぜられていることに気付くことで、愈々自身を脱していく。願心が自身となっていく。

 まあ、逆境と悲運と万年厄年ですから。
 底下凡愚悪人には間に合わないので、そうした事柄が二の次にされていくことも分りますが、いのちは尊ばれるべし、でしょう?
 とても、生まれない、と。でも、生まれん者が、生まれとるんです。往っとるんです。

 親鸞様に即して、往ったのか往ってないのか、往けるのか、往けないのか、この際シロクロハッキリさせたいと思っておられる方も少なく無いでしょう。テキストから見る限り死後の往生だという先生も少なくありませんし、この汚れっぷりと犯罪生活と煩悩具足では無理だ、とも思われている。

 結論から申しますと、往かれたけれども、往けない。定まってはいるけれども、なお、往っていない。

 観経では、

「、阿難および韋提希に告げたまはく、「この事を見をはらば、次にまP--100さに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふ時、この心すなはちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に繋念して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀を観ずべし。」

とありますから、まさしく警戒されて参りましたところの観念性があるけれども、樹心仏地なんでしょう。

 この件も成道、成仏に関係しているので、慎重に躊躇されて参りました。この際ハッキリさせたい・・・とはいかないかも知れませんけど、課題提起だけしておきたいと思います。



 話がわき道にそれますが、ちなみに観経では韋提希夫人がシャカムニに、

・・・・・・時に韋提希、仏世尊を見たてまつりて、みづから瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投げ、号泣して仏に向かひてまうさく、「世尊、われ宿、なんの罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。
【5】 やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて、五体を地に投げ、哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」と。・・・・・・

と願われますが、大経48願文の1願2願と同じく、地獄・餓鬼・畜生という三悪道からの解放が願われているわけです。
 ただ、明瞭に「閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、」と、死後の来世では無くて、この世の有様として三悪道を受け止められている。

 ちなみにこのあと、

・・・・・・時に韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといへども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽ふ。やや、願はくは世尊、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」と。
【6】 その時世尊、すなはち微笑したまふに、・・・・・・

とあり、シャカムニが微笑して阿弥陀仏を喜ぶ、という三経の共通性があるわけです。
 そして、

・・・・・・時に韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。・・・・・・



・・・・・・時に韋提希、無量寿仏を見たてまつりをはりて、接足作礼して仏にまうしてまうさく、「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を見たてまつることを得たり。未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」と。・・・・・・

のくだりは、まさに底下凡愚なる衆生が為に、説法を懇請される形で、如来菩薩の願心を体現されるわけです。
 願心が初めから備わるが故に、この経の登場人物について、シャカムニが用意された大聖世尊であると、親鸞様はいただかれたわけでしょうか。



(この部分、重要部分ですけど構成中ですので、すいません、もうちょっとお待ちください。いつも超気ままで恐縮ですけど、能力も弱いんで、なかなか間に合いません。)

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 年頭ご挨拶が遅くなりまして恐縮です。
 どうか素晴らしい年にされますように!


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信心からはじまる仏道

(このコラムは後日校正しました)

「・・・・・・なんぢらここにおいて広く徳本を植ゑて、恩を布き恵を施して、道禁を犯すことなかれ。忍辱・精進・一心・智慧をもつてうたたあひ教化し、徳をなし善を立てよ。心を正しくし意を正しくして、斎戒清浄なること一日一夜すれば、無量寿国にありて善をなすこと百歳せんに勝れたり。ゆゑはいかん。かの仏国土は無為自然にして、みな衆善を積んで毛髪の悪もなければなり。・・・・・・」(無量寿経)

 かの土にはもとより無量の徳備われり。此の土にては一つの善が成し遂げられるこそ稀なるか。この世の一善は尊い。

 彼岸、彼の岸辺に出遇われた往生人の方々には、自ずと好き世界への限りない力がはたらきだし、万徳をも成し遂げる勢いであります。

 然るに此の岸にては、微力さえ奪われ、凄惨のみが襲い掛かる。
 加えて十悪五逆の三悪道、自障障他し自害害他し、友を失い敵ばかり生み出し続ける邪なるものを混入した、諸個人は考えと行いに、共同体などの集団は思想・風潮と運動に、屈服投降し、敗北者となってしまう。

 一人の良心の「囚人」を解放することが、大切なんでしょう。為し難いと知られて、曲げて解放されることを祈念いたします。
 ですから私の中ではオバマさんの評価も、ブッシュさんでさえも想像以上に高いんです。

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「・・・・・・仏、弥勒菩薩ともろもろの天・人等に告げたまはく、「無量寿国の声聞・菩薩の功徳・智慧は、称説すべからず。またその国土は、微妙安楽にして清浄なることかくのごとし。なんぞつとめて善をなして、道の自然なるを念じて、上下なく洞達して辺際なきことを著さざらん。よろしくおのおのつとめて精進して、つとめてみづからこれを求むべし。かならず〔迷ひの世界を〕超絶して去つることを得て安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢ、道に昇るに窮極なからん。〔安養国は〕往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり。なんぞ世事を棄てて勤行して道徳を求めざらん。極長の生を獲て、寿の楽しみ極まりあることなかるべし。しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍ふ。・・・・・・」(無量寿経より)

 自然に大事なことは、理由が要らないと同時に、自ずと課題となるに決まってます。

 何よりも、信心自然、如来自然と言う概念が興味深いです。道の自然なるを念じて、とございますのは、そういう身の事実を明言して居られる。

 そうして、我々の自然の願い、求めに対して、いのちに対して、その国逆違せず、自然の牽くところなり、ということでしょう。
 然るに、なんぞ世事を棄てて勤行して道徳を求めざらん、と。ところがまた、易往而無人と嘆かれることがあり、我々の頑迷なる世俗信仰が課題とされていくわけです。異なれる、背ける身が嘆かれ、課題とされていく。

 これはまあ蓮如様も仏法のことは急げ急げ、はやく後生の一大事をこころにかけて、と仰るが、世事を棄てて仏道専学たれということとは違うと思います。世事全部が仏道であるけれども、仏眼を賜らないままでは、信心なくば、安心、安楽国、ニルバーナに遠く、須らく世事全部が粗末にされていく、いのちを尊び合い認め合えないままである、ということでしょう。

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 無自性空義と大慈大悲なる在り方からみて、自己を相対化し、且つ、自己の有様をダルマと機の実態と実践からみる仏眼を賜ることで、自己への執着を脱していくわけであって、迷いの生存を脱して再び受けないということがあるわけです。

 シャカムニの思想では生存自体が忌避傾向であって、確かに生存に於いては限界がある事柄が多数あるので、生存自体を辞めてしまえ、というのも分からなくはない。

 しかし、執着ではあるが、執着以外の私なんぞ存在しないのであって、いのちを尊ぶが故に、道があるのであり、この生存があるゆえに、厭うということも求めるということもあるわけです。
 しかも、死者は、われわれの意識の中以外には、再びこの世界に帰っては来ませんし、生存を避けたいのなら最初から死んだ方が効率的ですから、生存の反対も実は、死では無いんです。もちろん死ということは避けては通れませんが、迷いの生存からの脱出は一旦死んで生まれ変わるのに近い。

 それで、名号となってこちらに来られてほとけの世界に生まれなさいとみ教えを説かれた、そういうほとけの世界に、いのち呼応して、尊び合えて認め合える世界に自然に頷くとき、信心獲得があり、平生業成となるわけです。

 ですんで、八万四千の煩瑣なる法門があるけれども、肝要がハッキリしているんです。あとは暮らしの中の考え方と行いが照らされていく。

 げー出るんで勉強してませんけど、ゲーデルの不完全性定理というのがあるんだそうですけど、どこまでいっても完全ではないということらしいし、マルクスじゃ無いけれども全ては論駁されるし、『暗黙知の次元』でも楽観的なブハーリンに対して、「より包括的の智」への発展を予見していたわけですし、縁起と変化に終わりがないから、学びやより包括的な世界観・人間観も深まっていくということがある。

 やや枝路に入りますが、一元化というのは血肉に馴染むんでしょうか、まあ、多くが一元化されて、固定化されていく。マテリアルなディアレクティクさえもそうですし、実際、終いには科学から妄想執着になってきた。
 般化には慎重な、純粋及び応用的の科学・工学分野の方々までもが・・・。
 単純化の法則もあるそうで、子どもや古代人における、諸存在への認知姿勢における目的論的な意味付与も、良く知られているらしく、どれもこれもが主観性と固定化の増長を証明してて、こうした認知認識の性質もまた、解放、解脱へのモメントを奪う、妨げとなってるようなことも、仄明るく見えて参りました。
 これはまた同時に、さほどに人間の脳が肥大して観念お化けになってきた進化の証明でもあるんでしょうけど、学びと遊びだけじゃない、思い込みこそ人間的だ、みたいな?ツキを信じ、運に身を委ねたり、怪しげなる運命性を大事にしたり、ですね。

 加えて、怪しげで反仏教的非仏教的な事柄が混入しているから、何度も最初から学び直さんといかん、ということがある。

 そういうことがあるけれども、一定程度、半ば普遍的なテーゼがあるわけです。それは縁起の法や無自性空義や限りなき灼熱の慈しみということなんです。六つのパーラミターなどで言われる智慧の完成。
 縁起繋がりの原理からして、また求め合う共同性動物であることからして、友であるほか、無いじゃありませんか。創敵ばかりじゃ一瞬も生きていけん。
 こうした般化された願心やテーゼにより、まあテーゼ自体も課題とされつつも、ブッダの、その法嗣方の説かれた内容も、効率的・合理的・効果的に学びを進めることが出来ましょうし、このコンテキスト、パラダイムが有効である内は、ここから出発して現代化したり、現代の諸学の発見と発展と共に教相自身の質的深化を進めたりすれば宜しいわけでしょう。

 まあ、宜しく無いのは我が思いとか、各自の境涯の違いなどで、大問題のまま推移するんですけど、ちゃんと担われていくだろう、と。

 とにかく、一大事と言うのは往生、いのちの尊重なんです。
 これがハッキリしていかない。
 再び遇えないかけがえなき人しか存在して無いんです、実相は。それも分れん。変わりはナンボでも居る、とか、もっとええのが居る、とか。



 さて、信心、往生、名号。

 出遇えたときに、信心獲得に於いて、浄土、ほとけの世界が開かれてあった、と。

 しかし先ずは、ほとけの世界がハッキリ開かれて来ないことには、信心は危ういし、願心自体も備わって来ないのでしょう。信心や往生の原因は、如来の他力本願力とされる。出遇わんならん。

 当然、出遇うものは先ず以て願心でもあるけれども、その他のことがどうでもいいのかというと、そうではない。けれども、煩悩にまなこを遮られているから、おまけに色々混入しているから、なお、多くに出遇えて来ない。

 浄土は如来の願心が精選して設けたものですけれども、無理を排し、囚われを脱したら自然に現れて来た世界、でもある、ということだと思うんです。そしてまた、滅後久しいブッダの法座に出遇おう、と開かれた場でもある。
 物質身体の不老不死以外は。あれはいのちの認識に於いて、不壊なる世界と一体の私を指しているのでしょう。多分に体感的で、個体には成立しない。けど、個体自体が縁起と、生命全体に於ける共同性を有しているという点では、自我は死を受け入れないけれども、身は受けていく。死すらも、繋がりのなかで、これは理智観念上も、永遠でもありましょう。

 ですんで、多分に観念的ではあるけれども、物質的ライフに拘泥されるよりも遥かに我々を導いていく質がある。
 それは我々を尊ぼうとする願心自体が、存在の根拠として廻向されたからなんでしょう。初めから生死を越えているんでしょう。

 現代人は、坊さんも余りそうは思っとらんわけで、あれは作りもんだと、みんなそう思っとる。良くてもせいぜい方便だ、と。まあ、方便という語も、本来は道、方法ということで、目的と不可分なんですけど。

 むしろ我々のカーマと物質世界を、いのちにとって好ましい方角へと改善し続けるはたらき、そうした事柄のさまざまの現われとしての浄仏土、とも申せましょう。
 共同性、連帯、友たらん、と。不請之友たらん、と。友として温かく来られた世界こそ、如来菩薩とその浄仏土。

 次に、如来の本願というけれども、大乗も小乗もありませんが、一般的な大乗仏道の菩薩道共通の発願、ということになっています。世自在王仏に出遇われて発心発願される。

 で、先ず、菩薩と言う概念を見直しますと、上求菩提・下化衆生みたいに伝えられてきたわけですが、菩薩道への発心自体に、最初から菩提が備わっている。まだそれとして自身を顕現し切ってはいないとしても、最初から備わっているものは人間に孕まれてセットされている自然なもの以外には無い、という把握でないと、一生懸命学文したり観念したリ修行したリ、という間違った方角への道を進むこととなる。
 効率よく開発されるべきである、と。

 次に、法蔵菩薩特有の浄土建立の発願として、別願(48願)の浄土建立。法蔵菩薩独自の、諸仏諸菩薩の諸浄土の観察、その結果としての特に優れた性質選択、が為されていく。

 大経48願の最初が、三悪趣というサハ―世間の有様の克服への誓いから始まっていくことに、特長がある、と申せましょう。
 明らかに人間改革、社会改革なんです。一旦世間的国・地位・考え方・姿勢を脱して、改めて成道と仏国土建立を進める運動になっている。縁起自体も自分だけや自分たちだけ、ということを排していく。

無量寿経中の東方偈に

「大士観世音、服を整へ稽首して問うて、
  仏にまうさく、〈なんの縁ありてか笑みたまふや。やや、しかなり。願は
  くは意を説きたまへ〉と。
  〔仏の〕梵声はなほ雷の震ふがごとく、八音は妙なる響きを暢ぶ、
  〈まさに菩薩に記を授くべし。いま説かん。なんぢあきらかに聴け。
  十方より来れる正士、われことごとくかの願を知れり。
  厳浄の土を志求し、受決してまさに仏となるべし。
  一切の法は、なほ夢・幻・響きのごとしと覚了すれども、
  もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん。
  法は電・影のごとしと知れども、菩薩の道を究竟し、
  もろもろの功徳の本を具して、受決してまさに仏となるべし。
  諸法の性は、一切、空無我なりと通達すれども、
  もつぱら浄き仏土を求めて、かならずかくのごときの刹を成ぜん〉と。」

このようにございますから、諸存在の性質は無自性空であるものの、涅槃の都として浄土を設ける、ということは、やや別の事柄として述べられているように感じられましょう。

 一応空無自性義を弁えていることで、我々は絶対観・固定我から自由になるけれども、依然として自身を愛しむことには変わりがありませんし、自身の意識における他者もまた、日ごろ思っている以上に、不可欠不可分なんです。
 そして、執われ(囚われ)を離れることで、一層あらわな自身の真相、実相たる願心、慈しみ、尊さ、輝きが知られて来る。縁起繋がりのただ中に有ることも知られたわけですが、解脱、開眼、目ざめなどと表現されますが、こうした質も開かれて来るわけです。
 まあこれは、目ざめたはずが、又怪しい、っていう自戒を伴わんと、危ういわけですけど。

 ですので、浄仏土、ほとけの世界、涅槃の都は方便でも何でもない。
 法座に出遇いたいサンガの願いを承けているし、自然に仏に開かれてある世界でもあり、また企図して諸仏浄土の世界から好き質を選び択んで、さらにそれを仏ご自身が磨き抜いた世界、でもありそうだ、ということなんです。

 こうした救済への思いは、我々を大事にされた願心からだということですが、仏自らも共に在れないと楽しめぬ。ブッダとダルマはそういう性質である。

 次に、念仏と言うのは仏を念ずるんですけど、従来念仏と異なり、観法でも無いし、いろいろ学んであれこれ思い巡らして積み重ねて至るのでもない。
 名の響きに備わった、私らの為だった、かかる本願のいわれたる、慈しみ、好き世界、幸ある世界へと誘って来られたブッダの仏意・願心とその開いた世界に、パッと気づき、頷く念なんです。

 称名念仏と言うのはブッダの響きに込められたほとけの全てに自然に頷く姿、と申せましょう。
何故自然かと言いますと、人類共通の願心だから、なんです。さらには元来、あらゆるいのちに共通だということを仏が見出されたものである。
 ですから、称名するときには報恩謝徳の念があり、念仏自体が報恩謝徳の念も持っている。名と言う言葉で廻向された世界ですから、必ずしも声ではないかも知れませんね。一遍称えるとか、百万遍称えるとか、声ではないかも知れない。



 さて重担なる仏道は、多分に自己を問い、内を問題とする姿勢でありますから、御宗門に於かれては同朋社会の実現と言われますが、ほとけの世界実現という目的に向けて、怠らず勤め励むに当たりましても、先ず以て自身の姿勢が大切になる。
 自戒、教誡が大切で、曠劫来流転の初心、忘るべからずなんでしょう。

 そのうえで、ほとけの世界に照らしてみますと、それが可能なのは信心獲得の往生人だけで、仏菩薩の世界に生まれていることを意味するんですけど、初めてブッダのカーマが出てくる。
 カーマと申しますのは、如来ブッダの行、業ですが、初めて出てくるんです。

 成道までが修行だと思っているけれども、そんなのは易行なんです。回向された世界と願心のはたらき、本願力で、直ぐに出遇える。少なくとも当流、親鸞聖人の一流に於いては、念仏為本・信心為本。娑婆暮らしに比べても、ずるいほど、楽々と往く、と。
 けれども、成道と言うのは、ブッダのカーマを引き受ける。大乗系菩薩道では、そうなります。重担、と。

 前ふれたんですけど余談ながら、そもそも永劫の年月修道しても成れるか成れんか分らんようで不安である、何とかならんか、などと龍樹大師に問いかけますと、汝これ大人志幹の姿勢に非ず、儜弱怯劣(にょうにゃくこうれつ)、と叱られる。
 到底引き受け難い、実行し難い、通じ難い理念であっても、担わん、と。
 かかる志願においてこそ、菩提心が自ずと備わり、自ずと育まれていくのではないでしょうか。はじめから、志願居ます。求道の発心に既に、志願、願心が孕まれていたはず、なんです。なお、それとして十全には自身を鮮明にして居らなくとも、ですね。

 怠らずに自身を聖典に照らして点検していくと、いずれ、ブッダの名の響きにある仏意願心とそこから展開し続ける世界に、相応していく、適っていくんです。

 ただ、聖典の読み方もありますし、文言の示す通りが真実であるという読み方をしないといけないし、同時に仏意願心から照らすと文言がどうなのか疑謗を持たないといけないし、仏意願心自体とその開く世界自体を明らかにする探求的創造的な読み方でないといけないし、より包括的な現代や、異なれる諸学との対立・相互浸透と質の変化によるアウフヘーベンが要るし、聖典だけが聖典ではなくて存在全てが聖典なんで、割と大変なんです。
 煩瑣なんで略しが、好い対象認識、好い読み方、創造的なアプローチ方法の抽出とリストアップお願いします。これらに照らすことで学びや探求の点検にもなりましょうから。

 先生が居ると好いんですけど、いまだ成道されているのかどうか、如来になられたのかどうか、先に生まれただけとか、先生になれるのかどうか、ですね、まあ、大分年取りましたから言いますけど、先生も共々に求道するわけですから、アテになんかならんかも知れない。
 まさに自ら求め始めながら、当て所なく寄る辺なく頼りなき道を進む・・・みたいな。

 普通はですね、ええ、重担過ぎて無理です、私ら凡夫には、そんな偉いコとちゃーうんです、どうぞご自由に、となる。
 願心にも、恩寵にも愛にも、「人民の為に、至る処で」が開く世界にも、「死も恐れずに進め」にも感心し、感激し、心酔もするけど、そんなん、嫌や、しんど過ぎるわ、あほ、と。
 勘弁してえな、何でそんなに青いの、ホンマはワシが可愛いいんや、自分を偽ったらアカン、危険やあんたは、正義を声高に訴えるもんこそ、みんなを粗末にしとるんと違うか、偉いかも知らんけどさ、と。

 みな、自分を可愛いと思いたい。これが真実の寄る辺、岸辺の代わりたる、代用観念になって来る。
 無論、可愛がるべきではあるけれども、実際には、想定外に粗末にし続けているままなんでしょう?
 ワシは、自分は、もちろん可愛いけど、その自分は誰か?まあ若い頃に自習した理屈っぽい欧米宗教的設問ですけど、自分は誰か?その自分は、自分ではないのではありませんか、と。

 実際、覚悟も智慧も要るんで、道を閉ざして早々に逃げんならん。よー分かるんです。しかし、方角が違うと思います。人間から逃げることは出来ません。身の事実に根差す志願からは、逃げられんのです。
 これは人間の防衛と解放に対する誤謬と同様、真に身を守るものは何か?真に無敗常勝なるものは何か?こうした問いで、まあ、世相と既成観念と自我から出発する限り、友であって武器よさらばしかないって言う単純明快な事実にも、疎まれて気づけん存在になり果てているんでしょう。真実から疎まれていく身になっている。そして、武力増強によって、ますます、疎まれていくわけでしょう。

 ふれついでに考察しますと、恩寵も状況打開、自我からの解放、解脱なり相対化っていうモメントを奪うので、行った切り、戻って来られん恩寵主義も、教誡されるのでしょう。性格としては来世信仰とやや趣を違えて、自我を脱し切らぬことや自己を問わぬことが往々にしてあり、他力を有り難がるのは結構ながら、もっと苦海たる娑婆の生存に心を寄せるべきなのかも知れませんし、自らをたすからんと正確に理解すべき。温かさこそ大切ですけれども。

 しかしながら、いや、何とかせんならん、誰かせんならん、まず自分から始めんならん、と。志願居ます。理想主義というなら、何度でも応えよう、その通りだ!ってゲバラがある。
 ひどい現実を選ぶ者こそ大悪党だ、自身の人間性さえも裏切り、人間を害い切ったものだ、たすかれ!ってことでしょう。
 そういうことなんです。ちっぽけな願心さえ、三千大千世界よりも重くて、よう保たんけれども、必ず自然に地湧してくるはず、なんです。

 ただ、ここに至ってもなお、無理が通れば道理が引っ込んじゃって、いろいろ台無しになっちゃう。また、無理は長くは続かないし、すべきでもない。
 思想も理念も法執もあれば、好く選択されていない願心と思想と世界、姿勢とか行いですんで、95種で世を汚すんです。なおそれとして願心が自己を成就して来ない。

 いずれにいたしましても、信心獲得、菩薩道の願心を賜るけれども、曖昧さは無いんです。古いし、人の見つけ、まとめてきたものですから、曖昧や迷いも実はあるでしょうけど、願心と仏土にはいくつか鮮明なポイントがあるんです。
 無三悪趣の世界とはどういう世界か、そして、間違った質も混入しているけれども、また48でなくても好いんでしょうけど、48願文の開こうとしてきたほとけの世界はどういう世界なのか、ハッキリしているべきでしょうし、願心と願文がハッキリしているとすれば、身の、機の深信とめざすべき具体的な事柄も最初からハッキリしているものなんでしょう。浄土論の創造を含めて。
 親鸞様最後のお仕事、論と論の註に続けていかんと。

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 親友、親しい友とは何か、みな自己を尊ぶので、他者も同じように尊ぶべきだ、ということが願心でしたが、友でありたいのか、どうか。
 人間性の防衛と解放、無三悪趣で尊び合え認め合える世界ため、他者をみそなわすこと自己の如くする友たらんと言う願心について、聖典をいくつかソートしてみたんスけど、友とは誰か、孝養の子、親とは誰か。

 政治的理由の如何に依らぬ多数の死傷者を出す事件が世界中で頻発していることに心よりお見舞い申し上げますが、友好と限りなき灼熱の慈しみを第一の根幹、私の中心としていくべきと思います。
 どうも、友となりたくない、ブロック化とか権力主義とかばかりが目立ちますが、あれは友を持とうとしない姿勢にほかなりません。友を求めていない風潮がある。
 ある意味では恵まれているんでしょうし、同時にまた、恵まれていないことを示しているし、分断もされているんでしょうね。

 間違いを含むかも知れないことを怖れつつも、自身を棚に上げてでも臆せずに、社会的ことわりをいくつか述べて来ましたが、全ては友好、世界人民への慈しみ、連帯が前提になるんです。そうでないと、民主的では無い。尊重し合い認め合える世界を得られない。



 先日、TV番組の中で、五木先生が寺歩きで先日東本願寺を取り上げて居られ、教団の問題はともかくとして、有り難うございます。

 ただ、正信偈では如来所以興出世 唯説弥陀本願海とあり、和讃では、弥陀成仏のこのかたは、今に十劫を経たまえり、法身の光輪きはもなく、世の盲冥をてらすなり、とありますが、出世本懐は本願海、すなわち法を説くことにあった。法身なんです。法を体現した体系。法体。法界。

 ですから選択的一神教ではない。蓮如さんには傾向はある。汎神論でもない。けれども、即證真如法性身ともありますが、ダルマとほとけの世界が響きとして託された名号本尊なんでしょうけど、世に現れては、世もいのちも輝かせる。万事に通じていくものなんでしょう。ア・ミタ、尽十方無碍光。全てを照らしていく法。



 近隣の門徒さんにお訪ねしたところ、どうやら雉は昔から近所に生息していたらしいことが判明しました。
 しかし、数十年来、一度も見たことがありませんでした。この辺では生息数が少ないので、保護すべきでしょう。もっと増えないと。

 コラム「一枚起請文」追記しました。易行品もそうですが、一枚起請文も教誡の言葉なんでしょう。


【参考】

#1十住毘婆沙論
#2易行品
   十住毘婆沙論 巻第五
               聖者龍樹造 後秦亀茲国三蔵鳩摩羅什訳
  易行品 第九

【1】 問ひていはく、この阿惟越致の菩薩の初事は先に説くがごとし。阿惟越致地に至るには、もろもろの難行を行じ、久しくしてすなはち得べし。あるいは声聞・辟支仏地に堕す。もししからばこれ大衰患なり。『助道法』のなかに説くがごとし。
  「もし声聞地、および辟支仏地に堕するは、
  これを菩薩の死と名づく。すなはち一切の利を失す。
  もし地獄に堕するも、かくのごとき畏れを生ぜず。
  もし二乗地に堕すれば、すなはち大怖畏となす。
  地獄のなかに堕するも、畢竟じて仏に至ることを得。
P--4
  もし二乗地に堕すれば、畢竟じて仏道を遮す。
  仏みづから『経』(清浄毘尼方広経)のなかにおいて、かくのごとき事を解説したまふ。
  人の寿を貪るもの、首を斬らんとすればすなはち大きに畏るるがごとく、菩薩もまたかくのごとし。もし声聞地、および辟支仏地においては、大怖畏を生ずべし」と。
 このゆゑに、もし諸仏の所説に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願はくはためにこれを説きたまへと。
【2】 答へていはく、なんぢが所説のごときは、これ儜弱怯劣(にょうにゃくこうれつ)にして大心あることなし。これ丈夫志幹の言にあらず。なにをもつてのゆゑに。もし人願を発して阿耨多羅三藐三菩提を求めんと欲して、いまだ阿惟越致を得ずは、その中間において身命を惜しまず、昼夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし。『助道』のなかに説くがごとし。
  「菩薩いまだ阿惟越致地に至ることを得ずは、
  つねに勤精進して、なほ頭燃を救ひ、
P--5
  重担を荷負するがごとくすべし。菩提を求むるためのゆゑに、
  つねに勤精進して、懈怠の心を生ぜざるべし。
  声聞乗・辟支仏乗を求むるもののごときは、
  ただおのが利を成ぜんがためにするも、つねに勤精進すべし。
  いかにいはんや菩薩のみづから度し、またかれを度せんとするにおいてを
  や。
  この二乗の人よりも、億倍して精進すべし」と。
 大乗を行ずるものには、仏かくのごとく説きたまへり。「願を発して仏道を求むるは三千大千世界を挙ぐるよりも重し」と。なんぢ、阿惟越致地はこの法はなはだ難し。久しくしてすなはち得べし。もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。
【3】 仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。
P--6
あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。
【4】 偈に説くがごとし。
  東方善徳仏、南栴檀徳仏、
  西無量明仏、北方相徳仏、
  東南無憂徳、西南宝施仏、
  西北華徳仏、東北三行仏、
  下方明徳仏、上方広衆徳、
  かくのごときもろもろの世尊、いま現に十方にまします。
  もし人疾く不退転地に至らんと欲せば、
  恭敬心をもつて、執持して名号を称すべしと。
【5】 もし菩薩この身において阿惟越致地に至ることを得て、阿耨多羅三藐三菩提を成就せんと欲せば、まさにこの十方諸仏を念じ、その名号を称すべし。・・・・・・
(私見:この文章もサンガ内の門下との応答でしょう。ちょっと気になってますのは、ア・ミタの名のりも限定が無いので十方ということだと思ってますし、また菩薩の活躍も十方なんです。すると、余の方へ心を振るのでないといけない。ただ、願心一つに依って、ということでしょう。)

・・・・・・【7】 問ひていはく、ただこの十仏の名号を聞きて、執持して心に在けば、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を退せざることを得。さらに余仏・余菩薩の名ましP--14まして、阿惟越致に至ることを得となすや。
【8】 答へていはく、阿弥陀等の仏およびもろもろの大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得。また阿弥陀等の諸仏ましまして、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし。・・・・・・

・・・・・・【10】 阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。
【11】 偈をもつて〔阿弥陀仏を〕称讃せん。
  無量光明慧あり、身は真金山のごとし。
  われいま身口意をもつて、合掌し稽首し礼したてまつる。
  金色の妙光明、あまねくもろもろの世界に流れて、
  物に随ひてその色を増す。このゆゑに稽首し礼したてまつる。
  もし人命終の時に、かの国に生ずることを得れば、
  すなはち無量の徳を具す。このゆゑにわれ帰命したてまつる。
P--16
  人よくこの仏の無量力威徳を念ずれば、
  即時に必定に入る。このゆゑにわれつねに念じたてまつる。
  かの国の人命終して、たとひもろもろの苦を受くべきも、
  悪地獄に堕せず。このゆゑに帰命し礼したてまつる。
  もし人かの国に生ずれば、つひに三趣および阿修羅に堕せず。
  われいま帰命し礼したてまつる。
  人天の身相同じくして、なほ金山の頂のごとし。
  諸勝の所帰の処なり。このゆゑに頭面をもつて礼したてまつる。
  それかの国に生ずることあれば、天眼耳通を具して、
  十方にあまねく無礙なり。聖中の尊を稽首したてまつる。
  その国のもろもろの衆生は、神変および心通、
  また宿命智を具す。このゆゑに帰命し礼したてまつる。
  かの国土に生ずれば、我なく我所なし。
  彼此の心を生ぜず。このゆゑに稽首し礼したてまつる。
  三界の獄を超出して、目は蓮華葉のごとし。
P--17
  声聞衆無量なり。このゆゑに稽首し礼したてまつる。
  かの国のもろもろの衆生、その性みな柔和にして、
  自然に十善を行ず。衆聖の王(阿弥陀仏)を稽首したてまつる。
  善より浄明を生ずること、無量無辺数にして、
  二足のなかの第一なり。このゆゑにわれ帰命したてまつる。
  もし人仏に作らんと願じて、心に阿弥陀を念ずれば、
  時に応じてために身を現したまふ。このゆゑにわれ、
  かの仏の本願力を帰命したてまつる。十方のもろもろの菩薩、
  来りて供養し法を聴く。このゆゑにわれ稽首したてまつる。
  かの土のもろもろの菩薩は、もろもろの相好を具足し、
  もつてみづから身を荘厳す。われいま帰命し礼したてまつる。
  かのもろもろの大菩薩、日々三時に、
  十方の仏を供養したてまつる。このゆゑに稽首し礼したてまつる。
  もし人善根を種うるも、疑へばすなはち華開けず。
  信心清浄なれば、華開けてすなはち仏を見たてまつる。
P--18
  十方現在の仏、種々の因縁をもつて、
  かの仏の功徳を歎じたまふ。われいま帰命し礼したてまつる。
  その土はなはだ厳飾にして、かのもろもろの天宮に殊なり、
  功徳はなはだ深厚なり。このゆゑに仏足を礼したてまつる。
  仏足の千輻輪は、柔軟にして蓮華の色あり。
  見るものみな歓喜す。頭面をもつて仏足を礼したてまつる。
  眉間の白毫の光は、なほ清浄なる月のごとし。
  面の光色を増益す。頭面をもつて仏足を礼したてまつる。
  本仏道を求むる時、もろもろの奇妙の事を行じたまふ。
  諸経の所説のごとし。頭面をもつて稽首し礼したてまつる。
  かの仏の言説したまふところ、もろもろの罪根を破除す。
  美言にして益するところ多し。われいま稽首し礼したてまつる。
  この美言の説をもつて、もろもろの着楽の病を救ひたまふ。
  すでに度しいまなほ度したまふ。このゆゑに稽首し礼したてまつる。
  人天のなかの最尊なり。諸天頭面をもつて礼し、
P--19
  七宝の冠足を摩づ。このゆゑにわれ帰命したてまつる。
  一切の賢聖衆、およびもろもろの人天衆、
  ことごとくみなともに帰命す。このゆゑにわれもまた礼したてまつる。
  かの八道の船に乗じて、よく難度海を度したまふ。
  みづから度しまたかれを度したまふ。われ自在者を礼したてまつる。
  諸仏無量劫に、その功徳を讃揚せんに、
  なほ尽すことあたはず。清浄人を帰命したてまつる。
  われいままたかくのごとく、無量の徳を称讃す。
  この福の因縁をもつて、願はくは仏つねにわれを念じたまへ。
  わが今・先世における福徳、もしは大小、
  願はくはわれ仏の所において、心つねに清浄なることを得ん。
  この福の因縁をもつて、獲るところの上妙の徳、
  願はくはもろもろの衆生の類も、みなまたことごとくまさに得べしと。・・・・・・

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2017-12-22

1214雪路を参る.jpg
12月14日 雪路の中のお参り

・・・ってことで、すっかり銀世界に。

 11月には寒波が到来して20cmほど積雪がありましたから、どうなることかとハラハラしてましたけど、幸い、積雪は少な目。

 冬場、離れたところに車を置いて、登ったり下りたりしながらご門徒宅にお参りする時期となりました。

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 サイドコラムでご案内すべきですが、先ずは行事のご案内です。

 女性の同朋会、下記の通り行います。今年から正信偈講義したいんですけど、住職の話も退屈でしょうから、19日には本山DVDの御修復の記録を観ていただきました。

 ミニ忘年会として、チュンホワの文化では「包子(パオツ)」類はおめでた料理らしいんスけど、今回はウチでは家族で餃子を作って御試食いただきました。まだ年明けして無いんスけど、早くも旧正月気分みたいな?

 出来栄えですね?余りにも普通。ニンニク入れませんでしたし、白菜が少な目過ぎました。これから勉強さしてもらってから、「淳一のスペース」でレシピをアップ出来るまでの味にしたいです!淳日式の東華美味みたいな?

開催期日は
2017 12.19  PM1:30~(忘年会)
2018  1.26  PM1:30~(新年ゲームと福引)
2018  3.23  PM1:30~(春のお勤め)
です。
 今年は日時が減りましたので、会費は通しで2000円です。

 また、推進員さんを含めての同朋会合同総会を開催します。会費は3000円です。お斎は昨年同様スキヤキを予定しております。
 講師・講題を含め、改めて案内いたしますので、参加ご希望の方はその際にお申し込み願います。
2018年2月25日 PM6~

 次に年末年始のお勤めのご案内です。昨年同様、今年最後のお勤めは12月28日午後4時から。新年のお勤め、修正会は1日午前7時からです。

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 高田教区の御遠忌に際し、第11組でも団参が行われます。現時点では4月19日のバスに参加する予定ですので、宜しくお願いいたします。

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 一昨年光圓寺同朋会50周年にお招きした落合誓子さんが解放出版社から『女たちの「謀叛」』という本を出されました。
 各教区やお寺の坊守さんや女性方の集いで講師に招かれては如何でしょうか?

 この季節に限らんのですけど、役員さんが落下事故に遇われました。
 命綱を付けておられながら、外そうとされた瞬間だった、とのお話しでしたが、年齢と共に脳体感と実際の体調とのズレがあるんでしょうから、油断なく、ご注意いただきたいと思います。

ももIMG_20171222_173327.jpg
庫裡の裏を散策してたらしい雌の雉(pheasant)

・・・どうも、四論の講説差し置き過ぎております内に、周辺自然環境も大変わりしてるみたいです。
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無戒からー19


 さて、少し前にふれました「無記」ということでは、死後世界と追善供養が出てくるかもしれないけれども、既に契機を失っている死者よりも、ほとけの世界に供養される私、ということがあるわけでしょう。
 生者・死者共なる世界は大事なことですけれども、本願に出遇ってほとけの世界へ同朋として共に往生することが肝要です。祖師方の導きも、偏にこのこと一つに尽きるのでしょう。

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 仏教というものは安楽国、涅槃の都を求め、その為、十悪五逆三悪道なる罪悪深重の底下の凡愚からの解脱、束縛や抑圧からの解放を求める。
 明るくて活気があり尊び合え認め合える素晴らしい世界、ということでしょう。
 それがハッキリしないことには、法の楽しみが分らない。

 二種深信の内、法の深信、素晴らしい世界への往生、ということがあるわけです。
 これは人類の自然な願いをスッキリと表現したたすかりの世界、解放の世界ということですが、決して死後のこととしてはならない。

 曠劫来流転の罪悪生死のままの私が、雑であり異である、法の浄土往生の機には逸れたる私、機の深信が、法の深信でいよいよ明らかとなりますが、しかも祖師方が見つけ出されて法統にまとめられた如来他力の願心に呼応して、往ける。自然のはたらきなんです。

 既に脱したところで往生ということがあるけれども、価値と喜びと無知の知が備わるけれども、身は依然として間に合わない謙虚さを備えるはずですし、雑と異をこととする生存には、再び退転しない、ということでしょう。

 無戒とは言え、本願に出遇った者には、倫理ということが、生きる、ということで大事になる。まあ、世間的な徳目ばかりでなく、徳目の批判も含め、赦しを深め、慈しみに生きる、ということでしょうけれども。

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 思われるんですけれども、仏法のところのことは、若きときたしなめ、と。急げ急げ。
僧分もそうなんですけれども、十分に学んで仕上がってから・・・仏法はそんなんじゃないんです。

 これは公式・非公式を問わず、お聖教も含めまして、怪しいものや誤謬で塗りたくられてきたかもしれない、それをまた怪しい質で礼拝したり、讃嘆している私がいる。まともなもの、全面的なものに出遇ったことが無い。
 このように自省し自誡することが、凝り固まることを予防するのではないでしょうか。

 ですから、間に合わんまま、ただ本願と、これに呼応する二種深信のみぞ、まことにておはしますから、安心してお話しいただけるし、聴聞が成立して来るんでしょう。

 以前宗憲や同朋会条例についてふれましたが、まあ、宗憲に言う「正依の聖教」について学びが足りませんし、十分に講義できず恐縮ですけれども、関連事項や関連史実や関連聖典を交えて一つづつ学べるように出版して欲しいとも思います。

 さて、「同朋社会の実現」ということが弊派の「目的」となっているわけですが、信心を同じくする集まりということでしょうから、派内の同朋会は大事なんでしょう。
 けれども、異なれる運動とグループがありますから、それだけでは同朋社会ということになっていかない。

 存在全部が雑にして異であるけれども、異には二ありまして、えらび歎異されるそれと、喜ばれる仏縁となるそれがある。前者には異端審問などもあるんでしょうし、後者には関係性におきまして、相互性、発展性、変革などが孕まれて来る。

 身が雑であり異であるなら、これは雑にして異なる現代社会と共に歩むうえで、重要なことである、とも思われるわけです。
 また、異なれる者同士が、諸産業で共に活躍していくわけですので、なおのこと、共に、ということは重要になっております。

 同朋会運動がめざす同朋社会ということをどう具現していくのか、相互の相対化と、多元社会の中で尊び合い、認め合いながら、愈々自らの信心の念仏を鮮明にしていく。そうしたことも倫理ということに含まれるのでしょう。
 実のところ我々にはそう違いが無い、類似の心情があるといたしましても、異なっている、差異を認める世界という前提を崩さないことが、過った人間観や行いや関係を抑止します。

 あんまり無理しても始まらんので、まあ、目標は大きく、歩みは少しでも着実に、ということでしょう。

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 先月のお引き上げ並びに永代経では、山越先生のお話し、有り難うございました。以前建設関係の事務にお勤めだったとのことで、顔見知りのご門徒が結構居られたみたいです。いい感じです。

 また今月の同朋会での長尾先生のお話し、参集されたご門徒にも習われた方も居られたみたいで、先生も話しにくかったかも知れませんね。
 久しぶりに現国の授業受けてるみたいな印象でしたけど、日ごろ組会等でよくお会いして喋ってる印象とは違い、一歳のとき父親と死別され二十歳ころにはお母さんとも死別され、若い頃からずっと病との闘争で大変だったことが伝わります。先生の自負心、向上心を感じさせる内容でした。

 同朋会では、旅行を実施したリ、親睦会の前に法話を聞きますが、門徒の門徒による門徒の為の寺ですので、仏教僧の講義や法話にもお訪ねいたしますが、このたび、今後会のメンバーを含め、年に一回は御門徒から講師になっていただく運びとなりました。

 人生が仏道であり、出来事全部が仏縁。人生にふれることが法にふれること。体験でも思いでも、肩の張らないお話をして頂ければ、と思います。まあこれは、坊守さんでも女性でもそうですけれども、仏法のことはお一人お一人が主役ですので、専門の仏教用語やお聖経の言葉を交えなくていいし、疑問はまた懇談の席で談合いただければいいと思います。
 ってことで、来年の秋、第一回目は実さんにお話しいただく運びとなりました。
 春にはまた比後さんをお招きしたいと思います。

 先生方が生きておられる今の内に、ということで老僧も大事なら、若手育成も大事ですから若い僧も、女性教団ですから女性も、お招きしなくちゃいかん。同朋社会の実現ということですから、実は各界の専門家の先生や、他宗教からもお招きするが本来でしょう。
 ですけど、いずれにいたしましてもご門徒が主役ですので、ご門徒各位のお話しに、私自身の人生を訪ねて参りたいと思います。

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 派内では宗会議員選挙が行われました。これは与野党があるみたいなんですけど、万年与党と言うのでは、一元的に過ぎ、宗門世論が危ぶまれるように感じます。

 高田選挙区では、このたびは、以前子ども食堂で訪問しましたが、金子君が当選され、宮本さんが落選されたことは残念ですが、ご活躍いただきたいわけです。井上さんも与党組から離れられた方が好いと思いますけど、それぞれの自由です。いずれにしましても、世代交代は避けられませんので、次代の方々も覚悟を決めておいて欲しいもんです。

 残念ですが子ども食堂の必要性はますます高まっておりまして、子どもの生活保障、権利保障ということが一人の尊重と合わせて、重要事項になっています。

 貧困だけではなく、子ども、女性、異民族や異教徒を中心に、いじめ、虐待、レイプ、人身売買など無権利状態が世界的に問題になって居りまして、一部の国と地域については国際問題になって来たわけです。日本でも増加傾向にあるようで、周囲も注意深く見守らねばなりませんし、行政の相談窓口に知らせる必要もありましょう。

 男性の責務は女性と子どもの保護であり、女性の責務も同様です。
 ただ、家族と言いましても不安定で、十全ではありませんから、周囲や有縁全体の保護対象という視点と、一人の尊重という視点からも、共同体や自治体における保護と保障の体制の整備が必要だと思いますし、オンブズマンも必要なら、制度のホールを埋めていくような諸個人の意識の高まりとボランティアも必要でしょう。

 何でも自由であるけれども、限りなき灼熱の慈しみとその運動は遵守し、体制を整備しなくてはいけません。そしてそれを害おうとするものは批判され、克服される必要がある、ということです。

 無権利状態とは、価値を認められない、尊ばれない世界に置かれている状態と言えましょう。
 しかしシャカムニ・ゴータマ・ブッダにおかれては、人間は無条件で価値を認められるんです。だから、アングリマーラも王舎城の人々も排除・排斥されることなく、善導ということがあり、罪悪深重は治らんけれども、障りにならず、生まれて往ける。
 まあ、アブナい人はそのまま娑婆暮らしというわけにはいかんかも知れませんが、ベースとしてはそうである。

 ですから、ロヒンギャへの殺害と排除は、反仏教的です。民族浄化の一変形にほかならないということで、国際社会から糾弾されているんです。
 そして、価値の分らない人は、価値の無い人であり、死刑廃止にシフトしない人は、死刑のある人なので、もとより反人間的で反人民的の先行きが懸念される、だから如来の回向がある、ということかも知れません。

 逆にいくつかの国と地域で難民受容が一定の評価を得たり、女性の待遇改善がみられ、評価が高まっています。少しづつでも前進される、具現、実際ということを慶びます。

 今度また選挙がありますが、愈々、好き人間関係たる友好を深められ、安全保障された安寧を享受できる政策で、世界の経済構造の変革と、安全なる生産力の増大という繁盛をベースとされ、好き社会建設に邁進されることが、日本国民のみならず、全人類に願われています。
 私見につきましては「淳一のスペース」ご覧ください。
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2017-09-19

 あけましておめでとうございます。あ・・・まだか。
 台風被害お見舞い申し上げます。

 四論の講説差し置き過ぎ、随分経っちゃいまして、すいません。

 それで、私たちの問題は、雑とは喜べるものなのか、どうか、ということです。
 例え出離の縁がありモメントがあっても、雑にして異であるから、異にして雑のまま始まって、どうあがいてみてもそのまま終わるほか無い、曠劫来流転の心身ですので、そのまま受け止めざるを得ない。

 そして同時に、無量無辺の限りない寿とは何か。ここでも心身は適わない。事故も病も避けることが出来て何とか頑張れても、母体の中から赤ん坊になり子どもになり若者になり中高年に辿り着きデスマスクを迎え、身体は共同体なので死と同時にはたらき始める酵素により分解されなくても、墓も朽ちてゆき・・・というのが個体の心と身ですから、納得がいかない。

 個をほじくり返してみましても、なあんも出て来ん。ただし、どうも、共通に近い願いみたいなもんが自然に備わっているようだ、十分にうまく表現できないし、意識もしていないかも知れないが、と。

 まあ、視点と着想が転換されていく、ということなんでしょうが、身の事実も踏まえながら、より好き理解、理解は世界ですから、より好き世界の一助としていきたいわけです。

 機の深信ということからは、雑のまま終えるほかない身と、雑を脱していく身への実践が出て参るわけでしょう。
 まあ、間に合わず、無資格者のままであるけれども、限りなき灼熱の慈しみに支えられていく。こうしたところに、教団と言わず、万民の受容へのヒントがあるかも知れません。

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 先日、谷大同窓会に顔を出してみました。講師は箕浦先生と言う方で、生老病死を世親菩薩から考えるのかな、ということで、無理やり時間を作って出席させてもらいました。
 ただ、内容はターミナル経験のご紹介やNHKで放送されたらしい「一瞬の戦後史」の紹介がされてました。
 予想は外れましたが、そちらの方が鋭く私を問うもので、大変有意義に感じられ、好かったです。

 9月22日に推進員さん中心の同朋会を開催いたします。お誘い合わせご参加ください。
 詳細はサイドコラム参照願います。

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無戒からー18

 このHPで展開される内容を検討いただくよう、色んな場で推奨して来たわけですが、どうも、内容が煩瑣で、専門的と言うよりも不親切な点が散見されております。

 気にはしているのですけれども、好い表現が出来ないのかも知れませんし、何度かまとめようと試みるんですけど、うまく出来ないまま今日に至っています。

 まあ、課題の提起、発題ということで好いのかも知れませんし、問題設定自体も吟味し直していただければ・・・とは思っております。

 また、達した、と言ったり、仏教真宗が分った、と言ったり、これ以上無い、と言ったりしている割には、次々と展開が繰り出されるのは、これ如何に?とも思われているかもしれません。

 しかし、湧出して参るというところに、回心からの展開、到達ということもあるかも知れませんし、狭い身には、世間に生きるうえでの課題により深く接近し続けることや、世間から次々と課題を賜るということだって、欠かせないのでしょう。

 仮に往生ではないといたしましても、既に心を誓願の仏地に樹る身であり、この心、既にほとけの世界たる浄土に居するわけですから、回心というところに菩提を賜り、仏道を賜り、法の深信を賜り、機の深信もいよいよ鮮明になって参りましょう。

 更にはシャカムニ・ゴータマ・ブッダの時代とは違いますし、ジャカムニご自身がご自身の到達点を適切に言い当てておられたかどうかというと、そうじゃ無かったようにしか思われませんから、より適切な転回、再構成ということも、あるかも知れんわけでしょう。

 そんなことで、はなはだ頼りなくて恐縮ですけど、湧出して参った質を、更にメモしておきたいと存じます。

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 除災招福の求めには自然性の欲求と自己尊重ということが背景にあるわけでしょう。

 欲求の充足は大切ですが、そもそも、どういう欲求なのか。そしてそれが自身や他者にもたらすものは何だったのか、更に、自身は何なのか?欲求や我が思いを主とする人なのか、別のことを主とする人なのか。

 何を主としているのか、自身の主人は誰なのか。価値の世界=誰とでも友でも在れる世界=仏性自然を主とするのか、欲求や雑なる思いを主とするのか、何らかのイズムなのか、他者を主とするのか。

 願心が尊いけれども、身は適わず、現実の世界は適わないまま、いつしか斃れて参りますから、小成でもすれば好い方で、満足すべきではありましょう。しかし、世間道に於いて真の成就は何か?

 インターナショナルな諸個人のカニのハサミ、カチッ、色は匂へど散りぬるを、という卑近なる願心もあるわけでして、まあこれなんかも自然中の自然の一つ、睡眠欲・排泄欲ほか動物的欲望要素の中の一つであるけれども、適わないし、叶っても、先々、さあ、どんなもんやら・・・。

 そうした願心ももちろん大事でしょうけれども、限りなき灼熱の慈しみなる、世界と私が知見された実相の価値なる、願心自体が大事なんです。

 もちろん、それ以外のことは、実現への努力もしますし、変革し続けますけれども、間に合わぬまま流転していくであろう。
 けれども、願心に於いて初めから勝利者として成就されていく。ただ本願のみぞ、まことにておはします。

 どうしてもこれも観念的ですし、浄と言う純粋にほとけの願わしい部分だけを抽出・選択された浄仏土という理想主義ですけれども、しかも、身も心も依然として底下凡愚の罪びとにして、曠劫来流転にして、出離の縁あること無いままであるけれども、そういうことでしょう。

 この願心が価値であり大事であるから、願心に依って生きるのであって、当然、世間道、弛まざる自己改革と社会改革が大事になって来る。

 自分だけでいいのなら、自己の姿勢も社会の姿勢も、そも、問われて来ない。シャカムニの起座も世間への還相廻向も、それに学ぶことも、無いままだったはずでしょう。

 まあ、人類的公理、願心や理想というものは、これは高邁にして高遠過ぎますと、事務日程に上らなくなるわけです。個人の関心事として捨て去られ、再び顧みられなくなりかねない。
 しかし、せめて棚上げにして頂いて、時々棚からおろして、ほこりを拭って自身を省みることが大事だと思います。

 理想や願心が高いほど、深いほど、徹底して人間を注目して見抜いていればいるほど、身と世を照らす役割が大きくなるのでしょう。
 諸個人や共同体の機の深信と言うのはそういうことです。

 荒れ野の数十年とか、ナチやスターリン時代への反省や克服とか、負の歴史への痛みの表明とか。
 いよいよ自身が解き明かされ、同時に、理想や願心ということが、私の課題として、立ち現れ直してくるし、更には、かかる自身と世界が共に尊い存在として立ち現れ直してくる。

 ともあれ、福を除き災を招く「除福招災」になっている暮らしを改革すべきでもある。三悪道、十悪五逆から解放されるべきである。
 一生懸命頑張ってる。けれども、敵づくりばかり頑張ってるんじゃないの、みたいな?

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 仏自ら称え易い名号となって、ほとけの世界の響きが持つ素晴らしさなり願心を届けにやって来られている。
 大慈大悲なる願心、それ自体自然にして智見であるけれども、その願心に頷き、いただく。

 ところがこの願心了解が疑わしい。古代以来、接近と理解が十全では無く、近代教学も届かない。

 この心、既に浄土に居す、弥勒等同、証道いまさかん、と。
 既に往生人に近いわけでしょう。
 しかし、往けないことになっている。身は適わぬ罪悪深重にして底下の凡愚であって、浄土には悪が無く、通力が備わる。
 この状態を脱するモメントが浄土の教相宇宙の中に欠けている。

 一言で申しますと、そう感じますから、展開とか再構成を試みているわけでございます。

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 サンガや寺、寺族は如来菩薩道であるから社会的で共同性で共なる世界で全人民の世界であり、共同体であるけれども、共同体と申しますのも、考えてみますと、変化し続ける。

 家族とか行政単位とか国家とか党とか我が身とか、色々あるけれども、いずれも当て所なく寄る辺なき世界である。

 娑婆のものは全部失われて滅んでゆくに過ぎないばかりか、加えて、自我から出発した見解では、人類の公理として選択されるような素晴らしい質を持たないことが大半なんです。むしろ選択すべきではない世界を選びがちである。

 もちろん寺もサンガも宗教も変化は避け難いけれども、ただ一つ、人類の公理、真実の共同体に帰属すべきであって、これは公理的に当分の間、揺らがない世界なんでしょう。
 失われても大事なんでしょう?

 ただ、大事に出来るのか、しているのか?一大事、価値を理解できれば、大事に出来ないことも鮮明乍ら、何とか大事にしたい、ということになる。

 ですから、人類的公理とも呼べる、尊び合え認め合える世界への信頼、限りなき灼熱の慈しみを、ひとたび手にしたなら、その即の時から、娑婆世間が世間道として立ち現れ直してくる。主体が自分では無く大慈大悲になったとき、自分の狭い料簡から解放される。

 そういうカナメの部分が人類的公理を学ぶことであり、再び世界を見直して真実と結びつけようとすることである。
 人間として宗とすべき事柄である。

 アメリカで白人至上主義が問題になりましたが、言論や思想や集会や結社、信条と宗教は自由、何でも自由ですが、ただ一つ、限りなき灼熱の慈しみなる人類的公理に逸れてはならない。
 風刺も、スピーチや運動も、差別し、排外し、侮蔑的で、人権条項に抵触するような質は認められません。
 それは、尊び合えず、認め合えない、三悪道の典型なんです。

「限界」の見直しと幸ある世界との結合

 「生も死も限界ではないですね?自然に過ぎません。」

 お通夜でしたか、還骨・灰葬のときでしたか、ご挨拶と亡くなられた方へのお礼の気持ちを込めながらお話しいたして居りました際、ポロンと口から言葉が出ました。
 限界状況を言い続けて参ったわけですけど、逆の言葉を喋ったことになっちゃう。

 シャカムニの事績たる四(死)門出遊といい、老・病・死などが限界状況といわれ、限界と言われているけれども、一方では主体の価値ということに着目した諸個人の尊重に繋がる思想的生成がみられましょう。

 けれども他方、自我から出発する認識に基礎を置く個人的な狭さが、自然性を限界として感じて往き、絶対観的な固定我から出発してゆく先窄まりの閉鎖認識を招いてきたのでしょう。

 多少観念的ではあるけれども、視点の転換により、これらの自然性を限界と受け止める意識に拘泥されること無く、諸個人と言わず、生きとし生けるいのちの尊重と認め合いという価値の世界から、無量寿が開かれましょう。

 真宗大学(大谷大学)初代学長清沢先生は、「生のみが我らに非ず。死もまた我らなり」と仰り、蓮如様は「朝には紅顔あって、夕べには白骨となれる身なり」と仰いました。

 このお言葉を、死を限界状況として見据えていく、という視点ではなく、何時でも何処でも誰にでも訪れる自然のこと、として受け止め、避けるでなく立ち向かうでなく、死は自然であって限界ではない、限りなきいのちの世界を賜った、という価値に生きる私こそ、出会うべき私では、ありませんか?

 死と死後はほとけに任せておけば宜しい。むしろ出遇うべきは、限界と拘泥を招いてきた絶対的な固定我、アートマンからの解脱なのでしょう。

 自然も限界にしてしまう私が居る。
 眉間に縦じわが寄っている。

「仏法を本当に聞くようになると眉間の縦じわが横じわになる。」
 (2016年度教区法語ポスターの曽我量深さんのお言葉)

 私から始まる個の世界、絶対観・固定我の世界は、何でも限界だらけになり、すくいが無くなるに決まってるんです。先窄まりで昏い。
 アートやスポーツ、仕事、人間関係、何でも自然にして大事ながら、私から出発するとき、闇と光の世界です。光もある。けれども、日月光は昏く、ひとときである。
対して本願自然は輝いている。澄み切って、喜びに満ち、智慧に輝き、不断に自然に、障碍がなく、比類なく、限りなく、と。

赦し

 本願自然は輝いており、差別がない。
 赦しということとか、たすかりということに少しふれましたが、

 罪悪深重
 底下凡愚つみびと
 石・瓦・礫の如くなる我ら
 黎庶、庶類
 屠沽の下類

 これらは一面、三悪道にして顧みられざる存在である我ら、の自覚かも知れません。
 究極は誰でもそのまま受け止めるほかないけれども、何が人間を粗末にさせ、人間の何を粗末にしていくのか?

 懺悔、回心。私は殺した、恥じることも無く、悲しみも憶えず、懺悔も無い。この世の悪事と残虐を尽くした、と。
 二度と大切な人々と自身の人生の人間性を失い、失わせた苦しみと悲しみを繰り返しません、と。

 しかし、蛮勇を誇り、脱するモメントを失わせるもの、それもまた自然性なんだろう。だとすると、かかる自然性に拝跪するのではなく、他力自然の願心を主として世界に身を置くに過ぎない。

 しかし、時には思想や観念やドグマが、法脈が蛮勇性や闘争性や利己主義・利用主義などを倍加していく。大体人類にとって、勇ましいことが善であり、武力や侵略が善だったんです。退転するな、退転するな、と、よくよく心してかからなくてはならんのでしょう。

 究極は、宗教も不問にそのまま受け、受けられるほかない。往生礼讃ではないが、無始の過去より過ちを繰り返す身から、願心の中に生まれて、解かれる。自障障他、自害害他を戒めながらも、脱し難い我が身の悪きをも振り捨てて、この道を往け、と。

 避け難い非和解的・非妥協的矛盾や裁きとはいえ、また、やむを得ない法的制限の一元性とはいえ、箸の上げ下ろしから障子の桟の汚れまで、重箱の隅を爪楊枝の先でほじくり返すように、何一つ許してはならぬ。
 しかしながら同時に、緩和されるべきですし、赦さぬままに受けていかんならんし、赦されんままに受けて貰わんならん。寛大ということ、父母ということに学んで。

 言うことなんか誰も聞かん。だからといって、権力者は強制力で臨むのではなく、合意と最低限の強制力と刑罰の緩和に心がけるべきだと思います。誤りや不十分が付き物ですので尚更に。ディアレクティクも、矛盾双方が活かし合う道を孕んで理解され得るのでしょう。

 仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり(道元)。我が身の悪しきをも顧みず(蓮如)。

 そんな都合の好い教えが何処にある?
 今現にまします。

 ちなみに、地獄の閻魔さんや獄卒は拷問と殺害を加える役務であるが、不問に付されている。これも、おかしいんです。大罪人として捉え返されるべきでしょうね。

裁き

 法脈・能脈・血脈等に関係しまして、裁きということがある。

 所謂、法的強制力とか、査問、マルサ、人民裁判などです。

 マルクスによれば、全ては論駁されるから、結局は全部が有罪、粛清、死刑や流刑などとなるわけでしょう。書記長にして大元帥でもあったが、査問委員会の陰の委員長みたいな役割を持ったスターリンの事績から多くが学ばれる必要がありましょう。
 その内に考えてみますが、「政治性」ということのほかに、「政治判断」と言う危うい世界も、俎上に載せられる必要があると思います。

 能脈や血脈ではなく、正しい法脈でないといけないわけですが、これが意外と難しい。

 そう、法脈こそ、さらなる犯罪的な裁きをもたらし、加えて、魔女狩りなどの冤罪までもたらし続けて来たのでは、ありませんか?

たすかり

 先日あるお宅にお参りに伺いましたら、生まれてすぐ亡くなった場合、たすかるのか?という面倒なことを尋ねられまして、即答いたしかねるわけでございます、問う側も問われる側も、たすかって欲しい願いがありますから。大事なポイントです。

 これは無縁、無記ですから、たすかるたすからんが無い。たすからんことに気付くいとまもない。生きる人に往生の授記がある。
 亡くなられた方、これから生まれられる方について、シャカムニも多少触れられたかも知れないけれども、インドー地中海地域の当時の習俗宗教に沿ったものに過ぎない。
 しかし仏性はあり、開発され得る。それが受け難き人身です。生きている間に、ということでしょう。

 まあこれ、たすかるということは、存命中における主体の頷きでして、大慈大悲が私の主体と成っていることである。如来菩薩道であり、共なる世界である。

 今生きんとする私が、解き放たれて、和らかに軽々と輝いて幸ある世界に生まれる。
 あなかしこ、あなかしこ、といただくことの出来る価値ある世界。ニルバーナ、往生安楽国の世界です。

 生きんとするところに開かれてくる無量寿の世界ですから、たれのひとも後生の一大事をこころにかけて、仏法のことは急げ、急げ、と仰るわけです。

 私は確かに生きているけれども、何を生きているのか、その結果、どうあるのか。生存には自我や欲や思いも大事だけれども、思いに生きていて、果たして本当に生きている、と言えるのか。
 今、生を賜っている者が、いずれの生においてかこの身を度するのか。今生に於いて度するのほか無いのでしょう。

 長年生きて居られる優秀な方でも、いや、優秀であるほど、たすからんことに気付かない深い闇にありますと、自分への問いも疑問も出難いわけで、往生の授記を受け難いのでしょう。いや、いろいろ問われるのでしょうけれども、自我から出発いたしますと、自己とは何ぞや、という問いも、異なった位相での問いと疑問になっちゃうように思います。

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 久しぶりに一心寺さんの手伝いに伺い、哲ちゃんと飲んだんスけど、相変わらずの酒豪ぶりで(このまま付き合ってると死ぬ)思いまして、早々に引き上げました。

 お引き上げの時期となりました。まだまだ暑い日が続いておりますが、皆さま、お元気にてお過ごしください。
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無戒からー17.2.1

 先の水害にお見舞い申し上げ、被災者の方々にお見舞い申し上げます。

 なお、梅雨らしい天候が続いており、法務に雑務に畑などでバタバタとした毎日が終わって参ります。

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 さて、またアジャセの父王は古代の封建領主として、領民を所有物のように考えていく。三悪道を地で行く、限り無くたすからなくなっていく姿なんです。
 これは「これ栴陀羅なり。」の部分と同様、大変差別的な姿勢でもあるのでしょう。

 何より、大パリニッバーナ経冒頭のアジャセの侵略相談ではないが、多くの勢力が釈迦の制止、抑止を聞かなかったため、長く争奪と戦乱が続いた。

 さて、観経に於かれましては、回心、懺悔ということがある。やはり三悪趣の地獄・餓鬼・畜生が言われ、48願も明記されてあるから、かなり新しい経であるとされています。

 五悪段、五悪趣ということも取り上げられており、特に宗祖に於かれてはお正信偈で五悪趣を取り上げられたから、意義深く思われるわけです。

 それと、人柄や資質は世間道でも重要であるし、評価ポイントであるけれども、たすからん者になった韋提希やアングリマーラといえども、以前『往生礼讃』などでみてまいりました「三品の懺悔するひと」も、その人柄や資質はほとんど無視され、たすけることだけがシャカムニのテーマになっていることは極めて重要なポイントである。

 すなわち、たすかったあとは人柄も生まれ変わるということが期されているといえよう。
 たすかると、慈悲ある人として、さあ、人柄も変わるであろう、少なくとも機の深信を持ち、緩和された人柄となろう。
 ただ、はじめから人柄や資質でたすかるというのは、これはどうしても限界があるであろう。万行諸善や自力作善の気配も感ぜられるわけでしょう。

 智の饗宴、智慧は教主のカーマ、資質であろうけれども、やはり祖師方が見つけられた「私」なるものは、それぞれなれども、慈悲自然であったわけです。菩提慈悲という自然。
 
 これは偏依善導という法然、善導、親鸞の各師に特長的で、お正信偈でも特長的なんです。応報大悲弘誓恩・・・矜哀定散与逆悪・・・大悲無倦常照我・・・憐愍善悪凡夫人・・・拯済無辺極濁悪、と。

 そういたしますと、一切衆生悉有仏性というときの仏性は、これは慈悲自然であろう、と。親子にも温かな時と関係がある。

 ただ、それを智慧で以て教示し、普く伝えるところ、グローバルな世界大の菩薩道=世間道というところに、如来ブッダが位置付けられましょう。

無戒からー17.2

 ちなみに、『現代の聖典』として『観経序文の問題点』を取り上げるようになった経緯は公式には全然違っていたわけでしょうし、現在行われております推進員(同朋の会推進員)養成講座においても、あまり観経にこだわらずに研修が進められているケースもあるかもしれません。

 ただ、いずれにいたしましても、現代でもなお解決されていない多くの事柄を内包しているようにみえます。

 以前取り上げました大パリニッバーナ経でみましたように、アジャセにとってシャカムニは軍師や占術師みたいに、侵略の相談をするわけで、およそブッダに対して相談する質とは考えにくい感を持つわけです。

 この占術と軍略の相談は、阿弥陀経と羅什を巡る部分でもふれましたが、科学に通じているほか人間観や社会観に通じていると、自ずと相談者にされていく構造があるようです。

 スッタニパータ、アングリマーラ尊者を巡るお話しなど、初期経典類の中にも見られる呪術、占い師、仙人、生贄等々、大変カルト的なこと、吉凶禍福に惑う我々の姿があると言えましょう。

 そういたしますと、アジャセ王の両親と占い師、子どもに生まれ変わってもらうべく殺された仙人の恨みなど、果てしない閉塞の世界、流転三界が続けられていくこの王舎城の物語(東本願寺刊『現代の聖典』p78参照)をもう一遍しっかり見直しておくことは、現代に於いてもなお、意義深いと思われます。

 また、シャカムニの運動について、個人の資質や能力をあまり重視しないと言いましたが、「人は生まれによってバラモンとなるのではなく、行いによってバラモンともなり、そうでないものともなる。」と仰っているから、個人の人格や資質や能力を重視する点もみられることは、やや偏向していた、と訂正した方が好いでしょう。

 ことに人柄は重視されたと思われるので、能脈の重視も所々みられることは、万民の済度という観点からいたしますと、ある程度問題視されなくてはなりません。
 まあ・・・世間では大事なことですけどね、ものすごく。また個人的にも私ら、あんまりえげつないパーソナリティーとは、ようお付き合いせんわけですから、大事は大事で、評価しなくてはいけないけれども、差別や排除はもちろんいけませんし、宿業という経歴も重く受け止めていくことが、少なくとも要請されていく。ほとけの世界、お浄土って、そういうはたらきを私にもたらすんでしょう?

無戒からー17

 和田自治会の米山祭というのがありまして、うしろの山に登って懇親会を行うんですけど、ゆっくり目で30分ほど登らんといかん。

 しかしお陰様でいつになくクリアな景色が見れました。ところどころ立ち木で視界が遮られますが、直峰城址・菱ヶ岳はもちろん、黒姫・戸隠・妙高・火打・焼山がクッキリ見え、浜筋に目を移しますと、山々の間に日本海が浮かびます。

 境内では畑に対する竹の侵略が著しく、ええいっ、いっそのこと竹林にしてまえええっ、って感じで、負けたい誘惑にかられるんスけど、何とか竹またじも終わり。

 畑では、昨晩秋に播種した菜っ葉、ちびたトウナをちょっとだけ収穫したり、立派なのを少しいただけ、たすかりましたが、4月中旬にプランターに植えたサラダホウレン草卵とじやサラダ小松菜お浸し、少しだけ収穫出来て食べました。いずれも柔らかめで軽い味わいが美味い。
 
 4月末頃~畑に播種した小松菜は無農薬の内に早くも収穫しましたが、ほんの十日ばかりの間に穴だらけで青虫だらけになっちゃいましたので、残りの菜っ葉に除虫スプレー吹き付けましたが、これだけ増えてると効果薄でしょうね。小松菜と青梗菜はこの辺ではこの時期、好いみたいです。

 しかし、畑のほうれん草はさっぱりです。レタスと同じく適温範囲が狭いみたいですね。サンチュとかサニーレタスはまだマシなんですけど・・・。

 春からの作物に関しましては寒さと炎暑と降雨が次々と襲い、順調というには余りにも変化が多いように感じる年ですし、そして人々の様子も自身の心の動きも激流のままですし、世界も戦場のようなままですが・・・にも関わらず、ニルバーナのように吹き消された穏やかな時間が進む6月だな、と感じています。

 どうも、今年の6月はニルバーナである。予て予感されたような、静かな時間。ニルバーナ、涅槃の城や解脱も、如来や還相と同様、従来イメージされていたものとは違っていたこと、活気あり明るく友である世界が愈々明らかになって来たと思いますが、たまには安らいでいる時間も大事なんでしょう。

 6月と言えばウイッシュですか、情愛に溢れた「6月の子守歌」って歌がありましたけど。好い歌ですね。この上なく。

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 さて、関係性、認め合える世界で大事な点は、話を聞いてもらえること。認めてもらうこと、人間関係の確保を意味します。

 けれどもここにもカルトの落とし穴があり、閉塞もカルトだが、禁制や束縛や閉塞や情報制限やそれに連なる関係性の制限もカルトに繋がるんです。

 話を聞いてもらえても、解決につながる保障はありません。
 結局、大変であっても、自ら前に出ること、開発されてゆくこと、他者の為になる活動に身を投じていくこと、みずから話しかけることが一番です。

 まあこれは、我々の自然な弱さや、純朴で自然な罪悪感や、素直な心に訴えかけて、罪悪心と問題に封じ込め、情報制限していくことで、いよいよ狭い世界に縛られる。

 自身の本来の願い、限りなき灼熱の慈しみ、尊び合え、認め合え、友である世界、他者をみそなわすこと自己の如くする仏性みたいなもんをスポイルされ続けていく、何らかの権力に支配される構造と言えましょう。
 焚書(ふんしょ)みたいなこともカルトに該当すると言えます。
 
 ですからカルトは必ず個をスポイルし、全体の為に犠牲となることを要請したリ、逆に個の利益の為に他を犠牲にする行為に繋がっていく。
 浄土門でもそうですけれども、宗教的仮面を被っている場合、内部循環、輪廻するだけで、脱却の機縁が失われていることが少なくありません。

 こうだ、と言われますと、それが事実の一面を言い当てている場合、束縛のカーマとして有効になってしまう。

 例えば、女性というものは五障三従(ごしょうさんしょう)だ、と言われると、女性がそうだ、と思うようになる。
 今でこそ、おかしいと言える健全さが女性に備わるようになってきたが、普通の人、まともな人は皆そう思わせられて来たんでしょう。

 普通の自己認識を考えてみますと、どういうものかと申しますと、自分は不十分である、弱いところがある、欠点がある、まだまだである、不安定である、向上したい、と。全部ではありません、自信もお持ちでしょうけれども、まともであればあるほど、そう思っておられる面もお持ちのはずです。
 ですから、男にも共通する事柄であるにも関わらず、まともであるほど、多くの女性がそう思わされ、変成男子を願う人さえあることになる。

 そして、一段低いところに置かれることで文化も異なっていくし、男に期待される役割まで強要されてしまう、みたいな。まあ、そこで見えて来る事柄も独特の文化と言えましょうが、幾分奴隷根性も含むこともあるでしょうから、いのちの水平、フラットだけを抽出すべきと思っています。

 このことは男文化も変えて、一段上であるから、封建時代の社会的身分や現代の地位で言えば、実際はかなり下だけれども、鎮めとして機能していったりするんでしょうね。

 実際には、こうでもあるし、例外もあるし、疑問の余地もあるし、更なる思想的な深化がある。けれども、容易には既成となった観念の呪縛から脱しない。
 自ら偏狭世界の輪廻転生を受容している状態。これが真宗でも起こって来たんです。

 ですからまた当然、自明で固定的で絶対的な世界を強要する。既に自由に自分のアタマでものを考えることが奪われている。自明化と固定化と絶対化は、カルトなんです。束縛と制限をもたらす。地動説が生まれ難いわけです。

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 故鶴見さんの講義テーマ「私は殺した」。これは確か企画室に居たときに開かれたんですけど、宗務所内対象だったんでしたっけ?忘れちゃいましたけど、私の感覚からするとどうしても、教相判釈が自明化されたところで色々事業が進んでいることに疑問が湧いて来るんですけど、湧いてきてもですね、誰か専門家がやるんだろう、と。
 今でさえ、半分くらいそう思ってるんですけど、この自主ゼミでも問題点をいくつかまとめましたし、少なからぬ先生方に於かれても漸くおまとめ頂いていることと存じます。道と往生の現実が先にあって、それをどうまとめるのか、お釈迦さん以来続けられて来た教判の作業が滞りがちかも知れません。

 重いテーマなので、(こっ、殺してまえっ!)みたいなヤワ・カル・明るいもんが、軽々に取り扱うと叱られそうですけど、私たちを明かす、大事なテーマだったのではないか、そう思われて参ることでございます。
 赦されずには済まない、赦さずにはおかない、そうした思いを深くしながらも、解答は出しません。いくつか思われることをしたためておきますけど、皆さんに問いかけ続けておきたいと思います。

 罪と罰、非武装・非暴力、反戦・不戦・反軍、教誨と保護の課題としても重要なテーマと申せましょう。

 そして同時に、箸の上げ下ろしもいけない徹底した裁きの世界、罪悪深重の底下の凡愚という末通りたる裁きの願心が同時に、限りなき灼熱の慈しみに満ちた好き世界として、善悪の二つ総じて以って存知せず、善悪の字知り顔はおおそらごとのかたち、さるべき業縁の催さば如何なる振る舞いをもすべし(するだろう)と、もとのいのちへと帰せしめて止まないんでしょう。

 宗義を例に取りましても、法脈を血脈と呼ぶことになっているけれども、誤魔化し無く言えば、やはり、血脈と法脈のほかに、能脈ということまであるわけです。
 世間では能脈がかなり重視されるし、生活の物質的基盤、生産力にしましても、考え方や精神的支えにしましても、どうしても能力を重視せざるを得ないと思われます。

 これが曲者(くせもん)で、仏教的には、ブッダは個人の資質や能力をあまり重視しておられないんでしょう?
 むしろ無知の知、内面性を重視される。
 けれども、能力によっても、まあこれは前に言いましたけど、初期経典でも、学びによっても修行によっても三昧によっても、容易にニルバーナには達していかない、と。

 能脈の内で、能わった「人柄」についてはふれられないし、推奨される質を孕むけれども、私としては人柄差別も拒否したいですね。さまざまのいわれあって、環境と宿業あって、その人その人の人柄が出現したんです。
 更に申しますと、思想・宗教も、さまざまのいわれあって、環境と宿業あって、その人その人に付着したものである。
 能力も資質も人柄も、重要なことは言うまでもありませんが、そんな偉いコとちゃーう場合、どないしまんの?って。

 この、ニルバーナ、涅槃の城というカテゴリーも、還相と同じく、現代人に普通思われてきたようなものとは、実はかなり違っていたように感じるんです。

 それはともかく、血脈よりも法脈であるけれども、実は能脈が主要になっていて、様々の差別と結び付けられることが多い。
 実際は諸分野における能力差はあるし、特にそれを以って差別する必要は無いわけですが、差別意識と結びつきやすい。

 こうした傾向は血脈にもあるんですけど、血脈の場合、無能でも無力でも構わんというところに好い面があるんでしょうけど、ところがやはり同じく、血脈を誇り、排他しようとする差別と結びつきやすいので、どうしようもないものがある。

 法脈は差別を排するんです。正しい思想と言うなら、必ず矛盾があり、異なれるが生まれ続き、それが良好な関係の内に、更に、スパイラル状にかどうかはともかく、ステップアップした質へと変化し続けることが、社会や人間の在り方としても好もしいのでしょう。

 善悪の二つ、総じて以って存知せず。
 やはりこの無差別、如来は無相を以って相とする世界の、限りないニルバーナ、限りない灼熱の慈しみということが思われてなりません。

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 ご免なさいね、ひねくれたスネもの感覚でみちゃいますと、『観経』というのは、宮中や御法主対策としての、そして擬似カストたる大坊工作としての、同時に門徒の日暮しや意識に訴えかける、有用性があったのではないか。『現代の聖典』として観経が選択されていったのにはそういう面が無かったか、と思います。
 現代人のセンスで申しますと、半ばカルト的に御家(おいえ)大事に縛り付ける要素もあったかもしれませんね。

 観経序分の主題は仙人を殺した、そして更に子を殺そうとした、その子阿闍世がそのことを知り、親を幽閉した。そして親がどうにもならなくなって、たすけを求める。そうした王舎城の悲劇にあるのでしょう。

 私は殺した、と。

 親が親になれん、子が子になれん、そういう世界なんです。実際に殺さなくても、事実上殺しているのと同じである。疑いもなく尊び合えず、認め合えない三悪趣の世界の一つ。

 けれども仏道には、親も子も無いと思うんです。他者をみそなわすこと自己の如くす、なんでしょう?性別も色の違いも国籍も所属も無く、無差別である。
 有縁は大事だけれども、しかし何故家族なのか?家族と言うパラダイムでものを言う時代じゃ無いはずでしょう、無差別なんだから。

 ただ一点、性という自然がある。そして子ども大事という、これまた自然の情愛がある。家族の礎は性、これはどうもならんのでしょう。シャカムニが無視し、欲望として切り捨てたポイントで、まともに取り組みますと人類が絶滅してしまうわけです。

 まあ、お家騒動はこれに限らず、教団も、僧・俗とも、神々以上に争うわけで、阿闍世といわず提婆といわず、近親者が血道をあげて覇権を競うわけで、それ自体が課題として受け止められるべきなんでしょうけれども・・・。

 また、栴陀羅(チャンダーラ)という、身分差別と差別意識の活用がある。

 そして、これが一番大事なんですけど、赦しと言うことが奈辺に於いて成立して来るのか、そうしたことが描かれていくんです。

 何宿何罪と、自身の罪業もかなぐり捨てて、韋提希が五体投地される。
 それに対してシャカムニは道を示され、官女500と共に韋提希に往生を授記(預言)される。ええいっ、地獄に落ちやがれ、悪党どもめ、ではないんですね。

 この罪悪深重の底下の凡愚に対して、ことに慈愛を以って着目されたのが導師なんでしょう。往生の正機、ということがあるんです。
 ですから私の往くべき道のモチーフとして、「現代の聖典」に、なお、相応しい資料であると思います。
 偏に、往生の道を問い、聞き開かんが為に、各々十余箇国の境を超えて、身命を顧みず、ですね、身を運ばれる。

 世間でも、原発を推進、誘致して、私は殺した、と。いろんな企業もまた、政権も又、事業の為に、私は殺した、と。枚挙にいとまが無い。
 カーマの重さ、悪業の罪悪の深重に驚くわけでしょう?かかる方々には、裁きもありましょうけれども、責めよりも、赦しが必要ではないか、そうも思われて参ります。

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 教団というのも、一つの体制であり会社ではないが法人であるけれども、私はおとなしくて物静かではあるが、いろいろ勉強したいけれども雑務で時間が取れないと思っていましたし、事務も、間(ま)は悪いし、手順も怪しいから、姿勢に於いて既に間違っていたのかもしれません。

 事業所や現場で目が死んでたり、空気が澱んでるのは宜しくない。
 けれども、世界中至る処で、たまにありますよね。暗澹たる空気や諦念が支配してたり、殺伐としてたり、ピーンと空気が張り詰めてたり、殺気立ってたり。そういう雰囲気よりは、個人の置かれた状態はマシかもしれません。
 社会経験は乏しい方ですけど、それでもいろんな場で、いろんな空気がありました。

 同時に教団は運動体でもある以上、保守業務や管理業務もやらんならんけれども、やる気が出るかどうかというと、疑問かも知れません。といって、社会運動にもコミットすることがあるとはいえ、そればっかりやるのもおかしいように感じますし、やはり個人生活でも社会生活でも、法に照らしながら取り組み続けることが望ましいんでしょう?教団内紛争でそれどころじゃ無かったけれども。

 教団内に教相展開とか社会的接点が動いていかないことには、停滞から低迷へ、低迷から閉塞へ、となっていくに決まってるんです。
 ポストとか賃金とか懇志等の増大ばかりではない、やはりちゃんとした教相展開の時間と世間的なコンタクトが持てないことには、在家教団とも言えない。そも、説法獅子吼し実践する世間道を重んじるのが仏教ですから、仏教的ではないんでしょう。

 存在意義が希薄化していく。現代では宗教には求心力が失われている以上、出ていく方が重要でしょうし、異なれる、との関係性の確保こそが活性化をもたらすけれども、内部で終始していくわけですから、不毛。

 しかも、以前はあまりそうは思っていなかったわけですけど、じっくり取り組んでみますと、教相も怪しく、ホールだらけだらけだったことが判明したわけで、むしろ仏教や人間生活の妨げになっている面さえ感じられる。
 時代に応じて発展もありましょうから、果たして可能なのかどうか、より包括的で鳥瞰的な見地から再構成することが願われている、と思うわけです。

 まあ、あまり煩いことは言わないことにしました。我が身と考え方と姿勢を主な原因として考え、取り組むことが大事。
 より一層、明るくオープンに前に進むことにいたしましたが、教団人は相互にそのように約束すべきだと思われて参りました。宗政機構ではあまりお目にかかったことが無い姿勢ですけど・・・。住職も宗会議員も宗務職員も健康的と申しますか、健全だから、現状には批判的だったり、アカン、となる。

 何か門徒さんの為、人民の為と言うか、人の為になっているのかどうか、また門徒さんの暮らしは経済的にどうか、また門徒と言っても人によって温度差があるでしょうし、選択は各々のおんはからいです。

 ですから、いずれも壁になって居り、誠にお勧めし辛いんですけど、やはり門徒さん各人の為になるとすれば、寄っていただいて好き教えに遇って貰わんことにはいかんのです。

 門徒の門徒による門徒の為の教団や寺や僧侶であれば好いと思いますし、また、同朋会や同朋会の推進員さんに願われておりますのも、説法と運営と組織を担っていただくことだろうと思います。法話をやっていただき、法礼も受けていただく。寺も設けていただき、意欲のある方には住職もやっていただく。

 住職・寺族というのは留守職に過ぎないので、留守居をさせていただきながら、それぞれの持てる範囲で好き世界をお伝えする。それも十分には出来ずに居ると思います。
 よく住職・寺族が頑張らんとアカンと言われますが、それはそれで当然ですけど、頑張ったってアカンので、門徒の為にならんとアカンし、門徒団が運営しないといけない。
 しかし、ウチらは小規模寺院ですから、住職・寺族もメシ食うことが難しいうえ、寺から出ても、おら、行くとこ無い、ってことで、門徒運営の余地が無いということになりがちで、ますます望ましくなく、恐縮です。

 聞法は寺族も門徒もありません。

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 平和と言わず繁栄と言わず、友好こそが全ての礎、ということで、全ての人権条項を遵守する国際交流と国際的友好の為の「アムネスティ・インターナショナル」の先生をお招きして公開講座が開かれます。詳細はサイドコラムを参照願います。

 日頃はむしろ逆で、全ての人権条項の遵守ならぬ、差別やパワーポリシーなどによる国際紛争の火種を、私たちの心と暮らしがもたらしているわけで、出席できない方もインターネットで検索して知っていただければと存じます。

 戸次さんが法蔵館から『意訳無量寿経』を出されました。大経みたいな面倒なもんに取り組まはって・・・って感じですけど、取り急ぎ、お知らせだけいたします。
 「淳一のスペース」でやや年配者向け過去ログみたいなもんを取り上げたおかげで遅れてまして、すいません。

無戒からー16

 スフィンクスの質問ではありませんが、子どもの頃は手足でハイハイし、長じて二足歩行になって、年を取ったり足を痛めて杖を突いたり、自己の身体の激変の中で、何の根拠もない幻想や妄想だけを頼りに、当て所なく寄る辺ない生涯を耐える・・・。

 そんな、怖いくらい心もとない人生ですけど、頭頂の肉髻(にっけい)については確か『宗教を現代に問う』(毎日新聞社)シリーズで東大宗教クラブの方が宗教体験の実験結果としてふれて居られたと思いますけど、宗教漬けで頭頂は盛り上がるし、年取りますと皆そうなるのかどうか分りませんけど、喋っちょになって唇も薄くなりましたし、気のせいか、鼻の下も長くなったみたいです。
 サナギが蝶になるように、変態・・・みたいな?

 先日も、あるお寺の報恩講の法話に呼ばれまして、どーでもえー話なら喋りますけど、遠慮なく何時でも断ってください、と言ってたんスけど、とうとう喋らされるハメになりました。
 二時間も喋らんといかんのです。それも祖徳讃嘆的に。そんなに喋ることあるの?っつ感じやったんスけど、時間不足で十分説明できずに時間切れになり、更には、終了後の懇親会でも、これは世俗的な話を喋りっ放しで、恐縮でした。

 ただ、私見では、「世俗の君子幸臨し 勅して浄土のゆゑをとふ 十方仏国浄土なり なにによりてか西にある 鸞師こたへてのたまはく わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」(親鸞聖人『高僧和讃』曇鸞讃)とございますとおり、このみ教えに因らばこそ、末法滅法時代にも、念力が備わる。

 念力は願心の力、はたらきであり、願力ということですが、やはり、どこどこまでも汎ゆる人々の為に、尊び合え、認め合える、人間関係成就の世界に往かねば、ということなんでしょう。アミタによるかかる世界の建立と、その世界を廻向される願心がカギになりそうです。

 何故浄土門に居るのか、こう天子に問われますと、曇鸞菩薩は、末代の凡夫にも念力が及ぶ、ということをお示しなんでしょう。
 ハッキリしてるんです。聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛ん、と。
 末法滅法さえも遠く隔たったような現代でも、「特留此経 止終百歳」と漢訳者のどなたかが経中に表白されたとおり、効能がある。薬効があるんです。

 もちろん鸞師は洞察力がおありですから、「本師曇鸞和尚は 菩提流支のをしへにて 仙経ながくやきすてて 浄土にふかく帰せしめき」と親鸞聖人がうたわれましたように、一目で真実の道を見抜かれ、衆生に代わって進まれたのでしょうけれども、底下凡愚の罪びとにこそ、はかりしれない功徳を成就せしめる。

 ただし、実は別に浄土門に限ったことではありません。
 菩提に添うなら、必ず認め合え尊び合える世界が示されるはずですし、事実、大概の経典にはそうした記載があるんでしょう。・・・要するに、全ての教団人がこうした姿勢と行いを軽視している、軽視し続けて来た、ということなんでしょう。

 なお、最近の教学は唯物論以上に劣化してますから、岩仏辞典みましても、肉髻について、頭頂の珠髪(法螺貝みたいに結い上げた髪)を肉が盛り上がったように見間違ったのであろう、などと間違った説明を平気でやるようになりましたけど。

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 大分以前に鶴見俊輔さんが招かれて宗務所で講演を主催していました。お話を聞かせて頂きました。

 テーマは「私は殺した」。

 (このテーマは乱暴だな・・・)と感じたんですけど、ウィキで鶴見さんの略歴を拝見いたしますと、激流そのもののインテリ・ライフみたいで、今一つ疎かったんスけど『思想の科学』とか「べ平連」とかに与しておられ、晩年には日共支持に廻られたみたいです。部落解放理論における差別的スタンスが日共さんの問題点だったわけで気になるポイントだったんスけど、今はどうなんでしょうか・・・。
 
 ともあれ、好いテーマですので、もう使わしてもらってますけど、更に考察を進めたい。

 やや潔癖症になるかも知れませんが、非武装だろうと平和的だろうと非暴力だろうと、私は殺した、と。
 非暴力だが、言葉の差別的暴力や差別的視線、いや、そればかりではなく、様々の制度や事業推進で、人間も人間性も殺した。血肉の身体だけでない、魂みたいなもんも殺したに違いない。兵戈無用と反対はしたけれども、軍や警察など暴力機構を無くせなかった以上、間接的にも殺した。そんな意図は無かったけれども、ミスや車の事故で、殺した。それが近代以降なんでしょう。
 どうしようもない私。

 ましてや、軍事と武装とか、戦闘ともなりますと、尚更、どうしようもない。
 なお(まだ)武装が止むを得ないとしても、兵戈は用いること無いに越したことは無い。

 戦争はもちろん古代からあるけれども、近代以降に於いては、人間性自体が歪んでいくのが普通で自然だという状態が、繰り返し作られた、と思います。意図的であろうとなかろうと。

 鶴見さんのお話自体は捕虜なのか囚人なのか、アメリカでの拘束ライフしか覚えてませんが、反戦・非戦・不戦という根底に立ち切ったスタンスを評価し尊重したいと思っています。いろいろ批判があっても、そこだけは澄み切っていてクリアです。

 非武装・非暴力、罪と罰、赦し。
 さるべき業縁のもよおさば如何なる振る舞いをもすべし。

 次回以降に続けます。
 全部受ける、ということは、全部赦されないし赦さない我々ですけれども、同時に、全部受けていく我々でもある、と。
 三条教区で前にお聞きした法話で、足払いを食わせる間違った喩えを仰る方がありましたが、足払いを食わせられるけれども、食わせる方が悪いんですね。この点は空手の先生が突かれ、私に以心伝心されたんスけど、お話しされていた講師は柔道部出身らしいんです。
 ともあれ、私もこの課題に取り組みますが、皆さんにも、このせみなりおからの宿題として問いかけます。

 (いや、私はこの世界に留まろう)とダルマーカラが仰ったわけですが、還相の根幹をなすかもしれませんね。

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 外の畑や境内片付けに出てますと時間を忘れ、うっかり大遅刻することがあります。

 9日の夕方から会議があるけれども、畝上げどころか十分耕耘出来ない、しかし何とかせんと、明日は雨だ、明日ありと思う心の仇桜だ、ってことでやってまして、友人が(今4時15分だけど)と心の中に伝えてくれたんで何とか諦めたんですけど、せんならんことだらけ。

 季節は好い季節なんでしょうけど、今年はこの辺では気温はやや低め、雨も多めで、外仕事や趣味の畑や花々は万事遅れがちとなってしまいました。

 お引上げでも同朋会でも、いろいろ講師をお招きするのを楽しみにしてるんですけど、教判は私のでエス・イスト・グートながら、異見も大事ですし、むしろ、お一人お一人の独自の体験も大事。
 ただ・・・若いもんも大事ですけど、年寄りも大事。早おせな、死なれてまう、みたいな?若い頃の学びのお話しとか、聞かせて頂ければと思います。


再び願心について(続々)

 鉢の桜と境内の桜は25日開花しまして、5月1日満開。

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 若い時分は、宵っ張りの朝寝坊+春眠暁を覚えず、ですから鉛のように体が重くて止め処も無く寝過ごしたんスけど、スッキリしないながらも目覚めが早い。

 快食・快眠・快便でお元気にお過ごしでしょうか。また、個と年代で温度差がありますけど、食欲・排泄欲・睡眠欲・性欲・活動欲等々は妥当な線をキープしておられますか?

 自分の為、自分のことを大事にするべきでしょうけど、それだけでは他者にとっては、まだ、要らない人間のままである。

 ただ・・・単純にこうしたテーゼを立ててみたけれども、もう少しこのことは幅広い視座の中に置いて考察すべきでしょう。
 古典的な過剰適応的な主従関係、原初的で本能的な主従関係ということもテーゼになっているからです。
 人間の個的力の弱さや生産力の低さや自然界の危機や非常事態、後代には他のグループとの争奪戦など、そうした事態の打開には、結束した集まりや指導・被指導が欠かせないかも知れません。
 高度に資本主義が「発達」して「民主化」され、全員がインテリで、ビリー・ザ・キッドみたいな流れ星になった現代人にはなかなか見えにくくなってますけど、太古以来長くそうだったんじゃないでしょうか。

 同時に、民主性といのちの平等性の中で生産性が低くなったり危機対応が出来ないのかと言いますと、そうではありませんね?これからの社会を拓くうえで、重要ポイントです。

 それはさておき、釈尊の事績は人類的解放だから四門出遊も好い感化をもたらすかもしれないが、四門出遊自体、なお、自分の求めるものの追及や自分の解放、っていうテーマがある。自分の為では、ダメなんスネ~、永代。

 起座の還相からしか、なあんもはじまらん。そういったテーマも可能でしょう。

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 四門には他者ということがあり、老・病・死・沙門といった異なれるということがあり、真実相が、求道や成道以前にも関わらず、なおそれとして自身を十全には(と申しましても永代一定程度しか迫れないかもしれませんが)現していない形で、示されている。

 また何よりも、四門の中心に置かれた私という生存形式があるわけでしょう。同時に私の内面の動きが生じる。

 更には、四門を構成するに至った、棄てられることとなった国ですとか、捐てられることとなった王ということがみえるわけです。共同体が設けた壁でもありまして、入と出に於いて、初めて意義をみる存在とも言えましょう。
 表に現れている形式的な事柄を記号みたいに要素的に並べてみただけでも山ほどありました。

 成道以後の見直し、再見ということがあるけれども、それを割り引いても、自然の姿が示されてあるんでしょう。

 しかし同時に、四門出遊は私の出来事という点では、一つの内奥の世界も示すのでしょう。沙門という形で「出」の一門が示されているけれども、なお、私の世界でもある。下手をすれば閉塞しかねない世界でもあるかも知れませんけど。

 生存の老病死はいずれも大過です。
 あるいは親を失い、あるいは子を失い、あるいは友を失い、あるいは仕事を失い、年を取って不自由になり、自身も死んでゆき、しかもその間ずっと生存の様々の苦悩や空しさや悲しさや怖れから自由ではありません。
 そういった水火の大過の中にあっても、しかし、顧みずに振り捨てて、深い情愛をたたえながら、認め合え尊び合えるこの道を往け、そういうことがほとけの世界への往生道として、願心から勧められているのでしょう。
 それ以外にたすからんように感じます。ふつとたすからん。御命日も、信心が開かれて御明日になっていくんです。

 四門の中の沙門ということがあり、沙門に個の救済を見出されたけれども、そうしたことの底に、世間での個の救われ難さみたいなもんがあるでしょうし、内に原因を見出しますならば、どうしても内面に留まりがちになる方が、むしろ自然でもあります。

 にも関わらず、四門という形で、私のモメントが照らされて来ている、向こうから、仏の方より、門が開かれてきている。そうした事象としていただいて参ったわけでしょう。

 ですから、初めから孕まれているのが我々だと思います。自己の世界としての四門ということが、初めから孕まれている。
 同時に、共同性にもあれば、覚りにも近く在る、我々はそういった在り方なんでしょう。これも実は初めから孕まれているんです。

 そして、四門を彷徨う頃には気づき難いけれども、共同性にも近く在る。
 行きっ放しではなくて、還り難い世間に還る、世間道として如来菩薩道を歩む、ということが重要なんです。
 ただ、それはまだ、原因を自己の内に見出し、何かと内面化し易い四門出遊の時点では、表現されて来ないんです。

 さん然と輝ける智慧で縁起の理法が明かされ、それだけでも我々は大変解放される。
 そして更に縁起の共同性、大慈大悲に気づき、起座された還相に於いて、大いなる誕生を見るんでしょう。梵天勧請という形で、縁起世界の全体が促してくるでしょうし、他者の存在から、呼びかけから起座がある、ともみえます。

 ですから起座は、一旦共同体を棄てたんですけれども、改めて人々と共なる仏国土、人間の為になる世界としての浄仏土なる共同体を建立しようとする還相廻向なんでしょう。自己の回復というか、誕生というか、そう申しても宜しいかと思います。

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 先日お参りしておりまして、(心にゆとりが無い)と思われたようですが、せかせかしてくる。元々せっかちなところもあるんで、雪解けで畑と言わず境内の片付けと言わず、やんなくちゃ、って感じで、こせこせ、せかせか、こせこせ、せかせかがひどくなる。

 異香のなかで静かな時間に出遇おうにも、住職も娑婆丸出しで、バタバタしてるし、喋っても書いても、世間話か、政治批判や、理屈っぽい話になり、たまには静かに自身に向き合う時間も大事ですから、これもこれで考えもんだと思いますが、やはり他者をみそなわすこと自己の如くす、までいかんことには、僧俗共、たすからんのが本当だと思います。

 「平和」時の娑婆も戦場みたいなもんですから、静かな時間は甘えた時間とも言えるのかも知れないんですね。「抽象論」と同じで。しかし、自然なる求めだと思います。
 生産力が低い時代には内部で争いつつも、一元的で目的志向の強い結束した集まりが必要だし、非常時や危機に臨めば、やはりそうした形で事態に対応するほかありませんから、如何なる○○主義、イズムであっても、個がスポイルされていくかもしれない。

 ですから、三悪趣批判から見えて参りますのは、万民の為の一人として、一人の為の万民として、尊重し合い、認め合う個の誕生が仏教ですから、全体主義では無いけれども、共同体の中、社会の中で問題を見据え、解決してゆこうと取り組む運動にも、なるんでしょう。

 伝統的な内面批判としての三悪趣理解もありますし、それも大事ですけど、北伝仏教は根暗に感じます。また、問題状況への鎮めというような意味合いもありますから、やはりインド西域における古典仏典当時のサハ―・ワールドの在り方としての三悪趣理解、実際の社会批判、人間と人間関係の在り方批判としてあったのではないかと思います。改めて身に引き据えておくべきだ、と思います。

 自分のすくい言うのんは、自分とは一体何や?自己とは何ぞや、という清沢さんの問いかけがありますが、これは自身を滅ぼし尽した、止滅されアウフヘーベンされた自分であって、自分であるけれども、もはや即自的にも対自的にも自分を克服した自分、みたいな自分が生まれている。

 また、特に思われますのは、教判が不十分かもしれませんが、既に全部我々に先立って開祖と祖師方によって先験的に示されてあるんです。
 追体験も追想も、聞法内容がしっかりしてれば、かなり我々の求道に有益になると思うんです。ところが、教判が分り難いと、全部やり直さんならん。生存が保障されてればいいですけど、どうなるか分らんのに、時間が要る。

 いろいろやりました。菜食の時機もやったし、端座の時機もやったし、聞法・修学以外にもさんざんやりました。戒定慧三学、まあ、不徹底でしょうし、法執でしょうけど。
 そんなことしなくていいんです。既に教相と事蹟がある。効率化と合理化と時間短縮がある。即の時に頓悟いただけるんです。名号のいわれの本願のいわれを念仏して訪ねることで、まとめ上げられたダルマの方より、憶念の人にされていく。

 教判次第なんです。違うところへ生まれられても困る。生まれた人も生まれられた人も、自障障他する、認め合えない三悪道に近いと、困るんです。
 ですから、名号でも経題でも三学でも宗旨にこだわりませんけれども、教義にしましても念仏にしましても名号でも御絵像でも、御縁になってそれが真実功徳相開発に繋がらんとなりますと、やはり、真宗で言えば特留此経止住百歳の意義が失われてしまうんでしょう。末法滅法時代でも必ず現実するから、特留此経止住百歳と書かれた方があったわけでしょう。

 本願の念仏は、予想もしなかったすごい力なんです。一番、自然で不可思議の念力がある。身は雑に始まり雑に終えるけれども、心は苦悩に始まって終に諸苦毒中の懊悩に終えるけれども、少なくとも素晴らしい世界を賜って意義と喜びを以って生死していけるようになるんです。

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 真宗は女性。また、男女共同参画時代であり、両性で形づくる教団とも言われて参りました。
 男性と女性の脳の差は同性間のそれよりも少ないという意見もありますし、殊に年若い頃は少ないらしいですね。ウルフ・バックでも稀にメスのリーダーを見ますし、また、同性ばかりの集まりでは自然と男性役とか女性役が出来て来ることもあるとか。

 しかし仏教は歴史的に性差別してきた宗教であるばかりか、性交渉について、これは自然性であるにも関わらず、出家者には許可されなかった。一つは、性同一性と女性への差別にかかる問題であり、一つは生存自体の否定に繋がる問題で、いずれも大問題だと思っています。

 本来、現在でも戒を捨てられない真宗教団以外の「出家」教団では、性関係自体が問題外になっているんです。

 仏典ではたとえば以前紹介した『仏教が好き』(朝日新聞社)p127~に於いて「律蔵」が紹介されていていて、一般的な性交が禁じられるほか、だからといって近親者・死体・獣・女像との交わりが認められるわけではなく、それらに対する釈尊の判例が提示されている。

 シャカムニの目的は快楽の拒否ということになっているし、確かに過度の欲望は好もしくなく、その社会に於ける女の地位にも依るが、性や恋愛における争いも好ましいはずがない。

 何よりも、性別を問わず、人は皆独立者であって自分の人生の主人公であり、奴隷でも所有物でも無い。
 禁酒法よりもひどいかも知れませんから、禁止されるとどうなるかと申しますと、隠れてするようになるんですね。かつら被ったりとか。もっとも、近年では大量破戒平気にしか見えないこともあるかも知れません。

 性は自然性であり、過度の禁欲もまた、問題とされて然るべきと思います。余りにも非人間的・反自然的なため、性が抑圧され過ぎており、生存に対する挑戦としか思えないわけですが、断定と一元化はいたしません。

 昔ふれました別の思想ですと、レーニンは、他人の飲んだヌラヌラしたコップで飲み物を飲む気になれるだろうか、と言う形でモラルにふれたけれども、衛生面からはそうだと思うが、差別社会の現状からすると、その感覚の質は女性差別に繋がるだけのようにも感じられます。より包括的でより根底的な異性関係ということ、性における異なれる質との相互作用の好き方向は、殊に人間に於いては、更に求められるテーマだと思っています。

 『女と自由と愛』(岩新)を昔読みましたが、松田道雄さんといえばこの本を思い出します。ですから、筑摩からトロッキーの翻訳を出しておられたことをすっかり失念いたしておりました。昔は谷大のサークルメンバーにも推薦しましたが、今ではカー教授の著作などと同様、歴史的著作としてリストアップしておきたいと思います。レヴィン、レーヴィットといった方々の著作も思い出しますが、女性の解放、被差別民や障がい者など困窮者にかかる思想展開は少な目でした。
 持たざる者、という点では、プロレタリア概念のほかに、老・病・弱(女性・障がい者・囚人など被抑圧層・被支配層・被差別層など)という、如何にも弱そうな三結合があるんです。


再び願心について(続)

 カタコも終わりに近づいてます。

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 鉢のサクランボと梅はほとんど散り、苗木のモモ(白鳳)は満開みたいです。

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 場所によってバラツキがありますが、そこら中で水仙も咲きました。

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 高田公園は葉桜も終えかけですが、この辺の桜は和田橋からみますと、

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ちょっと前に撮ったフォトですが、大分咲き終えました。

 でも、ウチのはまだ、これかららしいんです。

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 蕾はこんな感じです。

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 周りの雪も溶けまして、朝晩寒いながら春めいて参りました。身体は重いままです。

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 さて、願心に迫る。難しいです。

 生死の境 異香砌り、静かなひととき、静かに自分と空間を見つめる時。我々は宗教に世間を離れた時間を求める。また、苦境の打開を内に持ちながら、沈思黙考の時間を求め、時に自身にと言わず誰ともなく問いかけたい。更に応えてもらうことも時に求める。

 四門出遊ということがある。我々が宗教に感じるものは、半ば、胡散臭いとか、社会性に於いて消極的に過ぎるという印象が巷間広く流布されてあり、そのことへの忌避を持ちながらも、世間性にも安住出来ない、という健全さに置かれているわけです。

 ビリーが仰るように現代人の少なからぬ部分は、プライベートには個人の関心事に没頭し、まあこれ、埋没っていう表現もあるわけですが、職場や公的にはそれなりにやはりバリバリと没頭するわけですが、古来の共同体や国権と癒着した宗教支配体制とも違って、真の求めが愈々問われる時代でもあるわけでしょう。自分を大事にし、探し、求める姿は、様々に表出するけれども、いずれも自身を尊ぼうとするはたらきなんでしょう。

 ここには「出」ということがある。そして母体たるカピラヴァストゥという娑婆暮らしがありますから、出ということが四門でなくて、国を出る、地位を出るという出家の形で、我々の所在無さが、初めから示されるわけです。
 居場所が無かった、と。

 そういたしますと、これに対して最初から、認め合える世界たることが提示され、応えられていく。無三悪趣っていうのんは、単なる三悪趣(三悪道、三塗)で無くて、この世の娑婆の在り方を脱するんだということでしょう。娑婆という形で我々に立ちはだかる世間性を脱する。

 自分も認めていないし、認めてもらっているような気もしない、一言で申しますと所在無く寄る辺なく頼りなく当て所なく居場所が分らない私に、最初から所在無き私に応えられているんです。
これが宗教の特徴なんで、祖師方のまとめたダルマに初めから応えられている。求める自身ということと、求める在り方ということに、即得往生、即の時に頓悟して気づくんです。

 それですから、古来、こうした謂いが為される。弥陀如来ご苦労あって、と。如来が私に代わって永劫の修行を行われ、得られたところを回向されたんだ、あなかしこ、あなかしこ、値打ちの無い私なんぞの為に、もったいないことだ、有り難いことだ、と。
 その修行は苦行ではない。憶念の自覚と憶念の世界観が、やはり学びと遍歴の行という経験も欠かせないかも知れませんが、あるとき質が飛躍して、同時に視点が転じられて、開花されていく。

 しかし、かかるこの限界ある葬送される身と世界から、無量寿の生へ、で還される。
 還れるんでしょう、還り難い娑婆世間へ、ホンモノに出遇って初めて。
 ずっと頑張って来た。仕事の為にも家族の為にも地域やクラブ、果てはボランティアや人類の為にまで頑張ったかも知れん。しかし、本当に立ってこれたのか、本当にそこに「居た」のか?
 初めて立てるんです。

 一言で申しますと、皆自身の往く先については真剣なんです。
 願心というものは皆、朧(おぼろ)げ乍らも肌で保っているけれども、自分の空しさとか、自分のストレスとか、自分の都合という狭い世界から出発するほかないのかも知れません。

 四門出遊にいたしましても、静かな時間の求めにいたしましても、安心の求めにいたしましても、共同体の集まりのような社会生活の要件だったり、楽しみを求める要素だったりにいたしましても、みな、自分から出発して終に自分に終わっていく完結した世界を脱しませんから、自己と常識的な意識にはじまり、それに終えるけれども、同時に、漸く、初めて、自身を打破する、そうしたモメントの中の一つとして宗教もまた機能するんです。

 ただし、仏教というものは自己自身の内に原因を見るから、自己を問い、研鑽しようともし、脱してもいく。
 概して宗教というものは世界と自身を見直して、真実世界に結びつけようとする、結縁しようとするし、祖師方の見出された真実世界もまた、結縁してもらいたくてたまらない。命日というも、素晴らしい世界、明日というめいにちであって、明日を拓こうとする願心でもありましょう。我今現に素晴らしい世界を発見せり、今当に生まれんと欲す、と。

 ところがこうした性質故に、ともすれば、内奥にのみ視点が注がれてゆき、ときに社会、広大なる異なれる者同士の世界への視座が希薄にもなりがちなんです。本末転倒だと言えましょう。

 多くの思想や宗教があるけれども、自ら選び、頷くほか無いので、他力と言いましても、自らが頷くことしか、自らがたすかっていく道は無いんです。
 ところで認め合う世界、尊び合う世界はしかも往き易く、選ばれて然るべき世界なんですが、かかる世界を選んで建立すること抜きに、生きていけるかどうかというと、認め合えず、尊び合えないと、自障障他の世界、害い合う世界が残るように思いますが・・・。

 また、現代的視点からいたしますとシャカムニにも、どうかなあと思われる部分がありますし、歴代各宗祖師方もそれぞれ新興の解釈をされましたけど、やはり、どうかなあと思わざるを得ないけれども、願心は展開するんです。

 仏意・願心の一願が24願に、24が48(49)に、と、祖師方の歴史的求道の中で、鮮明になっていくのでしょう。

 同時に雑行なんでしょう。
 全部、雑であった。願心に背く願まで現れた。
 求め自体も願心も、雑なる私ということがありますから、まことに以って油断ならんです。激流を好まず清流を求める、四門出遊にも、静かな時間にも、温もりの空間にも、自分大事の不純な雑、ということがあるんです。

 また、せっかく慶ばしい空間、温かい時間に出向きましてもですね、一歩外に出た瞬間から、公共交通の乗り物のステップに、いや、公共交通に足が向かう瞬間から、公共性のカケラも無い雑にして不純な私に戻る、ってことでは、内面に留まるのと同じで、意味薄。
 あれ、ステップに乗るまでは(早くしろよ)で、乗った瞬間から(押すなよ)に変わるそうです。怖いくらい自己チューで、自分でも驚いて居られるかも知れません。空いている時間だと好いのかも知れませんけど、異なれる他者を慶べん、みたいな?一体どうやって転じて往かれるのか、永代転じられないままなんでしょう。不思議ですけど、たまに回転が起こる。回ということが起こるんですから、不思議です。

 またこれが、いくらでも戻れるんですね、水が高い所から低いところへ流れるみたいに、娑婆丸出しの料簡の狭い日常に戻っちゃう。止め処もなく自我の世界に閉塞出来ちゃう。自分では分らんがです。これが普通で常識人だと思っていらっしゃる。
 そうじゃなくて、還るんです。真の自身に帰ろうとすることでもあるけれども。

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 限りない淋しさと悲しみに置かれた人生でもあるわけでしょう。看取り看取られるほか無き生涯、みたいな。
 所在とてなく寄る辺なく当て所なく悲しく空しく辛く苦しく、懊悩し続けるほかなき人生かもしれません。

 元気な内は、ですね、幻想、見せかけの仮象に過ぎませんけど、いろいろ体に問題も出て来たけれども、たまに大けがもするけど、何とか元気の間は、自分をだまし騙ししながら、ウロウロとやっていますけれども、終に斃れ、あるいは病に夭折し、あるいは障がいを背負い、あるいは差別と迫害の中に終え、何処へ生まれるのか。ごまかしようが無いんでしょう。

 死は避けがたいが自然でもあり、受け止めますしかありませんが、大過なくどころでない、また、凡夫であり、認めあったり、尊び合えないし、それこそどうしようもない、ふつとたすからん人生。

 素晴らしい世界を賜ったことで、初めて受け止めることが出来るのかも知れません。
 どれだけ生きても長すぎるということが無い人生。懊悩しながらも、素晴らしい世界を内に賜って、外にも拡げて、意義(価値)と喜びのある日々が訪れますように。

再び願心について

 境内の梅は咲き初めまして、雪囲いしてある桃はつぼみが膨らんで参りました。桜はまだ花芽の状態です。積雪は少な目ですけど朝晩を中心に冷え込む日が、なお、多めですよね~。25日の様子は・・・

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梅の木

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桃の木

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桜の木

 意外にも畑はまだ雪が残っておりまして、手入れなどは4月上旬からになります。

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 仏教の基本的なカテゴリーやターム、サンスクリットやパーリ文についても、日本語の他、東南アジアや中国、欧米語で多くの事辞典があります。今日では諸国の仏教史やいろんな宗派についても解説書が出版されて久しいので、関心を持たれる方はそれらをご覧になることをお勧めいたします。

 それとは別に、これまでの語やディスクールへの定義や公理的な見解に疑問があるので、独自の翻訳と定義を探したりすることがあります。

 もちろん、いろんな僧侶もまた当然、布教の為にも自分自身が納得する為にも、様々な言い換えや比喩や表現で迫っていこうとするわけです。しかし、例えば仏教上、如何なる世界が如来と菩薩によって願われたのか、このこと一つに遡及しようとする学びに於いて、その願心自体が愈々研鑽されるかもしれませんし、見出され研鑽された願心から見直すと、人間にとって、過去未来現在のこのディスクールはどうか、この儀軌はどうか、この行為はどうか、この社会的役割はどうか、という疑念が出て参りましょう。

 かくしていくつかの問題提起が為されて参りましたし、私の独自の問題点批判もあったかもしれませんが、須らく願心成就を試みたものにほかなりません。

 改めまして願心を取り上げて考察を加えつつ定義に迫りますので、上述の事情を踏まえてご笑覧願います。

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 何となくドグマティックな感も憶えますけど、人間生活にとっての願心=本願の言われの必然性・不可避性・必要不可欠性に迫ります。

 賜りたる願心によって、我々は自由である。自由でかろがろと柔軟で明るく活気に満ちて前に進みうる身を得たのである。

 こうした願心は、ではどこから生まれたのか?
 起源は何か?義なきを義とする自然のはたらきであるけれども、モメントは何処にあったのか?神なり願心なり仏性ということは人間が造ったものではないとすると、自然のはたらき、自然に備われることというほかないが、人間が見つけたことは間違いない。

 偉大過ぎるんですけど、シャカムニの成道の原因は何か、という問いとしてもあるでしょう。これまた軽々に取り扱いかねる質の課題になりますが、様々の文化パラダイムで表出してきた願心について、どういうものか、その正体に迫ろう、と。

 存在がもたらしたいのちとその願心が展開して、様々な形をとって現れて来ました。
 しかし例えば、生きるということの表現と、それを自覚する人間の受け止めと、更に、それを価値として尊び合う世界を見いだし実現しようとする宗教という表現との間には、質の飛躍がありましょう。

 宗教表現も千差万別ながら、ですから、とても初めからいのちに宗教的な願心なり求めが孕まれていた、とは思えないのが実情でしょう。
 しかし、単細胞生物の初めから萌芽が備わって来たという仮説から、歴史の中の意識を探りたい。
 この課題探求の困難さは、全く予想外の人間の意識に突き当たって戸惑う可能性が高く、極めて大であるということにも生じましょう。

 世界観察・世界認識としての縁起の発見についてはシャカムニに帰する智慧の領域だといたしましても、慈悲心、共同性としての願心の成立要因は、やはり一つは既存の宗教的展開・思想的展開に見出されるように思います。
 それ故また、一つには、それが特別のように思われながらも、一般に巷間に広く最初から自然に備わっていることがみえて参ります。
 そして、一つには、それだけではなくて、まだそれとして明瞭には自身を現していなかった願心に気づいて共なる世界、慈悲として様々に表現されたような学びの質があった。
 さらに、一つには、それらも実際に遍歴という様々な人たちとの出会い、交流と対話対論の中で、愈々、開花され、確信や表現を得ていった、と思います。

 実際の成道以前の出会いと学び、成道後の世間道での遍歴ということが、元々備われる願心を開発したり、さらには開花発展させていった。

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 それと願心については、最初から備わっているばかりではなく、最初からはたらいていないと、経験を否定するわけでは無いが、努力や学びや修行によって得られるものではない。
 初期経典の謂いに倣いますなら、経験によっても、修行によっても、三昧によっても、学びによっても、思惟によっても、必ず出遇いを得る保障は無いわけでしょう。

 むしろ、経験が生かされる為には、モメントを成立させるような内因とも呼べるような萌芽態が初めから孕まれていて、且つはたらきはじめている必要があるのではないでしょうか?

 全く要素的に芽が無いところには何ものも生じ難いわけで、もちろん、様々の別の種類のものが集まって、一定の条件があるとき、それまで存在したことの無かった萌芽が生じるわけですから、無から有が生じているのも生命の誕生の特徴ではありますが、やはり諸条件・諸物質という原因、萌芽があったのでしょう。

 苦労しないと人の気持ちが分らん、とも言われるけど、同時に愛情を注がれ温かさに包まれていないと温かみが分らん、とも言えるんでしょう。最初から知っていないと宿善になってはたらくことがない、はたらきだすモメント自体を受けない、モメントがモメントにならない、ということがある。

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 願心より生ずる本願、智慧もそうですが、無始より自然に備われる慈しみと悲れみは、最初から備わっていないと、認識したり理解することは出来ないはずです。
 これはまた、本来とても馴染めないとされているライオンの雄とかトラ、アナグマなど単体行動が中心の動物にも多分、微かな萌し程度は、みられるのかもしれません。そして単細胞時代には、一体どういう質で孕まれていたというのか?
 生きる、ということ自体に、素晴らしい世界に生きる願心の淵源を想定して来たわけですけど、この仮説はどう展開したら好いか?

 そこまで遡及しなくとも神の愛や慈悲のカテゴリーは歴史上いつ頃から現れ、自覚され出し、その質はどういうものだったか。これは専門家が発掘いただく課題ですが、願心と教相上重要課題なんです。

 例えばブッダの倫理性や慈しみの開発に関して、古くからのヴェーダに窺える神々等の諸性質の中で、友好性、赦免、寛大、人倫性などが慈悲の内容として想定されて好いだろうが、限りなき灼熱の慈しみとなると、どうだろう。
 こうした謂いはあまり好まないが、この慈しみの質はもしかすると、女性性と男性性の融合かもしれませんし、戦場に感じられる世界大の限りない淋しさと悲しみもまた、女性性と男性性の融合かもしれない。

 慈悲については内なる共感と連帯と共同性を示すものと受け止めているが、これは古代宗教の神々の世界でも様々に見られるとは言え、祭祀宗教上は律法者、命令者みたいな性質もあるだろうから、さあ、仏教上の慈悲も、対他的な温かさも、定義は容易では無いかもしれない。それ以前の神、神々の中に見出すことが出来るかどうか、詳しく調べないと何とも言え無いが、間違いなくあったに決まっている、と思うわけです。

 ブッダの響きの変遷自体も、仏教上顧みられたことがあるのかどうか、大変気になるわけです。ヴェーダ等のどの文献や伝承に、何回、どういう語用で出現しているのか、皆目分らんのが残念です。発掘の時代自体もまだまだのような感を深める昨今になってはいますが、どうせ研究されるんなら、重要ポイントについてご紹介いただけると嬉しいです。

 表面に現れ易い支配的な傾向として、戦闘の勝利とか、支配の倫理とか正義などが神々の特徴であるが、慈悲はそれとは趣が異なるので、改めて仏教上の慈悲の淵源や、諸思潮の中の定義を求めるのは、意外と厄介である。

 これには古代人の意識、死後を含めた生活観へのアプローチの困難さもつきまとうし、それ以前に、古代オリエント世界、地中海沿岸からインド、コーカサスより北方、中国系(モンゴル系)住民に亘る、これまでの古代世界の把握が疑われるので、注意深い再研究の上、把握し直さないと進めないような気がする、という事情もある。

 古代の民族や文化分布が、宗教や神々やその習俗習慣だけを取り上げても、改めて把握され直さなくては進めない。それぞれ孤立している狭い地域としての取り扱いは通用せず、世界大に分散していた諸地域の関係性を捨象できるとは、現代ではもはや考え難いわけです。

 もう一つ、古代世界の人々の意識自体も、容易に想像できないものがあると思いますから、現代人の既成の意識や常識から想像すべきでもないかもしれません。
 古代と申しましても、文字で記録の残る時代になってからはまだしも、それ以前もあるわけですけど。

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 同時に神秘主義的な祭祀宗教の中から生まれますと、どうしてもシャーマン、神官、僧侶がカスト化し、国権化していく。共同体と、宗とすべきみ教えの相互浸透が始まり、独自の展開を遂げ始めるわけで、決して宗教的理想にとって好もしき方向へばかりは行かなくなる、はずでしょう。事実、限りなき灼熱の慈しみが鮮明でない発心と運動から、歴史上多くの裁きが行われ、多大の犠牲者が生じて来た。

 そしてさらに、みて参りましたとおり、雑こそ、異なれるこそ、複数こそ、他の存在こそ、全ての前提であり、私の姿でもあるんでしょう。

 ですから、ブッダとか仏道と申しましてもそれは、私の生死の、私の存在の中心ということよりも、礼拝や祈願の対象としてのブッダ、ということになりがちのはずです。国家宗教ですと、更にそうした面がでかくなる。
 すると当然、個の自覚としての宗教ではなくなり、人任せの宗教ともなりかねませんし、金儲けの道具、政治利用にもなり易いでしょう。

 これは明かされてきた今の願心、往生という往きて生きる、生まれるという積極的な願心とは、全然異っていくわけでしょう。
 たしかに生きている世界はサハ―と押さえられた状態とは言え、また、改善には、なお、限界があるとはいえ、我々が陥りがちな厭世観や諦念、死後への期待とは真逆の世界なんです。生きる世界。絶望に絶望するという友人の謂いが想起されます。

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 この慈悲、我々の内なる共同性の淵源について、どこまで遡及出来得るのか、定かではありませんが、以前、古代メソポタミアに関してネアンデルタール人の間でも埋葬ということがあったらしいことを紹介しておきましたが、埋葬なり葬送儀礼ということが関係しているかもしれません。
 更には、近年南アで発見された洞窟の新種の人類の遺骨も埋葬だったのかも知れないという説があるそうですが、これはまだ何とも言えない状態らしい。けれども、何らかの共同体生活であるらしいことが知らされましょう。

 内なる共同性ということは、他者をみそなわすこと自己の如くす、でもありますし、これは質の飛躍があるのかもしれませんし、世界人民大同団結というところにもあるわけですが、これも明瞭な共感、慈しみと連帯は質が飛躍しているかもしれません。。

 世界人民がどこで大同団結しているのか?
 尊び合い与え合い認め合える世界、友好的で平和をもたらすアムネスティや救援団体や人間防衛と解放の運動ということでしょう。政治経済上も、民主的で差別なく、個に応じてですが生活出来る為の運動ということになるでしょう。細かい目標を挙げれば沢山ありますが、二つ三つ取り上げれば。

 ですからこれは、日本でも米国でも無いけれども、たとえば私たちのソビエト、私たちのコミューンと言って参りました共同体は、「ソ」「連」でも中共党でも無い。昔は文革チルドレンだったけれども、鮮明なんです。メリットも理想も鮮明だと思います。

 ところが、現実してきた半封建的・半資本主義的・半社会主義的な、そして権力主義的な強権政治と暴力史の、世界と運動ばっかりだったんです。ということで、東西問わず、皆さんの内のほとんど全部が、仕方が無い、と仰って来られたんでしょう。多数者のメリットも理想も、まあ、その内容や質も問い返して検討し直さんならんでしょうけど、現状打開の後、ってことだった。
 
 実際には好い思想と制度、生産力が創造されて参りましたから、これ以上現状に阿る必要は無く、平和的で友好的な内に、新世界創造の事業は進めることが可能だったんですが、間違った思想や状態の延長を選んだんでしょう。

 これについては「淳一のスペース」でこのところ取り上げましたけれども、現状はどうしようもなくしてしまい、手の付けようがないまま、幻想だけが流布されているような感すら否めません。

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 私は知らないことを長く知らずに居ました。
 シャカムニとソクラテスは「無知の知」を言われましたが、既知への拘泥から、知らない世界があることを長い間知らずに来たんです。
 そして前メモっておきましたがゲーテは、まだ知らない事柄の方が、未知の方が、既知の事柄よりも重要だ、と。
 こうして、それこそが我々をして学ばせ、探求させるところの、未知の事柄の重要性をも知り得ました。
 そういたしますと、既に知っているということが相対化されまして、謙虚であらざるを得なくなりましょう。
 40・50の洟垂れ小僧から青年期に入ったけれども、まだまだ知らずに居るに違いない。まだ40歳にも満たない方は、今から洟垂れ小僧かいっ、って感じでウンザリされるかもしれませんが・・・。

無戒からー15

 自然災害と言わず戦乱と言わず、病に怪我に事故に犯罪被害と、さまざま苦難が襲います。
 いのちは重くてとても担えないですし、事実はどうしようもありません。
 長命な人だ、と言ってみても実は、どなたも人生は短すぎるのでしょう。

 私から始まりながら、様々に表現されてきた願心に出遇って私を超えて生きる世界に赴くのか、宿善欠けて終に私を脱することなく、何もかも失い、潰え去っていく世界に赴くのか。いずれにしても身は潰え去るこの世界に留まるけれども。
 たったそれだけのことなんですけれども、これが難しい。

 先日、追い越しで対向車線に出ていました。向うから列をなして車の一団が来るのを見て、何とか走行車線に戻れましたが、死ぬ思いでした。まあ、対向車線に出て追い越すことも可能の道路でしたが、それはあくまでも対向車が無い場合ですし、自分は追い越し用の車線だと100%思い込んでいますから、対向車の一団が目に入ってパニクりました。
 寺の同朋会に来られる方は前向きで内面性や学びへの積極性も備わっておられるのでしょうか、皆さん元気で長生きされるんですけど、事故だけは如何ともし難く、時々注意されるようにお話しするんですけど、久々の大ボケで、反省を述べておきます。

 で、言い遺す言葉が浮かびましたので、記しておきます。
 人類社会に関して、早い段階で簡単には改善出来ないけれども、何とかしなくてはいけない課題を提起しましたので、課題を深め、温めながら、取り組みを続けていただきたい。(課題は私の独創や発見ではなく、少なからぬ方と共通だと思っています)
 もう一つは、こちらの課題も根が深く且つ古くからあって改善自体が危ぶまれるけれども、人類社会の罪と赦しの件について、厳密に罪を定位しながらも、罰は緩和し、寛大な無罪放免の枠の拡大をお進めいただきたい。
 以上二点が即座に思われたのでメモっておきます。
 人間と諸々の生きとし生けるいのちの為になる教学と教判については、これまで述べた通りでいい、ということです。

 先日また、珍しくある水泳のメダリストから、よく分からないということで話しかけがあったんですけど、これはまた他の職務や事業に熱心に邁進して居られ方々に共通の問いかけだろうと思うんです。

 そこでまたどなたかが仰るには、(赴くのは、)私が、じゃないんだ、と。生きる世界に赴く、ってゆうのんは、私が、やない、ということです。

 まさにそうした謂いに近い、と思いますが、賜りたる世界は又、それまでと変化し、それまでをある種脱した私、質が変わった私、それまで知らなかった世界を知り認識が拡がった私、自身を滅ぼし尽して生まれ変わった私が赴く世界である。

 狭くちっぽけな私の身心はいずれも滅びゆき、いのちと存在の大海に帰するけれども、存命中に本当に生き、尊び尊ばれる世界に生まれようとする如来の願心、本願に出遇うことが無ければ、存命中の個人としての自身も、尊んでいる他者と共なる世界も、尊ばれるべき他者や他者との関係も、全て空しく終える、ということです。

 もしかしますと別の事柄に関して(よく分からない)ということだったのかも知れませんし、仏教上のことや人生上のこととしましても、適切にお応えできず恐縮です。

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閑話休題。

 以前言ったと思いますが、谷大に入って授業に出ますと教室の机に「なごり雪」の歌詞が落書きされているのを発見しました。
 情感に訴えかけ、呼び掛けてくる詩ですね。
 こんな詩を書ける人が居るのか、って感じで、パッと開けてくるようなフレッシュな印象を憶えました。見た時はそれが歌詞だとは知りませんでした。
 先ごろイルカさんのコンサート番組があり、ちょっとだけ年寄林を拝見したわけですが、そういえば以前、体質を見透かすようなことを仰っていたな、ということを思い出しました。

 歌詞の中の「東京」の響きは明るいものでは無いかもしれませんが、なお、夢と希望の残る時代だったんでしょう。
 大後輩は谷川雁の「東京へ行くな」の詩をアピールしたりしてましたが、昔は魅力があり夢や希望も持てた、何とか見せかけの仮象に惑えたんスけど、現在の東京も多少、そういうなごりがあるかもしれませんが、すっかり色褪せ、魅力を失ってから久しいですしね~。

 この際、ライフスタイルを見直し、地方都市への諸分野の移動が、これからの日本活性化のカギの一つかもしれません。
 せっかくの築地にいたしましても、ゴタゴタしてる都内からハマ筋へでも引っ越された方が好かったんじゃないか、みたいな・・・。

 以前赴任しておりました能代では毎週TVやラジオで「これからの秋田をどうするか」を取り上げておられましたが、たま~に聞くんですけど、活性化の為にどうすればいいのか、核心にだけ、近づかないみたいな。
 元々人口が少なくて仕事も少なく、経営や就労が成り立っていかない、となりますと、方法は一つしかない。

 一つしかないけれども、植民の為の、供給、社会主義的な政策(保障や福利の投下・供給を含みつつ、積み木崩しみたいな循環型の公共事業や箱ものづくり)や国家からの助成金増額、企業なり産業や国家事業の機関と人員の誘致も、とても難しい現状でしょう。

 生活確立自体は生産物を与えることで自分を含めて全体に行き渡り、困窮層の救済にもなっていく、与え合う体制が望ましいんですけど、「税制」改革的傾向のある政策徹底により、ある程度共同体全体としては暮らしていけるようにはなる。

 しかし、市場経済と同時進行で進めないと、これはこれでやはり停滞したり衰退したリ汚職や固定化が蔓延するわけで、圧倒的多数の民衆に支持選択されていくことによる生産の独占の問題と、一見すると対比を為すようだが、実は招く結果は似ているか、同じになるわけです。停滞と汚職、民衆への犠牲の転嫁、みたいな。

 その地域に元々備わる魅力、プラス面も勿論まだまだ開発されていないかもしれませんが、地方の親方日の丸体質と、一極集中するいくつかの大都市の既成の利便性依存体質自体が、産業上の衰退ポイントに転じている側面もあるわけでしょう。これはそれを補うだけのものが供給されている間は、事態は鮮明にならないけれども、同時進行していくのであって、好ましくないことだけは確かです。

 京都はと申しますと、学生当時、すいません、蜷川「腐政」と言ってましたけど、府政には一部反対もありましたが、京都はおもしろいところでもあり、個性的でアナーキーな時期を過ごすことも不可能ではありません。
 もっとも、時代が変わりましたから、ギスギスした雰囲気が強まったでしょうかね?

 ともあれ、その後しばらく離れておりました谷大の授業に戻ることに決めたわけですが、何度か出ている内に(?おかしいなあ)と思うようになったんですけど、ある先生の授業では出席点呼で私と友人(ノンポリ)だけいつも呼び捨てである。比較的マジメに受けていた授業でしたので、大分先生の反応も変わっていったようにも感じますけど、先生とは一度も喋ってませんから分りません。

 また、ゼミの先生も常識人でしょうから、まさか他のゼミも出てるとは思いも寄らなかったんでしょう。しかし、忘れましたけど、もしかすると大分後で(君、○○先生のゼミも出とるんか)と言われたのかもしれません。(ええ)と答えたはずですけど、たとえ言われたとしましても、先生の反応は(ふーん)で終わりだったような・・・。
 考えてみますと、確かに、別に受講してもおかしくはありません。マジメに実習イッポンで頑張らんといかん系の学部や学科だと、ダ・ヴィンチ以外の方にはとても無理だと思います。先生もとっくの昔に忘れて居られることでしょう。

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 さて、死刑制度について、日本では貴族に血と亡骸は忌まれ、争いも忌まれていたんでしょうけど、坊主も貴族出身の官製の出家が多かったでしょう。
 当然、従者や財産と一緒に出家した者も少なく無かったんでしょうし、教団内にも官位みたいに位階があったり部屋があったりして、寄進を受けて配分も相応だったかもしれません。
 すると、葬祭も忌まれ、下級の神官や坊主と被差別民で葬送や埋葬が行われていたケースや時代があったのかもしれません。
 民衆自体も例外なく全員賤民視されていたわけですが、仏教などの影響で300年ほど死刑だけは執行されなかったことがあるそうです。

 真宗以外は全部ダメなんです。特別の人しか対象にされない。それ以前もそれ以後も、他宗のいくつかの流れと共にアミタの念仏は民間に広まるわけですが、祭祀宗教化して、大衆性、私の宗教ということが仏教上遅かったことは否めません。

 その真宗も貴族との結びつけを強めていき、取り込まれて差別的で排除的に変貌してきたわけですが、やはり初めから、自ら主体的に道を求めるのでなくてはいけない。人や時流などへの畜生道は破たんするんです。強いられた畜生道の方がまだ可発かも知れません。
 真宗と言わず、憲法理念はともかく巷間では、凶悪犯の死刑とか厳罰についても当然視してきたわけで、漸く60年代も終わる頃から人間観の改革や刑罰の緩和や赦しへの兆しが、微かに見えて来たに過ぎないんです。

 発心と一緒で、三悪道の自身の在り方も初めから排されていないと、求道に成らん。道を求める以前に、初めから発心があり、それが開発され、磨かれていく。
 こうした発心は様々の文化的パラダイムと思想にふれても起こりますが、私は、例えばマルクス主義などでは発心の開発は十分では無いように感じます。それどころか、人間の尊重とかやや社会性に比重があることさえ、明記されずに忘れられることがあるように感じますけど・・・。

 発心と言いましても、邪だったり九十五種だったり自障障他する質だったり認め合えない質を内包したりしますから、たとえ芽が開発されて育まれていくにしましても、最初からより正しい、より純粋性を抽出された発心の方が望ましい。
 そういう道場に入門すべきですし、そういう道場から自己探求と研鑽を始めるべきです。

 寺に参ってもお内仏に参っても、特別の人しか対応できないのではなく、庶民万民の為の世界を開きますから、無数のほとけが、仏菩薩往生人がまします場として参りませんことには、万民友なる世界に参りませんことには、人間に法が現れた像のせっかくの意味が失われる。法身は人間に現れますし、空無我無自性なる無執着も人間に現れるんです。人間に現れ、とらわれを脱して人間的な人生がパッと開け始める。

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 自信を語りましたが、世間に属する分野の自信に関しまして、頑張って押しのけていくことは大事ですけど、それが全てじゃないですね。フラットが大事。

 なお、押しのけられた場合ですけど、これまた山のように起こるわけです。どうにもすくわれん奴だな、俺は、みたいな?
 ただし、たすからんナー、と申しましても、たすからんことに胸を張って思うわけです。慌てる必要も、落胆し過ぎる必要も無いと思います。

 ただ、この自信に関して思いますのは、以前述べましたが、世間や周囲に認めてもらうことは大事ですけど、自分を認める方が、もっと大事だと思うんです。
 その世界で自分を認めて、自分と闘って打ち克ち続けるかどうかは、これが一つのポイントになるのではないか。これに関してはさすがの私も自信が無くて、ナマイキ言えませんけど、一事に於いて自身を認め得るなら、内的動機で続けるほかありませんから、勝敗も自信も考えなくても好い、ともみえます。
 いずれにいたしましても、転進するのも、そのまま継続して一事を頑張るのも、その人が選ぶしかありません。

 それと、これも以前ふれましたが、逆に言いますと、目的成就しましても、次々と課題や問題が突きつけられましょうし、こんなはずじゃ無かった、と成るに決まっているし、より好い方向をめざしたり、悪化する状況打開の為に、止む無く転進しなくてはいけなくなることさえ、あるに決まってるんです。
 過剰な期待も楽観も悲嘆も、避けるべきで、そう心配しなくても大丈夫、と思います。まあただ、こんな個人的なこととか、この件で悩んでること自体どうなのかとか、一人悶々とこれは悩んで決めざるを得ませんから、第三者からは何とも言えません。

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 以心伝心ではまた、大分前には頭を開きたがるお医者様もおられましたが、これはつまんないように思うんですけど如何?

 また昨年、ウチは自作の無農薬もしくは少農薬の菜っ葉を味噌汁にもよく用いますが、その所為でしょうか、都心近辺ではお弁当や食堂でも野菜が無い、少ない、とNHK筋から以心伝心いただきましたが、間が悪いと言いますか、悪天候で野菜暴騰の時機で、何とかしたいとは思ったんですけど、さあ、どうなりましたか・・・。
 これについては、野菜が農薬等で一番ビョーキになってから久しく、反省もあって農薬や化学肥料を控えた品も出回ってますけど、やはり健康野菜が潤沢な食卓が願われます。大事なポイントになりますよね。

 値段が高い?ええ、牙をむいて仰います通り、私も消費者でもありますし、農家も消費者でもある方が少なく無いから困ったんですけど、どうしようもありませんでした。消費者と生産者の間に入る、みたいな面倒は、なるべく避けるようにしたいんですけど。

 しかし、別件でしょうかね、裏切られた、という非難は身に覚えがないんですけど・・・ひょっとすると無意識の内にご要望を無視してました?

 最近では、朝方にローラが忠言を述べに現れたり、その後のは、ヘリと戦車の部隊がごごごごごおおおお~っ、と来られたりで、一体何事やああああ~っ、と。世の中ひどいですからね~。

 また、つい先日、NHK朝ドラ出場メンツから、信用ならない、という声もいただきました。よく、言われるんですううう。えっ、そうですか?この素晴らしい人類の宝が?と答えておきたいと思います。

 内外の政界・芸能界・スポーツ界をはじめ相変わらず様々な方々が現れられますけど、原則的な姿勢を崩すわけにも参りませんから、何とも応対しかねることもあります。

 まあ、世界の首脳とかメダリスト、大スターなどクラストップの方々は、言ってみれば、常人には達し難きを達成された、忙し過ぎてこの上なく偉い人たち、なんです。

 別に構わんのですけど、現実にはやはり多数の庶民の為のみ教えですし、実際、寺も日々は庶民的な方々とのお付き合いになっているわけですし、愈々、多数の庶民的な方々によってこの仏教運動を進める寺と私に寄っていただければと思っています。

無戒からー14

 桜の開花は蕾の状態でかなり予想できるみたいですが、高田公園の開花開始は4月7日~8日らしく、満開は11日~12日ころですかね。

 標高の高いゲレンデは、なお、べスコンに近い日が少なくありませんが、この辺りの平場も積雪は60cmそこそこ。

 今年の雪解けは3月末ごろから4月上旬でしょうか。先ずは若見平が溶けて、その後寺の周囲が溶けましょう。

 ただ、早ければ初冬から夏までの間、色んな花粉や埃やPM2・5などが舞いますから、アレルギー体質には気になる季節が続きます。

 それでも、この辺の春は乾季ですから潅水が大変ながら、早くも花や作物の育成が楽しみになりますね。

 サイドコラムに行事案内を追加しました。

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 宗教という場合、現実の教団や教義としてのそれが思い浮かぶのが普通です。
 実際に存在する「宗教」なるものに対しても、理念・目的・教義と、信徒個人・僧侶個人や教団など主体の実態と、両面からアプローチしますと、いろいろと「雑」がありまして、有象無象いっぱい混入しているわけでございます。

 それとは別に、見直すこと(リリジョン)・人間性の根源より生じ、人間の為になる宗とすべき教えと姿勢、ということが重要です。
 ここでは、例えば差別教・殺人教・やや利己的に過ぎる質を含み、他者を認めない世界の危惧があるアタルヴァ等の質は、廃されたわけです。三悪趣も排された。

 本来ですと、両者が同じ方が良いわけで、リリジョンを「結びつける」という意味で考えても、そうあるべきなんでしょう。その宗教の教相内に、あるべき世界と自身の姿や、現実の諸問題への批判的な視点や改善指針が含まれていることが大切です。
 けれども、時代の限界等々により、十分に、より包括的に教示されているかどうか、という視点からも、現代に於ける現代の成果に依る精査と改革が必要でしょう。

 主にはディアレクティクによる見直しにより、矛盾・変化と運動という実相が定位されるようになってから久しいわけですが、絶対化と固定化もまた誡められながら、色んな運動もまた、いつしか停滞し低落してきたのが実情のように感じます。

 絶対化や一元化や呪縛は排しなくてはなりませんが、宗教においても修道・修行における専と雑、聖と俗、純土と泥土、一と他、一と多など、いくつかの対立概念が矛盾の運動として深められたように思います。

 人間の為になる宗を教・姿勢として生きる人は何処から生まれるのか?専の中からか、雑の中からか?聖の中からか、俗の中からか?秩序の中からか、混沌とした課題だらけの中からか?於泥華は、どこから誕生するのか?

 こうした出発点自体が、願心から生じるわけでして、自然な世界観察としてのダルマや縁起と同じように、自然な世界観察としてのディアレクティクがあり、諸科学があるわけですが、そうした中でも変わりなく、尊ばれるいのちへの希求が、如来の願心に汲み取られてまとめられるような願いが、万民に存する。

 ですから、輝けるダルマが万民に顕われる時、どう具現して展開するのか、一願心が分かれて24願となり48願に展開されるが、どういうことか、初心とどういう関係なのか、ディアレクティクや科学が万民にもたらすものは何か、須らくこれは願心に立ち返り、願心を深め抜くということが、生じてきたわけでしょう。

 その一つの現れが現代的には、差別性の克服であるとか、汎神論的な考え方で表現されたことがあるし、昔からバラバラのようにみえつつ同時に調和的でもあるかも知れない世界観であるとか、そういう表現で残されている。

 ディアレクティク的な全存在の重要な点は、質の変化であり、対立と同時に流転か進展か、変化し続ける。
 これは囚われを脱して自由になってゆく空義同様、現状を変化させて改善を施す方向にも向かわせるし、対立は質の変化を待っているのであって、消滅ではない。有でも無でもない、有も、変化し続けるので、自体が無く、止まらない。

 断定はしませんが、雑なのかどうか、異なれる存在、バラバラが前提になっていると思います。そして矛盾が主要で、無矛盾や統合・統一が副次、運動が主要で、静止は観察されないか、観察されても副次で、分裂が主要で、統一・共同が副次、二以上が主要で一が副次ということですが、いまひとつ、別個バラバラのものが相互浸透・関係性により質が転化して別のものとなることがありましょう。重要なポイントです。
 まあ、主副の転倒もあるでしょうし、主副共に自身を喪失したり薄まることもあるでしょうから、これ自体、固定化すべきでも無いんでしょう。

 殊に、異なれるを慶ぶ、と申しましたが、古代の地中海周辺諸国・インド、イスラーム帝国や中露印、英仏甫西蘭米その他欧米も、独日も、長い侵略の中でインターナショナルにグローバルに、自らを疑問視し否定するような好き願心も愈々鮮明になったはずです。

 固定的で狭い智と九十五種の道を汚す邪から、様々な蔑視や差別視や偏見や隷属化やジェノサイドを繰り返したわけですが、そうした累々たる死体と流血の只中からも、神の願心も研ぎ澄まされたし、ヴ・ナロードも生まれたし、狭い殻を脱し、人民尊重の広い世界が開けた面だって、あったんでしょう?

 もちろん一部の各界のエリートだけだったのかも知れませんが、諸事件や願心と出遇う中で、自身の邪や願いや振る舞いも問い返され、質が変わったんです。

 だから、様々の文化パラダイムで表現される願心は、無始以来自然に備わり、人間に受容されるものでもあるんです。共生も共感も他者や異なれる人々への慈しみも、自然のはたらきである。

 ともあれ、するとですね、純粋にブッダ・ダルマの世界を抽出しようとして生まれた浄土門といわず、色んな宗教における絶対観・固定我・一元性ということは、どうなのか。単一の世界観はどうなのか。単一党の一元化はどうなのか。

 「祖師方」の御影が顕彰されていますが、祖師方それぞれの言い当てられたり実践された真実はある。あるけれども、時と共に、そのままではまずいこと、やばくなることも分って来たわけでございます。

 それぞれの御影もあったわけでございますが、これは「マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリン・毛沢東連立之御影」に深々と頭を垂れてお参りいたしましても、一面の真実は確かにあるけれども、それで終わりでも、それで十分でも無かったわけでしょう。むしろ間違いだらけだった、という観点の方が、将来を創造していくと思っています。

 元来、「諸仏国」、「他方国土」というカテゴリーが「無量寿経」に当たり前のように出て来るわけですけど、インターナショナルでグローバルな古典時代のインド西域文化圏にあって進められてきたであろう浄土建立作業であったはずが、いつしか、凝り固まった世界になっている。

 異なっていても共(友)なる世界、みたいなことを思わずには居れません。諸々のブッダと私たち、みたいな。
 するともちろん、雑だ。味噌くそ一緒は困るが、全部受ける、全部許すということにしたい。

 専と雑、純と雑ということになりますと、専修念仏、ということで、専ばかりが選ばれるけれども、雑が主要で、専は副次でしょうね。
 雑は問題があるし大変ですけれども、しかしやはり異なる存在の只中にしか我々が無いことを考えますと、雑が主要な状態である。善悪は別としてですね。ですから、大変だが雑への取り組みが大事になる。異端とか背教とか雑は、実は何より私自身の姿だと思っています。ふつとたすかること無く、抜き難く逸れている私。

 雑は雑で美味いことがあるが、雑煮もごった煮も味が調和して美味いんでしょう。ハルモニアということがある。様々の文化や思想も人間も、異なれる(もの)が出遇う、異なれるが和するという処に、学びと変化と誕生と創造が、味わいが生まれましょう。和を以って尊しとするものが、大乗仏教思想だったり、専修念仏のはたらきかもしれません。
 しかも、二以上が合して一になる、というわけでは無いですね。元々の単体と質が、別のものへと変わっているんでしょう。音と音、色彩と色彩も同様でしょう。

 出遇いによって、質が変わっていく。
 異なれる存在と出遇わないような、出遇えないような専や純はアカンのです。排他もアカン。選択本願や専修念仏や廃立、決判さえ、潔癖症なまでに、警戒しないと。
 だから、岩文の無量寿経の梵文現代日本語訳で(いや、私はこの世界に留まろう)とダルマーカラは仰るわけですが、本願が選ぶのは、他者だったり、他方国土だったり、逸れたもの、異なれるもの、背けるもの、そういう怪(け)しからんモン全部、なんでしょうね。それら全部が意義を以って現れ直してくる。
 十悪五逆、誹謗正法、雑自体は、自障障他して認め合えない世界を構成するけれども、そうした世界に囚われている人間であっても、人間自体は尊ばれていく。

 で、五逆と誹謗正法と雑と無宿善(善はダルマ)自体にモメントがあるかどうか、って言いますと、無いようにしか思えませんが、あるんでしょう。
 宿善のかけらも無い無宿善といいますか、宿悪ばかりが際立った世界ですが、そこにも幸いを願う自身の姿が、否応なく無始よりこの方自然にあるんです。

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 誡められるところの認め合わない世界、認め合えない世界の際たるものとしての三悪趣について確認しておきます。

 地獄・餓鬼・畜生という三悪趣を自身への戒めとするわけですが、これは自分だけの課題でも無ければ、個人の心の姿勢だけの課題でもない。我々が暮らしている世界全体の課題である。

 個人の心の持ち方も重要なんですけど、その前に、どういう心であれと教示されているのか、状況の正しい認識が必要なんでしょう。

 地獄は苦しめる世界、苦しめられる世界です。認めず、認められない世界であって、我々が他者を排し、他者に排されている世界と言えましょう。言葉も通じない世界と言われますが、全く通じない世界。我々の住んでいる世界でしょう。

 餓鬼はもと、死後一年なり定まらぬ霊としてさ迷う者として考えられ、供養される必要がある存在とも言えましょう。飢えに苦しみ、苦しめる世界で、これまた殺し、殺される世界。
 強欲や渇望への戒めとされるようになりましたが、それはそれとして、むしろ、施餓鬼の方が重要と言えましょう。衣・食・住・交通・交流・医療・情報が得られずに飢餓に苦しむ世界であって、国際的に救援対象です。
 飢餓状態の痩せておなかの張った姿で描かれますから、放置する方がむしろ罪悪と言えましょう。やはり認めず、認められない世界であって、我々が他者を排し、他者に排されていく世界、我々の世界の姿と言えましょう。

 畜生はもと、輪廻観で死後動物に生まれ変わることから、隷属し、隷属される世界で、粗末にされ、時には殺し、殺される世界。また、動物のように互いに殺し合う世界。
 一見認めているようですけど、同じく認めず、認められない世界であって、差別・選別・殺害して尊重しない世界。
 我々が他者を排し、他者に排される世界と言えましょう。我々の世界がそうなっている。

 で、自己の内なる課題、心の持ち方をどうするか。
 地獄については、善を為し、悪を為すな。ここで善とは、もろもろの生きとし生けるいのちは安楽を求めているから、尊び合う世界をめざせ、ということでしょう。制度改革もめざすし、個人の心の持ちようも変革せよ、と。和平工作が大事。ほかにもいろいろあると思いますが、先ず押さえておきたい点です。

 餓鬼道について巷間流布されている考え方は特にマズくて、貪りを離れよ、というものですが、先ほど述べました通り、自然の欲求は、過剰な欲望でも過剰な禁欲でもない。腹が減ったら飯を食いたいのが、自然で普通。
 分かち合い、更に、与え合える世界をめざせ、ということ以外に無いわけです。施与が大事。大施主と成らん、と。制度改革もめざすし、個人の心の持ちようも変革せよ、と。

 畜生道は、自分自身の主人になる在り方、民主化と諸個人全部の尊重、差別・選別・殺害の撤廃、人権の尊重ということです。制度改革もめざすし、個人の心の持ちようも変革せよ、と。

 いずれも、微力ながら闘争課題といえるほど重い課題です。シャカムニは施与はまさに戦争だ、と。自身に打ち克て、ということです。
 死んでからのことは、ほとけさんにお任せするほかありません。
 しかし生きている間は危ういんでしょう?そして願心に生きるが故に、自分が滅びるまでの時間、それぞれの場で取り組みが出て来る。

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 前コラムと前々コラムから巡らされる様々の分野に属する事柄に思われることを続けます。

 宿悪と申しますか無宿善と申しますか、よっぽどモテ過ぎて困る人以外、皆、自身の自然よりは生ずるドロドロした溶岩流に流されていく。
 自らも他をも焼き払いながら拡散していくので、燃え盛る炎を厭うべし、というみ教えですが、自然と言うことですから、否応なく陥り、時には他者を押しこくっていく。自ら傷つき、他と傷つけ合う。

 人間の繁殖に限らず、時には死に至り、多くのばやい他者を押しのけて貫徹する自然法則と矛盾に、しかし人間は適切な道を探ることも出来ますし、智慧によって解き放たれることもあるでしょう。どう対処するか、大変重要な課題なんです。

 自然ですから、否応なく陥る。傷つけ合うけれども、どうするのか?やめられるのか?
 傷つけ合っても、もちろん押しこくって他者を押しのけようとしなくてはなりません。問題はあるけれども、全てが競争でしょう?そうでないと、無理があるんです。仕方が無いんでしょうね。中には古来、アタルヴァどころか、洋の東西を問わず男女関係を巡っては謀略まであったわけですが、さすがにそこまでいくと、短い一生の中で、どうなんでしょうね。

 ただ、他者こそ、またとても大事な人ですし、他の諸事も大事ですし、対象以外も大事でしょう?自身の選びに全く自信を持てないことがハッキリした今、どうしますか、この矛盾を?自然にして避け難いけれども、同時にフラットに尊ばれて然るべきが人間というもの。

 そういう世界を具現していくほか、道は無いんでしょうね。これはこれでまた無理がありますが、課題化して受持して共同体の、社会の方向と最低限の緩やかな規範の在り方を求め続けるべきでしょう。

 また、願い通りになっても、さあ、齟齬がありますから、いつまで続くやら、当て所なく、寄る辺とてあてにはなりません。特定の人間とだけでなく、どなたとも万民と仲睦まじい方がいいに決まっている、という事情もあります。

 選択にいたしましても、特に守備範囲が狭いのが普通ですんで、なかなか選択肢がみえてこない。
 個人の視点ですと生涯は時間ですから、ある事柄や人間関係を選択して継続するのか、転進するのか、これは諸個人の選択の自由となりますし、主体が判断して決定するほかない。
 意見を述べることは出来ても、誰も代わることは出来ません。

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 それと、これは共同体の法制の中の私らですから、共同体との関係がありまして、直ぐにというわけには参りませんが、なるべく諸個人に、お互いに、自由で寛容な在り方に近づけた方が好いでしょう。このテーマは共同体の枠内で考えられる課題でもあり続けて来たわけでしょう。

 人間関係に共同体が介在すること、国家権力、法的強制力が介在することは、自由化と自主性には望ましくないけれども、人間関係以外でも、例えば生態系の今後をどうするのかは、大変問題になっているわけです。

 ペットとか、外来種とか、駆除されたりしている。有用性とか優生とか差別化ということが突きつけられてくる。どっちみち、存在は生命体も全部、変化を免れないんですけど。先日も止む無く外来種と自然交配した猿を処分したらしい。
 人間の友であった動物にも追弔申し上げつつ、課題として受けます。限り無い悲しみと共に。ただ・・・二重人格ですから、時々(殺してまえ)に陥ったら、止めてください。

 自由で自主・自発・自治で自立することをめざし続けるけれども、同時にそれは共同体の課題でもあるんです。それぞれの自発性と自由と民主が大事。繁殖は我々の共同体の今後を考えることでもある。
 あまり過剰な介在は好ましくないし、放置も出来ませんし、寛容であるべきですが、お互いに考えていくことが大事です。

 取り敢えずいま喫緊のテーマとなって参りますのは、夫婦とか家族とか子どもとか血縁のカテゴリーを交えて多くの法制が為されているけれども、まあ、それらはそれらで改正を試みていただくとして、所属を問わず、婚姻や子どもの有無を問わず、老弱男女貴賤を問わず、国籍も肌の色も人種も問わず、どんな状態にある人でも、その人一人を尊ぶ方向で共同体の方向と法制を改革していくことが大事だと思っています。
 世界に先駆けて、素晴らしい国へ、幸せの国へ、そよ風にのって、駆け出して欲しい。諸国家のそうした競争を願っています。

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 無戒から申し上げますと、異性に持戒があるご宗旨ですと、これは問題外なんです。やってはならんわけですから、考えなくていい。やってはいかん。やったら破門なのか、改宗しないといけないんです。

 燃え盛る炎が吹き消された状態でないといかん。まあ、間違ってるんですね、お釈迦様も出家教団も。在家教団、凡夫の教団という自覚以外は、不自然で非人間的にしか思えませんけど・・・。

 しかし、自然の欲求は、過剰な欲望でも過剰な禁欲でもない。避けなくてはならない二つの極端とは違うんです。腹が減ったら飯を食いたいのが、自然で普通。ノーマルでオーソドックスなナチュラル。

 ですからこれはもう、自身の自然の欲求に虜囚として囚われながらもかかる自身に囚われないでいる状態、に近づくほか無いのでしょう。自然性には抗いがたいが、我が思いに拘泥されて苦しみや害毒を遍くそこら中にまき散らすのか、祖師方によって見出されてきた願心によって速やかに楽になるのか?

 ちなみにこの場合願心というのは、昇華でも代償でも代用でも螺旋的な展開でも欺瞞でもなく、万民受容への開眼ということです。何処のどなたであっても、対象を外れるものではない。他者をみそなわすこと自己の如くす、と伝えられます「他者」は、無差別であって、どなたでも、ってことなんですよ。尊重し合う世界。結果、火ダルマになる?そういうのとも違うんで、本当は違う世界を創造するべきでもあるでしょうけど、それは共同体の課題として探求されるべきでしょう。
 凡夫の身は狭小ですから多少狭まるんですけど、少なくとも課題化される志願は、そういう質です。

 このご宗門は、無戒名字・不断煩悩得涅槃・遊煩悩林現神通ということですが、戒・持戒・破戒を問わない好い世界があるけれども、それはそれで受持しつつ、矛盾の好き在り方を求めて参りましょう。

 ともあれ、年を取りますと、また子どもを持ったり受け持ったりしますと、賜りたる如来の願心とあいまって、限りなく多数を大事に思う状態に近づくように思います。どなたに対しても、間に合わんことや欠点が妨げにならなくなって来る。気に入らんもん、間に合わんもんばっかりで、業を煮やす日々が、転じられてくるんでしょう。

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 更にツタンカーメンについて考えておりますと、死への受け止めについて、

 ・陰膳があって、死者が一緒に暮らしている。周囲の人には見えないことが多いであろうけれども。
・また、様々にイメージされた死後世界がある。

という二点が日常であったといたしますと、今日我々が想像するような死への不安や怖れとは違った種類の不安だったように思われて参りました。
 如何なる世界へ赴いて、自分はどうなるのか、誰と会えて、誰と会えなくなるのか、という不安だったかもしれませんので、同じ不安とはいえ、補正しておきます。

 また、今日では、死者やここに居ないはずの人が実の如く現前しているように見える人が居られると(おじいちゃん、誰も居ないのよ!)(何言ってんだ、こんなに来てるじゃないか。分らんのか、おまえたちは!)ってことで、大騒ぎになるんですけど、当時のエジプトでは、そうはならなかったと思われます。

 多分世界中で昔から、時たま大騒ぎになって来たと思いますが、今日では実際に精神科に連れて来られて、症例の研究が進み、脳内物質が原因であることが突き止められたんでしょうけど、昔でも多くの人々は科学的で正気でしたから、居ないと思われたはずですが、証明出来ないので、不安に陥ったと思います。

 まあ、彼の父のアクエンアテンという名乗りが、彼の場合は自ら神が現れたという宣言でもあったわけですから、これは疎んぜられた神官たちは忌み嫌ったでしょうけど、反面、アテン神も神々の一人だったから祭り上げたか、分りません。周囲には他の神々を禁じていたらしく、遠い地域には及ばなかったであろうし、それほど強権的でなかったとしても、反発はあったはずです。

 それまで長い間アメン神中心の世界だったわけで、後には異端視されていったらしいけれども、アクエンアテンの葬祭と埋葬がどうだったか、子のツタンカーメンのアメン神復古がどういうことだったのか、宗教上の変化、社会の変化についてこそ、これからの世界創造にとって、むしろ関心が持たれます。まだ謎のようですけど。

 また、アクエンアテンは自分に似せて像を造れと言っていたらしいので、やはりやや女性的なスタイルだったとされていますが、元々女性の骨盤は重要で、男性は本能的に腰回りに惹かれるとも言われていますから、遺伝上、人類全員骨盤や腰回りは豊満になるのではなかろうか、とも思われます。しかしそれでも、上体が華奢だとか、筋骨の骨格が発達していない、ということですと、やはりそれだけ女性的なのかもしれません。

 いずれにいたしましても、古代への理解自体も今後、より的確に、より包括的で事実に近づくのでしょうけれども、現時点では推測自体も怪しく、今後の科学的研究が待たれます。

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 いろいろ自信を持っている。身も心も汚くても。
 もちろん変化が主要で静止という緩慢な変化もしくは一時性は副次であるし、誕生以後から死後初めてはたらき出す酵素が活動し始めるまでずっと激しい身体の変化にあるわけだし、出遇いと学びで変わっていく私がある。
 それが次第に自ら驚くような、末通りたる自己認識が出来るようになるんですね。私って、こんなに心変わりする人だったんだ、みたいな。

 まあ、自信が持てない、他ならぬ自身を信用できない要素みたいなもんは、何度もボロが発覚して隠し切れなくなった年配者には、鮮明にみえるようになってくるんでしょう。

 それはそれとして、自信の持てる部分、持つべき自信についても探してみました。まあいつもどおり、単純にして稚拙なので恐縮ですけど、展開を試みます。

 一番重要で私の根幹を為すべき自信はおそらく、四無量なる願心に出遇い、それに生き、それに死んで往ける私、ということだと思います。生きていける世界に生まれた、如来の願心を賜った、そういう自信を持て、と。容易には脱し難い自身を脱せしめられて、広い世界に生まれることを賜った。

 自信教人信という言葉がありますが、この語だけを取り上げてストレートに解釈しますと、自ずと自ら教を信じる、そういう教を人は信ずる。そういう信、闇雲な自信ではなく、自ずと備われる信頼、それはもう自身の内からは容易には出て来ないのでしょう。

 あと、やり遂げたことへの自信を持て、とも。目的があれば万難を排し、押しのけてでも頑張れ、と。
 これは一見生きていくことのようだが、実は死んでいく世界でもある娑婆の暮らしに属する事柄なので、いつしか潰え去る可能性も踏まえますと、根幹を為すべきとは思えません。

 けれども、結果、人々への貢献が少しでもあると、大きな喜びをもたらす自信に変化しましょう。短い一生ゆえにかえって、かけがえなき時間です。どの方面に時間と精力を費やすのか、同じ時間には多数をこなすことは出来ません。一つとは申しませんが、いくつかを選択せざるを得ないはずです。

 自身も大事ですがしかし、やはり願心大事ですので、誰もが同様と知られて、誰にもフラットに、自身には謙虚に自制と自戒を忘れずに、他者には情愛深くされますように。

 人間関係などいろんな物事を好く観察し、好く見極めたうえで、こうした姿勢が肝要であろうと思うんです。

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 以心伝心なのか夢か、16日朝方、誉田君やら落合さんが現れまして、東京タワーのてっぺん、というやや古い設定ながら、これは「尖端」ということと「高所」という二点の本能的な忌避があるんスけど、千でも万でも無いけれども百代(はくたい。永遠)とか百歳(はくさい。永遠)みたいにシンボリックな意味ですと、「一番高いところ」を象徴してますから、多分、これは自らバカたることを証明しろ、と言われてるんでしょうか。俺をバカにするな!みたいな?

 何故かてっぺんは1メーター四方くらいのスペースで、(立って)などと仰るんで(え?)と思いながらも死ぬ思いでタワーのてっぺんですっくと立ち上がりますが、風で揺れている。
 どうも、周囲の人が周りを手で囲って、交互に上がって来て、周囲に出て壁と命綱の間につかまって並ぶんですけど、登山じゃあるまいし、東京タワーの周囲に壁も命綱張れるような場所も足場も無いんですけど・・・。まあ、夢だからどうでもいいんスけど。

 そうなんです!
 まだそれとして自身を完全には顕して来ないけれども、万民に願われる願心が自身に展開しつつある若い時分は、まさに文科省推薦の「望まれる人間像」に限りなく近く、何と素晴らしいく偉かったんだ!さすがは俺だ!という思いを深くするんです。

 アホっ、みたいな?

 なお、本能的忌避には他に、雷鳴などの音や地震などへの忌避もあったり、色んな素材の音色の好き嫌いがあったりしますが、大声で突撃すると効果があるのかもしれません。また、声援も、好ましく感じませんが、まあ、所属共同体や家族やお気に入りの選手やチームを応援するのは自然でもあります。
 音色の好悪としては、弦楽、打楽器、吹奏楽器ほか、種類があるようです。好んで聞くことはありませんが、ジミヘンは賑やかですがうるさくないので天才だと思いますし、バッハやモーツアルトも背中が痺れますからやっぱり天才だと思います。

無戒からー13

 今年も2月5日、午後5時から推進員さん中心の同朋会新年会を開催いたしました。今年も経費ねん出が困難の為、比後さんなど講師を依頼出来ませんでしたのが残念ですが、お勤め、住職の話のあと、落合さんの近くから能登牛を取り寄せまして、少ないながらも珍しくすき焼きを楽しんでいただけ、喜んでいます。
 いつも通り、翌朝には寺とも思えん臭いが・・・。

 今年は東部地区教化連絡協議会(高田教区11組12組13組の連組)の共学研修部門で11組が当番で同朋会について研修会が開催される運びとなっておりまして、住職からお伝えをいたしました。

 3月28日の午後から、活動報告と講師の講義を受けていく予定です。会場と詳細は案内状が届き次第、ご案内いたします。

 弊派に於きましては、門徒は全て同朋会員となっておりますので、これを機縁に、所属門徒が多い寺は地区ごとに、少ない寺は地域で数ヶ寺で集まって、会の結成を進められるといいと思います。あるいは既存の聞法会や御講も同朋会にされると好いでしょう。

 ウチも、ちょっと法話もありますけど、飲んでもらって遊んでもらうだけですよ、と言いましたが、それも大事なことなので発表して欲しいということでしたので、吉邨会長から活動報告をいただきます。

 中身空っぽでも、中身は後からのお話しですし、いのち尊ばれるべし、ですし、集う者全員がバラバラなのがむしろ普通だと思います。それぞれのお立場でご自身の生活の糧として、生活を活かしてゆく、そうした事柄が本願の願心から同朋会員に願われていると言えましょう。

 また、東部の社会問題研修部門も11組、これは私が当番で、今回は久しぶりにアムネスティ・インターナショナルから講師をお招きすることになりましたが、難民問題を含めてお話しいただこうということで、こちらも詳細を改めてご案内いたします。期日は6月です。

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 さて、同じことを繰り返すのか、という声があるようですが、前のメモがありますので、また少し繰り返しになるかもしれませんが、前から言ってますように、繰り返しのはずがスパイラル状に深まっていって、いつしか質の飛躍があり、全く別モノに進化している・・・そんなフッサールの講義を見習い、全く素晴らしい世界の実現をめざしたいと思います。

 書き足します。必定、必至、必成は如来の願心であって、凡夫のものではない、ということになると、この願心の理解とか受容とか好ということは、凡夫には成立出来ないことに陥るわけで、成道なり往生なりにおける滅度ということ自体が否定されることとなるわけです。
 ですから、如来の願心は必ず凡夫に於いてこそ成就するわけですし、これは既に本HP上で確認して参りました。

 過去未来現在、って言われますが、未来は永代来ない未来だと思われているけれども、現在に於いて未来である。必ということである。私はそういう感じで受け止めています。

 経では常に未来ということが課題化されておりまして、未来仏の弥勒が対告者として登場していたり、未来の衆生ということが現在している。三種の浄業も過去・未来・現在をとおして受持すべしと説かれる。

 つまり、現在の中に未来が顕われている、既に来たりし世界として取り扱われている、と申して宜しいのではないか。既に現在しているのが、未来、みたいな・・・。

 ちなみに過去も、弥陀成仏のこのかたは既に十劫を経たまえり、そういう過去であり、既に成就している歴史が現在している。

 必成如是刹 必ずこの如きほとけの世界を成らん
 必至無上道 必ずほとけの在り方に至らん
 必至一生補処 必ず弥勒に至らん
 必至滅度 必ず解脱に至らん

 解脱の光輪きわもなし、ほとけの智慧に出遇うなら、有無のとらわれをはなれるから、ほとけの覚りに帰命せよ、こう親鸞様も仰います。

 回心から、身はこれ以上堕ちるところ無くひどく、手の施しようもないことがハッキリいたしまして、身は成る能わず、が愈々知られるが、この自己認識も如実知見であり、仏に見えますが、これも仏世界を知ってこそ生じましょう。

 一番大事なことは何か?何処に安心出来るのか?

 歴史ですと過去・現在・未来ですし、歌ですと現在・過去・未来ですが、経では過去・未来・現在。過去も未来も現在している。

 仏とは何か?法身の光輪際も無き(親鸞様)ダルマでもあるが、ダルマが人間に現れる時は、身は凡夫でも、本願に出遇って囚われから解き放たれた人であり、しかも凡夫の日ごろの観念と願心をそのままストレートに満足するのでは無くて、輝ける如来菩薩道として廻転せられた願心を生きる人なんでしょう。輝く。光明が現れるんです。
 また、一仏であるが、蓮如様によれば万仏を収めた一つである。法統ということでしょうし、諸仏が居られ、仏と仏とが建立される世界でもある。

 たすかる、ということは、自然に友となる人生を賜るわけですから、他者をみそなわすこと自己の如くし、時には自身を後にし、止む無く犠牲にすることもある。もちろん自己犠牲は、自身を尊ぶ日常では、同時に不自然でもありますから、なるべく自身のいのちを犠牲にしなくて好い世の中を創造していくことに精力を傾けてゆかれるはずです。

 本願は仏から衆生に発せられたものですから、社会性と言いますか、共同性・関係性に存するのでもある。「他方国土」ということがあるわけです。ですから、これをいのちとするということ=回心ということは、存在を認める世界に生まれる、ということです。

 日常の城と常識の砦に囚われている凡夫の身のままでは、ふつとたすからんわけだが、本願の力、はたらきにふれることで、仏になる。それが、病気直しや香の煙が南無阿弥陀仏の六字名号になったりするような秘蹟なんかより、もっと不思議だ、と。

 病気もくそも、遠からず死んでいかんならんわけで、もっと急がんならんことがある、というわけです。

 しかもそれは横超に頓悟される性質を持っている。竪超のつとめはそこから還相して始まるんでしょう。そうでないとつとめに成らん。迷妄煩悩に汚染され切っていて、頓悟しないことには修行も始まらんのです。修行にならんわけです。
 往生は還相回向の如来の菩薩道を賜ることですから、なあんもでけんやっても、全然還相の菩薩としての活躍が出来るんです。如来等同で、弥勒に等しい。願心を賜った方、信心の行者は、如来等同。

 正しい世界観も大慈大悲もたすかりだが、自身の思いがひっくり返されていき、転じられていく。同悲し、共苦しながら、色んな場でいろんな事柄を担う。曇鸞如来も、智慧浅くして未だ地位に入らざれば、西に拠る、と応えたと伝わりますが、西に拠りて地位に入り、仏に成る、ということなんでしょう。証果もあるんでしょう。少なくとも、教相ということが選択される。これしか無い、と。また、こうした自覚自体が既にして末通りたる智慧の眼でご自身を観察せられたところから、表白されたのでしょう。

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 少し前コラムの内容に絡んで関連する記事をはじめ、いくつか関心を触発されてウエブ上の記事を参照しました。が、個人でも集まりでも変化を免れないし、一元性にしてもその質は変わってゆく。

 大体昔から、永代、固定観念と常識を脱しない常識人でして、そんなこと、あるはずがない、ということが頭を支配しているわけです。
 もう一つは、分からない、知らない身であると自身を誡めながらも、何時しか忘れていくんですね。
 さらにもう一つ、分からないこと・知らないこと・異なれることは重要で、以前ゲーテの言葉を引きましたが、既に知っていることよりも重要だと仰る。
 更にもう一つ、知らないこと、は恐ろしいことでもあるんです。

 ちょっと話が逸れますが、前言いましたが、むくつけき髭のレーニン一行は革命時に女装してロシア国内に戻るわけですが、以前、ユースで化粧されてカマコンに出されまして、女の芝居はダメやったんですが、しばらくそのまま一人で学内を歩いていますと、女々間の距離が男々間や男女間に比べて物理的に近いこととか、当時はロン毛で、たまに女と間違われて男にすり寄られたりしましたが、ああ、男はこういう目で女を見るんだな、ってことが分ったわけでしたが、絶対に気づけない知らない世界を知ったんです。

 また、スポーツカットで使い古した作業着の風采の上がらん労働者スタイルでプラットホームに立ってますと、学生風でもスーツでもないから、掃除しているおばちゃんも親しげに声をかけてくるわけです。これも私みたいな頭でっかちには永遠に分らんかった世界です。温かなる階級の連帯感、みたいな?
 見知らぬ世界に出遇うことが、何時でも何処でも誰でも可能なんですね~。

 さらに話は逸れますが、授業は絶対出ておいた方が好い、といつも言っています。以心伝心では(自分は授業もロクに出て来おへんかったくせに)などというゼミの先生の言葉が響いてきたりするんですけど、急病やケガで泣く泣く留年した人もありました。若い頃は気づきませんでしたが、いろいろ止む無く休まざるを得ないことがあるんです。
 ただ・・・これも以前言いましたが、先生と喧嘩して就職も決まっていたのに卒業出来なかったケースもあったわけで、これはどうにもならない。

 大学に戻りましてから卒業が危うかったので、何が何でもゼミももう一つ受けなアカン、ってことで「東大一直線」みたいにネジリ鉢巻きでもう一つゼミを受講したんスけど、私の他にはいつも一人か二人しかいらっしゃらない。それが件のゼミだったんです。

 やはり以心伝心で(ゼミ二つ出とったんは君だけや)という先生の声があったわけでしたが、そうした事件があったことを知ったのはサークルの中で(可哀そうに○○クン、先生と喧嘩して云々・・・)という話を聞いて後からです。(えっ〈絶句〉・・・何でもっと早く教えてくれへんかったん、ワシなんか圧倒的に不利やないの・・・風の便りでは教授会でも問題になったらしいし。学校来てへんから知らんけど)みたいな?はまるべき場に、はまるべくしてはまり易い体質なんでしょうね~。
 そもそもゼミは一つだけ受けることになっていたらしいことも、卒業してから聞いたんですが、当時私は、全然知らなかった、わけです。

 まあ当時は怪しげながら回心もありましたから真宗学をやればよかったと思ってましたし、文革チルドレンでもあり、社会主義の理工科系大学に居るわけでも無いからあまり気にしなくても良かったのかも知れませんが、思想的関心はありましたし、心変わりして卒業することにしたんです。

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 すいません、いつも通りくだらん卑近な私事を喋りまして。戻ります。
 とにかく、現代人は特に、科学的常識人ですから、死後もサクラメントもミスティシズムもホラーも、昔はとにかく漠然と怖くて、弱いわけです。
 理由が分らない、理論的な説明が無い、となりますと、これは敬して遠ざける以外にない。ですから、以前から、お岩様もツタンカーメン様も、呪いが怖いんです。

 理智によって全てが解明されていく、まあ、智の性質上、実相へとより包括的に近づき続けるだけ、としましても、科学の説明が施されることで我々は明るくなる。解放されるんです。

 ただし念のため申しますと、科学や智には暗くなり怖くなる意味もあるんですけど、丁度迷妄や固定観念のように、やはり我々を支配し、問いの世界を奪うことがある。
 今一つは、怖いくらい智慧がほとばしり開けていく、意味もあります。
 また、人々を害う兵器ともなる怖さも、科学や知性に対して感じておくべきです。すなわち我々は持てるもの全てを悪用していくことを恐れなくてはなりません。

 知性によってどう解放されたか、と言いますと、むしろツタンカーメンに対して人間的な見方から接近出来始めたんだな、ということが強く印象付けられました。
 あの時代の彼もまた、二つの戦役で勝利を得ながらも、いつも病と死の翳りに向き合い、穏やかで活発な人生を願っている、一つだけの人生を闘って生きた人、そんな人間的な見方が出来るようになったのではないでしょうか。

 WEB知識ですから完璧ではありませんが、ゾロアスター教では近親婚が最高の美徳とされていたようで、古代オリエント全域がそうだったかもしれないことが仄見えて参りました。
 ただ、アレクサンダー直前のペルシャではアフラ・マズダの名は見えてもツァラトゥストラの名が無いので、どこまで浸透していたか不明という意見もあるようです。

 なお、ウィキでは造像は古代の当時の様式に沿ったものだという意見を尊重していますが、番組ではアクエンアテンは自分に似せて像を作るよう命じていたといわれ、骨盤の大きな像は近親遺伝によりホルモンバランスの崩れに伴う女性ホルモンのはたらきが大きいことを示すとされ、遺跡や埴輪も丸っこい像が多い場合もありますから、古代世界では少なく無い場所でこうした傾向があったかも知れませんね。
 性分化自体が女性性をベースとして展開してきた説もあるくらいですから、なり易いのかも知れません。

 シーザーみたいな自己過信、宣託(神託や預言)と強い自負心も特徴的です。周囲の仏弟子には見えなかったわけですが、以前引きましたように、シャカムニは(そこをどきなさい、神々が私に会いたがっている)と仰ったことがあり、午前は人々の間を巡り、午後からは神々の相手をされていたらしいんですが、高徳の人ですから、人々は従ったわけです。
 現代では普通、(おかしい)ということで精神病院でみてもらう。するとそこで、昔は原因を特定出来なかったけれども、脳内物質の為だとか脳の損傷等や病の為であるとか、いろいろ原因が分って来た。ちょっと前までそんなことは知られていませんでしたから、原因が分ったということは、これはこれで物凄いことで、驚きます。

 ちなみに、アレクサンダーもペルシャ王を名のり、ダレイオス三世もアレクサンダーも更に、同時にファラオも名乗っていたことから、やはりエジプト文化に魅せられていて、取り入れざるを得なかったとみます。
 もし支配の必要からではなく、半ば統一された古代オリエント世界でペルシャ王たるファラオを名乗る、ということがあったといたしますと、ペルシャとエジプトの文化水準の高さを物語るんです。

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 諸宗教間の相互浸透と変容という点では、やはり以前、仏教とキリスト教等、宗教間の相互浸透があったことを紹介しましたが、ユダヤ教へのゾロアスター教の影響があり、メシア思想が強まったという研究もあるようです。

 偏見と決めつけと狭量が支配するようなことは宗教とすべきではないと思いますし、むしろ、自己否定と自己相対化、無知の知、それが宗教とされるべきでは無いでしょうか。
 信仰や信心は、打ち固められるよりもむしろ、自らを脱皮していくものでしょう。

 ただし、唯一者があるとすれば、そしてそれが必要不可欠だとすれば、文化的パラダイムの異なるいろんな宗教や気分の形式で顕われ、色んな形式で具体的に表現される、限りなき灼熱の慈しみなる願心というものであるべきだと思いますし、あらゆるいのちはフラットに尊ばれるべし、尊び合うべし、という願心の一条をおいて、他に決めつけられるべきものはあってはならないと思っています。
 そしてこの一条は達成し難いが、課題化して受持されるに足る値打ちがある。

 で、相当世界的交流が進んだ「古代オリエント世界」成立の頃、紀元前500年前後は、シャカムニとインドとペルシャとエジプトとギリシャが早くも活発な交流を持っていたに決まっていること、も仄見えて参りました。アレキサンダーやアリストテレスだけじゃなく、デモクリトスも関係してるように思っています。旧約勢力はペルシャ時代は辺境的・田舎的な状態にされたり、まだ主要ではなかったのかもしれませんが、やはり様々の影響下に発展してきたのでしょう。

 なお、インド僧ボダイセンナが東大寺の大仏開眼供養の導師を勤めたことは以前述べましたが、ペルシャを調べている間に、東大寺の法要からあまり時代の隔たっていない頃に、イスラーム時代のアラブ人が来日していて、ペルシャ人とされ、平城京で官職にあったらしいことも分ったみたいです。中国は隋唐時代ですが、やはり想像以上に中国経由で国際交流が盛んだったんだなという印象を憶えます。

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 仏教や宗教界、延安やピーテル、アムネスティなど救援事業、宇宙の彼方やポップに生まれたばかりではなく、古代テーベにも生まれていたらしく、詩を紹介させていただきましたが、仲睦まじいことは大事。恋人を宜しく、と言い残して死んでいかれた方とか、タイタニックから落ちた妻を追ってグラナードスが波の間に間に飲み込まれていったとか、とても大事なこと。

 それにいたしましても、落ちるべき場に、スポッと、落ちるべくして、落ちるんでしょうね。
 あれほど遠い時代の遠い世界なのに、インターナショナルにグローバルにストレートに、初々しくもあり、不安と絶望にも苛まれ、醒めながらも逃れ難い「私自身」みたいなもんが、すっかり見透かされている。

 恋の予感どころやない、恋の奴隷。昔から、お医者様でも草津の湯でも、恋の病は治せない、と言われまして、古代から変わらず恋愛中毒を繰り返しているところに、エジプトのみならず人類の繁栄もあるのでしょうか。カニのハサミ、カッチャ、みたいな?
 こうした気持ちは、私にとって欠かせない事柄を見出した、という、我が思いを超えた、いのちの性質を示します。そんなに大事か、そんなに好きか、と。邪にして幻想にしてエゴイスティックではあるけれども、我が思い(状況に抗う理性、みたいな?)以前に、既にして尊んでいる私が居るはずです。対象と、対象への自身の気持の両方を、既にして、尊んでいる。

 まあ、ひどい言い方をしますと、既にして罪悪生死の凡夫、曠劫来、流転して没して出離の縁あること無し、という曇鸞さんの末通る自己認識があったわけでしたが、そのまま、その通りにスポッと当てはまっている。

 ただ・・・古代に詩を遺された方々も、年と共に気付かれていったことでしょう。
 (いろいろな自信もあるし、信用出来る物事はあるが、唯一つこの世で全く自信が持てず信用も出来ないのは、自身の異性への思いだ・・・)ということに。
 オンリー・ユーもユー・アー・マイ・サンシャインも複数形、みたいな?ワンも種類全体かもしれませんよね~。大体この、オンリー自体が怪しい単語で、オンとライで一語になっている。

 そして仲睦まじいカップルに出会いましても(二人ともだますのが上手いんだろうなあ、自分自身を)?と申しますのも、惹かれるのは自然で避け難いんですけど、付き合うのは大変なんです。合うはずがありませんしね、どんな方でも・・・すいません、爺くさくて。

 願いが叶っても関係性の質の変化は自然ですし、課題を賜る。叶わない場合も、課題を賜ると思います。他の万事と同様に、多くの選択肢に開眼出来ませんから、自分では容易にはそう思うことが出来ませんが、課題となっているに決まっているんです。

 にもかかわらず、たとえ既に異性とお付き合いされてたり、結婚されたりして、これで恋愛や異性への思いから解放された、思い悩む時間の無駄ともおさらばさ、と思わはっても、あれ、全然関係ないんですね。ゲーテの80歳みたいに、知らず知らずの内に、気が付いたら又落ちている、みたいな?

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 ただし、これも繰り返しになりますが、史実を知りいろいろ評価するけれども、現在に生かし、未来に活かさなくては意味が薄れましょう。

 モチーフの選択やテーマ設定自体が、問題設定と同様、私とか、あなたの、一人ひとり全員に自身の道を開いたり、問い返させる質が望ましいことは、言うまでもありません。このホームページではそういう事象を取り上げているつもりですけど、好い質の問いかけになってますか?

 どちらかといえば、過去は繰り返さないための参考になるだけである、くらいのつもりで、未来の開拓と創造に乗り出さなくてはならない。未来はまさに来たりしものとして、現在に於いて勤しまれなくてはならない。
 まあ・・・歴研では『歴史學研究』とってましたが、私は欠伸しか憶えませんでしたから、勉強はアカン方ですけどね。

 例えば、古代の各地でも、アメリカや「ソ」「連」や日本や中国やユーロ諸国でも、その建国の経緯と理念形成、そして変遷についていろんな視点から学ぶといたしましても、それらは全て現在とは異なっているわけでしょう。

 殊に現代人はインテリであって多くを知り、貧しいながらも多くを持つけれども、いずれも変化変質してゆくばかりではなく、個体は訪れる死王に抗うことは出来ずに、何もかもを失う。
 ですから、さまざま生活方針や事業展開や政策を以って臨みますけれども、その底には、好き世界への願心がなくては、粗末にし合い、自障障他し、認め合わないまま、果ててゆく。

 まあ、いのち自体のフラットは認め合わないといけないけれども、政策や理念、卑近なる生活や入学や就職や経営となりますと、現時点ではなお、これはもうなりふり構わぬ闘争しか無い。ですから、最良の場合でも友好を保ったまま謙譲する程度になるでしょう。

 それでも世界中どなたであろうと、一人ひとり全員が自らを尊ぶわけですから、やはりお互いに尊び合う願心以外に世界のベースを為し得るものは他に無いに決まっているわけです。

 それで、矛盾をどう取り扱えば好いのか、ということがテーマとなり、民主制が生まれ、その開発と展開が望まれてきたわけです。

 ですからまた、公的世界でも過去・未来・現在ということで、過去と未来が現在することが望ましい。
 現在と未来に生かすなら、過去の過ちを繰り返さないことが大事でしょう?変わってゆく未来を汚したり潰したりするのか、明るく楽しくしていくのか、どちらがいい?

 コラム「罪と罰」追記しました。

無戒からー12

 同朋会・子ども会等で遊びながら学べるので、三教七祖・御和讃などでカルタがあるといいと思いました。解説も付けて欲しい。もう一種類、現代語の俳諧・和歌もあるといい。誰かみたいに自分で絵と詞を書いて作ることもあるのかもしれませんが、そんな余裕は無い。

 親鸞様双六をやってみたんですが、親鸞様・などコマ数が少ないので、メンバーが多い場合に備え、ネットで画像を探してプリントし、二つ折り厚紙に張り付けてコマを作りました。お釈迦さんや七祖です。このばち当たりめ、みたいな?しかし、全員天竺雷音寺かどこかにゴールしたメンバーばかりである。まあ、ゴールが還相の如来菩薩道ということなんでしょう。
 史学からしても、親鸞様の足跡を辿る双六に相応しいとなると、覚如さまや覚信尼公や蓮如様や清沢満之絵の方が良かったということが、今回の反省点である。

 ただ、考えてみますと、メンツが多い際には、何セットか揃えておき、一班4人以内でゲームに勤しむべきでした。これも今回の反省点でした。
 ちなみに親鸞様はお釈迦様と龍樹・世親・曇鸞までが絶対で、道綽・善導・源信・源空までの七祖は、それぞれ各立の御自釈を尊重されているが、現代の仕事は、開祖以来の全員について吟味し直させていただくことでしょう。

 親鸞様トランプについては(エースをシャカムニにして七祖・親鸞様・恵信尼公・覚信尼公・蓮師様・覚如さんなどキャラものにすればいいのに)と思ったんですけど、問題はジョーカーでしょうね。提婆・アジャセも五逆・誹謗正法は逆縁興法ですし、本当の私の本当の抜き難い迷妄を教えてくださるので、配しかねますしね・・・。

 まあ、遊び方からしますと、双六やカルタの方が聞法になって好いでしょう。仄聞したわけではありませんが、多分批判でも出たのでしょう、廃止されるかもしれません。
 いずれにいたしましても、博打はいけません。え?もうやった?いけませんねえ。稼いだ分、宗門に寄進されるよう申し添えたいと思います。

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 さて、死ということが排されている日常になっているわけですが、死自体が克服課題として、不死と長寿が科学によって求められている時代でもあります。

 身体の部分の交換や更新、そして記憶の継続が可能になりますと、ボケない限り、また物理的に破壊されない限り、継続した記憶が自我として続き、自己意識が連続していく。

 かなり研究と実験が進められて来たのでしょうけど、さあ、死と死後は事実であるけれども、往生、永遠の生の世界以外に選択肢が無い場合、突然生命が途絶える死自体、やはり度外視されて好いのではないかと思うんです。
 生きようと死のうと、このこと一つに生き、機縁があって死んでゆく、それで好いのではないか。このほとけの世界以外に大事なものなど、この世にもあの世にもかの世にも存在しない、と。

 朝に教えを聞かば、夕べに死すとも可、という表白はこの事実を如実に示しているのでしょう。

 そして、昨日の私の死こそが、今日の私の誕生なんです。変化し続けて取り留めない。

 記憶が続き身体が続いても、永代流転輪廻は際も無い。長く生きれば生きるほど、出遇うべきことがあるのでは無いでしょうか。それは今とて、同じことなんです。
 老化を排して長命であることは大事ですが、もっと大事なことが忘れられないことを念じます。

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 30年ほど前『古代エジプト女王伝』というのを読んだことがありますが、エジプトとかメソポタミアの文化と宗教には詳しくありません。ほかに『古代アレキサンドリア図書館』にふれた程度です。旧約学にとっては関心の深い古代の地域でしょうけれども、私の関心としては、古代の大国、大西洋が隔てているが古代アメリカ大陸との関係、地中海―西域―インド世界、といった大変大雑把なものです。
 さほど多くも無いのかもしれませんが、女性が女王になる文化の方が男性による女性への偏見や差別が緩いかもしれませんから、この点に先ず関心を持ちます。

 発掘と科学発展の成果に依り、今後、ある程度ですが、ますます史実が明らかになるのでしょう。

 先ごろツタンカーメンを取り上げたTV番組がありまして、その中で彼の父アクエンアテンの宗教改革に関して幻想・幻覚が取り上げられており、これは関心を惹起されました。

 ウエブも調べてみますと、ツタンカーメンの父はアクエンアテンで、母はその妹だったらしく、またツタンカーメンの妻は、アクエンアテンの妻の内の一人だったネフェルティティとの間に生まれた娘とされる。ちなみにネフェルティティはアクエンアテンの父の妻の一人でもあったそうです。
 紀元前14世紀、アクエンアテンはアテン(アトン)唯一神を重視し、アメン(アムン)を排したとされるが、ウィキによるとマーセア・エリアーデは実際には王自身も神扱いなので、二神とみていたらしい。
 その後ツタンカーメンの代になって再びアメンが主要な位置に返り咲き、彼の記録は葬り去られたとされる。

 番組によると、古代エジプト王家では近親婚が何代にもわたって頻繁に繰り返されたことが明らかになっていて、側頭葉てんかん、身体の変形と欠損、ホルモンバランスの崩れによる女性化、強い幻覚、短命化が進行したそうです。
 そうしますと、現代でも少なからぬ事例があるんでしょうけど、殊に古代世界全体では、近親婚の傾向が強かったかもしれない。少なくとも王族の中ではそうだったかもしれない。
 
 そういたしますと、幻想に関しては、以前お釈迦様のみていた神々やその世界にふれましたが、老化や痴呆などが関係して脳内物質によって幻覚が起こる事例が科学上証明されているが、それと考え合わせますと、シャーマンやその他の宗教上の神秘体験など多くの事跡との関連があるかもしれません。
 いろんな原因が考えられますから、断定はいたしません。

 ただ、前から言っていますが、ある世界がある、ある人(人々)や存在が居る、という方には、確かにそれらが存在するわけで、他の方々には分らなくても、実体のように在り続けるわけです。
そして現実もまた移ろいゆく幻のような在り方を免れませんし、それなりに幻想的存在を取り扱って考えなくてはなりません。観念・気分のようなものでも時には大変重要な岐路になる、という事情も考慮されなくてはなりませんし。

 ちなみにお釈迦様の場合ですと、取捨選択・判定ということが教えられ、幻想だろうと実体だろうとハッキリと、善き世界と人々に害と苦しみをもたらす悪しき世界を示されたわけです。アタルヴァの禁もそうですし、娑婆世界の問題性の解明もそうです。

 今一つ関心を持ちましたのは、もし、遺伝子が近いほどあまり生殖しない方が望ましい自然の事理があるとすれば、自然に於いてはのっぺりとした一元化・単一化自体が勧められていないことの証左になるのではないでしょうか。

 血統の一元化はいろんな問題や幻想・幻覚を拡大再生産しかねない、という印象さえ、憶えます。

 実際にはいろんな現れ方があるのでしょうから、好い傾向も強く現れ易いのかもしれませんが、青芝の先生の力強い言葉を想起します。青芝は優性保護という差別との闘い、ということです。いのちの尊重に於いてはフラットで、善悪の差別が排されます。

 これは比較的閉ざされた環境など、他の動物を含めて更に点検されなくてはならないかもしれませんが、更に有袋類など絶滅した生物との関係では、脳の大きさとか破局噴火とか巨大隕石のほかにも、やはり生殖や性ホルモンのバランスの崩壊、遺伝子の偏向などがあったのかも知れません。

 閉ざされた近い世界に比べまして、バラバラで一緒、差異を認め、はるか遠く隔たった「異なれる」との出遇いを喜ぶ世界の発見こそ、矛盾こそが深まりと発展を導くかもしれません。このこと自体、初めからキャパが要求されますから、異なれるキャパの育成に繋がるでしょうけど。

 ただ、矛盾の取り扱いはあくまでも双方の質の変化であるから、必ずしも片方の消滅を意味しないし、消滅しても一つのものに次の矛盾が孕まれて来て分裂するから、永代、質の改善が可能である、とも言えましょう。
 私的には単純バカですので、ブルドーザーでガガガガガアアーッと押しこくるみたいに、皆で力任せに前に出ることしか知りませんけど、矛盾の世界をどう受け止めるか、どう対応するのか、調停だけでなく、本質的な友好をどう実現できるのか、民主化カリキュラムや政策が問われており、宗教世界にかかる幻覚の研究と併せて、改めて大きなテーマで、疲れを憶えます。

 余談ながら、ツタンカーメンの妻は七歳ほど年上で、父アクエンアテンの子も産んだらしいとされますが、夫妻は仲睦まじかったとされています。

 それとは多分無関係だと思いますし、訳がこなれていない、状況が分り難いと感じますが、詩を引きます。

Ⅰ 唯一の、いとしく、かけがえのない人
  この世で一番美しい人
  ごらん、輝く新年の星のよう
  美わしい年のはじまりの
  淑やかさきわだち、肌輝く人
  清らにまたたくそのまなざし
  甘美にものいうそのくちびる
  あの人はよけいなことを口にしない
  
  細長のうなじと輝く胸もつ人
  髪にはまじりけのない青玉石のかざり
  その腕は黄金の輝きをしのぎ
  その指は蓮のうてなにもにて
  重たげな腰とほっそりとした胴をもち
  その両脚は美しさを競いあい
  地の上を歩むとき、歩みはあでやかに
  あの人の挨拶は私の心を奪う
  
  あの人はすべての男たちの頭をふり向かせる
  あの人を見る為に
  あの人の挨拶には誰もが心を喜ばす
  自分こそ若者の第一の者と考えて

Ⅱ 恋しい人がその声で私の心を乱します
  そして私を病気にしてしまう

  あの方は母さまの家のすぐそばにいる
  だのに私は行きようを知らぬ
  母さまがよくして下さるかもしれぬ
  そう、母さまに会わなくては
  私の心はあの方を考えたがらぬ
  いとし心が私をつかまえているのに
  ごらん あの方は分別をなくした人
  でも私とて あの方と同じこと

Ⅲ 私の心はあの人の姿に恋いこがれる
  あの人の住まいにいたときに
  私は二輪車に乗ったメヒに会った
  あの人は若者たちに取り囲まれていた
  
  あの人をどうさけたらよいか分らない
  知らん顔して通り過ぎたらよいのか
  河の流れが道のようにみえて
  足の踏み場が私には分らない

  ―テーベ出土―

(現代教養文庫『古代エジプトの物語』から‘77.2.3日誌に抜粋)

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 キミに胸キュン、みたいな?
 幻想ですねえ、これはこれで・・・。永遠の幻想みたいな?
 はて?恋愛でボロボロになることとかポエムに趣味でもあったものか・・・。

 自身、40代・50代の洟垂れ小僧にも満たない、ハタチそこそこっていう乳幼児時代、詩に於いては暴力と恋愛は排するって質には、なお、傾いていなかったみたいな・・・まあこの排という質自体の問題性があるわけですけど。

 幻想的なアートには心惹かれる方ですけど、若い、っていうこと自体にも、幻想が入り易いのでは?
 美しい二人、みたいな、とてつもなく大きい幻想が。
 そしてそれは抗いがたく主体を打ちのめし、完膚なきまでに虜にもし、世界の終焉までをも、招きかねぬかも知れません。

 しょっちゅう胸キュンになって参りますと、いやあ、やっと年を取れてきたか、みたいな?さあ、若い時分には立ちはだかる壁もまた厚く感じられがちでしょうけど、大丈夫です。対象喪失しても、対象は際限なくいくらでも現れますから。ただ・・・対象が多い場合は、絞られた方が無難のような気はしますけどね。

 ともあれ、大変、文化的ですよね。文字に記されたことから、当時の高位者の間の文化に過ぎんのでしょうけど、とても古代とは思えません。
本をメモした部分では、古代エジプトでは食事にも常に陰膳を備え、幻や精霊や死者や神々や怪異と共に暮らすことが日常だった、リリックでもあった、と。

 話が外れますが、この年の1月から4月までは、岩文『絞首台からのレポート』、筑摩世界ノンフィクション全集第30巻松田道雄さん訳でトロッキー『レーニン』と大杉栄『自叙伝』、クルプスカヤ『レーニンの思い出』、前にふれましたが『いやな感じ』、『風に吹かれて』etc.etc・・・目通しして、抜粋したり所感をしたためてます。三木清の短歌も筆写していました。

 ちなみにメモによりますとレーニン=あらゆる障碍を排してキビキビと実務に励むが人間的、毛沢東=秀才・優等生的人物、という視点はこの頃に固まったみたいです。(我々はみんな小レーニンでなくてはならない!)とありますから、恋愛ポエムみたいにレーニン的シルエットを胸に抱きしめるようになってましたね、当時は。
 たしか記憶では米国における政治家の類型化研究の中にも、レーニンはイデオローグにしてオルガナイザーにしてアジテーターである類まれな人物、という評がありました。
 疑り深くテキパキと実務に取り組みながらも、オープンで聡明で活発な人柄だったのでしょう。

 最近、文革の問題点を取り上げる番組もTVでやってまして、随分問題だったことも分りました。当時「文革チルドレン」だった私らは社会主義の仮面を被った走資実権派との闘争を支持し続けたんですけど、体制を問わず、人々を害うほどの悪はありません。
 争いも平和と繁栄の為。武力を交えずに道を切り拓くべきと考えます。矛盾の取り扱いに精力を注ぐことが、現下のテーマでしょう。

 柔らかくかろがろと明るく活気ある朝を迎えるフリーダム、春風であるべきで、遠い夜明けにしてはならないと思います。

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 たすかるということ、還相の如来菩薩道ということは、困窮者が居なくなることですが、困窮の一番深いものは、他者をみそなわすこと自己の如くす、ということが欠けている状態なんです。

 言ってみれば、菩薩としての死。たすかっていない状態なんです。解き放たれていない。
 ひと時は飯食にありついても、死んでゆく世界のまま、ということでもありましょう。仏道は逆に、ひと時の飯食が無限に生きる世界でもあり、限りなき灼熱の慈しみに於いて限りなき繋がりの世界でもあります。

 もちろん、特にAIや赤新月赤十字ばかりではなく、至る処で他者をみそなわすこと自己の如くされ、自らを後にして、人々の為に様々取り組んで居られる方々も少なくありませんし、災害その他多くの現場で可能の支援を有縁に供給しておられる方々も少なくありません。
 実は企業や共同体の多くの事業も、既にそうなっているんです。嫌々であれ、好んでであれ。
しかしもちろん、不十分である。また、時には人々を害うことがある。けどそれは企業だけじゃないでしょ?
 そういう意味では、多くの人も私も先陣を切れずに、むしろ遅れを取っている。後塵を拝するような恥ずかしい姿、そんな爺になっている。厚顔無恥なのがすくい、みたいな?
 無量寿経でも、むしろこの世で善きはたらきを一事為すことが困難で、且つ、尊い、と。ただしこの言葉は、そう成り難い自身へのいたみや戒めをも示している。

 やっと糸魚川のお見舞(繁原さんと市に各10000円)に行ってきました。釜ヶ崎炊き出しには米、朝田教育財団3000円、人権同和センター3000円、同宗連3000円の方も何とか会費をねん出しました。
 小雪のままで、何だか、春も早そうな気がしてきました。

無戒からー11

 宗派・教区の動きはサイドコラムで紹介してますし、それぞれHPがありますのでご覧いただければと思います。

 藤戸さんのご逝去に伴い、高田教区の補欠一人について宗選があったんですけど、投票になりまして、どうしようか、と。どちらも好い方なんですけど、宗政に向いておられるのかどうか・・・向いていない方が宗務にとって、より大事な面もあるんでしょうが。今回は若い方に入れましたけど。

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 自己関心、我執、即自的で批判点が十分省察されないままのわが思い、日ごろのこころ、はかない勝敗、生滅、有無に囚われた娑婆の論理、そうした世界は狭く、絶対的で、固定され、先窄まりを免れないわけでしょう。

 最期には何もかも失ってゆくだけの、空過流転の人生。もちろん、それでも大事なんでしょうけど、それだけでは本当に大事には出来ない。

 蓮如上人「白骨の御文」でも、はかない我々の姿が悲れまれ、知らされ、無量のいのちに帰するべきことがアピールされていくわけですが、現代では、さらに復演いたし、ひっくりかえす必要がありましょう。蓮如様の思いとしましては、ひょっとすると、死もお別れも空しいから永遠のいのちに帰しなさい、ってことかも知れんのですが、死が訪れるのは生滅・有無の囚われの世界なんでしょう。
 我や有無に囚われている「私」なるものは、ほとんどばち当たりであり、且つ、己を省みることが無くなったところの、近代以降の「在りて在る私」から出発して、私の臨終と共に潰え去って、永代戻れない世界でしょう。

 実相としましては、世間通念と逆ですから、存在というは移ろいゆくものに過ぎず、生滅も有無も言い当て難い、わけです。
 移ろいであるから、個体も別の物体とカーマのはたらきから生じ、死ぬまで動きがあるが、個体の死ということも、変化し続ける過程を示してはいても、断定はしないけれども、定まるということは存在しないであろう、と。
 まあこれ、アタマは抵抗するんですけど、身は受けていくほかない。

 かような身自体も悲れまれるべきなのかもしれませんが、仏教は何より先ず自身の内に原因を見つける運動ですから、かかる移ろいゆく存在にも関わらず、我執によって、かけがえの無い短い一生を、認め合えない自障障他する生涯で終えることが、悲れまれずにはいない、ということでしょう。

 けれども、アタマも大事、と言うより、こころも大事。

 如何に身は移ろいゆくと雖も、それでも、仏意・願心から生ずる本願に生きる、ということにおいて、初めて満足、安堵、大安慰がある。

 本願とは、誰でもを大事にし、尊重することから出発した、解き放たれ、たすかり、真の安らぎ、真の帰依処、いのち帰するところを与えたい、という限りなき智慧と灼熱の慈しみなんです。そこにこそ満足がある。

 仏意・願心に、かかる世界と同時に、慈しみの安らぎが既に備わっているんです。我執が滅び去って、身は底下凡愚の罪人のままながら、ともなる私が、あらわとなるんでしょう。

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 ちなみに、蓮如様「後世を知らざるを愚者とす」の「後世」とは菩提の世界、往生人ということですが、いろんなことを知っているけれども、いつも狭いんでしょう。

 踏みつけにされたところから見たり、座り込んだところから見たりすると、世界は違って見える、言ってみれば少し世界が広がるけれども、それでもなお、狭いのでしょう。

 例えば我々人類は、ほとんど全員が差別されてますから、怒りと憎悪を禁じ得ませんが、それだけでは、自身の解放に繋がらない。怒りは自然で、反乱も暴力も自然の場合が少なくないが、むしろ自障障他しかねない。

 相互に認め合え、分かち合い、与え合う世界に生まれないといかんわけですが、テロリズムや経済主義はもちろんのこと、一部の運動に発心・発願して身を投じるだけでも、根本的な打開になっていかない。
 可能であれば、ですが、救援支援に身を投じるのは大事です。しかし同時に、人間解放は共通すると雖も、須らく、個別的で限られた範囲の救援事業になっているわけでしょう。

 仏教でいえば、自他を尊重している自身の内奥に気付き、仏性の運動に生まれるほかない、ってことでしょう。

 ヤワカル明るいことが大事で、結束した運動は主要ではない。

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 必至、必定、必成ということを、蓮如様は「如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏」、と、言われますが、往生が定まる。定まるということは、必にして成である。

 自己を滅ぼし尽す、もう自分なんかどうでもいいんじゃないか、自己を忘るる、それが大事なんですけど、ただ忘れるだけじゃダメなんです。
 固定化されて質がスポイルされてしまう懸念は依然としてあるけれども、蓮如上人「聖人一流の御勧化の趣は信心を以て本とせられ候、その故は諸々の雑行を投げ捨てて一心に弥陀に帰命すれば」ということがあるわけでして、法の深信、ダルマが鮮明であることが大事。そういう法統(真のサンガ)が大事だということが一つある。

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 政治と宗教の交わりは、関係性、まあ、生産関係とか人間関係とかいろいろあるわけですが、他者との関係ということが重要なんでしょう。宗教は、他者をみそなわすこと自己の如くす、ということがあるので、社会的なことに取り組む。

 しかし、政治も宗教もあまりいい印象は持たれていないし、特に政治は「支配と統治」の発想ですから、全部台無しにするので、忌避されている。また、政治宗教と言って政治の道具として宗教をやる教団もある。政党みたいなもんです。

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 話は変わりますが、昨年師走頃でしょうか、坊さんの中でこのHP上の「力」というカテゴリーが話題になっているので、改めて探ります。
 本願力などに表現される「力」とは、はたらくはたらき、機能であり、弥陀如来お骨折りあって、などと表現されるように、より人格化されるときは骨折りとされたり、寄る辺ということになる。
 物理的には動因ということにもなるし、本願をそのように見ることも普通ですが、動因は自身と不可分の本願というところでしか成立しません。自身にはたらいて初めて、本願(如来の法統)が動因と呼べるのでしょう。はたらかないとき、未生であって、まだそれとして現れて来ませんから、無いも同然。

 また、モメントについても話題となりました。
 モメントというのは契機ですが、いつも仲良くある世界に越したことはありませんので、かかる世界を願い、実現せんとする本願との出遇い、チェンジの機会、機縁と考えてよいでしょう。機械的な機縁では無くて、そうした意味を包含する定義で好いと思うんです。
 契機となるような出遇いをもたらすには、先ず法統が知られなくてはなりませんが、知られる法統の質も問われます。

 人生は短く、朝には紅顔あって、夕べには白骨となりますので、短時間で出遇う効率をアップするモーメント(力、はたらきの効率)も大事でしょう。
 ダルマを目の辺りにしながら、出遇い、即の時に1から10まで届くようにさせる、そうしたダルマの構成、モーメントが欲しい。

 仏意・願心を表現した本願念仏のみ教えこそがそうしたモーメントが高い、と思っておられるけれども、何処へ導くのか、何処まで導くのか、時代の限界もあるし、紛れ込んだ有象無象もあるし、十全では無かったのでしょう。

 如来の世界は絶対にして超絶して異質の世界という受け止めが多いでしょうけど、そのまま輝けるばかりではなく、人に現れ、存在に現れる時、輝くんです。

 日常の城・常識の砦・娑婆そのものの、先窄まりで何もかも失うだけの悲れまれるべき往死する世界も、それなりの意義を持ち始めるのは、先ずは即の時の願心の開発、回心往生から。
 死にしなでも死に際でもいいんですが、蓮如様「仏法のことは急げ、急げ、若きときたしなめ」と。

 ちなみに、「朝(あした)に教えを聞かば夕べに死すとも可なり」というお言葉がありましたが、死ぬ前にどうしても知っておかねばならないことがある、それはあなた自身、存在の実相だ、ということでしょう。
 宇宙の果てに行ってみたいし、そこに壁がありますと、指先で破ってみて、とにかく頭を突っ込んで「その先」を見てみたい、的な好奇心もあるんでしょうけど、遠い世界と同じく、自己自身が分らない、と。

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 住職として日赤社費3、000円、海外と国内たすけあい(2000円づつ)、いつもどおり少額で恐縮ですけど納めました。大杉の里や学園には差し入れしてきました。今年はお酒とビール。今のところアムネスティ年会費12、000円は滞納せずに済んでますが、低所得なんで、ちょっとどうかな、ってところです。
 熊本については募金箱に上乗せして宗派と日赤に半々(5、871円づつ)納めました。
 あればあったなりに、無ければ無いなりに、それぞれご尽力いただければ、と存じます。既にご支援いただいている方々には表敬いたします。

 困窮者が居る、ということ自体、実は仏教上あってはならないことなんです。本人に原因があっても取り除くよう、特に無ければ無条件で、支援したいものです。まあ、支援側も能力不足かもしれませんが、末永く、末広でやりましょう。

 同時により根源的な人間の真のたすかりから申しますと、一人が万民の為に、他者をみそなわすこと自己の如くする、になっていただかんことには、やはり人はたすからんわけです。
 互いに全員が分かち合い、与え合わんといかん。

 最終章で「極度的の見事に説き明かされて迷い氷解し、再び疑問を持つ余地が無くなったで章」を説き終わり、三世十方の如来、尊者に帰依礼し奉り、歓喜してそれぞれの持ち場へ還ったわけですが、「現場から愈々問われる私があるので章」が始まったんでしょうかね。

 私の年明けは、と申しますと、てめえが悪いんじゃねえか、などと仰られるので、VS元はと言えばあんたらが悪いんや、とか、お前何考えてんねん、VSいやあれでいいんです、って感じで、教団への怒りやら、いつもどおり今年も新年早々「見苦しい泥仕合」から始まったわけですが、SFとかML毛とかAIとかいろんな解放運動とか様々の学校での学びや日常ふれさせてもらいました色々からの学びを交えつつ、縦横に自由に引文させていただき解釈を進めて参りました。偏に皆様方のお育ての賜物です。

 体制と反体制を問わず、各方面の先生方に厚く御礼申し上げます。
 また、私の乏しいAI活動にもいくつかの政権と、決起する魂に恵まれたる有志の方々に協力いただいたことに、甚深の謝意と敬意を表します。

 また、日本の政府にも人権条項批准や、まあこれ、まだまだということや、反って改悪じゃないかみたいな批判を含めながら、国民の声が更に届かないといけないんですけど、多くの福祉・保障制度への改善策にも尽力いただけ、喜んでいます。

 今後とも世界中の人間生活の為に尽力いただくことを願ってますけど、世界中に暗雲が垂れ込めて参りまして、(この惨状では、どやろお・・・)と思っちゃうんですけど・・・。

 更に、質は不十分かもしれないが、人々の為のあらゆる防衛と解放運動にも多数の方々に参加いただけ、喜んでいますし、表敬いたします。同時に改めて多くの有志の犠牲を無駄にしてはならないと強く感じます。

 それで自身は今年、「汎ゆる領野に於いて人々の為になる質を」ということについて、果たしてこのこと一つに尽力できたかどうか、奉仕し服務できたかどうか、これから更に道を窮めてゆくわけですが、点検したところ、なお、不十分だったということになるんでしょう。
 更に、前へ、と。

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